桃薫梅香に勝る

十河

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2.折天

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 赦鶯達が瓦礫の撤去を始めてから、三日が過ぎた。
 瓦礫の下に雨鼬が居る状態で乱暴な作業を行う訳にも行かず、一つ一つ安全を確かめながらの撤去には、思ったよりも時間がかかってしまっている。赦鶯は数人の部下を都で待っている子墨の元に伝令として走らせた後、自分も部下達と一緒になって瓦礫の撤去に勤しんだ。
 休憩の間は地下に閉じ込められた雨鼬と外の世界を繋ぐ唯一の窓口となった小さな穴に顔を寄せ、少年を励まし、春燕が調達してきた細い竹筒を通して飲み水を与え続ける。何か食料も与えてやりたかったが、雨鼬が本当に【桃】であった場合、急に食べたことのないものを口にしては、腹を下す可能性が高い。
 雨鼬が閉じ込められていた部屋は半分程が瓦礫に埋もれてしまっているようだが、幸いなことに、雨鼬自身は怪我一つしていないそうだ。それでもこのまま地下に閉じ込められたままでは、彼が衰弱していくのは目に見えている。

「ねぇ、赦鶯。……何か、おはなし、して」
「良いぞ。何が聞きたい? 粥奴クインクの首領と一騎討ちをした時の話はもうしたか。それとも、蓮華が咲く沼で雄が子育てをする、大きな鳥の話でもしようか」

 赦鶯が地面の穴に顔を寄せると、雨鼬は必ず、彼に話をねだるようになっていた。

「うぅん……雨鼬ユーユーの、おはなし、聞きたい」

 雨鼬は読み書きなどの教育こそ受けていなかったが、元々頭は悪くなかったようで、赦鶯や春燕達と会話を重ねていく中で格段に語彙を増やしていっている。中でも赦鶯が語る子供向けの童話は大のお気に入りだ。取り分け、雨粒の詰まった袋を背負い、雲を渡って雨を運ぶ【雨鼬】の物語を知ってからは、同じ話を聞かせて欲しいと繰り返しねだっては、赦鶯を苦笑させていた。

「……霜鈴シンリィの森に雨が降れば、動物達はそれぞれのねぐらに籠ります。だけど雨鼬だけは、みんなとは別です。雨鼬は森で一番高い木の上に登り、くるくると跳ねる髭を前脚で宥めながら、迎えが来るのを待ちました。ゴロゴロと低い音が雲の間から聞こえてきて、いかづちの梯子が地上に届けば、雨鼬は急いで梯子を駆け上ります……」

 服が汚れるのも構わず小さな穴の近くに寝転がり、柔らかい声で童話を語る赦鶯将軍の姿は、既に見慣れたものだ。春燕を始めとした赦鶯に付き従う部下達は、これまで耳にした試しがないその優しい声色に、強面で知られた将軍に初めて訪れた春を感じ、静かに二人を見守ってくれた。
 ――だがそれも、長くは続かない。

「赦鶯……しゃお、う」
「どうした、雨鼬」
「そこに、居る?」
「あぁ、居るとも」

 穴の隙間から差し出された指を握れば、それは日増しに細くなり、ひんやりとして来ている。
 その上、三日目の夜に降り出した強い雨は、それから雨足を弱めずに、崑崙山脈に雨水を注ぎ続けた。瓦礫の隙間を通り抜けた雨水は、そのまま、雨鼬が閉じ込められた地下室に溜まって来ているらしい。

「……赦鶯」
「雨鼬!」
「さ、むい、よ……」
「しっかりしろ! 雨鼬!」

 四日目の夜を迎える頃には、雨鼬の衰弱ぶりは、一層顕著となっていた。言葉からは活気が失われ、問いかけに返す応えも酷く虚ろだ。地に這うようにして穴に耳を近づければ、すぐ近くに水の音が聞こえる。松明を翳して何とか覗き見た地下室の中は、既に水面のゆらめきが目視できる程にまで、水位が上がってしまっているようだ。
 もはや、一刻の猶予も許さない。
 このままでは、雨鼬が明日の朝を迎えられないのは、明らかだ。

「どうしたら……」
「赦鶯様!」

 思い悩む赦鶯の元に馬で駆けつけたのは、先だって皇帝子墨に伝令をと都に向かわせた部下達だ。慌てる彼らが言うには、子墨からの返答を持参して桃仁村に戻る途中で、山間にある村の上流にあたる河の一角が、氾濫しかけているのを目の当たりにした。彼らはそれを赦鶯に伝える為に、危険な夜駆けを押し通し、桃仁村まで戻って来たのだ。

「早く退避を! このままでは、村は濁流に呑み込まれます!」
「……くっ!」

 万事休すか。
 歯嚙みをする赦鶯の耳に、微かな声が届く。

「しゃお、う」
「雨鼬!」

 小さな穴に顔を寄せた赦鶯の頬に軽く触れた指先は、もう、死人のような冷たさで。

「にげ、て」
「何を……!」
「ありが、とう……雨鼬、もう、大丈夫、だから」
「雨鼬!」
「おいて、行って……」
「馬鹿を言うな!」

 するりと引っ込んだ指先に追いすがり、穴の中に差し込んだ赦鶯の指に、柔らかいものが触れる。それはそうっと赦鶯の硬い指先を確かめるように包みこむと、少しだけ温もりのある何かで、指先の丸みをたどたどしくなぞる。

