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第1章
ランドローの憂鬱
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1
携帯が鳴り響いた時、ベッドで目を覚ましたドミニク・ランドロー警部補は嫌な予感に襲われた。着信音が友人や飲み仲間ではなく、仕事用に登録したメロディだったからだ。
気だるげに体を起こしたランドローは、隣で寝ている妻に目をやった。やはり彼女も起こされてしまったらしい。眠そうな目をこすりながら、夫に早く電話に出るように表情で促していた。
携帯が置かれたサイドテーブルの時計を確認すると、時刻は午前七時三十分を示している。
ランドローは溜息をついた。今日は三週間ぶりに取れた休暇日なのに。これで夜の海鮮レストランでの家族サービスはキャンセルだ。
ゆっくりとテーブルに手を伸ばし、携帯をつかむと、やや不機嫌気味の声で電話をかけてきた部下に応対する。
「もしもし、ランドローだ。何だ、リシャールか。どうした、テロリストの襲撃でも起きたのか?」
冗談半分で問いかけるが、実際は笑えるような話ではない。軽口としては不謹慎だが、それくらいの事態でなければ休暇が潰される甲斐がないともランドローは思った。
しかし、電話の向こうからの返答は意外な内容であった。
「…ロワール川の川岸に東洋人の死体だと?」
隣で妻が「まあ、恐ろしい」と小さくつぶやいたのが聞こえた。
「それで場所は…ボート保管施設の近く? 確か市の西側の外れにあったな。分かった。私も現場へ急行する。一時間以内には着くだろう。じゃあ後で」
ランドローが携帯を切って隣を見ると、あきらめの表情を浮かべた妻がベッドから出て、ナイトガウンを脱ぎ始めた。
「急いで朝食を作るわ。軽くでも食べて行ったほうがいいでしょう?」
「悪いな。わざわざ」
「いいわ。いつものことだし」
ランドローも同じようにベッドを出て、ガウンを着替え始める。
(それにしても東洋人の死体とはな)
刑事になってから二十年以上が経つ。その間、死体に遭遇する事件は、それなりに担当してきたが、被害者は大抵の場合、白人かアフリカ系、アラブ系移民である。
ランドローの住む街であるナント市には、アジア系の住民は中国人などが年々増えているものの、それでも他人種と比べれば絶対数は少ない。だから東洋人絡みの事件が起こるのは非常に珍しいと言える。
先ほどの電話の報告だけでは、まだ事故か自殺か、あるいは他殺なのかも分からなかった。
(いずれにしても、早めに片付くといいが)
ランドローは二度目の溜息をつき、重い体を起こしてベッドから出た。
2
パリから西へ三百五十キロ離れたナント市は、「フランスの庭園」と言われるロワール地方の中心都市である。かつてはブルターニュ公国と呼ばれた独立国家の首都であり、大西洋の玄関口として位置する地理的利点から、十八世紀には奴隷貿易の一拠点として栄えた。
二十一世紀の現在では、フランスで6番目の規模を持つ大都市であり、市内にはブルターニュ大公城を始め、中世を感じさせる数多くの歴史資産が点在しており、世界的にも人気の観光地となっている。
ランドローの住むアパルトマンは、ロワール川によって南北に隔てられた市街の北岸側にある。勤務先であるナント中央警察署も同じく北岸に位置しており、距離もさほど離れていない。
身支度を整えたランドローは、自宅のアパルトマンを出て、路肩に駐車してある自家用車に乗り込んだ。季節は四月初旬。春の訪れというには、朝はまだ肌寒く、通りを行きかう人々は厚めのコートを着込んでいる。
車を発進させると、ちょうど目の前を路面電車が横切ろうとしていた。路面電車はナントの中核的な交通手段で、市全体に路線網が張り巡らされている。ランドローも普段の出勤では利用するのだが、今回は事件現場が市の外れなので自家用車での移動である。
ランドローが運転しながら景色を眺めていると、時折ある集団が目に入ってくる。自動小銃を手に持ちながら道を巡回する武装警官たちだ。
(毎日、朝からご苦労なことだな)
去年、パリで起きた同時多発テロ以来、フランスの各都市では厳戒態勢が敷かれていた。このナントも例外ではなく、物々しい警備のせいか市内はどこか張り詰めた緊張感に包まれている。
町の緊迫した空気には、さらにもう1つ理由がある。来月、五年に一度のフランス大統領選挙が行われるのだ。この時期、テレビや新聞などは選挙報道一色となり、右翼など過激思想の政党に対する街頭デモも頻繁に見られるようになる。
フランスは戦後以来、右派と左派の2大政党が政治を担ってきたが、このところはEUに対する国民の不信感や、移民とテロへの反感を巧みに煽る新興政党が急速に支持を伸ばしている。だが、それは国民の分断をも招く結果ともなっているのだ。
「この厳戒態勢がずっと続けば楽なんだがな」とランドローは独り言のようにつぶやいた。不謹慎なのは分かっているが、武装警官の巡回は、犯罪抑止には効果的なのだ。実際、最近は大都市などで強盗などの一部の凶悪犯罪の発生件数が減少しているという。
