冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―

唯 さらら

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第六章 呼吸する象徴

10 生かされた者たち

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── 夜会 大広間 ──

音楽が一段落し、杯を掲げる貴族たちのざわめきがゆるやかに散じていく。
その隙を縫うように、ひとりの男が赤絨毯の中央をゆっくりと進んだ。

背は高く、肩幅の広い壮年の貴族。
淡金の刺繍を施した外套の裾が、歩くたびにわずかに鳴る。

(……辺境伯公)
王女の脇で、ダリオスの黒瞳が静かに細まった。

彼は帝国成立以前からの大諸侯――広大な領地を治め、古い秩序の残り香を最も濃く纏う男である。

すこし離れた柱の陰、その様子を見守っていたセヴランの視線が、短くダリオスの方へ送られた。
ダリオスは盃を持つ指先をわずかに動かし、応えるように一度だけ軽く頷いた。

「陛下、そして王女殿下。お二人が並び立たれるお姿、まことに壮観にございます」
声は深く、礼を尽くした響きだった。
けれど、その低音の底に、冷たい石のような重みが潜んでいる。

ダリオスはわずかに頷き、定められた笑みを浮かべる。
「久しいな、辺境伯。帝都の空気は、お前には少し息苦しかろう」

「いえ、陛下。秩序の息吹が行き渡る都の空気、胸に沁みます」
辺境伯は恭しく頭を垂れた――が、その言葉の抑揚は、誉め言葉とも、皮肉とも取れる絶妙な曖昧さだった。

ダリオスの唇がわずかに歪む。
「そうか。ならば存分に吸っていくがいい。……帝都の空気は、濁りにくい」

短い間。
二人の視線が交わる。
その一瞬、空気が一度だけきしむように沈んだ。

王女はその間に立ちながら、胸の奥で息を整える。
辺境伯の眼差しがふと自分に向けられる――
その中には敵意も侮りもなく、ただ探るような静けさが宿っていた。

「殿下の御振る舞い、遠くの地にまで届いております。……帝国の光の広がり、まことに見事にございました」

王女は微笑を崩さず、わずかに頭を下げた。
「陛下の御導きのもと、務めを果たしたまでです。それが民の安らぎに繋がったのなら、嬉しく思います」

辺境伯は一拍置いて頷く。
「ええ……“安らぎ”こそが、国を支える要。陛下の秩序に、それが加われば、帝国は盤石にございましょう」

言葉は穏やかで、微笑も崩れない。
だがその奥に、何か別の思いが、かすかに覗く。

ダリオスは沈黙のまま盃を回し、琥珀の液面に映るその顔を見下ろしていた。
「……ならば、これからも見届けるがいい。帝国がどう呼吸するかを」

辺境伯は深く一礼し、音もなく下がった。



 * * *



人々の笑声が再び広がるころ、細身の男が一歩、絨毯の上へ進み出た。

銀の糸で織られた淡灰の衣。
声を張り上げるでもなく、ただ静かな足取りで、二人の前に立つ。
「陛下、王女殿下。今宵はまことにおめでたい節目にございます」

帝国成立と共に解体した元老院の筆頭。
帝国の成立以前から行政を司り、理と制度をもって国を支えてきた文官派の象徴。
その眼差しは穏やかに見えて、いつも数字と秩序の奥を測っている。

「陛下の御治めになる帝国が、かくも短き歳月でここまで繁栄いたしましたこと、この身をもってお祝い申し上げます。
 ――そして殿下のご活躍、まことに世に光を添えました」

王女は一歩進み出て、静かに頭を垂れる。
「過分なお言葉です。陛下の御心をお伝えする務めを果たしたまでにございます」

筆頭は微笑を浮かべた。
その笑みは柔らかいが、どこか測りかねる静けさを伴っている。

「象徴が民に寄り添うこと――それは美しく、心強いことです。
 ただ……民の心は、時に情によって速く流れるもの。陛下の御統べる秩序に、その波が及ばぬよう、我らも一層励まねばなりませんな」

ほんの一瞬、沈黙。
会話の形をした針のような言葉が、空気の表面を掠めた。

筆頭は姿勢を正し、わずかに視線を下げて言葉を継いだ。
「もっとも……民の声というものは、遠く離れた高殿まで届きにくいもの。帝国が真に盤石たらんとするなら、陛下の理を支える“耳”もまた、必要かもしれませぬ。
 ――かつての元老院のような、意思を汲む仕組みとして」
言葉は穏やかだった。

