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第一章 掌中の鳥 ~ 第一編 帝国の象徴 ~
6 幻の羽ばたき
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── 西方国境・関所 ──
それから五日。
商人たちの荷を手伝いながら馬車に揺られ、王女はついに国境の関所へ辿り着いた。
春の陽は穏やかに降り注ぎ、石壁の門は柔らかな光をまとって佇んでいた。
芽吹きの匂いを運ぶ風の中、旅人や商人の列がゆるやかに伸び、兵たちの視線が静かに一人ひとりを見定めていた。
王女は粗末な外套の裾を握りしめ、列の中に身を潜めた。
足先に走る震えは、誰にも気づかれぬほど小さなもの。
だが王女には、それが自らの心臓の鼓動のように大きく響いていた。
(……ここを越えられなければ、すべてが終わる)
前に並んだ荷車が呼び止められ、兵士が袋を切り裂き、粉が舞った。
咳き込む商人の声に交じり、金属の槍が鈍く光る。
その光景に喉が渇き、胸の奥の鼓動が跳ね上がった。
やがて兵士の影が眼前に迫る。
「……次」
低い声。
王女は震える指先で外套の奥から羊皮紙を取り出した。
――マルタがくれた、古びた通行証。
手の汗で紙が滑りそうになるのを必死にこらえ、差し出す。
兵士は無言で受け取り、顔と羊皮紙を何度も見比べた。
刹那、時間が止まったように思えた。
(だめ……顔を逸らせば怪しまれる……)
必死に表情を保ちながら、ただ兵士の瞳を受け止める。
冷や汗が背を伝い、腰が砕けそうになる。
兵士は鼻を鳴らし、通行証を突き返した。
「行け」
一瞬、意味を理解できなかった。
だが返された羊皮紙を胸に抱え、王女は深く頭を下げた。
石壁の門をくぐると、乾いた風が頬を打った。
視界の先には、白く照らされた街道が真っすぐに伸びている。
(……越えた……!)
目頭が熱くなるのを押し殺し、歩みを速める。
だが背後の兵士たちの声はなお耳にこびりつき、
振り返ればすべてが露見する気がしてならなかった。
(まだ……終わっていない。止まれば捕まる……進むしかない)
そう心に刻みながら、王女は目前に迫る国境の向こうへと歩みを進めた。
空気の匂いが変わる。
帝国の土を離れるというだけで、風はこんなにも自由なのか――そう思えるほど、胸に沁みた。
王女は立ち止まり、深く息を吸い込む。
陽光に霞む遠い山々の稜線が、きらめく空気の中に揺らめいていた。
(……ここから……)
胸が高鳴る。
もう少し歩めば、帝国の手を離れ、本当に「外」に出られる。
その一歩を踏み出そうとした瞬間だった。
「――お待ちしておりました」
凛とした声が背を射抜いた。
振り返ると、数名の兵を従えた男が街道に立っていた。
肩の上でまっすぐに切りそろえられた灰銀の髪。
細身ながらも研ぎ澄まされた刃を思わせる体躯。
感情を削ぎ落とした端正な姿は、まるで彫像のようだった。
(……知っている……この人……)
王女の記憶に、帝城の玉座が甦る。
いつもダリオスの傍らに控えていた、冷ややかな影。
直接言葉を交わしたことはない。だが、その姿を遠目に何度か見ている。
男は礼を欠かさぬ仕草で一礼した。
「お迎えにあがりました。
自由な時間はここまでです。さあ、帝都へお戻りを」
兵士のひとりが素早く腕を伸ばし、王女の肩を掴もうとした。
咄嗟に王女はその手を振り払い、街道の先へ駆け出す。
だがすぐに別の兵が横から飛びかかり、細い体は砂塵の上に押し倒された。
「離して……! 離しなさいっ!」
必死に爪を立て、足をばたつかせる。
外套がはだけ、腕に赤い痕が浮かぶ。
それでもなお、彼女は暴れ続けた。
その様子を、王女をここまで連れてきた商人たちが唖然と見ていた。
目を白黒させ、荷馬車の前で立ち尽くしている。
セヴランは一瞥をくれると、静かに言葉を落とした。
「……さる高貴な方の囲い女が、身勝手に逃げ出した。
我らはそれを連れ戻す任を帯びている。
