4 / 10
第2章
探偵、結城杏子
しおりを挟む
1
「結城君。お父上は、ご健勝かね?」
デスクで黙々と書類仕事をしていた結城杏子は顔を上げた。昼に出勤してくるなり、ニッコリと微笑みながら問いかけてきたのは、彼女が勤める探偵事務所の所長、佐伯真二である。彼がこのような満面の笑顔をのぞかせる時は、大抵何かしらの企みがあることを意味するので、警戒を要する。
「…まあ、元気なんじゃないでしょうか。長い間連絡していないので、よく知りませんけれど」
嫌な予感に襲われた結城は、当たり障りのない言葉で返した。
「何だ、まだケンカしているのかい。いい加減仲直りしたらどうかね」
「別にケンカなんてしてません。お互い、独立した大人同士ですから、むやみに干渉し合わないだけです。父だって忙しいでしょうし」
結城の澄ましたような返事に、佐伯が顎に手を当てて言った。
「そうか。しかしそうなると、これはある意味、僥倖かもしれない」
「…と、おっしゃいますと?」
「喜んでくれ。依頼が来たのだ」
結城の顔が輝いた。
「本当ですか? よかった、ここ連日ずっと書類仕事ばかりでノイローゼになるところだったんですよ」
「そしてだね」
佐伯がニヤリと口角を上げた。
「お父上としばらく話していないのなら、今回の依頼が、親子で久しぶりに会話をする、良いきっかけになるかもしれないのだよ」
結城の顔が曇った。
「…それは、どういうことでしょうか」
「まあ、まずは依頼を聞いてみてくれないか。依頼人は今日の二時に事務所に来る予定だ。今の話の続きは、その時に分かるだろう」
佐伯は壁の時計をチラリと眺めながら言った。
(相変わらず、勿体つけた言い方ね――)
結城は溜息をついた。この事務所で働き始めて三年目になるが、佐伯とのコミュニケーションには未だに苦労する。その大方の原因は、飄々として、どこか人を食ったような佐伯の性格にあると結城は思っている。
「そういうわけだから神崎君。応対の準備を頼む。あ、お茶請けが切れていたと思うから、急いで買ってきてくれ」
「分かりました」
返事をしたのは結城の真向かいのデスクで、同じく雑務に励んでいた神崎克美である。このヒョロリと背の高い、メガネをかけた青年は、都内の有名私大を卒業した後、佐伯探偵事務所に入社した二十三歳の新人だ。
「よかったですね、杏子先輩。ひさしぶりに海外出張できそうじゃないですか」
「克美君。誤解してるようだけど、別に遊びに行くわけじゃないのよ。それに今の所長の口ぶりからして、相当やっかいな案件であることは容易に想像できるでしょう」
「でも、そういう依頼が来た時の杏子さんって、すごく生き生きしてるじゃないですか。いいなあ。僕も早く一人前になって、事件を追って世界を飛び回りたいですよ」
神崎の心底羨ましそうな顔を見て、結城は苦笑いするしかなかった。この、まだあどけなさの抜けない青年は少年時代から探偵に憧れていて、大学では他の業種には目もくれず探偵業界一本に絞って就活したという変わり者である。事務所内では、まだまだ見習いの身分だが、若いゆえのバイタリティと情熱でどんな雑務にも真剣に取り組むため、結城にとっては扱いやすい(?)助手のような存在だ。
「ふむ、神崎君なら、有能な探偵になれる素質は十分だし、正式な調査員になれば、ゆくゆくは海外調査部のエースに育つかもしれないな。結城君も、うかうかしていられなくなるぞ」
「…そうですね所長。私と克美君が将来、切磋琢磨できるように、せいぜい、たくさん依頼を取ってきてください」
そう皮肉を飛ばして、軽やかに席を立った結城は、「そう来るかね…」と渋い表情で唸った佐伯を横目に、昼の休憩を取るべくオフィスを出ていった。
2
東京都新宿区新宿五丁目。ここにある六階建ての雑居ビルにオフィスを構える佐伯探偵事務所は、設立六年目の新興探偵社である。所長の佐伯真二は前職が新聞記者で、勤続二十五年のベテランだったが、本人いわく不幸な事故や事件を取材していくうちに、自らの手で困った人を助けたいとの思いが強くなり、新聞社を辞めて探偵事務所を創業するに至ったらしい。
社員数は事務員と探偵に当たる調査員を合わせて十二名。そのうち調査員は結城を含めて八名となっている。
一般的に、探偵の調査業務は浮気、素行身辺、ストーキングなど多岐にわたるが、佐伯探偵事務所がとりわけ強いのが失踪人捜しである。これは新聞記者時代に佐伯が築いた各都道府県の警察や地元新聞社との人脈ネットワークに依るところが大きく、家出人や失踪人の発見において高い実績を誇っている。
そして三年前から、新たな開拓分野として、佐伯が力を注ぎ始めたのが海外調査であった。昨今のグローバル化に伴う事故や犯罪の国際化、日本を訪れる外国人観光客の急激な増加などにより、海外や外国人関連の依頼案件が業界全体で増えており、佐伯はそこに目をつけた。
『ウチのような弱小探偵社が業界で生き残るには、他社とさらなる差別化を図らなければいけない。そこで海外調査の専門部署を立ち上げて、将来増加が見込まれる外国絡みの案件の需要を取り込もうと考えたんだ』とは、以前、結城が本人から聞かされた弁である。
海外出張や、在日外国人との接触を前提とする業務のため、担当する調査員は外国語や異文化自事情に通していることが望ましい。しかしそのような技能を持ち、かつ探偵業界に志望する人間が、そう簡単に見つかるはずもなく、海外調査部設立のための採用活動は当初、難航した。
そして人材募集から四カ月が経過した頃、一人の女性が佐伯事務所の門を叩いた。当時、警察庁の警備局外事情報部に勤めていた結城杏子である。
求人広告を見て応募したという結城の経歴に、佐伯は驚いた。彼女は海外の有名大学を卒業後、国家公務員試験Ⅰ種に合格して入庁した、いわゆるキャリア組であり、順調に職務をこなせば、将来、幹部の席は約束されたも同然の立場にあった。
そんな華やかなエリート街道を捨てて、地味な探偵業界、しかも底辺と言って差し支えない零細探偵社を志望するなど、大胆を通り越して無謀に等しいのではないか。
疑念を拭えなかった佐伯が、この点について面接で志望動機を問うと、彼女は淡々とした口調で語り出した。
いわく、警察内に蔓延する人間味のない官僚主義に嫌気が差したこと。より自由な環境の中で人を助ける仕事がしたいこと。探偵という職業なら警察での経験が活かせると考えたこと、などが理由であった。
確かに近年、警察は組織体制の硬直化が深刻になっていると言われる。その主な原因は、若手警察官のモラル崩壊により頻発する内部不祥事を防止するため、管理業務が強化されたことにあるという。
