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第四章 帝国の象徴〈承〉
13 声、響く
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── 帝都・市場 昼 ──
昼下がりの陽がやわらかく石畳を照らし、月の市は春の匂いに満ちていた。
果物を並べる声、焼き菓子の甘い香り、子どもの笑い声――
どれも、冬の冷えを洗い流すような明るさを帯びている。
王女はリシェルとミレイユに伴われ、雑踏の中を進んでいた。
リシェルは籠を片手に、嬉々として店先を渡り歩く。
「見て、ほら。干し柑子! 冬よりずっと香りが濃いの!」
籠の中には蜜色の果実、束ねられたハーブ、乾いた魚。
すれ違う人々の肩が触れ、商人の声が飛び交う。
誰もが今日を生きるために息をしている――そんな当たり前の喧噪が、今の彼女にはひどくまぶしかった。
少し離れた場所には、帝国の兵が護衛として紛れ込んでいる。
市場客を装ってはいるが、視線の端で彼らの存在を王女は確かに感じ取っていた。
リシェルが値切りの言葉を交わす声の向こうで、どこかぎこちなく果物を選ぶ兵の手がちらりと見える。
そして、今日はそれだけではない。
王女はふと胸に小さなざわめきを覚えた。
荷車を押す男が妙に周囲を気にしているように見えたり、
物乞いが井戸端に居座ったまま動かないのが目にとまったり。
ほんの些細なことに過ぎないのに、雑踏の熱気の中で微かな違和を響かせていた。
そして、もう一つ。
見知らぬ顔ばかりのはずなのに、なぜか懐かしい気配が胸をかすめる。
一瞬だけ自分を見たような眼差し――すぐに逸らされたが、確かに感じられた。
鼓動がわずかに速まるのを感じながら、王女は歩みを止めず群衆に身を紛らせた。
その時。
石畳を打つ蹄の音が、突如として市場の喧噪を切り裂いた。
「どけっ、馬が暴れてる!」
怒号と悲鳴が重なり、視線を向ければ、荷を山と積んだ馬車が制御を失い疾走していた。
手綱は切れ、馬は泡を吹きながら狂ったように走り抜ける。
群衆が雪崩のように左右へ散り、屋台が軋む音、果物が転がる音が入り乱れる。
リシェルが思わず悲鳴を上げ、ミレイユはすぐさま王女の腕を掴んで身を庇おうとした。
少し離れて控えていた護衛たちも、一斉に暴走する馬車へ注意を向ける。
王女の目も、思わずそちらへ引き寄せられた。
轟々と迫る馬車の影。散り乱れる群衆。
その瞬間――耳許に届いた。
「姫さま、こちらへ」
低く、しかし確かに自分を呼ぶ声。
雑踏のざわめきを裂いて、懐かしい響きが胸を震わせた。
群衆のざわめきの中、差し伸べられた手があった。
顔を上げた瞬間、視線がぶつかる。懐かしい栗色の髪――ルデク。
王女は迷う間もなく、その手を掴んだ。
「姫様!?」
群衆の向こうでこちらを追おうとするミレイユの姿が視界の端に映る。
しかし人波を裂くように導かれ、リシェルやミレイユの姿が遠のいていく。
引かれるまま、石畳を駆け抜けた。
果物の籠が転がり、叫び声と蹄の音が背後で混じる。
人垣を縫い、路地をひとつ、またひとつ抜ける。
春風が頬を打ち、裾が翻る。
彼の肩越しに見える陽光が、揺れる埃の粒を照らしていた。
導かれる手の温もりに、王女の心は揺れた。
もしかすれば――このまま委ねてしまえばよいのかもしれない。
幼き日に守られたように、彼の背に隠れて歩いていけば。
その刹那、露店の方から甘やかな蜂蜜の匂いが漂ってきた。
懐かしい記憶を呼び覚ます香り。
――『甘いものは、不思議と勇気をくれるんです』
