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奴隷商人のスパルタ授業
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「えぐっ、うぐっ、ぐっ……!」
「アラタ、いい加減に泣き止みなさい」
フィルを突き飛ばしてしまった。
悔やんでも悔やみきれない行動が悔しかったのと、やっぱりなによりフィルに口づけされたことに気が動転したのとで、新太は自分の部屋に引きこもるなり一昼夜ずっと泣き続けている。
一人部屋なのは幸いだった。もしこれが他に同居人のいる状態だったら、新太はきっと今頃部屋から追い出されていたに違いないのだから。
マスターキーを使って堂々と部屋へ侵入してきたバレットは、新太が泣いているのを見るとしばらくはそのままでいさせてくれたが、半時も経つとさすがに溜め息を零した。
今はベッドに突っ伏したまま泣きじゃくっている新太のそばに腰掛け、ポンポンと優しく背中を撫でてくれている。
昔従兄弟に泣かされたとき、大好きだったお爺ちゃんがこうやって慰めてくれたな――と懐かしい記憶が蘇ってきて新太の目にはまた涙が浮かんだ。
そこからまた小一時間ほど泣いた後、新太の呼吸がようやく落ち着いてきた。
「バレッドざん、ずびばぜん……」
「ほら、鼻をかんで」
ヂーンと汚い音が部屋に響いたが、鼻と一緒に新太の心も少しばかりすっきりした。ちり紙をゴミ箱に投げ捨てながら、バレットが差し出してくれた水を新太はごくごくと飲み干す。
乾ききった体に水の一滴一滴がしみこんでいくような感覚がして、そこでようやく自分が昨日から何も飲まず食わずで泣き続けていたということに思い至った。
「フィル様から話は聞きました。皇太子殿下とチェス勝負なんて、随分と無謀な賭に出ましたね」
フィル様――という一番恋しい、でも今は一番聞きたくない名前が出て新太の胸がずきりと痛む。
しかしこうなったのは自分のせいだ。
勝手に勝負を受けた新太にフィルが怒ったのは当然と言えば当然のことだし、自分を心配してくれた彼を突き飛ばしてしまった自分にフィルのことを恋しく思う資格はない。
きっとバレットだって同じ事を言うだろう。そう思って隣にいる老紳士をおずおずと見上げると、彼はいつも通り優しい表情を浮かべたままどこか遠くを見つめていた。
「それにフィル様を突き飛ばすなんて。まったく――よくやりました!」
「へっ?」
「よくもやってくれたな」と言われるかと思っていたら、バレットの口から出た言葉はそれとは真逆の賞賛の言葉だった。新太やフィルとは違い、そう簡単には表に感情を出さないはずのバレットが珍しく爛々と瞳を輝かせて新太の両肩をがしっと掴む。
この御仁にも感情ってあったんだな――とやや場違いなことを考えながら、新太はバレットのことを見つめ返した。
「たまにはあの我が儘お坊ちゃまも痛い目を見るべきです! アラタの思い切りの良さは心配することもありましたが、今回ばかりは成功であると言って良いでしょう。褒めてあげます!」
「ありがとうございます……?」
素直に賛辞を受け入れて良いのか分からず、首を傾げたまま新太は答える。
バレットはそこでようやく興奮した自分の姿に気が付いたのか、わざとらしく小さな咳払いをしてから落ち着いた表情を浮かべた。
「とは言え、無謀な賭については褒められたものではありませんけどね。あなたチェスの知識は?」
「あります。俺がいた国には将棋というゲームがあるんですが、チェスに似たルールなので少し囓りました」
将棋はそれこそ小さい頃、将棋好きだった祖父に付き合って何度も何度も勝負をしたものだ。子ども相手でも絶対に手加減をしてくれない祖父に負けるのが悔しくて、勉強そっちのけで詰め将棋の本と睨めっこした。
チェスをやるようになったのは、高校時代に廃部寸前のボードゲーム部に所属してから。顧問の老教諭がチェス好きだったことから、年に数度チェスと将棋の複合トーナメント戦というなんとも珍妙な大会を催して遊んだこともある。