ダリオスは盃をゆるやかに傾け、琥珀の液面を見つめながら答える。
「心配はいらぬ。流れは秩序のうちにある。
 ――俺がそう定めた」

その声の低さに、筆頭は一瞬だけまぶたを伏せた。
「それは何より。陛下のご確信こそ、この帝国の礎にございますから」

再び礼を取り、静かに退く。

王女は微笑を保ったまま、胸の奥で小さく息を吐く。
彼の言葉の一つ一つが、穏やかでありながら、何か刃のように磨かれているように感じた。

盃を卓に戻しながら、ダリオスの黒瞳がわずかに去っていく男の背を追う。
微笑の影に、冷たい光が沈む。



 * * *



場のざわめきがひととき途切れた。その静けさの中を、香のように漂う声があった。
「陛下、王女殿下……このような麗しき夜にお会いできますこと、神々の御導きとしか思えませんわ」

振り向けば、淡紅の衣を纏った女性が、優雅な所作で一礼していた。

「……神殿と縁の深い侯爵家の者だ」
王女の隣りで、ダリオスがそっと囁く。

女侯爵はゆっくりと顔を上げ、薄褐色の瞳に満ちる光を、まっすぐ王女に向けた。
「殿下の神殿での御奉仕のお姿を、わたくし共は皆、深い感謝をもって見ておりました。あの御手が祈りの灯を掲げられた時――神々が再びこの地に息を吹き込まれたと、信ずる者も少なくございません」

王女は静かに微笑を返す。
「神々の息吹は、誰のもとにも等しく届くもの。わたくしは、ただ務めを果たしただけでございます」

「いいえ、殿下」
女侯爵の瞳がかすかに潤む。
「その御血は古き契りを受け継ぐもの。帝国が忘れた“情”と“赦し”を、再びこの世にもたらすために選ばれたのだと、わたくしは思っております」

一瞬、空気が固まる。
周囲の貴族たちの笑声が遠のき、蝋燭の炎だけが微かに揺れた。

ダリオスはその沈黙を断ち切るように口を開く。
「神々が定めたのは秩序だ。赦しもまた、秩序のもとにあってこそ意味を持つ」

少し離れたところで、セヴランがわずかに眉を寄せ、ダリオスと視線を交わした。
二人の間に、言葉にならぬ苦みが走る。――狂信の匂いは、理の壁をも蝕む。

女侯爵はゆるやかに頭を垂れる。
「ええ、もちろんでございます、陛下。けれど、秩序が導く先にも、なお神の光が在りますように――」
その言葉には逆らう響きはなく、ただ柔らかな熱が潜んでいた。

王女は胸の奥に奇妙な感覚を覚える。
自分を通して何か別の信仰が語られている――そんな錯覚。

女侯爵はもう一度だけ、王女を見つめた。
「どうかお忘れなきように。あなたは、この地の祈りに選ばれたお方です」

その声は祝福のようでいて、どこかにぞくりとする温度を孕んでいた。

女侯爵が去ると、王女は静かに息を吐いた。



 * * *



再び楽の音が奏でられ始め、穏やかな音楽の調べに、空気が和らぐ。

その中を、一人の男がゆるやかに進み出る。
「陛下、王女殿下。お目にかかれて光栄にございます」

澄んだ声だった。
だが、隣りのダリオスが応じてその名を呼んだ瞬間、王女の胸がひとつ大きく波打つ。

(この男が……オルディス・フェルナード)

息が詰まる。
淡い金茶の髪に、灰を溶かしたような瞳。
礼装に過度な装飾はなく、立ち姿も控えめだが、その目元に刻まれた疲労の陰が、歳月の重みを物語っていた。

一年前の夜会にも、おそらく彼はいた。
だがそのとき王女は、彼が同郷の者だとは気づけなかった。
名は帝国風に改められ、髪と瞳もどこか異国の混じりを思わせたからだ。

――『オルディス・フェルナード。地方行政官にして、旧王国――殿下の故国の出身です。本来の名はオレク・フェルナン。かつては王都北方の統治家門に連なる者です』

執務室で、今回の夜会に招かれる貴族たちについて、王女に淡々と説明するセヴランの声がよみがえる。

――『旧王国内で改革を唱え、帝国との橋渡しを試みていた人物です。帝国軍の王都進軍に際して功を挙げ、現在は帝国の貴族に列せられています』

その時のセヴランの声は、いつにもまして感情を排していた。

その声を聞きながら、王女は以前、神殿でルデクがから聞かされた話を思い出していた。

――『我らは帝国の剣にのみ斬られたのではありません。旧き幹はすでに脆く、内より腐っていた。帝国軍が一夜で王城と神殿を制圧できたのは――門を開き、伝令を偽った内通者たちの裏切りがあったからです』