王女はぎゅっと目を閉じ、心の中で「ごめんなさい」と小さく呟いた。
そして次の瞬間、ルデクの手を振りほどいた。
「姫さま……?」
不意を突かれたように、ルデクが振り返る。
王女はそこで立ち止まり、周囲を見渡した。
人垣、露店、果物の山、香辛料の匂い――。
ここはまだ市場のただ中、民衆のざわめきが生きている場所。
王女は深く息を吸い込んだ。
そして、懐に忍ばせていた果物ナイフを取り出すと、
白い首筋にぴたりと当てた。
「――何を!?」
ルデクの瞳が驚愕に見開かれる。
最初のうち、周囲の人々は近くで暴れた馬車の行方に気を取られていた。
叫び声と怒号がまだ残り、誰もがそちらを振り返りながら足早に通りを抜けていく。
その傍らで、通りの真ん中に立つ男女の姿は、
遠目には言い争っているようにしか見えなかった。
誰も足を止めず、視線を逸らしながら通り過ぎていく。
だが、その女が動かぬまま立ちつくし、
陽の光を受けて一瞬きらりと光るものが見えた。
気づいた者が息を呑む。
人々の動きが、ひとり、またひとりと止まり始めた。
手にした籠を下ろす者、何事かと顔を向ける者、足を止める者。
そして一人の女が首に刃物を突きつけている姿を認めると、
ざわめきが波のように広がっていく。
母親が子を抱き寄せ、行き交う者が思わず息を詰め、
市場の一角は次第にその異様な気配に飲み込まれていった。
王女の目に、ミレイユとリシェル、そして護衛の兵たちが駆け寄ってくる姿が映る。
その動きに続くように、群衆の中に紛れた幾つかの影もわずかに動いた。
誰が兵で誰がただの市井の民なのか――王女には見分けがつかない。
だが少なくとも、ここには帝国兵が潜んでいる。その視線が確かに自分に注がれているのを感じた。
それらの様子を見届けて、王女は張り裂けるほどの声で叫んだ。
「――帝国の兵たちよ!」
その声は市場の喧噪を断ち、石畳の広場に響き渡った。
昼下がりの陽がやわらかく石畳を照らし、月の市は春の匂いに満ちていた。
果物を並べる声、焼き菓子の甘い香り、子どもの笑い声――
どれも、冬の冷えを洗い流すような明るさを帯びている。
王女はリシェルとミレイユに伴われ、雑踏の中を進んでいた。
リシェルは籠を片手に、嬉々として店先を渡り歩く。
「見て、ほら。干し柑子! 冬よりずっと香りが濃いの!」
籠の中には蜜色の果実、束ねられたハーブ、乾いた魚。
すれ違う人々の肩が触れ、商人の声が飛び交う。
誰もが今日を生きるために息をしている――そんな当たり前の喧噪が、今の彼女にはひどくまぶしかった。
少し離れた場所には、帝国の兵が護衛として紛れ込んでいる。
市場客を装ってはいるが、視線の端で彼らの存在を王女は確かに感じ取っていた。
リシェルが値切りの言葉を交わす声の向こうで、どこかぎこちなく果物を選ぶ兵の手がちらりと見える。
そして、今日はそれだけではない。
王女はふと胸に小さなざわめきを覚えた。
荷車を押す男が妙に周囲を気にしているように見えたり、
物乞いが井戸端に居座ったまま動かないのが目にとまったり。
ほんの些細なことに過ぎないのに、雑踏の熱気の中で微かな違和を響かせていた。
そして、もう一つ。
見知らぬ顔ばかりのはずなのに、なぜか懐かしい気配が胸をかすめる。
一瞬だけ自分を見たような眼差し――すぐに逸らされたが、確かに感じられた。
鼓動がわずかに速まるのを感じながら、王女は歩みを止めず群衆に身を紛らせた。
その時。
石畳を打つ蹄の音が、突如として市場の喧噪を切り裂いた。
「どけっ、馬が暴れてる!」
怒号と悲鳴が重なり、視線を向ければ、荷を山と積んだ馬車が制御を失い疾走していた。
手綱は切れ、馬は泡を吹きながら狂ったように走り抜ける。
群衆が雪崩のように左右へ散り、屋台が軋む音、果物が転がる音が入り乱れる。
リシェルが思わず悲鳴を上げ、ミレイユはすぐさま王女の腕を掴んで身を庇おうとした。
少し離れて控えていた護衛たちも、一斉に暴走する馬車へ注意を向ける。
王女の目も、思わずそちらへ引き寄せられた。
轟々と迫る馬車の影。散り乱れる群衆。
その瞬間――耳許に届いた。
「姫さま、こちらへ」
低く、しかし確かに自分を呼ぶ声。
雑踏のざわめきを裂いて、懐かしい響きが胸を震わせた。
群衆のざわめきの中、差し伸べられた手があった。
顔を上げた瞬間、視線がぶつかる。懐かしい栗色の髪――ルデク。
王女は迷う間もなく、その手を掴んだ。
「姫様!?」
群衆の向こうでこちらを追おうとするミレイユの姿が視界の端に映る。
しかし人波を裂くように導かれ、リシェルやミレイユの姿が遠のいていく。
引かれるまま、石畳を駆け抜けた。
果物の籠が転がり、叫び声と蹄の音が背後で混じる。
人垣を縫い、路地をひとつ、またひとつ抜ける。
春風が頬を打ち、裾が翻る。
彼の肩越しに見える陽光が、揺れる埃の粒を照らしていた。
導かれる手の温もりに、王女の心は揺れた。
もしかすれば――このまま委ねてしまえばよいのかもしれない。
幼き日に守られたように、彼の背に隠れて歩いていけば。
その刹那、露店の方から甘やかな蜂蜜の匂いが漂ってきた。
懐かしい記憶を呼び覚ます香り。
――『甘いものは、不思議と勇気をくれるんです』
王女はぎゅっと目を閉じ、心の中で「ごめんなさい」と小さく呟いた。
そして次の瞬間、ルデクの手を振りほどいた。
「姫さま……?」
不意を突かれたように、ルデクが振り返る。
王女はそこで立ち止まり、周囲を見渡した。
人垣、露店、果物の山、香辛料の匂い――。
ここはまだ市場のただ中、民衆のざわめきが生きている場所。
王女は深く息を吸い込んだ。
そして、懐に忍ばせていた果物ナイフを取り出すと、
白い首筋にぴたりと当てた。
「――何を!?」
ルデクの瞳が驚愕に見開かれる。
最初のうち、周囲の人々は近くで暴れた馬車の行方に気を取られていた。
叫び声と怒号がまだ残り、誰もがそちらを振り返りながら足早に通りを抜けていく。
その傍らで、通りの真ん中に立つ男女の姿は、
遠目には言い争っているようにしか見えなかった。
誰も足を止めず、視線を逸らしながら通り過ぎていく。
だが、その女が動かぬまま立ちつくし、
陽の光を受けて一瞬きらりと光るものが見えた。
気づいた者が息を呑む。
人々の動きが、ひとり、またひとりと止まり始めた。
手にした籠を下ろす者、何事かと顔を向ける者、足を止める者。
そして一人の女が首に刃物を突きつけている姿を認めると、
ざわめきが波のように広がっていく。
母親が子を抱き寄せ、行き交う者が思わず息を詰め、
市場の一角は次第にその異様な気配に飲み込まれていった。
王女の目に、ミレイユとリシェル、そして護衛の兵たちが駆け寄ってくる姿が映る。
その動きに続くように、群衆の中に紛れた幾つかの影もわずかに動いた。
誰が兵で誰がただの市井の民なのか――王女には見分けがつかない。
だが少なくとも、ここには帝国兵が潜んでいる。その視線が確かに自分に注がれているのを感じた。
それらの様子を見届けて、王女は張り裂けるほどの声で叫んだ。
「――帝国の兵たちよ!」
その声は市場の喧噪を断ち、石畳の広場に響き渡った。
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