将棋の方が得意だった新太はいつもことごとく老教諭にチェスで惨敗したが、それでもそこで学んだチェスの知識は今でも記憶の中にある。
そんな昔話を掻い摘まんでバレットへ説明すると、彼は興味深くその話に聞き入った後でぽんと自分の膝を拳で叩いた。
「アラタ、この家から出て行きなさい!」
突然の老紳士の一言に、新太の頭が真っ白になる。とうとうクビを宣告される日が来た。
かすかな記憶が蘇り、ああそう言えばここに来たときもこの老紳士の一言に放心状態にさせられたことがあったっけな――と新太は真っ白になった頭の片隅で考えていた。
だが、バレットはとんでもなく落ち込んでしまった新太の様子を見て慌てたように肩を掴み、前後左右にガクガクと揺さぶって新太の意識を戻そうとしてくる。
「アラタ、違いますよ! そういう意味じゃありません!」
「……じゃあ、どういう意味ですか……?」
不安げな表情を隠しもせずに新太が尋ねると、バレットは「すみません、言葉足らずでした」と小さく呟いてからその先を続けた。
「しばらくこの屋敷から離れて、チェスの特訓をしてきなさいという意味です」
解雇通告でなかったことに安堵しつつも、新太はバレットの申し出にどう反応したら良いか分からなかった。チェスの特訓なんて一体どこでやったらいいんだ――と途方に暮れてしまう。
バレットは新太のそんな心中を察したのか、コホンと咳払いをした後で告げた。
「私の知り合いにチェスの名人がいます。彼の技術をすべて盗んでこい――というのはなかなか難しいでしょうが、殿下相手にある程度立ち回れるくらいには上達して帰ってらっしゃい」
バレットはそう言うと立ち上がり、新太のベッドの下からトランクケースを取り出す。そして新太の返事も待たぬままに、そのケースの中へ新太の着替えやら日常の生活道具やらをポコポコと詰め込んでいった。
新太が我に返る頃には出かける準備がすっかり整っており、あれよあれよという間に新太はフィルの前に引きずり出される。
「フィル様、お暇をいただきたく存じます」
バレットに「そう言うように」と指示された言葉を、一言一句違わずフィルへ伝えると綺麗な眉根の間に薄らと皺が寄った。
ああ、またフィルを怒らせてしまった――。
その事実に泣きそうになるが、唇の端を嚙むことで今度こそ涙は堪える。
バレットからきつく言われているのだ、チェス特訓のことをフィルには決して伝えるなと。そしてそのためには、フィルへの未練を表情に滲ませてはいけないと。
黙って頷いたフィルの姿を見届けた後、新太は深々とお辞儀をしてフィルの前から立ち去った。
もしかするとこれが今生の別れになるかもしれない。そう覚悟しながらも、やはり引くわけにはいかないと感じている自分がいる。
どうしたって新太はフィルを守りたい。そのために鬼にならなければならないときがあるとすれば、それは間違いなく今だ――!
新太はぐっとトランクケースの取っ手を握り込みながら、強く決心した。
* * *
さて、そんなこんなで新太がバレットに連れてこられた特訓先。それは新太にも十分に見覚えがあるところだった。
「バレットさん、ここって――」
「ええ。奴隷商人の倉庫ですよ」
事もなさげにさらりと言ってのけたバレット。あんぐりと口を開けたまま倉庫を見上げている新太を無視し、ツカツカと靴音を高く鳴らしながら先へ進んでいった。
慌ててその後ろ姿を追うと、急に立ち止まったバレットの背中へ新太はしたたかに顔面を打ち付けてしまう。
バレットの前には誰かいるようだった。新太に追突されたことも気にせず、バレットはその人物に深々とお辞儀をする。
「親方殿。ご無沙汰しております」
「おう、執事さんその節はどうも――って、お前あんときの異世界人じゃねぇか!? まさか返品ですかい!?」
バレットが挨拶をした相手――それは新太もよく知る人物だった。新太を漁師から買い付けた奴隷商人の親方だ。
バレットの後ろにいた新太の姿を認めた親方は、新太以上の驚きっぷりで目を丸くしている。
バレットは彼のそんな反応も計算のうちだったのか、涼しげな表情を崩さないまま首を横に振った。
「いえいえ、本日は別件のお願いですよ。あなたの腕を見込んで彼を仕込んで欲しいのです」
