侯爵令嬢(♂)はフットマンがお好き!?

累るい

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人生を賭けたチェス・ゲーム

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 それはどう見ても異様な光景だった。
 ダンスホールの中央には豪華な装飾が施された白いテーブルが置かれている。楕円形の天板から伸びる四つの足はまるで猫のようにしなやかな曲線を描き、丸みを帯びた先端がちょこんと床に接している。
 そのテーブルには揃いの椅子が二つ向かい合って置かれ、そこにはそれぞれ新太とランドルフが座っていた。
 テーブルの上にはこれまた豪華な装飾が施されたチェスボードが置かれており、それぞれの前に置かれた白と黒の駒もシャンデリアの光に照らされキラキラと光り輝いている。
 新太の前には象牙でできた白い駒が、ランドルフの前にはオブシディアンで作られた黒い駒が配置されていた。白い駒が先攻、黒い駒が後攻となる決まりだ。
 審判はオフィリアが務め、立会人として皇帝夫妻がその場を見守る。

「それでは駒を並べてください」

 オフィリアの指示の下、新太とランドルフの手が動き始めた。コトンコトンという規則的な音が両者から鳴り響き、一分もしない間に盤上には規定の駒が並ぶ。
 けれど新太は眉を顰めた。

「殿下、黒のクイーンが盤上にいないようですが?」

 見ればランドルフの手元には机に黒いクイーンの駒が一つ残っていた。

「アラタ、実は隠していたことがあります」
「はい?」
「僕の供回りにはチェスの名人がいるんです。そいつとよく試合をするお陰で、正直なところ僕の腕前は素人レベルとは言えない」

 ああそんな気はしていましたよ――とは、ラーディン侯爵以外のこの場にいる全員が考えたことだった。
 チラと横にいるフィルの表情を伺うと、ギリギリと奥歯を噛み締めながら今にもランドルフに噛み付きそうな表情をしている。
 新太はその光景にちょっと苦笑しつつ静かに頷いた。

「想定の範囲内です。それを言うなら俺だって、元の世界にいた頃にチェスと似たゲームをよくしていました。この数週間は特訓にも励みましたし、ずぶの素人というわけでもありません」
「そうですか。ですがこれは僕がそもそも仕掛けたゲームです。ハンデとして僕のクイーンはあらかじめ落とさせてください」

 頼んでいるようでありながら、それは宣言に近かった。ランドルフはそう言うや否や、まるで異論は認めないとでも言うかのように黒いクイーンの駒を床に放り投げる。
 大理石の床に落ちたその駒はパキンッと高い音を上げて砕け散った。

「それに僕たちの勝負は元々、オフィリア嬢という一人のクイーンを賭けて始まった。そうであるならば、この盤面には白いクイーンしかいらない。そうですよね、アラタ?」
「――後で吠え面かかないでくださいよ?」
「はははっ、もちろんです!」

 まるで親方のようなことを言うな――と内心苦笑しながらも、それを気取られないように新太は頷いた。
 優しく笑っているように見えるランドルフだが、眼鏡の奥に光る瞳は鋭く光っている。彼が臨戦態勢であることは新太にも容易に想像が付き、新太の背筋に思わず冷たい汗が流れた。

「ルールは公式ルールを採用します。相手のキングを先に奪った方がこの勝負の勝者です。勝者がアラタだった場合、わたくしと殿下の婚約は破棄に。勝者が殿下だった場合は――わたくしとアラタが殿下に嫁ぐ。それで宜しいですわね?」
「はい、構いません」
「承知いたしました」

 フィルの言葉にランドルフと新太が順番に頷く。
 その様子を周囲のギャラリーは固唾を飲んで見守っていた。
 事情はよく分からないが、皇太子殿下とあのゴシップ誌を騒がせたフットマンがオフィリア嬢を賭けてチェス勝負をするらしい。これは面白くなってきたぞ――というのが、このギャラリーたちの感想だろうか。
 見世物になっているのは若干気まずいが、今は目の前の敵だけに集中しようと、新太は己の頬を両手で打って気合いを入れる。
 ランドルフが一瞬呆気にとられたような表情をしたが、彼もまた視線を手元に落として深く呼吸をすると、再び鋭い視線を新太へ向けた。
 互いの視線が相対する。それは試合開始のゴングだった。