あなた方は何も見なかった――そういうことにしていただきたい」
腰の袋から金貨の詰まった革袋を取り出し、商人の手に押し込む。
「これはご迷惑をかけた礼だ。この件は一切口外せぬよう。
……命より重い忠告と思っていただきたい」
商人たちは顔を引きつらせ、震える手で袋を受け取った。
「……も、もちろん。わ、我らは何も……」
しどろもどろに頭を下げると、そそくさと荷馬車を動かし始めた。
誰一人、王女に視線を戻そうとはしなかった。
地面に押さえつけられた王女の耳に、そのやり取りが突き刺さる。
必死に顔を上げようとしたとき、影が差した。
セヴランが静かに膝を折り、王女の顔近くまで腰を落とす。
灰銀の髪が陽光を受けて揺れ、冷ややかな眼差しが真上から射抜いた。
「……もしもあなたが大人しく戻らないと」
吐息がかかるほどの距離で、声は囁きに近い。
だがその低さは、兵士の手よりもなお強く王女を縛った。
「パン屋の女主人にも類が及びますよ」
「……っ」
心臓が凍りついた。
マルタの笑み、粉にまみれた手、あの温もりが鮮やかに蘇る。
血の気が引き、胸に鋭い痛みが走った。
セヴランは一瞥し、低く告げる。
「全ては陛下の手の内だったのです」
その声音には冷徹さと、ほんのわずかな哀れみが滲んでいた。
「あなたが鳥籠を破り、町に潜み、粉にまみれて働くことも……すべて陛下が望まれたこと。
自由を味わわせた上で、再び連れ戻す――それが陛下の御心」
兵士たちの手が王女の腕を締めつける。
男の声はすぐ傍らで囁かれているはずなのに、王女には霞の向こうから響くように感じられた。
「自由を求めたこと、それ自体は陛下の望んだことです。……だが、ここから先は許されぬ」
王女の喉は凍りつき、声が一切出なかった。
目の前の灰色の瞳は、彼女のすべてを見透かしながら、ただ冷たく告げていた。
──自由は、最初から掌の中の幻にすぎなかったのだと。
* * *
やがて、王女は暴れる力を失い、嗚咽だけが細い喉から漏れ始めた。
兵に両腕を引かれ、足を取られながらも引き立てられていく。
その背を、セヴランは静かに見送った。
ふと顔を上げると、澄みきった空を一羽の鳥が滑空している。
陽光を受けて白く光る羽が、風を切り──やがて国境の向こうへと消えていった。
「……帝都へ帰りましょう」
灰色の瞳が細められ、声は誰にも届かぬほど低く落ちる。
「あなたの羽ばたきは、すべて陛下が見届けられた」
それから五日。
商人たちの荷を手伝いながら馬車に揺られ、王女はついに国境の関所へ辿り着いた。
春の陽は穏やかに降り注ぎ、石壁の門は柔らかな光をまとって佇んでいた。
芽吹きの匂いを運ぶ風の中、旅人や商人の列がゆるやかに伸び、兵たちの視線が静かに一人ひとりを見定めていた。
王女は粗末な外套の裾を握りしめ、列の中に身を潜めた。
足先に走る震えは、誰にも気づかれぬほど小さなもの。
だが王女には、それが自らの心臓の鼓動のように大きく響いていた。
(……ここを越えられなければ、すべてが終わる)
前に並んだ荷車が呼び止められ、兵士が袋を切り裂き、粉が舞った。
咳き込む商人の声に交じり、金属の槍が鈍く光る。
その光景に喉が渇き、胸の奥の鼓動が跳ね上がった。
やがて兵士の影が眼前に迫る。
「……次」
低い声。
王女は震える指先で外套の奥から羊皮紙を取り出した。
――マルタがくれた、古びた通行証。
手の汗で紙が滑りそうになるのを必死にこらえ、差し出す。
兵士は無言で受け取り、顔と羊皮紙を何度も見比べた。
刹那、時間が止まったように思えた。
(だめ……顔を逸らせば怪しまれる……)
必死に表情を保ちながら、ただ兵士の瞳を受け止める。
冷や汗が背を伝い、腰が砕けそうになる。
兵士は鼻を鳴らし、通行証を突き返した。
「行け」
一瞬、意味を理解できなかった。
だが返された羊皮紙を胸に抱え、王女は深く頭を下げた。
石壁の門をくぐると、乾いた風が頬を打った。
視界の先には、白く照らされた街道が真っすぐに伸びている。
(……越えた……!)