あとは慢性的な警察の人手不足が解消されれば文句はないのだが、こちらは予算不足が原因なので難しいだろう。おかげでせっかくの休暇日でも、こうして自分が駆り出されているのだ。
頭の中で愚痴をこぼしていると、やがて車道の前方にロワール川にかかる橋が見えてきた。
フランス中央の高地に源を発し、北上して西へと流れるロワール川は全長千キロを超える、国内でも有数の大河である。中世より、その長大な流域に沿って王侯貴族が三百以上の城を建設したロワール渓谷は、二〇〇〇年には世界遺産に登録されている。
生まれも育ちもナントのランドローは、橋の下を緩やかに流れるロワール川とその周辺を一望するのが好きだった。学生時代までは、何かに悩んだ時は決まって橋を訪れ、雄大に流れる川を眺めて気分転換をするのが彼の習慣だった。だが刑事になってからは多忙ゆえにゆっくりと鑑賞する時間も余裕もない。
橋を過ぎて、しばらく大通りを西へ走ると、やがて市の外れにたどり着く。雑木林の道を抜けると、目的地のボート保管施設が見えてきた。入り口には、すでに警察の車両が何台か停まっている。
車を降りたランドローが向かった先は、ボートを進水させるスロープだった。その緩やかな坂は川に直結しており、横には何隻ものボートが並んでいるのが見える。
周囲はすでに警察によって進入禁止のテープが貼られており、それをくぐって先に進むと、部下のリシャール・モルガン刑事がランドローに気づき近づいてきた。
「待たせてすまんな」
「また奥さんお手製のオムレツを食べてて、時間を食ったんですか?」
「そうしたかったんだが、あいにく卵が切れていてね。今朝はクロワッサンをかきこむだけで我慢したよ」
「現場はこちらです」
モルガンに案内されたのはスロープの先、ちょうど坂が水に触れる場所で、遺体はそこに横たわっていた。先行していた数名の鑑識係が検分中のようだ。そばには、もう一人の部下であるアルベール・ブスケも立っていた。
「アルベール、報告を頼む」
ランドローはブスケに声をかけた。
「遺体は東洋人男性。推定年齢は五十代後半から六十代前半。発見時刻は今朝の五時半頃です。所持品は特にありません。全身が濡れて着衣が乱れており、手足がロープで縛られています。顔も膨満していることから、数日間ロワール川を漂流していたものと思われます。外傷は後頭部に何かをぶつけたような傷跡が一カ所見られました。詳細は解剖してみなければ分かりませんが、鑑識の調べでは、腐敗の進み具合から少なくとも死後三日以上は経っているとのことです」
ランドローは男の遺体のそばにしゃがみこみ、じっくりと観察した。
ブスケが言った通り、川の水に長期間浸っていたせいか、顔や体が膨れており、皮膚はふやけて真っ白になっている。ただ、気温が低い季節に死亡したことが幸いしたのか、水死体にしては腐敗がそこまで進んでいない。おかげで顔の造形や輪郭は比較的きれいに残っているので人相は判別可能な範囲だ。
顔をよく見ると白髪が混じった短髪で、目鼻も整っている。背は東洋人の割には高い。着衣は白いワイシャツに黒ズボンのみ。上着を着ていたとしたら、漂流中に流されたのかもしれない。手足は白いロープで縛られている。足元を見ると、靴は右足しか履いていない。もう片方は水中で脱げてしまったのか、左足は灰色の靴下がむき出しになっている。
後頭部をのぞいてみると、確かに一部に黒ずんだ血の痕がある。
「所持品は何もないと言ったな?」
ブスケは首を横にふった。
「残念ながら。来ている服の種類からすると、上にジャケットか何かを着ていたと推測されますが、発見時にはありませんでした」
「そちらの方々が第一発見者か?」
ランドローはブスケの後ろに立っている二人の男のほうを向いて尋ねた。若い方の男は、三十代前半くらいか。顔つきは精悍で、ガッシリとした体躯をしている。日焼けした肌も相まって、見るからに海の男といった風貌だ。
もう一人は、やや小太りな初老の男で、このボート保管所の管理者だという。
「発見者はこちらの方で、このボート保管所に置いてあるクルーザーの持ち主です。本日早朝に船を出航させようとしたところ、スロープに横たわっている遺体を発見したそうです」
話を振られた若い男の表情には、困惑の色が浮かんでいた。
「本当に驚きましたよ。今朝、クルーザーを川へ出そうとしたら、スロープの先に何か大きな物体が見えましてね。まだ日も出てなくて暗かったから最初は何なのか分からなかったんですが、近づいてみたら人だったんです。その時に駆け寄って確かめた時には、もう息はしてませんでしたよ」
「朝の五時半とはずいぶん早いが、ここの船の持ち主たちは、みんな君みたいに早朝にやってくるのかね?」
ランドローが問うと、男は肩をすくめた。
「人によるんじゃないですかね。たとえばナントから川を下って海に出るには二、三時間はかかりますから、午前中から大西洋クルージングを楽しみたい人は早く来るでしょうね。ただ、さすがにこんな早い時間帯に保管所に入るには、前日に管理者に連絡を入れておく必要があります」
「なるほどね。ところで発見した際、周囲で怪しい人物は見なかったかね。あるいは何か変わった出来事はなかったかな」
この問いにも、男は力なく首を振った。