佐伯自身も、顔なじみの刑事から、警察の現状を愚痴まがいに聞かされたことが度々あった。
『上の連中は、捜査よりも不正とか失敗に目を光らせていて、まいっちまうよ。今じゃ、警部や警部補といった中間管理職は、証拠品の保管チェックや書類の決裁、部下の勤務管理といった仕事が一気に増えてね。おかげで現場には疲弊感が漂ってて、俺たちのモチベーションは下がりっぱなしさ』
そうした閉塞感に見切りをつけ、警察を辞めていく中堅の警察官も後を絶たないという。
結城もまた、そうした警察の実態に失望した人間の一人だというのだ。
だが、佐伯は面接で話を聞いた時、それだけではない何か別の理由があるのではないかと直感した。
彼女が所属していた警備局外事情報部は、国際テロリズム対策や諜報活動などを担当する外事警察の総元締めである。国家の安全に関わる活動に従事するため、所属する職員には当然、守秘義務というものが課せられ、それは退職後も適用され続けるだろう。
佐伯自身は、記者時代に縁がなかったこともあり、外事警察の職務に詳しいわけではないが、他と比べて職務の秘匿性が高い部署であることは想像がつく。
そうであるなら、警察に幻滅したという結城の退職理由にも、普通の警察官のそれとは異なり、他人には容易に話せない経緯があるのではないか。そんな邪推もしたくなる。
説明に釈然としない部分は残るものの、結城の経歴自体に問題はない。エリート警察官なら、むしろ即戦力になれる人材で、佐伯としても願ったりである。
『探偵に必要な適正はあると思います。必ず、お役に立ってみせます』
最終的には、彼女のこの力強い一言に真剣さを感じ、佐伯は採用を決めた。
その後は合格基準を満たす応募者が集まらなかったため、佐伯はひとまず結城のみを人員として、海外調査部を正式にスタートさせた。
しかし、鳴り物入りで立ち上げた新部署は、果たして一年目でつまずく事態となってしまった。佐伯の期待に反して、依頼がほとんど来なかったのである。
もとより大手の探偵社に比べて資本力に劣るので、宣伝にはあまり予算はかけられず、チラシやホームページでの告知がメインである。それでも毎月二、三件の依頼は来るだろうと佐伯は予想していたのだが、最初の半年間に受注できた案件の数はわずか二件であった。
初年度から早くも存続の危機に立たされた海外調査部であったが、その後は佐伯の必死の営業努力によって、徐々にではあるが、依頼が定期的に舞い込むようになった。
そして部署設立から三年目に入った現在、事業はどうにか継続している。ただ相変わらず正規の調査員は結城のみで、見習いの神崎は雑務などのサポートをこなす程度。そして結城自身も、依頼がない時は、他の調査員の手伝いに回っている有様である。
佐伯は、近いうちに人員を増やすと強気に話しているが、依頼数が大幅に伸びない限り、部署の規模拡大は難しそうだ。
(再就職先を間違えたかな――)
最近はそんな後悔が頭をよぎるようになった結城であったが、今はとにかく目の前にある仕事に全力で取り組むしかないと、己を奮起させる毎日であった。
3
約束の時間が来たので、結城が応接室に入ると、すでに佐伯と依頼人が向かい合って座り、談笑していた。
「結城君。こちら、今回の依頼人である村中さんだ」
「村中仁と言います。どうぞよろしく」
「初めまして、結城杏子と申します」
結城と握手を交わすべく、ソファから立ち上がった男は、白のワイシャツとグレーのズボン姿で、日焼けした笑顔が好ましい印象を与える、初老の小柄な紳士であった。
「村中さんは元自衛官でね。去年、定年退職されて、今は実家の町工場を継いで、社長をしていらっしゃるんだ」
結城が席に座ると、隣にいる佐伯が紹介を続けた。
「自衛隊は定年が早いものでしてね。悠々自適な年金生活というわけにもいきませんので、働かざるを得んのですよ」
村中は笑いながら答えた。
改めて見ると、村中は小柄ではあるがガッシリとした体格で、二の腕の筋力も強そうだ。日焼けは長年の野外任務の賜物だろう。現場で鍛え抜かれた、たたき上げの自衛官であったことが伺えた。
「本日のご依頼は、人捜し…それもフランスでと伺いましたが、改めてお話を聞かせて頂けますか?」
結城は手元の依頼書に目を通して尋ねた。
通常、探偵社は顧客の依頼内容を電話やインターネットなどを通じて事前にヒアリングし、その後、本人と面談を行って、調査事項を確認した後に見積もりと契約へ移行する。
だが、佐伯探偵事務所海外調査部では、所長である佐伯自らが営業して依頼を獲得してくるケースが多い。さらに佐伯は、せっかくのチャンスを逃すまいと依頼人との初回接触時に見積もりや契約を済ませてしまうため、調査を担当する結城本人が直前まで依頼内容を知らされないことも、ままあるのである。
今回も、佐伯から依頼書を受け取ったのは面会の一時間前であった。
「捜して頂きたいのは、金村純良という日本人で…私の自衛官時代の同僚なのです」
村中は上着のポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。写真には、自衛官の制服を身にまとった村中と一緒に、同じく日焼けした、背が高く彫りの深い顔立ちの男が笑顔で写っている。これが金村だろう。
「私も金村さんも、現役時代は海上自衛隊の船乗りでしてね。彼のほうが五年ほど先輩で、質実剛健と言いますか、非常に真面目な男でした。よく同じ護衛艦で任務に当たったんですが、まだ私が新米だった頃などは、彼から色々と厳しい指導を受けたものです」
「自衛隊は上下関係が徹底していると聞きますねえ。日和見な私など、三日と持ちそうにない職場環境ですな」
余計な感想を挟む佐伯を無視して、結城は先を続けた。
「その金村さんが、行方知れずになったと…しかもフランスで?」
村中が真剣な表情で頷く。
「金村さんは、母方のお祖母様がフランス人でしてね。まあ、孫であるご本人はこの写真の通り、クオーターにはおよそ見えないアジア人の風貌そのものなのですが…とにかく、お祖母様の母国には強い憧れがあったようです」
テーブルの上の写真に目を落としながら、村中は述懐した。
「自衛隊を定年退職した後、間もなく奥さんを病気で亡くされて…息子さんが一人おられるんですが、彼とは折り合いが悪く、何年も音信不通だそうです。それ以来、金村さんはずっと独り暮らしだったのですが…半年ほど前、突然、フランスに渡ったのです」
「渡った…というのは旅行か何かで?」