「俺がかい? 自分で言うのもなんだが俺は厳しいぞ?」
「ええ、むしろそれが良い」
しばらくの間信じられないといった表情でバレットと新太を見比べていた親方だったが、バレットが札束を彼に手渡すとすぐに表情が明るいものへと変わった。
やっぱり売り渡されてしまうんじゃないか――と新太は焦る。
「こんなにいただけるんだったら頑張るしかないな! よーし坊主、着いてこい!!」
親方に引きずられるようにして向かった先はかつて転がされていた奴隷の待機場所――などではなく、事務所として使っている古びた一軒家の一室。
机の上には一組のチェスボードがある。このみすぼらしい部屋に見合わない、やけに豪華なチェスボードだった。
「まさか、チェスの特訓をしてくれるのって――」
「ああ、俺だよ! 今はしがない奴隷商人だけどな、こう見えて昔はチェスのチャンピオンだったんだ!」
まあ、アマチュアのだけどよ――と照れくさそうに笑った親方はそう言うと、そそくさとチェスの準備を始めた。
「とりあえず一戦やろうぜ!」
――と言うので対戦してみたが、結論から言うと負けた。それはもうボロボロに負けた。相当な実力者なのだろう、新太の高校の老教諭よりもずっとずっと強そうだ。
試合を終えて楽しそうにしている親方は「お前さん筋は悪くねぇぞ」と言って、新太の肩をボスンと叩いた。
* * *
連れてこられたその日から、新太はチェス漬けの毎日をが始まった。
親方が商人の仕事で席を離れるとき以外は休む暇なしのチェスバトル。親方が席を離れるときも詰め将棋ならぬ詰めチェスの課題を与えられ、それを粛々と解く毎日を送る。
そんな生活が十日以上も続けば、新太のチェスの実力も少しばかりは向上した。とは言え、相手は元アマチュアチャンピオンなので未だに快勝は得られていない。
この日も親方とのチェス勝負に興じていたら、親方が不意に真剣な表情をして新太へ尋ねた。
「お前さん、なんだってこんな真剣になってチェスの勉強をせにゃならんのだ?」
「――大事なものを賭けて勝負しなくてはいけないんです」
バレットから詳細は伏せるように言われているので、新太は言える事実だけを口にした。
大事なフィル様の自由を賭けて皇太子殿下と勝負をします――という言葉は己の胸の中だけで唱える。
新太の黒い瞳がさらに黒さを増し重く淀んだことに、新太自身は気が付いていない。しかしそれに気が付いた親方は新太の心中を見極めたらしく、「そうか」と深い溜め息とともに呟いた。
「なぁ、アラタ。お前さん、チェスで一番大事な駒は何だと思う?」
「キングです」
将棋が王将を取り合うゲームなら、チェスはキングを取り合うゲームだ。一番大事な駒が何かなんて聞くまでもない。
しかし親方は新太の返答に首を横に振った。
「ゲームのルールを聞いてるんじゃねぇよ。ゲームの要、一番強い駒を聞いてるんだ」
「ああ、それならクイーンですよね」
縦横斜めを文字通り縦横無尽に行き来できるクイーンの駒。チェスにおいて最強の駒であると言える。
キングと同様に一駒しかない貴重な駒だが、その駒が一つあるとないとでは戦略の自由度に大きな違いが出た。
「俺はな、チェスをしているときに自分に課してるルールがあるんだ。なんだかわかるか?」
「いえ……」
「絶対にクイーンを取られないってルールだよ」
ニヤリと笑った親方はそう言うと盤面に手を伸ばし、クイーンの駒で新太のキングにチェックをかける。
新太はキングを前進することで、どうにかチェックを回避した。
「もちろん、クイーンが取られたって勝つ方法は五万とある。でもよ、もしキングを自分に例えるならクイーンは俺の一番大事なもんになるだろ?」
俺の場合は女房だけどよ――と笑うので、新太はちょっと面食らってしまう。まさか奴隷商人なんていう人の倫理に反する行いをする人間が、一番大事なものとして妻を挙げるとは思ってもみなかった。
新太の失礼な反応に気が付かないふりをして、親方はさらに駒を進めた。親方のビショップが新太のポーンを奪っていく。
「女房奪われるなんて、悔しいだろ? だから俺は、クイーンは絶対取らせないって自分に言い聞かせてんだ」