「さっきも言ったように暗かったので、特に何も見てませんね。ただ、あの時は僕以外、人の気配は感じませんでした」
「そうか」
ランドローは改めて周囲を見回してみた。市の外れにあるだけあって、都会の喧騒さは感じられず、緑と川に囲まれた静かな環境だ。地図を見る限り、近隣にはボート保管所しかないので、早朝ともなれば、男の言う通り、ひと気はほとんどないのだろう。
「他殺でしょうか?」
モルガン刑事が尋ねてきた。
「分からん。入水による自殺でも手足を縛るケースはよくあるし、後頭部の傷痕も誰かに殴られたのか、あるいは何かにぶつかったのか判別できない。そのあたりは司法解剖の結果待ちといったところだろう」
「そうですね」
ちょうど鑑識も作業を終えたようで、ランドローは遺体を搬送するよう、捜査員に指示を出した。
「ここへ来る途中に何軒か住宅があったな。ブスケとモルガンは聞き込みをしてくれ。私は、保管所の管理者に事情聴取をする」
「分かりました」
(こいつは長引くかもな)
担架で運ばれていく遺体を見送りながら、ランドローは心の中で今日三度目の溜息をついた。
長年の刑事としての勘がそう告げている。そういう勘は大抵当たるのだ。
3
司法解剖の結果が報告されたのは、遺体発見から三日後の夕方であった。
「睡眠薬?」
別件捜査を終えてナント中央署捜査課へ戻ったランドローに、ブスケが検死報告書を手渡した。
「血液検査を行った結果、血中からバルビツール酸と呼ばれる成分が高濃度で検出されたそうです。これはかなり古いタイプの睡眠薬に含まれる成分で、大量に服用すれば呼吸停止や筋弛緩を引き起こす危険性があるため、現在ではほとんど処方されていないそうです」
ランドローは報告書に目を通した。
「死因は肺に水が溜まって気道が塞がれたことによる窒息死。要は溺死だな。死亡推定時刻は…三日から四日前としか書かれていないな」
「やはり水死体なので死後硬直はもちろん、死斑も認められないため、司法解剖でも、具体的な日時までは特定できないそうです。ただ、少なくとも腐敗の程度から考えて、三日より前に死んだとは考えにくいと」
「なるほどね」
「そのほかの所見として、口鼻部から気管支に泡沫が認められ、肺は水の侵入により膨張していました。体内の臓器からは淡水プランクトンが検出されていますが、これはロワール川に棲息するものと一致していたそうです。これらの証拠から、被害者はロワール川で溺死したと考えるのが妥当ではないかと思われます」
「手足を縛っていたロープに関してはどうかね?」
「ロープは市販されている一般的なもので、特に変わった点はありません。水の中でも緩まないよう、ややきつく結ばれていますね。結び目に関してですが、これは被害者本人が一人でも結べるやり方だったそうです」
「ここまで聞く限りでは、確実に死ねるように睡眠薬を飲み、手足を縛った上で入水自殺したという線が自然に思えるが、私としては例の後頭部の傷痕も気になる。それに関しての所見はどうなんだね?」
「傷の位置は、やや右耳に近い後頭部で、さほど大きなものではありません。せいぜい一、二センチというところです。ただ…」
「ただ、何だ?」
「傷の深さは浅いのですが、少々形が変わっていまして。どこか丸みを帯びていて、鋭利な刃物で直線的に切られたものではないようです。かと言って、何か固い物にぶつけた痕とも異なるようで、検死官も首をひねってましたね。打撲痕か裂傷痕か判別できないと言っていました」
「つまり、どういう経緯でついた傷なのか、原因の特定が困難ということだな。もう一度確認するが、目立った外傷はそれだけなのかね?」
「はい。そして、これが致命傷ではないことは確かです」
「ふむ…」
ランドローは腕を組んで考え込んだ。
「検察局はどう判断するでしょうね?」
ブスケが聞いてきた。
「遺体が示す数々の証拠からは、自殺に結び付く要素が多い。だが、後頭部の傷痕が、第三者による犯行の可能性をわずかでも残す限り、はっきりと断定するのは難しい。現状ではおそらく、自殺と他殺の両方を考慮するだろうね」
そしてもう一つ、ランドローには気になる点があった。
「被害者の身元に関する情報だが、まだ何も集まらないのは、どういうことなのかねえ」
事件現場となったボート保管所や近隣の住宅地での聞き込みからは、特に遺体の身元特定につながる情報は得られず、市警察が管理する免許証および犯罪データベースにも、該当する人物は見られなかった。
「ナントの人間ではないかもしれませんね。東洋人なら国外から来た可能性もあります」
「いずれにしろ、やっかいな事件になりそうだな」
4
ランドローの予想通り、ナント検察局は本件を自殺と他殺の両線の可能性から捜査するよう、予審判事を通じて指示を出した。
捜査を開始したランドローら担当刑事は、ロワール河口周辺の町々のホテルやレストラン、公共施設などをしらみつぶしに聞き込みして回ったが、被害者に関する情報は一向に得られなかった。
特に有力な手掛かりが得られると見込まれた地元ナントや隣町のサン・ナゼールなどでの捜査が空振りに終わったことは、捜査員たちを少なからず失望させた。