「いいえ、日本の自宅を処分しての、本格的な移住ですよ。かねてから余生をフランスで過ごしたいとおっしゃっていたので、それを実行に移したというわけです。私も最初に聞かされた時は驚きましたが、自衛官という激務の仕事から解放されたわけですし、奥様を失くされた悲しみを癒す意味でも、第二の人生を大いに楽しんで頂きたい。そんな気持ちで送り出しました。本人も、現地で新しいパートナーを見つけられればいいと冗談交じりに話していましたよ」
「それは…なかなか大胆な決断ですね。でもお気持ちは分かります」
結城は頷いた。
彼女の以前の職場だった警察も、自衛隊と同じく、厳しい階級・管理社会である。激務であることは言うに及ばす、規律と上司命令による重圧に常にさらされるため、感じる緊張とストレスは一般企業のそれより強いかもしれない。
退職後には心機一転して違う人生を歩もうと、東南アジアなどに移住した元上司や先輩の話を、結城も在職中に聞いたことがあった。
「向こうでは、パリで小さなアパートを借りて、旅行したり、現地生活を楽しんでおられたようです。自衛官時代からフランス語を独学で勉強されていたので、コミュニケーションは問題なく、翻訳の仕事もやっているとか。そういった近況話を、週に二、三回メールでやり取りしていたのですが…」
そこまで言うと、村中は一呼吸を置き、声のトーンを落とした。
「二週間ほど前から、彼の連絡がぱったりと止んでしまったのです。こちらからのメールにも、携帯電話にも出ませんでね」
「長期旅行に出られている、とかでは?」
佐伯が可能性を提示した。
「私もそれは考えたのですが、旅行中でも携帯は持っているでしょうし、それならメールか電話には出ると思います。旅先で携帯を無くしたとしても、ホテルやネットカフェからでも連絡はできるしょう。それすらしないということは、彼の身に何か緊急の事態が起きたとしか思えません。そう考えると、いてもたってもいられなくなりまして」
「金村さんの滞在先…アパートと仰いましたが、そこの大家さんに連絡はしてみましたか?」
結城が尋ねると、村中はやはり首を振った。
「大家の連絡先までは知りません。私が住所で把握しているのは、彼がパリのどの区に住んでいるかくらいです」
「うーん…」
佐伯が腕組みをしながら眉間にしわを寄せ、天を仰ぐような姿勢を取った。
「…そうなりますと、二週間という不在期間も、正直微妙ですな。突然思い立っての長期旅行と考えてもおかしくない日数です。今の時点で現地の警察や日本大使館に相談しても、積極的に取り合ってはもらえないでしょう」
「そう、そうなのです。実際、先方には連絡してみたのですが、ご指摘通りの対応をされましてね。代わりに探偵社に相談するよう勧められました。それで、知人に相談したところ、佐伯さんを紹介してもらったわけでして」
「それは適切なご判断だったと思いますよ」
結城が微笑んで相槌を打った。
邦人が海外で行方不明になった場合、家族や友人が捜し出す手段は大きく分けて、自前での捜索、日本大使館を通じての現地警察による捜索、外務省の所在調査、そして探偵社への依頼の四つがある。
このうち、自前での捜索は安全性や費用の面で効率的とは言い難い。従って、基本はまず、現地の日本大使館に連絡を取り、現地警察へ捜索依頼を出すための助言を請うことになる。ただ、警察による捜索は、最も手堅い方法ではあるが、実際に行われるかどうかは、当局者の判断に依ることが多く、確実性が高いとは言えない。
外務省の所在調査は、原則として、三親等内の親族と裁判所などの特定機関しか申請できず、さらに捜索対象者の音信が六カ月以上途絶えている場合に限られる。いずれにせよ、親族ではない村中は資格を持たない。
「緊急を要する場合は、探偵社への依頼が最も早くて確実な手段です。とりわけ当社の強みは国際探偵協会に加盟し、海外の探偵社と広範な協力ネットワークを築いている点にありまして」
佐伯がここぞとばかりアピールに熱を入れた。
「ほう、そのようなものがあるのですか」
村中が感心したような声を上げる。
国際探偵協会(The International Association of Detectives略称IAD)は各国の探偵業者により構成された国際組織であり、世界最大の探偵業団体で一九二五年に設立された。全世界六十カ国以上のうち七十都市のトップレベルの探偵社および調査会社約二千社が加盟しており、調査の相互協力や、業界の情報交換などを主な活動としている。
海外調査を主とする依頼の場合、国際探偵協会に所属しているか否かで、探偵の活動可能範囲や情報網に大きな差が生じるとされる。従って、協会の会員資格は、探偵社にとって大きな武器であり、顧客に対し大きな宣伝効果も期待できるのだ。
佐伯探偵社も、つい一年ほど前に念願の加盟を果たしたばかりで、これによって調査のスピードと効率性は、以前よりも目に見えて向上した。
「当社は調査員の数こそ他社に比べて劣りますが、IADのネットワークを最大限に活用して、海外の探偵と連携して調査に当たることで、依頼の高い達成率を実現しているのです」
「なるほど、それは頼もしいですなあ。それに加えて、御社には結城さんという特別な人材がいらっしゃる。いや、やはりこちらにご相談してよかったと思いますよ」
(――またこの展開なのね)
村中の発言に、溜息をついた結城は隣に座っている佐伯をチラリとにらんだが、当の本人は結城から目をそらし、気まずそうな顔であさっての方向を見ている。
「いや、佐伯さんから伺っておりますよ。結城さんの御父上は国際刑事警察機構(インターポール)の長官を務めてらっしゃるそうじゃありませんか。いわば国際警察のトップなのでしょう? そんな方のご息女が私の依頼を引き受けてくださるなら、これほど心強いものはありませんな」
嬉々として話す村中とは対照的に、結城は困り顔になりながら、誤解を解くべく説明を始めた。
「村中さん、確かに私の父はインターポールに勤めていますが、その事と私の調査員としての業務はまったく関係ないですし、私の仕事に父が協力することはありません。そもそもインターポールは警察というわけではなく、事件の捜査権もないんですよ」
「え、そうなのですか?」
驚いた村中は口をぽかんとしている。
国際刑事警察機構、通称インターポールは、世界百八十以上の国・地域の警察機関が加盟する国際組織である。その目的は、各国刑事警察の相互協力と充実発展、並びに国際犯罪事件の防止にあり、日本国警察も一九五二年から加盟している。