「試合開始!」

 フィルの高らかな宣言と共に試合が始まった。
 先手は新太。右手前にあるナイトを右斜め上へと進める。
 その動きにランドルフがニヤリと笑みを浮かべた。

「パリ・オープニングですか。随分と珍しい」

 チェスは先に盤面の中央を支配する者が有利となりやすいゲームだ。そのためにチェスにはオープニングと呼ばれるゲーム序盤における駒の動きの定石が複数ある。
 ある程度の実力者であれば、ゲームを有利に進めるためにこの定石を利用する者も多い。
 初心者の新太も親方から様々なオープニングを叩き込まれた。パリ・オープニングもその一つだ。

「親方――いえ、チェスの師匠にこれは使うなって言われたんです。マイナーな手筋だし、あまり上手なやり方とは言えないからと」
「それでも使った理由は?」
「あなたの実力を推し量るため。マイナーなオープニングまでご存じということは、あなたは相当の手練れだ」
「なるほど……。てっきり挑発のため――とでも言うのかと思いましたが、思いのほか冷静なようだ」

 納得したように頷きながらランドルフも駒を展開する。新太もその駒の動きに応じて自分の駒を前へ進めた。
 試合が始まる前はざわざわと騒がしかったはずのホール内も、今は水を打ったように静かだ。
 ランドルフの一方的な攻戦で終わるのではないかと誰もが予想していたが、意外にも新太は善戦しており、一進一退の攻防戦が繰り広げられている。
 痛いほどの静寂の中、淡々と進む試合展開を観衆も食い入るようにして見守っている。
 特に二人の一番そばを陣取っているフィルの入れ込みようは、他の観衆の比ではない。
 美しいビー玉を思わせるライトブルーの瞳がこぼれ落ちそうなほどまん丸に見開かれ、新太とランドルフの駒の動きを見落とすまいとでも言うように瞬きすらしなかった。

   * * *

 ある程度試合が進んでくると駒の取り合いが進み、互いに持ち駒の数が少なくなる。
 チェスは将棋と違い、相手から奪った駒を持ち駒として使うことができない。奪われた駒たちは盤上の外で、面目なさそうに縮こまっているようにも見えた。
 現在の状況はと言えば、持ち駒の数だけで言えばほぼ同数。しかし、強い駒が残っているのはランドルフの方だ。
 端的に言って新太は徐々に不利になり始めている。
 ランドルフのターンになったところで、不意に彼が口を開いた。

「アラタ、もし良ければ一度だけ『待った』を言う権利を差し上げましょうか?」

 ランドルフの視線の先には無防備に盤上に置かれたクイーンが映っている。そのクイーンを狙うのは黒のビショップ。
 その一手前で盾となるはずのポーンを前進させてしまったため、今クイーンを守れる駒はどこにもいなかった。
 しまった、失敗した――と新太が思ったのは言うまでもない。このまま順当に行けば、ランドルフのビショップが新太のクイーンを攫っていくだろう。

(慌てるな。手をミスしたときは冷静になって置かれた状況を把握し、その先の手を考えろ!)

 親方に言われたことを思い出し、新太は冷静に盤面を整理する。もし今相手にしているのが親方だったら、新太は「待ったでお願いします……」と情けない声を上げていたかもしれない。
 けれど今目の前にいる相手は親方ではない。ランドルフだ。
 どんなに状況が悪かったとしても、彼相手に憐れみを乞うことはしたくなかった。

「……いいえ、不要です」

 十二分に間を取って考えた結果、新太は待ったはその結論を出した。
 するとランドルフは少し目を見開いた後、ゆるゆると首を振る。新太の出した答えが少し意外であったらしい。

「いいのですか、アラタ。僕がクイーンを取ればあなたの状況は今より大分不利となる」
「ええ、分かっています」
「それに先ほど僕はあなたに確認しましたよね? 白のクイーンはオフィリア嬢と同義。クイーンを放棄するということはオフィリア嬢を放棄するに等しいということですよ?」

 丸い眼鏡の奥でランドルフの緑色の光が怪しく光った。
 これはただのチェスではない。オフィリアという一人の人間の人生を賭けたチェスの試合だ。
 ランドルフはチェスの盤上だけでなく、盤面の外からも新太の心を崩そうと働きかけてくる。
 もしも新太がチェスの特訓をせずにこの場に挑んでいたら。もしかすると新太は、この揺さぶりに負けてしまっていたかもしれない。
 けれど良くも悪くも意地悪な親方との特訓のお陰で、新太は多少のことでは動じない強い心を手に入れていた。
 真面目にチェスをする人たちからすれば、盤面の外でプレッシャーを掛け合うなど外道と非難されるかもしれないが、今はそんな甘っちょろいことは言っていられない。
 目には目を、歯には歯を。プレッシャーにはプレッシャーを――だ。
 ランドルフの挑発を一笑に付すと、新太は敢えて小馬鹿にしたような口調で答えた。

「殿下。何を意図して発言しておられるのか分かりかねますが、フィル様――オフィリア様は殿下が思っていらっしゃるような方ではございませんよ」
「――どういうことかな?」

 ランドルフが片眉を僅かに跳ね上げた。次の瞬間には容赦なく新太の白のクイーンを奪っていく。
 彼がそうするのを待っていたとでも言うかのように、新太も間髪入れずに自駒を進めた。

「とても強いお方だ――という意味です。俺の手駒のクイーンはあなたに奪われて飛べない籠の鳥になりましたが、実際にそこにいるフィル様は違います。一所にじっとしておられる方ではないし、誰に守られなくともご自身を支えていける強いお方だ」
「彼女のことを守りたいと言った人が言う台詞とは思えないな――」

 新太の発した言葉は、聞き様によってはフィルを切り捨てる言葉に聞こえたのかもしれない。ランドルフの語気には僅かばかりの嫌悪感が滲んでいた。
 ランドルフの感情が乱れ始めたということは、チャンスだ――と新太は思った。ニヤリと微笑みそうになるのを必死に堪える。
 まだ手の内を明かすわけには行かない。

「はははっ、たしかにそうかもしれませんね!」
「随分と冷たい返事をするものだ」
「冷たい……? 誤解ですよ。これは俺のフィル様へ対する信頼の証しです」
「信頼、ね……」

 まるで下らない戯れ言を聞いたとでも言うような嘲笑を浮かべると、ランドルフが左手の中指で眼鏡のブリッジをぐいと押し上げた。

「……アラタ、考えてみればオフィリア嬢のアラタに対する想いは聞いたことがあるけれど、あなたの彼女に対する想いは誤魔化されてばかりだ。今一度ここではっきりさせておきましょう。アラタはオフィリア嬢のことをどうお考えなのですか?」

 チェック――と新太のキングを追い詰めたことを宣言しながら、ランドルフが新太のことを睨み付けるようにじっと見つめた。
 その視線に少し居心地の悪さを覚えながらも、新太は決して取り乱すことなく冷静に盤面を眺める。キングを斜め上に動かしてチェックを回避しながら、ランドルフの緑色の瞳をじっと見つめ返した。

「もちろん、心からお慕いしておりますよ」
「それは従者として? それとも一人の男として?」

 ランドルフの声は地を這うような重たさを持って新太の耳元へと届いた。どうやら彼は新太が回答をはぐらかすことを良しとしてくれないらしい。
 次に曖昧な回答をしたら剣を抜いてお前に突き立てるぞ――と言わんばかりの鋭い目つきで、新太のことをじっと凝視している。
 このとき初めて、新太はランドルフに恐怖した。
 フィルに組み敷かれたときも物理的な恐怖を感じたことがあったが、あのときの恐怖と今の恐怖は少し質感が違う。
 ランドルフが新太に向けてきているのは殺意だ。人と争うことを知る人間だけが向けられる、鋭い剣の刃先を何本も何十本も目の前に掲げられているような絶対的な威圧感。
 今更ながら自分はとんでもない相手に喧嘩を売ったのだな――と、新太は改めて実感してしまう。
 新太がそんなことを考えている隙に、ランドルフがナイトの駒を動かした。進行方向から考えて、あと数手で再び新太のキングがチェックされる状態にある。

「アラタ、黙ってないで答えなさい――!」

 沈黙を保つ新太に痺れを切らしたのか、珍しくランドルフが鋭い声を上げる。
 新太は一旦盤面から視線を上げると、ランドルフの殺意に満ちた視線を真っ向から受け止めた。そして口の中に溜まった唾をゴクリと飲み下してから、ゆっくりと口を開く。

「殿下、俺は――フィル様のことを恋愛的な感情でお慕いしております」

 新太の言葉は会場内に静かに響き渡った。
 ひっ――と小さな悲鳴が漏れたのはフィルの愛らしい唇からだった。チラと視線を走らせると、彼は顔を真っ赤にして新太を見つめている。
 ランドルフの方は逆に顔色一つ変えなかった。その顔からはとっくに穏やかな笑みは消え去っていたが、先ほどまで向けられていた身を切るような殺意の渦も今は鳴りを潜めている。

「どうして?」
「最初は一目惚れでした。この会場にいるすべての方がご存じかと思いますが、フィル様は傾城傾国と名高い国一番の美女。どうして惚れられずにおられましょう」

 新太が答えると、ランドルフは何か嫌な臭いを嗅いだときのような表情で露骨に新太へ軽蔑の視線を向けてくる。
 どうやらこの青年にとって容姿だけで人を判断するということは、鼻白むことであるらしい。

「まさか、その容姿にだけ惹かれて彼女を慕っている――などと言うわけではありませんよね?」
「もちろんです!」

 新太はちょっとだけムッとした表情を浮かべながら言い返した。人の話は最後まで聞けよ、お坊ちゃま――とはさすがに言えない。

「逆にお伺いしますが、殿下はフィル様のどういう所を好まれておられるのですか?」
「まずはその慈悲深さ。不幸な境遇にある者にもあまねく手を差し伸べる姿勢は学ぶところが大きい。次に優雅さ。教養は努力次第では短期間で身につけられますが、生まれ持った身のこなしや気品というのは一朝一夕に身につくものではない。そして最後に意志の強さ。令嬢という立場にありながら、自身の信念を曲げない強さは僕から見ても尊敬に値する」
「なるほど、以外と真面目なお答えですね」
「当たり前です。僕は互いに尊敬し高め合っていけるような高貴な方を正妃に迎えたい。その点において。オフィリア嬢の右に出る者はいない!」

 ランドルフの真剣な告白を聞いて、新太は僅かばかりランドルフのことを見直す気分になっていた。
 一目惚れだの、新太のことを愛しているフィルのことが好きだのと戯れ言を言っていたから半信半疑だったが、案外あれは本心を隠すためにわざと言った台詞だったのかもしれない。
 けれど「ああそうですか」と手放しで認めてやるつもりは、新太にもさらさらなかった。
 相変わらず駒の応酬を続けながら、新太は挑発的な視線をランドルフへ向ける。

「俺も殿下と大方同じ意見です。ですが、それだけじゃない」
「なんです?」
「先ほど俺はフィル様を強いお方だと言いましたが、少し訂正します。強いお方ですが、同時に弱いところもあるお方だ」

 例えば虫が苦手なところ。毛虫も羽虫も蜘蛛も百足もすべてが駄目で、そばに近付こうものなら悲鳴を上げて逃げ出す。新太助けて――なんて飛びつかれると、新太も虫は得意ではないのに思わず任せろと言ってしまう。
 例えば辛いものが苦手なところ。痩せ我慢して食べはするが、いつも食べ終わった後に甘い飴を舐めている。頬を飴玉で膨らませながら、笑うなよ――と拗ねる表情が可愛らしい。
 例えば眠るのが下手なところ。実はぬいぐるみを抱いていないと寝られなくて、新太やバレットへ付き添いを指示することもしばしば。月明かりに照らされた寝顔は年齢よりずっと幼く見えて、たまらなく愛おしい気持ちになる。

「絶世の美女、傾城傾国、国一番の才色兼備と呼ばれるお方でも弱点はある。俺はそういう弱点もひっくるめて、フィル様のことをお慕い申し上げております」
「あなたがフットマンの身分である以上、オフィリア嬢と結婚することはできないとしても――ですか?」
「関係ありません。それでも俺はフィル様を――愛し続けます。フィル様のことを真に理解し、フィル様と愛し合える方が現われるまで決しておそばを離れません!」

 新太の一世一代の愛の告白に会場内の空気が震えた。
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