捜査一週間目になって、事件を指揮するマルタン判事は、被害者の似顔絵の公開に踏み切り、一般からの情報提供を呼びかける決定を下した。合わせてナント中央警察署はマスコミ向けの会見を開き、事件の詳細を伝えると共にメディアに協力を求めた。
「被害者の身元に関する手がかりは、まったく得られていないんですね?」
地元ナントの新聞記者の質問にマルタン判事が答えた。
「その通りです。外見の特徴からアジア人であることは間違いありませんが、フランス人かどうかは不明です。遺体や事件現場からはパスポートや免許証など、身元を証明する所持品が一切見つかっていません」
「東洋人なら中国か、日本から来た観光客の可能性があるんじゃないですか?」
別の記者が問いかけた。
「もちろん、その可能性もあるので、すでに国際刑事警察機構を通じ、中国と日本などアジア各国の警察当局に問い合わせをしております。ただ、先ほども説明したように被害者の死亡前後の足取りがまったくつかめていないのです。このナントを含むロワール地域の、めぼしいホテルはすべて当たりましたが、被害者が宿泊した形跡はありませんでした。また鉄道、バス、タクシー、レンタカーの運営会社にも聞き込みを行いましたが、こちらも収穫はゼロです。従って、現時点では被害者が観光客であると断定することはできません」
「もし殺人事件である場合、これだけ手がかりが少ないと犯人逮捕は相当に困難になるのでは?」
警察の捜査能力を試すような質問にランドローは苦笑したが、マルタン判事は淡々とした面持ちで答えた。
「だからこそ、今回、被害者の似顔絵を公開し、情報提供を求める決断を下したのです。本件が殺人事件であるならば、我々は一刻も早く犯人を見つけ出さねばなりません。昨今のテロ犯罪と結び付けるつもりはありませんが、無差別に狙った犯行である可能性も否定できません。第二、第三の被害が出ることだけは避けたい。そのためにも、皆さんの協力が必要なのです」
5
翌日のフランスの全国および地方紙で、被害者の似顔絵が掲載されたが、記事としての扱いは、遺体発見直後の報道と同じく、小さいものであった。
やはり被害者が身元不明で情報が少ないため、紙面を割きようがないのだろう。加えて世間の関心が大統領選挙に向いていることも、注目を集めにくくしている原因かもしれない。
公開から三日が過ぎても、市民からの有力な情報は寄せられず、ランドローたちは徐々に焦りを感じ始めていた。
それから二日後の夕方、ナント中央警察署に一人の訪問客が現れた。受付からの内線に対応したのはブスケ刑事である。
ブスケは数分ほど内線で話したのち、ランドローに声をかけた。
「警部、東洋人殺害事件に関して担当の刑事と話がしたいという女性が署に来ているそうです」
「またイタズラ目的か、人違いじゃないのか?」
「いえ、それが…女性の話によると、被害者は自分が追っている行方不明の男性ではないかとのことで」
「追っている? どういう意味かね?」
「どうやら相手は探偵社の人間のようです。しかも日本からの」
「日本からねえ…」
被害者が日本人である可能性は十分考えられる。だが、行方不明者の情報を問い合わせた日本の警視庁からは、特に本件に関連するような情報は得られていない。
「とりあえず会ってみるか。待合室に通すよう伝えてくれ」
ランドローはブスケを連れ立って、署の待合室に向かった。
二人が一階南側にある待合室に入ると、向かい合ったソファの片方に来客の女性が座っていた。当然というべきか、相手は日本人である。
ランドローたちの入室に気づいた女性は立ち上がり、お辞儀をしてきた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。アジア系の女性は小柄というイメージに反してスラリと背が高く、身に着けているグレーのパンツスーツがスタイルの良さを際立たせている。
ショートボブの艶やかな黒髪に整った顔立ち。切れ長の黒い瞳は、意志の強さを感じさせる。右目の下にある泣きぼくろが印象的だ。
目の前の美女が放つ華やかなオーラに一瞬心を奪われつつ、ランドローは挨拶を切り出した。
「ボンジュール。私が今回の事件の現場指揮を執っているランドロー警部補です。あなたは被害者をご存じだと伺いましたが?」
ランドローが右手を差し出し問いかけると、女性は握手を返しながら、流暢なフランス語で答えた。
「つい今朝方、知人が見せてくれた新聞で被害者の似顔絵を見たんです。顔の特徴から、もしかすると私の依頼人が捜している日本人ではないかと思いまして、パリから、急ぎこちらへ駆けつけました。もし許可して頂けるのでしたら、まず被害者の身元確認をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろん、それは構いません。我々としても、詳しい話を聞きたいですからね。ところで、あなたのお名前を伺っていなかったのですが」
「キョウコ・ユウキと申します」
そう名乗ると、女性は上着のポケットから名刺入れを取り出し、ランドローに名刺を差し出した。受け取って見ると、それは英語で書かれた名刺だった。
「日本の佐伯探偵事務所から派遣された、調査員です」
携帯が鳴り響いた時、ベッドで目を覚ましたドミニク・ランドロー警部補は嫌な予感に襲われた。着信音が友人や飲み仲間ではなく、仕事用に登録したメロディだったからだ。
気だるげに体を起こしたランドローは、隣で寝ている妻に目をやった。やはり彼女も起こされてしまったらしい。眠そうな目をこすりながら、夫に早く電話に出るように表情で促していた。
携帯が置かれたサイドテーブルの時計を確認すると、時刻は午前七時三十分を示している。
ランドローは溜息をついた。今日は三週間ぶりに取れた休暇日なのに。これで夜の海鮮レストランでの家族サービスはキャンセルだ。
ゆっくりとテーブルに手を伸ばし、携帯をつかむと、やや不機嫌気味の声で電話をかけてきた部下に応対する。
「もしもし、ランドローだ。何だ、リシャールか。どうした、テロリストの襲撃でも起きたのか?」
冗談半分で問いかけるが、実際は笑えるような話ではない。軽口としては不謹慎だが、それくらいの事態でなければ休暇が潰される甲斐がないともランドローは思った。
しかし、電話の向こうからの返答は意外な内容であった。
「…ロワール川の川岸に東洋人の死体だと?」
隣で妻が「まあ、恐ろしい」と小さくつぶやいたのが聞こえた。
「それで場所は…ボート保管施設の近く? 確か市の西側の外れにあったな。分かった。私も現場へ急行する。一時間以内には着くだろう。じゃあ後で」
ランドローが携帯を切って隣を見ると、あきらめの表情を浮かべた妻がベッドから出て、ナイトガウンを脱ぎ始めた。
「急いで朝食を作るわ。軽くでも食べて行ったほうがいいでしょう?」
「悪いな。わざわざ」
「いいわ。いつものことだし」
ランドローも同じようにベッドを出て、ガウンを着替え始める。
(それにしても東洋人の死体とはな)
刑事になってから二十年以上が経つ。その間、死体に遭遇する事件は、それなりに担当してきたが、被害者は大抵の場合、白人かアフリカ系、アラブ系移民である。
ランドローの住む街であるナント市には、アジア系の住民は中国人などが年々増えているものの、それでも他人種と比べれば絶対数は少ない。だから東洋人絡みの事件が起こるのは非常に珍しいと言える。
先ほどの電話の報告だけでは、まだ事故か自殺か、あるいは他殺なのかも分からなかった。
(いずれにしても、早めに片付くといいが)
ランドローは二度目の溜息をつき、重い体を起こしてベッドから出た。
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パリから西へ三百五十キロ離れたナント市は、「フランスの庭園」と言われるロワール地方の中心都市である。かつてはブルターニュ公国と呼ばれた独立国家の首都であり、大西洋の玄関口として位置する地理的利点から、十八世紀には奴隷貿易の一拠点として栄えた。
二十一世紀の現在では、フランスで6番目の規模を持つ大都市であり、市内にはブルターニュ大公城を始め、中世を感じさせる数多くの歴史資産が点在しており、世界的にも人気の観光地となっている。
ランドローの住むアパルトマンは、ロワール川によって南北に隔てられた市街の北岸側にある。勤務先であるナント中央警察署も同じく北岸に位置しており、距離もさほど離れていない。
身支度を整えたランドローは、自宅のアパルトマンを出て、路肩に駐車してある自家用車に乗り込んだ。季節は四月初旬。春の訪れというには、朝はまだ肌寒く、通りを行きかう人々は厚めのコートを着込んでいる。
車を発進させると、ちょうど目の前を路面電車が横切ろうとしていた。路面電車はナントの中核的な交通手段で、市全体に路線網が張り巡らされている。ランドローも普段の出勤では利用するのだが、今回は事件現場が市の外れなので自家用車での移動である。
ランドローが運転しながら景色を眺めていると、時折ある集団が目に入ってくる。自動小銃を手に持ちながら道を巡回する武装警官たちだ。
(毎日、朝からご苦労なことだな)
去年、パリで起きた同時多発テロ以来、フランスの各都市では厳戒態勢が敷かれていた。このナントも例外ではなく、物々しい警備のせいか市内はどこか張り詰めた緊張感に包まれている。
町の緊迫した空気には、さらにもう1つ理由がある。来月、五年に一度のフランス大統領選挙が行われるのだ。この時期、テレビや新聞などは選挙報道一色となり、右翼など過激思想の政党に対する街頭デモも頻繁に見られるようになる。
フランスは戦後以来、右派と左派の2大政党が政治を担ってきたが、このところはEUに対する国民の不信感や、移民とテロへの反感を巧みに煽る新興政党が急速に支持を伸ばしている。だが、それは国民の分断をも招く結果ともなっているのだ。
「この厳戒態勢がずっと続けば楽なんだがな」とランドローは独り言のようにつぶやいた。不謹慎なのは分かっているが、武装警官の巡回は、犯罪抑止には効果的なのだ。実際、最近は大都市などで強盗などの一部の凶悪犯罪の発生件数が減少しているという。
あとは慢性的な警察の人手不足が解消されれば文句はないのだが、こちらは予算不足が原因なので難しいだろう。おかげでせっかくの休暇日でも、こうして自分が駆り出されているのだ。