よく映画や小説などでは、国をまたいで捜査を展開する国際警察のような描写をされることが多いが、実際は各国警察をつなぐ連絡機関のような組織であり、捜査権も逮捕権も持っていない。その主な業務は国際犯罪に関する情報の収集および提供にある。
結城杏子の父、結城道正は、もともと日本の警察庁のキャリア組であった。三十八歳の時に、リヨンにあるインターポール本部に出向し、三年間、当局職員としてキャリアを積んだ。
帰国後も順調に出世を重ね、四十八歳の時に国家公安委員会の機関である警察庁長官官房で審議官となった。
そして三年前、長年の実績を評価された道正は、日本人として初めて、インターポールの長官職に当たる事務総長に抜擢され、現在に至っている。
ところで、結城は佐伯探偵事務所に就職した際、道正のことについては一切、佐伯に話さなかった。そもそも親子仲は良くなかったうえ、親の七光りと思われて、自身の能力を疑われたくなかったのである。退職した原因に、道正が関係しているということもなかった。
だが、どこで嗅ぎつけたのか、入社して半年が経った頃に、佐伯は道正の存在を知り、こともあろうに結城の神経を逆なでするような提案をした。
「結城君。ここはひとつ、お父上の名前を拝借する形で、依頼受注のための宣伝に協力してもらえないかね」
当然、結城は断固として拒否した。それこそ親の七光りであるし、安易に道正の名前を使われれば、『インターポールが協力してくれる』という誤解を依頼人に与えてしまう。何より、父親に対して余計な借りを作ってしまうようで、結城自身が納得できなかった。
だから折に触れて、佐伯には父の名を利用せぬよう念を押していたのだが、我らが所長の商売熱を抑え込むことはできなかったらしい。昨年あたりから、『インターポール長官を父に持つ、元エリート警察官』という結城の肩書を営業トークに組み込むことで、依頼人を獲得するケースが最近増えてきている。
実際、そのおかげで依頼数が安定し、海外調査部の存続に一役買っていることも事実だった。なので結城としても甚だ不本意ではあるが、背に腹は代えられず今では黙認するしかない状況となっている。
これは決して自分から発案したわけではなく、上司が勝手にやっていることだから――と己に言い聞かせることで平常心を保っているが、やはり父に迷惑をかけていることには変わりなく、その負い目が、本人に会いづらい原因の一つにもなっているのだ。
佐伯探偵事務所に転職してからは連絡もしていないので、この事を道正が知っているかは定かではないが、結城としては、この不名誉な肩書をさっさと外してしまいたい。そのためには、目の前の依頼を一つでも多くこなし、事務所の実績と評判を上げていくしかない。
結城は自信に満ちた表情を浮かべ、村中に説明を続けた。
「ですが、父の件に関係なく、私は自分の調査能力に自信があります。前職が警察庁でしたので、捜査のノウハウもそれなりにありますし、英語・フランス語もある程度はしゃべれますから、現地での行動にも制約はありません」
「なるほど、そうですか。それなら安心ですな。では、お引き受け頂けるということでよろしいのでしょうか?」
「はい、もちろんです。我々にお任せください。具体的な調査方法、日程、料金につきましては、正式にお見積りした上で一両日中にご連絡いたしますので」
そう答えたのは結城ではなく、佐伯だった。依頼が決まり、嬉しげな所長を横目に、結城は気になっていたことを村中に尋ねた。
「あの…ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「率直に申し上げて、海外調査というのは、それなりの費用がかかります。ですからほとんどの場合、依頼に来るのは調査対象者の家族や恋人などのごく親しい人間で、村中さんのようにご友人が依頼主というのは、かなり珍しいことです。こう言っては失礼ですが、単に職場で世話になった元先輩というだけの間柄であるにもかかわらず、身銭を切ってまで捜索を申し出るのには、何か他に理由があるようにお見受けしたのですが」
「ああ、なるほど。いや、別に隠すつもりはなかったのですがね…」
村中は少し照れたように後頭部をポリポリとかいた。
「金村さんには現役時代、一度命を救ってもらったことがあるのですよ」
「命をですか?」
「ええ、あれは練習航海の時でしたが、私が掃海艇の甲板上で作業していた際、誤って海に転落したことがありましてね。その時、真っ先に気づいて、救助作業に取り掛かってくれたのが金村さんだったのです。彼の迅速な行動がなければ、私は溺死したか、サメの餌食になっていたかもしれません」
その時の光景を思い出しているのか、村中は遠くを見つめるような表情を浮かべた。
「あの事故以来、いつか金村さんには、この恩を返したいと思っていました。それがこんな形になったのは残念ですが…彼が今、窮状に瀕しているのなら、何としても力になりたいのです。そのためなら多少の労苦は惜しみませんよ」
真摯な眼差しを向けて話す村中の言葉に、結城は爽やかな感動を覚えた。『困難な時に手を差し伸べてくれる者が真の友人』という諺があるが、そのために身銭まで切れる人間は、現実には多くない。少なくとも結城は、そのような依頼人を今まで目にしたことはなかった。
長く心に留めていた恩を忘れず、返すべき時に実行できる村中の義理堅い人柄は、見ていて胸がすくような清涼さを感じさせる。そして、彼にそこまでさせる金村という人物も、謹厳実直で面倒見の良い男なのだろう。
「分かりました。微力ながらお手伝いさせて頂きます」
結城は微笑みながら約束した。
だがこの時、頭の片隅に暗い予感が芽生えてゆくのを結城は感じ取っていた。
元警察官として、そして探偵として様々な事件を扱ってきた自分の勘が告げてくるのだ。
――この依頼には、悲しい結末が待っていると。
「結城君。お父上は、ご健勝かね?」
デスクで黙々と書類仕事をしていた結城杏子は顔を上げた。昼に出勤してくるなり、ニッコリと微笑みながら問いかけてきたのは、彼女が勤める探偵事務所の所長、佐伯真二である。彼がこのような満面の笑顔をのぞかせる時は、大抵何かしらの企みがあることを意味するので、警戒を要する。
「…まあ、元気なんじゃないでしょうか。長い間連絡していないので、よく知りませんけれど」
嫌な予感に襲われた結城は、当たり障りのない言葉で返した。
「何だ、まだケンカしているのかい。いい加減仲直りしたらどうかね」
「別にケンカなんてしてません。お互い、独立した大人同士ですから、むやみに干渉し合わないだけです。父だって忙しいでしょうし」