「春燕」

 地面に膝をつき、指先を穴の隙間に差し込んだままの赦鶯に名を呼ばれ、春燕は赦鶯の後ろに立つ。

「……はい、赦鶯様」

 初日に文句を言っていた割にはすっかり雨鼬に情が移ってしまった春燕も、夜になっても諦めることなく、なんとか雨鼬を救い出そうと、自らも泥塗れになりながら必死に瓦礫の撤去作業を続けていたのだ。
 しかし今、この窮地に至って。肩越しに振り返った赦鶯の表情を目にした瞬間、春燕の背筋には、雷に撃たれたような緊張感が走る。
 それは嘗て敗走を余儀なくされた子墨の逃げ延びる時間を稼ぐ為にと、万の大軍に単騎で立ち向かった赦鶯が見せた表情と、全く同じ物だったからだ。

「水が来る前に、皆を連れて、ここから逃げろ」
「なっ……! いけません!」
「雨鼬を一人、残して行けない」
「駄目です! 赦鶯将軍……貴方はまだ、成さねばならぬ使命がある!」

 天下をその手に得たとは言え、まだまだその治世は、盤石とは言えない。そんな皇帝子墨を支えるには、赦鶯の存在は不可欠だ。魑魅魍魎が跋扈する王宮の中にあって、心の底から信を置ける存在は、それこそ得難い宝に等しい。食い下がる春燕に向かって、赦鶯は緩く首を振って見せる。

「分かっている。俺とて、子墨を置いて、むざむざとこの生命を捨てるつもりはない」
「ならば!」
「……今から、『折天ヂーテン』を撃つ」
「っ!」
「一か八かになるが……上手くいけば、邪魔な瓦礫を全て吹き飛ばせるだろう」

 折天は、赦鶯が剣聖と謳われた師範から直伝された唯一相伝の技で、対軍勢において絶大な威力を誇る大技だ。過去に赦鶯が万の大軍と単騎で対峙出来たのも、この技を会得していたからに他ならない。しかしそれは名の通り天を削る程の威力を発揮するため、下手をしたら仲間も守るべきものも、全てを吹き飛ばしてしまう危険性を孕んでいる。

「ですが、それは……!」
「あぁ。失敗すれば、雨鼬は死ぬ。だがこのまま置いて行っても、どうせ死ぬ。ならば……せめて俺の手で、冥府に送る。……聞こえていたか、雨鼬」
「……うん」

 指先に触れていた温もりが小さく動き、振動と共に、言葉を伝える。赦鶯は瞳を細め、指に触れる柔らかい温もりを――雨鼬の舌を、優しく指先で摩った。

「どうか、じっとしていてくれ。俺が合図をしたら、雨鼬は耳を塞いで、水の中に潜るんだ。大きな音がして、強く地響きがするかもしれないが、心配は要らない……良いな?」
「うん」

 小さな水音が聞こえて。雨鼬が軽く頷いた仕草が分かる。

「……近くにおいで、雨鼬」

 指を引き抜くと同時に促せば、穴の隙間に、白い色をした唇が見えた。
 赦鶯は地面に顔を押し付けるようにして身体を屈め、僅かな隙間から覗く白い唇を、伸ばした舌の先で舐める。

「んっ……なぁ、に?」

 初めての感触がした為か。不思議そうな声を漏らした唇にもう一度しっとりと舌で触れる。

「……教えてやる」

 覚悟を決めた表情の赦鶯は、すっと立ち上がり、春燕を促した。

「春燕、退避を」
「……承知いたしました」

 赦鶯の指示を聞き遂げ、既に撤退の準備を整えていた部下達の下へ、春燕は走る。赦鶯が折天を放つ方向とは逆に距離を取り、彼の愛馬の手綱を握り、その時を待つ。
 何処か遠くから近づいてくる、濁流の音。
 瓦礫の山から少し距離を取り、腰に佩びた剣を抜き払った赦鶯の全身から、青白い闘気が立ち上る。

「雨鼬! 潜れ!」

 片足を引いて腰を落とし、剣を構えて叫んだ赦鶯の耳に、とぷんと、何かが水の中に潜った音が届く。

「――『折天』!!」

 振り下ろされた剣は轟音と共に天を割り、焼け跡に残されていた瓦礫を、凄まじい衝撃波で根こそぎ吹き飛ばしてしまった。

「っ……雨鼬!」

 技を放った余韻から一息つく暇も無く、小さな穴が開いていた場所に駆け寄れば、泥水の溜まったそこは、大きな穴に姿を変えている。

「雨鼬!」

 名を叫び、躊躇い無く大穴の中に飛び込んだ赦鶯の指先に、冷たい何かが触れた。
 泥水の中から見つけ出したそれは汚泥に塗れていたが確かに人の形をしていて、赦鶯が腕の中に抱き上げると、小さく「しゃおう」と、聞き慣れた声を漏らす。

「あぁ、雨鼬……!」

 生きていてくれた。
 感極まった赦鶯はそのまま雨鼬に頬ずりをし、顔にこびりついた泥を拭おうとしたが、馬の手綱を引いて駆けつけた春燕の切羽詰った叫びでそれは阻止される。

「赦鶯様! 話は後です! 水が来ます!」
 春燕が指差す方角からは、河から溢れた濁流が土砂を巻き込み、凄まじい勢いでこちらに迫りつつあった。
「雨鼬、しっかり掴まっていろ!」

 赦鶯は雨鼬を抱えたまま愛馬に飛び乗り、同じく馬に跨った春燕と共に瓦礫の中を駆け抜け、部下達が待つ丘の上へと逃げ延びる。
 三人が退避して程なくして、瓦礫の山と化していた桃仁村は濁流に飲み込まれ、土砂の下に姿を消すこととなった。
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