頭の中で愚痴をこぼしていると、やがて車道の前方にロワール川にかかる橋が見えてきた。
フランス中央の高地に源を発し、北上して西へと流れるロワール川は全長千キロを超える、国内でも有数の大河である。中世より、その長大な流域に沿って王侯貴族が三百以上の城を建設したロワール渓谷は、二〇〇〇年には世界遺産に登録されている。
生まれも育ちもナントのランドローは、橋の下を緩やかに流れるロワール川とその周辺を一望するのが好きだった。学生時代までは、何かに悩んだ時は決まって橋を訪れ、雄大に流れる川を眺めて気分転換をするのが彼の習慣だった。だが刑事になってからは多忙ゆえにゆっくりと鑑賞する時間も余裕もない。
橋を過ぎて、しばらく大通りを西へ走ると、やがて市の外れにたどり着く。雑木林の道を抜けると、目的地のボート保管施設が見えてきた。入り口には、すでに警察の車両が何台か停まっている。
車を降りたランドローが向かった先は、ボートを進水させるスロープだった。その緩やかな坂は川に直結しており、横には何隻ものボートが並んでいるのが見える。
周囲はすでに警察によって進入禁止のテープが貼られており、それをくぐって先に進むと、部下のリシャール・モルガン刑事がランドローに気づき近づいてきた。
「待たせてすまんな」
「また奥さんお手製のオムレツを食べてて、時間を食ったんですか?」
「そうしたかったんだが、あいにく卵が切れていてね。今朝はクロワッサンをかきこむだけで我慢したよ」
「現場はこちらです」
モルガンに案内されたのはスロープの先、ちょうど坂が水に触れる場所で、遺体はそこに横たわっていた。先行していた数名の鑑識係が検分中のようだ。そばには、もう一人の部下であるアルベール・ブスケも立っていた。
「アルベール、報告を頼む」
ランドローはブスケに声をかけた。
「遺体は東洋人男性。推定年齢は五十代後半から六十代前半。発見時刻は今朝の五時半頃です。所持品は特にありません。全身が濡れて着衣が乱れており、手足がロープで縛られています。顔も膨満していることから、数日間ロワール川を漂流していたものと思われます。外傷は後頭部に何かをぶつけたような傷跡が一カ所見られました。詳細は解剖してみなければ分かりませんが、鑑識の調べでは、腐敗の進み具合から少なくとも死後三日以上は経っているとのことです」
ランドローは男の遺体のそばにしゃがみこみ、じっくりと観察した。
ブスケが言った通り、川の水に長期間浸っていたせいか、顔や体が膨れており、皮膚はふやけて真っ白になっている。ただ、気温が低い季節に死亡したことが幸いしたのか、水死体にしては腐敗がそこまで進んでいない。おかげで顔の造形や輪郭は比較的きれいに残っているので人相は判別可能な範囲だ。
顔をよく見ると白髪が混じった短髪で、目鼻も整っている。背は東洋人の割には高い。着衣は白いワイシャツに黒ズボンのみ。上着を着ていたとしたら、漂流中に流されたのかもしれない。手足は白いロープで縛られている。足元を見ると、靴は右足しか履いていない。もう片方は水中で脱げてしまったのか、左足は灰色の靴下がむき出しになっている。
後頭部をのぞいてみると、確かに一部に黒ずんだ血の痕がある。
「所持品は何もないと言ったな?」
ブスケは首を横にふった。
「残念ながら。来ている服の種類からすると、上にジャケットか何かを着ていたと推測されますが、発見時にはありませんでした」
「そちらの方々が第一発見者か?」
ランドローはブスケの後ろに立っている二人の男のほうを向いて尋ねた。若い方の男は、三十代前半くらいか。顔つきは精悍で、ガッシリとした体躯をしている。日焼けした肌も相まって、見るからに海の男といった風貌だ。
もう一人は、やや小太りな初老の男で、このボート保管所の管理者だという。
「発見者はこちらの方で、このボート保管所に置いてあるクルーザーの持ち主です。本日早朝に船を出航させようとしたところ、スロープに横たわっている遺体を発見したそうです」
話を振られた若い男の表情には、困惑の色が浮かんでいた。
「本当に驚きましたよ。今朝、クルーザーを川へ出そうとしたら、スロープの先に何か大きな物体が見えましてね。まだ日も出てなくて暗かったから最初は何なのか分からなかったんですが、近づいてみたら人だったんです。その時に駆け寄って確かめた時には、もう息はしてませんでしたよ」
「朝の五時半とはずいぶん早いが、ここの船の持ち主たちは、みんな君みたいに早朝にやってくるのかね?」
ランドローが問うと、男は肩をすくめた。
「人によるんじゃないですかね。たとえばナントから川を下って海に出るには二、三時間はかかりますから、午前中から大西洋クルージングを楽しみたい人は早く来るでしょうね。ただ、さすがにこんな早い時間帯に保管所に入るには、前日に管理者に連絡を入れておく必要があります」
「なるほどね。ところで発見した際、周囲で怪しい人物は見なかったかね。あるいは何か変わった出来事はなかったかな」
この問いにも、男は力なく首を振った。
「さっきも言ったように暗かったので、特に何も見てませんね。ただ、あの時は僕以外、人の気配は感じませんでした」
「そうか」
ランドローは改めて周囲を見回してみた。市の外れにあるだけあって、都会の喧騒さは感じられず、緑と川に囲まれた静かな環境だ。地図を見る限り、近隣にはボート保管所しかないので、早朝ともなれば、男の言う通り、ひと気はほとんどないのだろう。
「他殺でしょうか?」
モルガン刑事が尋ねてきた。
「分からん。入水による自殺でも手足を縛るケースはよくあるし、後頭部の傷痕も誰かに殴られたのか、あるいは何かにぶつかったのか判別できない。そのあたりは司法解剖の結果待ちといったところだろう」
「そうですね」
ちょうど鑑識も作業を終えたようで、ランドローは遺体を搬送するよう、捜査員に指示を出した。
「ここへ来る途中に何軒か住宅があったな。ブスケとモルガンは聞き込みをしてくれ。私は、保管所の管理者に事情聴取をする」
「分かりました」
(こいつは長引くかもな)
担架で運ばれていく遺体を見送りながら、ランドローは心の中で今日三度目の溜息をついた。
長年の刑事としての勘がそう告げている。そういう勘は大抵当たるのだ。
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司法解剖の結果が報告されたのは、遺体発見から三日後の夕方であった。
「睡眠薬?」
別件捜査を終えてナント中央署捜査課へ戻ったランドローに、ブスケが検死報告書を手渡した。
「血液検査を行った結果、血中からバルビツール酸と呼ばれる成分が高濃度で検出されたそうです。これはかなり古いタイプの睡眠薬に含まれる成分で、大量に服用すれば呼吸停止や筋弛緩を引き起こす危険性があるため、現在ではほとんど処方されていないそうです」
ランドローは報告書に目を通した。
「死因は肺に水が溜まって気道が塞がれたことによる窒息死。要は溺死だな。死亡推定時刻は…三日から四日前としか書かれていないな」
「やはり水死体なので死後硬直はもちろん、死斑も認められないため、司法解剖でも、具体的な日時までは特定できないそうです。ただ、少なくとも腐敗の程度から考えて、三日より前に死んだとは考えにくいと」
「なるほどね」
「そのほかの所見として、口鼻部から気管支に泡沫が認められ、肺は水の侵入により膨張していました。体内の臓器からは淡水プランクトンが検出されていますが、これはロワール川に棲息するものと一致していたそうです。これらの証拠から、被害者はロワール川で溺死したと考えるのが妥当ではないかと思われます」
「手足を縛っていたロープに関してはどうかね?」
「ロープは市販されている一般的なもので、特に変わった点はありません。水の中でも緩まないよう、ややきつく結ばれていますね。結び目に関してですが、これは被害者本人が一人でも結べるやり方だったそうです」
「ここまで聞く限りでは、確実に死ねるように睡眠薬を飲み、手足を縛った上で入水自殺したという線が自然に思えるが、私としては例の後頭部の傷痕も気になる。それに関しての所見はどうなんだね?」
「傷の位置は、やや右耳に近い後頭部で、さほど大きなものではありません。せいぜい一、二センチというところです。ただ…」
「ただ、何だ?」
「傷の深さは浅いのですが、少々形が変わっていまして。どこか丸みを帯びていて、鋭利な刃物で直線的に切られたものではないようです。かと言って、何か固い物にぶつけた痕とも異なるようで、検死官も首をひねってましたね。打撲痕か裂傷痕か判別できないと言っていました」
「つまり、どういう経緯でついた傷なのか、原因の特定が困難ということだな。もう一度確認するが、目立った外傷はそれだけなのかね?」
「はい。そして、これが致命傷ではないことは確かです」
「ふむ…」
ランドローは腕を組んで考え込んだ。
「検察局はどう判断するでしょうね?」
ブスケが聞いてきた。
「遺体が示す数々の証拠からは、自殺に結び付く要素が多い。だが、後頭部の傷痕が、第三者による犯行の可能性をわずかでも残す限り、はっきりと断定するのは難しい。現状ではおそらく、自殺と他殺の両方を考慮するだろうね」
そしてもう一つ、ランドローには気になる点があった。
「被害者の身元に関する情報だが、まだ何も集まらないのは、どういうことなのかねえ」
事件現場となったボート保管所や近隣の住宅地での聞き込みからは、特に遺体の身元特定につながる情報は得られず、市警察が管理する免許証および犯罪データベースにも、該当する人物は見られなかった。
「ナントの人間ではないかもしれませんね。東洋人なら国外から来た可能性もあります」
「いずれにしろ、やっかいな事件になりそうだな」
4
ランドローの予想通り、ナント検察局は本件を自殺と他殺の両線の可能性から捜査するよう、予審判事を通じて指示を出した。
捜査を開始したランドローら担当刑事は、ロワール河口周辺の町々のホテルやレストラン、公共施設などをしらみつぶしに聞き込みして回ったが、被害者に関する情報は一向に得られなかった。
特に有力な手掛かりが得られると見込まれた地元ナントや隣町のサン・ナゼールなどでの捜査が空振りに終わったことは、捜査員たちを少なからず失望させた。
捜査一週間目になって、事件を指揮するマルタン判事は、被害者の似顔絵の公開に踏み切り、一般からの情報提供を呼びかける決定を下した。合わせてナント中央警察署はマスコミ向けの会見を開き、事件の詳細を伝えると共にメディアに協力を求めた。