結城の澄ましたような返事に、佐伯が顎に手を当てて言った。
「そうか。しかしそうなると、これはある意味、僥倖かもしれない」
「…と、おっしゃいますと?」
「喜んでくれ。依頼が来たのだ」
結城の顔が輝いた。
「本当ですか? よかった、ここ連日ずっと書類仕事ばかりでノイローゼになるところだったんですよ」
「そしてだね」
佐伯がニヤリと口角を上げた。
「お父上としばらく話していないのなら、今回の依頼が、親子で久しぶりに会話をする、良いきっかけになるかもしれないのだよ」
結城の顔が曇った。
「…それは、どういうことでしょうか」
「まあ、まずは依頼を聞いてみてくれないか。依頼人は今日の二時に事務所に来る予定だ。今の話の続きは、その時に分かるだろう」
佐伯は壁の時計をチラリと眺めながら言った。
(相変わらず、勿体つけた言い方ね――)
結城は溜息をついた。この事務所で働き始めて三年目になるが、佐伯とのコミュニケーションには未だに苦労する。その大方の原因は、飄々として、どこか人を食ったような佐伯の性格にあると結城は思っている。
「そういうわけだから神崎君。応対の準備を頼む。あ、お茶請けが切れていたと思うから、急いで買ってきてくれ」
「分かりました」
返事をしたのは結城の真向かいのデスクで、同じく雑務に励んでいた神崎克美である。このヒョロリと背の高い、メガネをかけた青年は、都内の有名私大を卒業した後、佐伯探偵事務所に入社した二十三歳の新人だ。
「よかったですね、杏子先輩。ひさしぶりに海外出張できそうじゃないですか」
「克美君。誤解してるようだけど、別に遊びに行くわけじゃないのよ。それに今の所長の口ぶりからして、相当やっかいな案件であることは容易に想像できるでしょう」
「でも、そういう依頼が来た時の杏子さんって、すごく生き生きしてるじゃないですか。いいなあ。僕も早く一人前になって、事件を追って世界を飛び回りたいですよ」
神崎の心底羨ましそうな顔を見て、結城は苦笑いするしかなかった。この、まだあどけなさの抜けない青年は少年時代から探偵に憧れていて、大学では他の業種には目もくれず探偵業界一本に絞って就活したという変わり者である。事務所内では、まだまだ見習いの身分だが、若いゆえのバイタリティと情熱でどんな雑務にも真剣に取り組むため、結城にとっては扱いやすい(?)助手のような存在だ。
「ふむ、神崎君なら、有能な探偵になれる素質は十分だし、正式な調査員になれば、ゆくゆくは海外調査部のエースに育つかもしれないな。結城君も、うかうかしていられなくなるぞ」
「…そうですね所長。私と克美君が将来、切磋琢磨できるように、せいぜい、たくさん依頼を取ってきてください」
そう皮肉を飛ばして、軽やかに席を立った結城は、「そう来るかね…」と渋い表情で唸った佐伯を横目に、昼の休憩を取るべくオフィスを出ていった。
2
東京都新宿区新宿五丁目。ここにある六階建ての雑居ビルにオフィスを構える佐伯探偵事務所は、設立六年目の新興探偵社である。所長の佐伯真二は前職が新聞記者で、勤続二十五年のベテランだったが、本人いわく不幸な事故や事件を取材していくうちに、自らの手で困った人を助けたいとの思いが強くなり、新聞社を辞めて探偵事務所を創業するに至ったらしい。
社員数は事務員と探偵に当たる調査員を合わせて十二名。そのうち調査員は結城を含めて八名となっている。
一般的に、探偵の調査業務は浮気、素行身辺、ストーキングなど多岐にわたるが、佐伯探偵事務所がとりわけ強いのが失踪人捜しである。これは新聞記者時代に佐伯が築いた各都道府県の警察や地元新聞社との人脈ネットワークに依るところが大きく、家出人や失踪人の発見において高い実績を誇っている。
そして三年前から、新たな開拓分野として、佐伯が力を注ぎ始めたのが海外調査であった。昨今のグローバル化に伴う事故や犯罪の国際化、日本を訪れる外国人観光客の急激な増加などにより、海外や外国人関連の依頼案件が業界全体で増えており、佐伯はそこに目をつけた。
『ウチのような弱小探偵社が業界で生き残るには、他社とさらなる差別化を図らなければいけない。そこで海外調査の専門部署を立ち上げて、将来増加が見込まれる外国絡みの案件の需要を取り込もうと考えたんだ』とは、以前、結城が本人から聞かされた弁である。
海外出張や、在日外国人との接触を前提とする業務のため、担当する調査員は外国語や異文化自事情に通していることが望ましい。しかしそのような技能を持ち、かつ探偵業界に志望する人間が、そう簡単に見つかるはずもなく、海外調査部設立のための採用活動は当初、難航した。
そして人材募集から四カ月が経過した頃、一人の女性が佐伯事務所の門を叩いた。当時、警察庁の警備局外事情報部に勤めていた結城杏子である。
求人広告を見て応募したという結城の経歴に、佐伯は驚いた。彼女は海外の有名大学を卒業後、国家公務員試験Ⅰ種に合格して入庁した、いわゆるキャリア組であり、順調に職務をこなせば、将来、幹部の席は約束されたも同然の立場にあった。
そんな華やかなエリート街道を捨てて、地味な探偵業界、しかも底辺と言って差し支えない零細探偵社を志望するなど、大胆を通り越して無謀に等しいのではないか。
疑念を拭えなかった佐伯が、この点について面接で志望動機を問うと、彼女は淡々とした口調で語り出した。
いわく、警察内に蔓延する人間味のない官僚主義に嫌気が差したこと。より自由な環境の中で人を助ける仕事がしたいこと。探偵という職業なら警察での経験が活かせると考えたこと、などが理由であった。
確かに近年、警察は組織体制の硬直化が深刻になっていると言われる。その主な原因は、若手警察官のモラル崩壊により頻発する内部不祥事を防止するため、管理業務が強化されたことにあるという。
佐伯自身も、顔なじみの刑事から、警察の現状を愚痴まがいに聞かされたことが度々あった。
『上の連中は、捜査よりも不正とか失敗に目を光らせていて、まいっちまうよ。今じゃ、警部や警部補といった中間管理職は、証拠品の保管チェックや書類の決裁、部下の勤務管理といった仕事が一気に増えてね。おかげで現場には疲弊感が漂ってて、俺たちのモチベーションは下がりっぱなしさ』
そうした閉塞感に見切りをつけ、警察を辞めていく中堅の警察官も後を絶たないという。
結城もまた、そうした警察の実態に失望した人間の一人だというのだ。
だが、佐伯は面接で話を聞いた時、それだけではない何か別の理由があるのではないかと直感した。