「――それは俺にも分かるような気がします」
もしも自分がキングなら、新太の場合のクイーンは間違いなくフィルだ。そして敵のキングはランドルフ。
自分がクイーンだなんて嫌だ、俺はキングだ――なんてフィルは言うかもしれないが、多分新太とランドルフの間では見解が一致している気がする。
そしてクイーンが取られることは新太も嫌だった。
「親方、そのルールは俺も真似した方が良いですか?」
「知らねぇよ、お前がどうしたいかで決めろ。ただな、一つだけアドバイスしてやる」
「はい」
「ポーンの一手を進めるにしても、必ずそこには信念を持て――! 大事なもんが掛かってる試合ならなおさらな!」
気が付いたときには、親方のポーンが新太のキングの行く手を阻んでいた。「チェックメイトだ!」と高らかにバトル終了を宣言され、新太は敗北を認めざるを得ない。
また負けてしまった――が、新太の瞳の奥には今までとは違う灯火が光っている。
「親方、次は取ります!」
「っ――! おう、掛かってこい!」
新太の目つきが一段と鋭いものに変わった。物陰に潜んだ小動物が自分より大きな獣に牙を剥くときのような、研ぎ澄まされた緊迫感が黒い瞳にありありと浮かぶ。
親方が「随分と良い顔つきになりやがって――」と誰に聞かせるわけでもなく呟いた言葉も、次の戦いに向けて駒を並べ直している新太の耳には届かない。
ただ新太の心の中には一つの思いが芽生えていた。
(俺はチェスで必ず皇太子に勝つ! 勝って必ずフィル様に――。)
ニヤリと悪い顔でほくそ笑む親方を相手に、新太は再びポーンを前進させた。
「アラタ、いい加減に泣き止みなさい」
フィルを突き飛ばしてしまった。
悔やんでも悔やみきれない行動が悔しかったのと、やっぱりなによりフィルに口づけされたことに気が動転したのとで、新太は自分の部屋に引きこもるなり一昼夜ずっと泣き続けている。
一人部屋なのは幸いだった。もしこれが他に同居人のいる状態だったら、新太はきっと今頃部屋から追い出されていたに違いないのだから。
マスターキーを使って堂々と部屋へ侵入してきたバレットは、新太が泣いているのを見るとしばらくはそのままでいさせてくれたが、半時も経つとさすがに溜め息を零した。
今はベッドに突っ伏したまま泣きじゃくっている新太のそばに腰掛け、ポンポンと優しく背中を撫でてくれている。
昔従兄弟に泣かされたとき、大好きだったお爺ちゃんがこうやって慰めてくれたな――と懐かしい記憶が蘇ってきて新太の目にはまた涙が浮かんだ。
そこからまた小一時間ほど泣いた後、新太の呼吸がようやく落ち着いてきた。
「バレッドざん、ずびばぜん……」
「ほら、鼻をかんで」
ヂーンと汚い音が部屋に響いたが、鼻と一緒に新太の心も少しばかりすっきりした。ちり紙をゴミ箱に投げ捨てながら、バレットが差し出してくれた水を新太はごくごくと飲み干す。
乾ききった体に水の一滴一滴がしみこんでいくような感覚がして、そこでようやく自分が昨日から何も飲まず食わずで泣き続けていたということに思い至った。
「フィル様から話は聞きました。皇太子殿下とチェス勝負なんて、随分と無謀な賭に出ましたね」
フィル様――という一番恋しい、でも今は一番聞きたくない名前が出て新太の胸がずきりと痛む。
しかしこうなったのは自分のせいだ。
勝手に勝負を受けた新太にフィルが怒ったのは当然と言えば当然のことだし、自分を心配してくれた彼を突き飛ばしてしまった自分にフィルのことを恋しく思う資格はない。
きっとバレットだって同じ事を言うだろう。そう思って隣にいる老紳士をおずおずと見上げると、彼はいつも通り優しい表情を浮かべたままどこか遠くを見つめていた。
「それにフィル様を突き飛ばすなんて。まったく――よくやりました!」
「へっ?」
「よくもやってくれたな」と言われるかと思っていたら、バレットの口から出た言葉はそれとは真逆の賞賛の言葉だった。新太やフィルとは違い、そう簡単には表に感情を出さないはずのバレットが珍しく爛々と瞳を輝かせて新太の両肩をがしっと掴む。