一年前の夜会で、自分はこの男とどんな言葉を交わしただろう。
この男は、あの夜、どんな眼差しで自分を見ていたのだろう。
そして今宵、何を思いながら、この男の挨拶を受けるべきなのだろう――。

セヴランから彼の名を聞かされた時、王女の胸を巡ったのはそんな思いだった。

その男が、今、目前に立っている。
王女の指が杯の縁をかすかに震わせた。胸の奥に冷たい波が広がる。

「陛下の御治世の下、民は日々安らぎを得ております。
 私も、地方の行政官として微力ながら、その一端を担えますことを誇りに存じます」

オルディスの言葉にダリオスは短く頷いた。

「報告は受けている。旧王国領の再整備も順調と聞く」

「は。……まだ道半ばにございますが、失われた地を新しい形で繋ぐのが、今の私の務めかと」
男の言葉は穏やかだった。
だがその奥に、焼け跡のような静かな痛みが透けていた。

王女は黙して微笑を保った。
けれど、その瞳の奥には複雑な光が揺れる。

(あなたの“務め”が……あの夜を招いた)

彼女の沈黙を、男は読み取ったのかもしれない。
ふと、灰を含んだ瞳がこちらを見た。
ほんの刹那、そこに浮かんだのは――後悔か、それとも安堵か。

「殿下のお働き、私も聞き及んでおります。市場でのご決断、あれは……」

言葉が途切れる。
彼は何かを言いかけ、しかし、自ら飲み込むように口を閉ざした。

代わりに、深く礼を取る。
「陛下、殿下。帝国の繁栄を、心よりお祈り申し上げます」

その背が去っていくのを見送りながら、王女は胸の奥に痛みと名のつかぬ空白を抱えた。

ダリオスは何も言わず、ただ杯を指で回す。
視線の先で、オルディスの影が燭光の海に溶けていった。

(……あの人もまた、“生かされた者”なのね)

王女の胸に、冷たい理解が落ちる。
誰もが、何かを捨ててここに立っている――
その静かな実感だけが、夜会の最後に残された。



── 夜更け 皇帝の私室 ──

深い金茶の絨毯に、蝋燭の光が揺れていた。

窓辺の影に凭れ、ダリオスは静かに杯を傾けていた。
空はすでに夜半を越え、帝都の灯もひとつ、またひとつと途絶えていく。

「……現れなかったな」

「はい。気配も兆しも、何一つ」
卓の前に腰をかけ、杯を傾けていたセヴランが応える。

「王女殿下を狙う“影”――もし帝国の貴族がかくまっているとすれば、夜会に紛れ込ませることも不可能ではなかったはずですが」

「いずれにせよ、気配はなかった。狙い澄ました沈黙ほど、気味の悪いものはないな」
ダリオスの言葉は、わずかに唇の端に苦味をにじませる。

「逆に用心したか。あるいは、まだ“試している”段階か……」
セヴランが思案するように言う。

「……どいつもこいつも、尻尾を出さぬ」
ダリオスは低く呟いた。
「辺境伯、元老院、神殿派……火を抱えたまま微笑を浮かべている」

蝋燭の灯が揺れ、壁に長い影を落とす。
ダリオスは窓辺から離れ、椅子の背に身を預け、淡く息を吐いた。
「王女が思った以上に立ち始めている。連中も、その変化を見て、手を出す時を計っているのかもしれん」

セヴランは静かに頷く。
「安易に手を出せば、どう転ぶか読めませんからね」

杯を卓に置く音が、静寂に落ちた。
「……いずれにせよ、警戒は続けろ。連中の静けさは、眠っている証ではない。狩人が息を潜める音だ」

「心得ております」
セヴランの声もまた、夜の色に溶けていった。

窓の外では、夏の夜風がかすかに帷を揺らしていた。
その動きすらも、何かの前触れのように思えた。
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