彼女が所属していた警備局外事情報部は、国際テロリズム対策や諜報活動などを担当する外事警察の総元締めである。国家の安全に関わる活動に従事するため、所属する職員には当然、守秘義務というものが課せられ、それは退職後も適用され続けるだろう。
佐伯自身は、記者時代に縁がなかったこともあり、外事警察の職務に詳しいわけではないが、他と比べて職務の秘匿性が高い部署であることは想像がつく。
そうであるなら、警察に幻滅したという結城の退職理由にも、普通の警察官のそれとは異なり、他人には容易に話せない経緯があるのではないか。そんな邪推もしたくなる。
説明に釈然としない部分は残るものの、結城の経歴自体に問題はない。エリート警察官なら、むしろ即戦力になれる人材で、佐伯としても願ったりである。
『探偵に必要な適正はあると思います。必ず、お役に立ってみせます』
最終的には、彼女のこの力強い一言に真剣さを感じ、佐伯は採用を決めた。
その後は合格基準を満たす応募者が集まらなかったため、佐伯はひとまず結城のみを人員として、海外調査部を正式にスタートさせた。
しかし、鳴り物入りで立ち上げた新部署は、果たして一年目でつまずく事態となってしまった。佐伯の期待に反して、依頼がほとんど来なかったのである。
もとより大手の探偵社に比べて資本力に劣るので、宣伝にはあまり予算はかけられず、チラシやホームページでの告知がメインである。それでも毎月二、三件の依頼は来るだろうと佐伯は予想していたのだが、最初の半年間に受注できた案件の数はわずか二件であった。
初年度から早くも存続の危機に立たされた海外調査部であったが、その後は佐伯の必死の営業努力によって、徐々にではあるが、依頼が定期的に舞い込むようになった。
そして部署設立から三年目に入った現在、事業はどうにか継続している。ただ相変わらず正規の調査員は結城のみで、見習いの神崎は雑務などのサポートをこなす程度。そして結城自身も、依頼がない時は、他の調査員の手伝いに回っている有様である。
佐伯は、近いうちに人員を増やすと強気に話しているが、依頼数が大幅に伸びない限り、部署の規模拡大は難しそうだ。
(再就職先を間違えたかな――)
最近はそんな後悔が頭をよぎるようになった結城であったが、今はとにかく目の前にある仕事に全力で取り組むしかないと、己を奮起させる毎日であった。
3
約束の時間が来たので、結城が応接室に入ると、すでに佐伯と依頼人が向かい合って座り、談笑していた。
「結城君。こちら、今回の依頼人である村中さんだ」
「村中仁と言います。どうぞよろしく」
「初めまして、結城杏子と申します」
結城と握手を交わすべく、ソファから立ち上がった男は、白のワイシャツとグレーのズボン姿で、日焼けした笑顔が好ましい印象を与える、初老の小柄な紳士であった。
「村中さんは元自衛官でね。去年、定年退職されて、今は実家の町工場を継いで、社長をしていらっしゃるんだ」
結城が席に座ると、隣にいる佐伯が紹介を続けた。
「自衛隊は定年が早いものでしてね。悠々自適な年金生活というわけにもいきませんので、働かざるを得んのですよ」
村中は笑いながら答えた。
改めて見ると、村中は小柄ではあるがガッシリとした体格で、二の腕の筋力も強そうだ。日焼けは長年の野外任務の賜物だろう。現場で鍛え抜かれた、たたき上げの自衛官であったことが伺えた。
「本日のご依頼は、人捜し…それもフランスでと伺いましたが、改めてお話を聞かせて頂けますか?」
結城は手元の依頼書に目を通して尋ねた。
通常、探偵社は顧客の依頼内容を電話やインターネットなどを通じて事前にヒアリングし、その後、本人と面談を行って、調査事項を確認した後に見積もりと契約へ移行する。
だが、佐伯探偵事務所海外調査部では、所長である佐伯自らが営業して依頼を獲得してくるケースが多い。さらに佐伯は、せっかくのチャンスを逃すまいと依頼人との初回接触時に見積もりや契約を済ませてしまうため、調査を担当する結城本人が直前まで依頼内容を知らされないことも、ままあるのである。
今回も、佐伯から依頼書を受け取ったのは面会の一時間前であった。
「捜して頂きたいのは、金村純良という日本人で…私の自衛官時代の同僚なのです」
村中は上着のポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。写真には、自衛官の制服を身にまとった村中と一緒に、同じく日焼けした、背が高く彫りの深い顔立ちの男が笑顔で写っている。これが金村だろう。
「私も金村さんも、現役時代は海上自衛隊の船乗りでしてね。彼のほうが五年ほど先輩で、質実剛健と言いますか、非常に真面目な男でした。よく同じ護衛艦で任務に当たったんですが、まだ私が新米だった頃などは、彼から色々と厳しい指導を受けたものです」
「自衛隊は上下関係が徹底していると聞きますねえ。日和見な私など、三日と持ちそうにない職場環境ですな」
余計な感想を挟む佐伯を無視して、結城は先を続けた。
「その金村さんが、行方知れずになったと…しかもフランスで?」
村中が真剣な表情で頷く。
「金村さんは、母方のお祖母様がフランス人でしてね。まあ、孫であるご本人はこの写真の通り、クオーターにはおよそ見えないアジア人の風貌そのものなのですが…とにかく、お祖母様の母国には強い憧れがあったようです」
テーブルの上の写真に目を落としながら、村中は述懐した。
「自衛隊を定年退職した後、間もなく奥さんを病気で亡くされて…息子さんが一人おられるんですが、彼とは折り合いが悪く、何年も音信不通だそうです。それ以来、金村さんはずっと独り暮らしだったのですが…半年ほど前、突然、フランスに渡ったのです」
「渡った…というのは旅行か何かで?」
「いいえ、日本の自宅を処分しての、本格的な移住ですよ。かねてから余生をフランスで過ごしたいとおっしゃっていたので、それを実行に移したというわけです。私も最初に聞かされた時は驚きましたが、自衛官という激務の仕事から解放されたわけですし、奥様を失くされた悲しみを癒す意味でも、第二の人生を大いに楽しんで頂きたい。そんな気持ちで送り出しました。本人も、現地で新しいパートナーを見つけられればいいと冗談交じりに話していましたよ」
「それは…なかなか大胆な決断ですね。でもお気持ちは分かります」
結城は頷いた。
彼女の以前の職場だった警察も、自衛隊と同じく、厳しい階級・管理社会である。激務であることは言うに及ばす、規律と上司命令による重圧に常にさらされるため、感じる緊張とストレスは一般企業のそれより強いかもしれない。