この御仁にも感情ってあったんだな――とやや場違いなことを考えながら、新太はバレットのことを見つめ返した。
「たまにはあの我が儘お坊ちゃまも痛い目を見るべきです! アラタの思い切りの良さは心配することもありましたが、今回ばかりは成功であると言って良いでしょう。褒めてあげます!」
「ありがとうございます……?」
素直に賛辞を受け入れて良いのか分からず、首を傾げたまま新太は答える。
バレットはそこでようやく興奮した自分の姿に気が付いたのか、わざとらしく小さな咳払いをしてから落ち着いた表情を浮かべた。
「とは言え、無謀な賭については褒められたものではありませんけどね。あなたチェスの知識は?」
「あります。俺がいた国には将棋というゲームがあるんですが、チェスに似たルールなので少し囓りました」
将棋はそれこそ小さい頃、将棋好きだった祖父に付き合って何度も何度も勝負をしたものだ。子ども相手でも絶対に手加減をしてくれない祖父に負けるのが悔しくて、勉強そっちのけで詰め将棋の本と睨めっこした。
チェスをやるようになったのは、高校時代に廃部寸前のボードゲーム部に所属してから。顧問の老教諭がチェス好きだったことから、年に数度チェスと将棋の複合トーナメント戦というなんとも珍妙な大会を催して遊んだこともある。
将棋の方が得意だった新太はいつもことごとく老教諭にチェスで惨敗したが、それでもそこで学んだチェスの知識は今でも記憶の中にある。
そんな昔話を掻い摘まんでバレットへ説明すると、彼は興味深くその話に聞き入った後でぽんと自分の膝を拳で叩いた。
「アラタ、この家から出て行きなさい!」
突然の老紳士の一言に、新太の頭が真っ白になる。とうとうクビを宣告される日が来た。
かすかな記憶が蘇り、ああそう言えばここに来たときもこの老紳士の一言に放心状態にさせられたことがあったっけな――と新太は真っ白になった頭の片隅で考えていた。
だが、バレットはとんでもなく落ち込んでしまった新太の様子を見て慌てたように肩を掴み、前後左右にガクガクと揺さぶって新太の意識を戻そうとしてくる。
「アラタ、違いますよ! そういう意味じゃありません!」
「……じゃあ、どういう意味ですか……?」
不安げな表情を隠しもせずに新太が尋ねると、バレットは「すみません、言葉足らずでした」と小さく呟いてからその先を続けた。
「しばらくこの屋敷から離れて、チェスの特訓をしてきなさいという意味です」
解雇通告でなかったことに安堵しつつも、新太はバレットの申し出にどう反応したら良いか分からなかった。チェスの特訓なんて一体どこでやったらいいんだ――と途方に暮れてしまう。
バレットは新太のそんな心中を察したのか、コホンと咳払いをした後で告げた。
「私の知り合いにチェスの名人がいます。彼の技術をすべて盗んでこい――というのはなかなか難しいでしょうが、殿下相手にある程度立ち回れるくらいには上達して帰ってらっしゃい」
バレットはそう言うと立ち上がり、新太のベッドの下からトランクケースを取り出す。そして新太の返事も待たぬままに、そのケースの中へ新太の着替えやら日常の生活道具やらをポコポコと詰め込んでいった。
新太が我に返る頃には出かける準備がすっかり整っており、あれよあれよという間に新太はフィルの前に引きずり出される。
「フィル様、お暇をいただきたく存じます」
バレットに「そう言うように」と指示された言葉を、一言一句違わずフィルへ伝えると綺麗な眉根の間に薄らと皺が寄った。
ああ、またフィルを怒らせてしまった――。
その事実に泣きそうになるが、唇の端を嚙むことで今度こそ涙は堪える。
バレットからきつく言われているのだ、チェス特訓のことをフィルには決して伝えるなと。そしてそのためには、フィルへの未練を表情に滲ませてはいけないと。
黙って頷いたフィルの姿を見届けた後、新太は深々とお辞儀をしてフィルの前から立ち去った。
もしかするとこれが今生の別れになるかもしれない。そう覚悟しながらも、やはり引くわけにはいかないと感じている自分がいる。
どうしたって新太はフィルを守りたい。そのために鬼にならなければならないときがあるとすれば、それは間違いなく今だ――!