目頭が熱くなるのを押し殺し、歩みを速める。
だが背後の兵士たちの声はなお耳にこびりつき、
振り返ればすべてが露見する気がしてならなかった。
(まだ……終わっていない。止まれば捕まる……進むしかない)
そう心に刻みながら、王女は目前に迫る国境の向こうへと歩みを進めた。
空気の匂いが変わる。
帝国の土を離れるというだけで、風はこんなにも自由なのか――そう思えるほど、胸に沁みた。
王女は立ち止まり、深く息を吸い込む。
陽光に霞む遠い山々の稜線が、きらめく空気の中に揺らめいていた。
(……ここから……)
胸が高鳴る。
もう少し歩めば、帝国の手を離れ、本当に「外」に出られる。
その一歩を踏み出そうとした瞬間だった。
「――お待ちしておりました」
凛とした声が背を射抜いた。
振り返ると、数名の兵を従えた男が街道に立っていた。
肩の上でまっすぐに切りそろえられた灰銀の髪。
細身ながらも研ぎ澄まされた刃を思わせる体躯。
感情を削ぎ落とした端正な姿は、まるで彫像のようだった。
(……知っている……この人……)
王女の記憶に、帝城の玉座が甦る。
いつもダリオスの傍らに控えていた、冷ややかな影。
直接言葉を交わしたことはない。だが、その姿を遠目に何度か見ている。
男は礼を欠かさぬ仕草で一礼した。
「お迎えにあがりました。
自由な時間はここまでです。さあ、帝都へお戻りを」
兵士のひとりが素早く腕を伸ばし、王女の肩を掴もうとした。
咄嗟に王女はその手を振り払い、街道の先へ駆け出す。
だがすぐに別の兵が横から飛びかかり、細い体は砂塵の上に押し倒された。
「離して……! 離しなさいっ!」
必死に爪を立て、足をばたつかせる。
外套がはだけ、腕に赤い痕が浮かぶ。
それでもなお、彼女は暴れ続けた。
その様子を、王女をここまで連れてきた商人たちが唖然と見ていた。
目を白黒させ、荷馬車の前で立ち尽くしている。
セヴランは一瞥をくれると、静かに言葉を落とした。
「……さる高貴な方の囲い女が、身勝手に逃げ出した。
我らはそれを連れ戻す任を帯びている。
あなた方は何も見なかった――そういうことにしていただきたい」
腰の袋から金貨の詰まった革袋を取り出し、商人の手に押し込む。
「これはご迷惑をかけた礼だ。この件は一切口外せぬよう。
……命より重い忠告と思っていただきたい」
商人たちは顔を引きつらせ、震える手で袋を受け取った。
「……も、もちろん。わ、我らは何も……」
しどろもどろに頭を下げると、そそくさと荷馬車を動かし始めた。
誰一人、王女に視線を戻そうとはしなかった。
地面に押さえつけられた王女の耳に、そのやり取りが突き刺さる。
必死に顔を上げようとしたとき、影が差した。
セヴランが静かに膝を折り、王女の顔近くまで腰を落とす。
灰銀の髪が陽光を受けて揺れ、冷ややかな眼差しが真上から射抜いた。
「……もしもあなたが大人しく戻らないと」
吐息がかかるほどの距離で、声は囁きに近い。
だがその低さは、兵士の手よりもなお強く王女を縛った。
「パン屋の女主人にも類が及びますよ」
「……っ」
心臓が凍りついた。
マルタの笑み、粉にまみれた手、あの温もりが鮮やかに蘇る。
血の気が引き、胸に鋭い痛みが走った。
セヴランは一瞥し、低く告げる。
「全ては陛下の手の内だったのです」
その声音には冷徹さと、ほんのわずかな哀れみが滲んでいた。
「あなたが鳥籠を破り、町に潜み、粉にまみれて働くことも……すべて陛下が望まれたこと。
自由を味わわせた上で、再び連れ戻す――それが陛下の御心」
兵士たちの手が王女の腕を締めつける。
男の声はすぐ傍らで囁かれているはずなのに、王女には霞の向こうから響くように感じられた。
「自由を求めたこと、それ自体は陛下の望んだことです。……だが、ここから先は許されぬ」
王女の喉は凍りつき、声が一切出なかった。
目の前の灰色の瞳は、彼女のすべてを見透かしながら、ただ冷たく告げていた。
──自由は、最初から掌の中の幻にすぎなかったのだと。
* * *
やがて、王女は暴れる力を失い、嗚咽だけが細い喉から漏れ始めた。
兵に両腕を引かれ、足を取られながらも引き立てられていく。
その背を、セヴランは静かに見送った。
ふと顔を上げると、澄みきった空を一羽の鳥が滑空している。
陽光を受けて白く光る羽が、風を切り──やがて国境の向こうへと消えていった。
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