退職後には心機一転して違う人生を歩もうと、東南アジアなどに移住した元上司や先輩の話を、結城も在職中に聞いたことがあった。
「向こうでは、パリで小さなアパートを借りて、旅行したり、現地生活を楽しんでおられたようです。自衛官時代からフランス語を独学で勉強されていたので、コミュニケーションは問題なく、翻訳の仕事もやっているとか。そういった近況話を、週に二、三回メールでやり取りしていたのですが…」
そこまで言うと、村中は一呼吸を置き、声のトーンを落とした。
「二週間ほど前から、彼の連絡がぱったりと止んでしまったのです。こちらからのメールにも、携帯電話にも出ませんでね」
「長期旅行に出られている、とかでは?」
佐伯が可能性を提示した。
「私もそれは考えたのですが、旅行中でも携帯は持っているでしょうし、それならメールか電話には出ると思います。旅先で携帯を無くしたとしても、ホテルやネットカフェからでも連絡はできるしょう。それすらしないということは、彼の身に何か緊急の事態が起きたとしか思えません。そう考えると、いてもたってもいられなくなりまして」
「金村さんの滞在先…アパートと仰いましたが、そこの大家さんに連絡はしてみましたか?」
結城が尋ねると、村中はやはり首を振った。
「大家の連絡先までは知りません。私が住所で把握しているのは、彼がパリのどの区に住んでいるかくらいです」
「うーん…」
佐伯が腕組みをしながら眉間にしわを寄せ、天を仰ぐような姿勢を取った。
「…そうなりますと、二週間という不在期間も、正直微妙ですな。突然思い立っての長期旅行と考えてもおかしくない日数です。今の時点で現地の警察や日本大使館に相談しても、積極的に取り合ってはもらえないでしょう」
「そう、そうなのです。実際、先方には連絡してみたのですが、ご指摘通りの対応をされましてね。代わりに探偵社に相談するよう勧められました。それで、知人に相談したところ、佐伯さんを紹介してもらったわけでして」
「それは適切なご判断だったと思いますよ」
結城が微笑んで相槌を打った。
邦人が海外で行方不明になった場合、家族や友人が捜し出す手段は大きく分けて、自前での捜索、日本大使館を通じての現地警察による捜索、外務省の所在調査、そして探偵社への依頼の四つがある。
このうち、自前での捜索は安全性や費用の面で効率的とは言い難い。従って、基本はまず、現地の日本大使館に連絡を取り、現地警察へ捜索依頼を出すための助言を請うことになる。ただ、警察による捜索は、最も手堅い方法ではあるが、実際に行われるかどうかは、当局者の判断に依ることが多く、確実性が高いとは言えない。
外務省の所在調査は、原則として、三親等内の親族と裁判所などの特定機関しか申請できず、さらに捜索対象者の音信が六カ月以上途絶えている場合に限られる。いずれにせよ、親族ではない村中は資格を持たない。
「緊急を要する場合は、探偵社への依頼が最も早くて確実な手段です。とりわけ当社の強みは国際探偵協会に加盟し、海外の探偵社と広範な協力ネットワークを築いている点にありまして」
佐伯がここぞとばかりアピールに熱を入れた。
「ほう、そのようなものがあるのですか」
村中が感心したような声を上げる。
国際探偵協会(The International Association of Detectives略称IAD)は各国の探偵業者により構成された国際組織であり、世界最大の探偵業団体で一九二五年に設立された。全世界六十カ国以上のうち七十都市のトップレベルの探偵社および調査会社約二千社が加盟しており、調査の相互協力や、業界の情報交換などを主な活動としている。
海外調査を主とする依頼の場合、国際探偵協会に所属しているか否かで、探偵の活動可能範囲や情報網に大きな差が生じるとされる。従って、協会の会員資格は、探偵社にとって大きな武器であり、顧客に対し大きな宣伝効果も期待できるのだ。
佐伯探偵社も、つい一年ほど前に念願の加盟を果たしたばかりで、これによって調査のスピードと効率性は、以前よりも目に見えて向上した。
「当社は調査員の数こそ他社に比べて劣りますが、IADのネットワークを最大限に活用して、海外の探偵と連携して調査に当たることで、依頼の高い達成率を実現しているのです」
「なるほど、それは頼もしいですなあ。それに加えて、御社には結城さんという特別な人材がいらっしゃる。いや、やはりこちらにご相談してよかったと思いますよ」
(――またこの展開なのね)
村中の発言に、溜息をついた結城は隣に座っている佐伯をチラリとにらんだが、当の本人は結城から目をそらし、気まずそうな顔であさっての方向を見ている。
「いや、佐伯さんから伺っておりますよ。結城さんの御父上は国際刑事警察機構(インターポール)の長官を務めてらっしゃるそうじゃありませんか。いわば国際警察のトップなのでしょう? そんな方のご息女が私の依頼を引き受けてくださるなら、これほど心強いものはありませんな」
嬉々として話す村中とは対照的に、結城は困り顔になりながら、誤解を解くべく説明を始めた。
「村中さん、確かに私の父はインターポールに勤めていますが、その事と私の調査員としての業務はまったく関係ないですし、私の仕事に父が協力することはありません。そもそもインターポールは警察というわけではなく、事件の捜査権もないんですよ」
「え、そうなのですか?」
驚いた村中は口をぽかんとしている。
国際刑事警察機構、通称インターポールは、世界百八十以上の国・地域の警察機関が加盟する国際組織である。その目的は、各国刑事警察の相互協力と充実発展、並びに国際犯罪事件の防止にあり、日本国警察も一九五二年から加盟している。
よく映画や小説などでは、国をまたいで捜査を展開する国際警察のような描写をされることが多いが、実際は各国警察をつなぐ連絡機関のような組織であり、捜査権も逮捕権も持っていない。その主な業務は国際犯罪に関する情報の収集および提供にある。
結城杏子の父、結城道正は、もともと日本の警察庁のキャリア組であった。三十八歳の時に、リヨンにあるインターポール本部に出向し、三年間、当局職員としてキャリアを積んだ。
帰国後も順調に出世を重ね、四十八歳の時に国家公安委員会の機関である警察庁長官官房で審議官となった。
そして三年前、長年の実績を評価された道正は、日本人として初めて、インターポールの長官職に当たる事務総長に抜擢され、現在に至っている。