新太はぐっとトランクケースの取っ手を握り込みながら、強く決心した。
* * *
さて、そんなこんなで新太がバレットに連れてこられた特訓先。それは新太にも十分に見覚えがあるところだった。
「バレットさん、ここって――」
「ええ。奴隷商人の倉庫ですよ」
事もなさげにさらりと言ってのけたバレット。あんぐりと口を開けたまま倉庫を見上げている新太を無視し、ツカツカと靴音を高く鳴らしながら先へ進んでいった。
慌ててその後ろ姿を追うと、急に立ち止まったバレットの背中へ新太はしたたかに顔面を打ち付けてしまう。
バレットの前には誰かいるようだった。新太に追突されたことも気にせず、バレットはその人物に深々とお辞儀をする。
「親方殿。ご無沙汰しております」
「おう、執事さんその節はどうも――って、お前あんときの異世界人じゃねぇか!? まさか返品ですかい!?」
バレットが挨拶をした相手――それは新太もよく知る人物だった。新太を漁師から買い付けた奴隷商人の親方だ。
バレットの後ろにいた新太の姿を認めた親方は、新太以上の驚きっぷりで目を丸くしている。
バレットは彼のそんな反応も計算のうちだったのか、涼しげな表情を崩さないまま首を横に振った。
「いえいえ、本日は別件のお願いですよ。あなたの腕を見込んで彼を仕込んで欲しいのです」
「俺がかい? 自分で言うのもなんだが俺は厳しいぞ?」
「ええ、むしろそれが良い」
しばらくの間信じられないといった表情でバレットと新太を見比べていた親方だったが、バレットが札束を彼に手渡すとすぐに表情が明るいものへと変わった。
やっぱり売り渡されてしまうんじゃないか――と新太は焦る。
「こんなにいただけるんだったら頑張るしかないな! よーし坊主、着いてこい!!」
親方に引きずられるようにして向かった先はかつて転がされていた奴隷の待機場所――などではなく、事務所として使っている古びた一軒家の一室。
机の上には一組のチェスボードがある。このみすぼらしい部屋に見合わない、やけに豪華なチェスボードだった。
「まさか、チェスの特訓をしてくれるのって――」
「ああ、俺だよ! 今はしがない奴隷商人だけどな、こう見えて昔はチェスのチャンピオンだったんだ!」
まあ、アマチュアのだけどよ――と照れくさそうに笑った親方はそう言うと、そそくさとチェスの準備を始めた。
「とりあえず一戦やろうぜ!」
――と言うので対戦してみたが、結論から言うと負けた。それはもうボロボロに負けた。相当な実力者なのだろう、新太の高校の老教諭よりもずっとずっと強そうだ。
試合を終えて楽しそうにしている親方は「お前さん筋は悪くねぇぞ」と言って、新太の肩をボスンと叩いた。
* * *
連れてこられたその日から、新太はチェス漬けの毎日をが始まった。
親方が商人の仕事で席を離れるとき以外は休む暇なしのチェスバトル。親方が席を離れるときも詰め将棋ならぬ詰めチェスの課題を与えられ、それを粛々と解く毎日を送る。
そんな生活が十日以上も続けば、新太のチェスの実力も少しばかりは向上した。とは言え、相手は元アマチュアチャンピオンなので未だに快勝は得られていない。
この日も親方とのチェス勝負に興じていたら、親方が不意に真剣な表情をして新太へ尋ねた。
「お前さん、なんだってこんな真剣になってチェスの勉強をせにゃならんのだ?」
「――大事なものを賭けて勝負しなくてはいけないんです」
バレットから詳細は伏せるように言われているので、新太は言える事実だけを口にした。
大事なフィル様の自由を賭けて皇太子殿下と勝負をします――という言葉は己の胸の中だけで唱える。
新太の黒い瞳がさらに黒さを増し重く淀んだことに、新太自身は気が付いていない。しかしそれに気が付いた親方は新太の心中を見極めたらしく、「そうか」と深い溜め息とともに呟いた。
「なぁ、アラタ。お前さん、チェスで一番大事な駒は何だと思う?」
「キングです」
将棋が王将を取り合うゲームなら、チェスはキングを取り合うゲームだ。一番大事な駒が何かなんて聞くまでもない。
しかし親方は新太の返答に首を横に振った。
「ゲームのルールを聞いてるんじゃねぇよ。ゲームの要、一番強い駒を聞いてるんだ」
「ああ、それならクイーンですよね」
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キングと同様に一駒しかない貴重な駒だが、その駒が一つあるとないとでは戦略の自由度に大きな違いが出た。
「俺はな、チェスをしているときに自分に課してるルールがあるんだ。なんだかわかるか?」
「いえ……」
「絶対にクイーンを取られないってルールだよ」
ニヤリと笑った親方はそう言うと盤面に手を伸ばし、クイーンの駒で新太のキングにチェックをかける。
新太はキングを前進することで、どうにかチェックを回避した。
「もちろん、クイーンが取られたって勝つ方法は五万とある。でもよ、もしキングを自分に例えるならクイーンは俺の一番大事なもんになるだろ?」
俺の場合は女房だけどよ――と笑うので、新太はちょっと面食らってしまう。まさか奴隷商人なんていう人の倫理に反する行いをする人間が、一番大事なものとして妻を挙げるとは思ってもみなかった。
新太の失礼な反応に気が付かないふりをして、親方はさらに駒を進めた。親方のビショップが新太のポーンを奪っていく。
「女房奪われるなんて、悔しいだろ? だから俺は、クイーンは絶対取らせないって自分に言い聞かせてんだ」
「――それは俺にも分かるような気がします」
もしも自分がキングなら、新太の場合のクイーンは間違いなくフィルだ。そして敵のキングはランドルフ。
自分がクイーンだなんて嫌だ、俺はキングだ――なんてフィルは言うかもしれないが、多分新太とランドルフの間では見解が一致している気がする。
そしてクイーンが取られることは新太も嫌だった。
「親方、そのルールは俺も真似した方が良いですか?」
「知らねぇよ、お前がどうしたいかで決めろ。ただな、一つだけアドバイスしてやる」
「はい」
「ポーンの一手を進めるにしても、必ずそこには信念を持て――! 大事なもんが掛かってる試合ならなおさらな!」
気が付いたときには、親方のポーンが新太のキングの行く手を阻んでいた。「チェックメイトだ!」と高らかにバトル終了を宣言され、新太は敗北を認めざるを得ない。
また負けてしまった――が、新太の瞳の奥には今までとは違う灯火が光っている。
「親方、次は取ります!」
「っ――! おう、掛かってこい!」
新太の目つきが一段と鋭いものに変わった。物陰に潜んだ小動物が自分より大きな獣に牙を剥くときのような、研ぎ澄まされた緊迫感が黒い瞳にありありと浮かぶ。
親方が「随分と良い顔つきになりやがって――」と誰に聞かせるわけでもなく呟いた言葉も、次の戦いに向けて駒を並べ直している新太の耳には届かない。
ただ新太の心の中には一つの思いが芽生えていた。
(俺はチェスで必ず皇太子に勝つ! 勝って必ずフィル様に――。)
ニヤリと悪い顔でほくそ笑む親方を相手に、新太は再びポーンを前進させた。
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仕事帰りにマンホールに落ちた森川 碧葉(もりかわ あおば)は、気付けばヌメヌメの触手生物に宙吊りにされていた。
「ちょっとそこのお兄さん! 助けて!」
通りすがりの銀髪美青年に助けを求めたことから、回らなくてもいい運命の歯車が回り始めてしまう。
異世界からきた聖女……ではなく聖者として、神聖力を目覚めさせるためにドラゴン討伐へと向かうことに。王様は胡散臭い。討伐仲間の騎士様たちはいい奴。そして触手生物には、愛されすぎて喘がされる日々。
どうしてこんなに触手生物に愛されるのか。ピィピィ鳴いて懐く触手が、ちょっと可愛い……?
更には国家的に深刻な問題まで起こってしまって……。異世界に来たなら悠々自適に過ごしたかったのに!
異色の触手と氷の(天然)騎士様に溺愛されすぎる生活が、今、始まる―――
※昔書いていたものを加筆修正して、小説家になろうサイト様にも上げているお話です。
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