「被害者の身元に関する手がかりは、まったく得られていないんですね?」
地元ナントの新聞記者の質問にマルタン判事が答えた。
「その通りです。外見の特徴からアジア人であることは間違いありませんが、フランス人かどうかは不明です。遺体や事件現場からはパスポートや免許証など、身元を証明する所持品が一切見つかっていません」
「東洋人なら中国か、日本から来た観光客の可能性があるんじゃないですか?」
別の記者が問いかけた。
「もちろん、その可能性もあるので、すでに国際刑事警察機構を通じ、中国と日本などアジア各国の警察当局に問い合わせをしております。ただ、先ほども説明したように被害者の死亡前後の足取りがまったくつかめていないのです。このナントを含むロワール地域の、めぼしいホテルはすべて当たりましたが、被害者が宿泊した形跡はありませんでした。また鉄道、バス、タクシー、レンタカーの運営会社にも聞き込みを行いましたが、こちらも収穫はゼロです。従って、現時点では被害者が観光客であると断定することはできません」
「もし殺人事件である場合、これだけ手がかりが少ないと犯人逮捕は相当に困難になるのでは?」
警察の捜査能力を試すような質問にランドローは苦笑したが、マルタン判事は淡々とした面持ちで答えた。
「だからこそ、今回、被害者の似顔絵を公開し、情報提供を求める決断を下したのです。本件が殺人事件であるならば、我々は一刻も早く犯人を見つけ出さねばなりません。昨今のテロ犯罪と結び付けるつもりはありませんが、無差別に狙った犯行である可能性も否定できません。第二、第三の被害が出ることだけは避けたい。そのためにも、皆さんの協力が必要なのです」
5
翌日のフランスの全国および地方紙で、被害者の似顔絵が掲載されたが、記事としての扱いは、遺体発見直後の報道と同じく、小さいものであった。
やはり被害者が身元不明で情報が少ないため、紙面を割きようがないのだろう。加えて世間の関心が大統領選挙に向いていることも、注目を集めにくくしている原因かもしれない。
公開から三日が過ぎても、市民からの有力な情報は寄せられず、ランドローたちは徐々に焦りを感じ始めていた。
それから二日後の夕方、ナント中央警察署に一人の訪問客が現れた。受付からの内線に対応したのはブスケ刑事である。
ブスケは数分ほど内線で話したのち、ランドローに声をかけた。
「警部、東洋人殺害事件に関して担当の刑事と話がしたいという女性が署に来ているそうです」
「またイタズラ目的か、人違いじゃないのか?」
「いえ、それが…女性の話によると、被害者は自分が追っている行方不明の男性ではないかとのことで」
「追っている? どういう意味かね?」
「どうやら相手は探偵社の人間のようです。しかも日本からの」
「日本からねえ…」
被害者が日本人である可能性は十分考えられる。だが、行方不明者の情報を問い合わせた日本の警視庁からは、特に本件に関連するような情報は得られていない。
「とりあえず会ってみるか。待合室に通すよう伝えてくれ」
ランドローはブスケを連れ立って、署の待合室に向かった。
二人が一階南側にある待合室に入ると、向かい合ったソファの片方に来客の女性が座っていた。当然というべきか、相手は日本人である。
ランドローたちの入室に気づいた女性は立ち上がり、お辞儀をしてきた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。アジア系の女性は小柄というイメージに反してスラリと背が高く、身に着けているグレーのパンツスーツがスタイルの良さを際立たせている。
ショートボブの艶やかな黒髪に整った顔立ち。切れ長の黒い瞳は、意志の強さを感じさせる。右目の下にある泣きぼくろが印象的だ。
目の前の美女が放つ華やかなオーラに一瞬心を奪われつつ、ランドローは挨拶を切り出した。
「ボンジュール。私が今回の事件の現場指揮を執っているランドロー警部補です。あなたは被害者をご存じだと伺いましたが?」
ランドローが右手を差し出し問いかけると、女性は握手を返しながら、流暢なフランス語で答えた。
「つい今朝方、知人が見せてくれた新聞で被害者の似顔絵を見たんです。顔の特徴から、もしかすると私の依頼人が捜している日本人ではないかと思いまして、パリから、急ぎこちらへ駆けつけました。もし許可して頂けるのでしたら、まず被害者の身元確認をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろん、それは構いません。我々としても、詳しい話を聞きたいですからね。ところで、あなたのお名前を伺っていなかったのですが」
「キョウコ・ユウキと申します」
そう名乗ると、女性は上着のポケットから名刺入れを取り出し、ランドローに名刺を差し出した。受け取って見ると、それは英語で書かれた名刺だった。
「日本の佐伯探偵事務所から派遣された、調査員です」
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