ところで、結城は佐伯探偵事務所に就職した際、道正のことについては一切、佐伯に話さなかった。そもそも親子仲は良くなかったうえ、親の七光りと思われて、自身の能力を疑われたくなかったのである。退職した原因に、道正が関係しているということもなかった。
だが、どこで嗅ぎつけたのか、入社して半年が経った頃に、佐伯は道正の存在を知り、こともあろうに結城の神経を逆なでするような提案をした。
「結城君。ここはひとつ、お父上の名前を拝借する形で、依頼受注のための宣伝に協力してもらえないかね」
当然、結城は断固として拒否した。それこそ親の七光りであるし、安易に道正の名前を使われれば、『インターポールが協力してくれる』という誤解を依頼人に与えてしまう。何より、父親に対して余計な借りを作ってしまうようで、結城自身が納得できなかった。
だから折に触れて、佐伯には父の名を利用せぬよう念を押していたのだが、我らが所長の商売熱を抑え込むことはできなかったらしい。昨年あたりから、『インターポール長官を父に持つ、元エリート警察官』という結城の肩書を営業トークに組み込むことで、依頼人を獲得するケースが最近増えてきている。
実際、そのおかげで依頼数が安定し、海外調査部の存続に一役買っていることも事実だった。なので結城としても甚だ不本意ではあるが、背に腹は代えられず今では黙認するしかない状況となっている。
これは決して自分から発案したわけではなく、上司が勝手にやっていることだから――と己に言い聞かせることで平常心を保っているが、やはり父に迷惑をかけていることには変わりなく、その負い目が、本人に会いづらい原因の一つにもなっているのだ。
佐伯探偵事務所に転職してからは連絡もしていないので、この事を道正が知っているかは定かではないが、結城としては、この不名誉な肩書をさっさと外してしまいたい。そのためには、目の前の依頼を一つでも多くこなし、事務所の実績と評判を上げていくしかない。
結城は自信に満ちた表情を浮かべ、村中に説明を続けた。
「ですが、父の件に関係なく、私は自分の調査能力に自信があります。前職が警察庁でしたので、捜査のノウハウもそれなりにありますし、英語・フランス語もある程度はしゃべれますから、現地での行動にも制約はありません」
「なるほど、そうですか。それなら安心ですな。では、お引き受け頂けるということでよろしいのでしょうか?」
「はい、もちろんです。我々にお任せください。具体的な調査方法、日程、料金につきましては、正式にお見積りした上で一両日中にご連絡いたしますので」
そう答えたのは結城ではなく、佐伯だった。依頼が決まり、嬉しげな所長を横目に、結城は気になっていたことを村中に尋ねた。
「あの…ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「率直に申し上げて、海外調査というのは、それなりの費用がかかります。ですからほとんどの場合、依頼に来るのは調査対象者の家族や恋人などのごく親しい人間で、村中さんのようにご友人が依頼主というのは、かなり珍しいことです。こう言っては失礼ですが、単に職場で世話になった元先輩というだけの間柄であるにもかかわらず、身銭を切ってまで捜索を申し出るのには、何か他に理由があるようにお見受けしたのですが」
「ああ、なるほど。いや、別に隠すつもりはなかったのですがね…」
村中は少し照れたように後頭部をポリポリとかいた。
「金村さんには現役時代、一度命を救ってもらったことがあるのですよ」
「命をですか?」
「ええ、あれは練習航海の時でしたが、私が掃海艇の甲板上で作業していた際、誤って海に転落したことがありましてね。その時、真っ先に気づいて、救助作業に取り掛かってくれたのが金村さんだったのです。彼の迅速な行動がなければ、私は溺死したか、サメの餌食になっていたかもしれません」
その時の光景を思い出しているのか、村中は遠くを見つめるような表情を浮かべた。
「あの事故以来、いつか金村さんには、この恩を返したいと思っていました。それがこんな形になったのは残念ですが…彼が今、窮状に瀕しているのなら、何としても力になりたいのです。そのためなら多少の労苦は惜しみませんよ」
真摯な眼差しを向けて話す村中の言葉に、結城は爽やかな感動を覚えた。『困難な時に手を差し伸べてくれる者が真の友人』という諺があるが、そのために身銭まで切れる人間は、現実には多くない。少なくとも結城は、そのような依頼人を今まで目にしたことはなかった。
長く心に留めていた恩を忘れず、返すべき時に実行できる村中の義理堅い人柄は、見ていて胸がすくような清涼さを感じさせる。そして、彼にそこまでさせる金村という人物も、謹厳実直で面倒見の良い男なのだろう。
「分かりました。微力ながらお手伝いさせて頂きます」
結城は微笑みながら約束した。
だがこの時、頭の片隅に暗い予感が芽生えてゆくのを結城は感じ取っていた。
元警察官として、そして探偵として様々な事件を扱ってきた自分の勘が告げてくるのだ。
――この依頼には、悲しい結末が待っていると。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
踏み台(王女)にも事情はある
mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。
聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。
王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
(完結)姑が勝手に連れてきた第二夫人が身籠ったようですが、夫は恐らく……
泉花ゆき
恋愛
蘭珠(ランジュ)が名門である凌家の嫡男、涼珩(リャンハン)に嫁いで一年ほど経ったころ。
一向に後継ぎが出来ないことに業を煮やした夫の母親は、どこからか第二夫人として一人の女性を屋敷へ連れてくる。
やがてその女が「子が出来た」と告げると、姑も夫も大喜び。
蘭珠の実家が商いで傾いたことを口実に、彼女には離縁が言い渡される。
……けれど、蘭珠は知っていた。
夫の涼珩が、「男女が同じ寝台で眠るだけで子ができる」と本気で信じているほど無知だということを。
どんなトラブルが待っているか分からないし、離縁は望むところ。
嫁ぐ時に用意した大量の持参金は、もちろん引き上げさせていただきます。
※ゆるゆる設定です
※以前上げていた作の設定、展開を改稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる