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第二章
祈 八
しおりを挟む「真由様はさすがだねえ……」
真由のおかげで、娘がいじめられることがなくなった、松江はそう語った。
みなほに語ったのではない。
共にいた、茂代と田津に話したのをみなほも聞いた。
小さな子供が石を投げつけられるなんて、可哀想だと思っていた。それがなくなったのなら、本当に良かった。みなほは、ただそう安堵した。
祭礼の十日前から、みなほは贄として鎮守の社での精進潔斎に入る。
いよいよ潔斎に入るという朝。
工兵衛のもとで、みなほは宮司と会った。
「……この半年でみなほもよう肥えたな。良い娘ぶりよ。見違えた。これならば贄として恥ずかしからぬ姿であろう」
「ありがとうございます」
宮司はみなほを褒めた。それから祭の段取りの話を聞いた。話は短く、潔斎から祭礼の間は口をきかぬ事、輿から落ちぬよう気をつけよと念を押されただけだ。
「あの、皆に礼を言いたいのですが、少し戻って良いですか?」
「さっき申しておったではないか」
常にみなほに付きそうよう命じられた侍女達のうち、このときは田津が工兵衛のところへみなほを届けて、もう退いている。田津には別れ際にありがとうと言った。
「これから口をきいてはいけない、ので、他の人たちにも」
他の二人にも挨拶を、とみなほは思ったのだ。
さがれ、と工兵衛が命じる。素早く頭を下げて、みなほが工兵衛と宮司のもとから出て行った。
「けなげだな」
「ふん。そもそもは我らと同じ血筋。人が良いのだ」
乾いた声で宮司が短く笑う。
「しかし、……まあ何も申すまい。真由殿は若殿様の元で幸せになるだろうよ。栄耀栄華、思いのままだな。人の親とは因果な事だ。己の子の幸いのためには、何事の犠牲も構わんと来ている」
「おう、それが親じゃ。何の憚りがあろうか」
真由と若殿も、辰の大祭を見物に来る。贄のみなほより、工兵衛にも宮司にも、そちらの方が大切だった。
侍女達が、潔斎のために去ったみなほの部屋を掃除する。
「やっと厄介払いだねえ」
「でも祭りが終わったら戻ってくるんだろ?」
「どうだろうかね。この部屋に戻るとは限らないじゃないか。あっちの小屋に放り込んどきゃいい」
「贄の役さえ終われば、もうみなほに用なんかないよ」
「贄でも何でも、ホラ、御下がりなんて、真由様がそんなことにもなったら、あんまり気の毒だ。みなほなら、ねえ」
「あの調子じゃ、こんなことでもなきゃ、男も知らないで一生終わっちまっただろ。何人かに御下がりでやられたって、その中の誰かが旦那になってくれるかもしれないし」
「みなほならいいだろ。ちょっとばかり男どものおもちゃになって傷物になっても、泣く親も居ないんだ」
「みなほのせいでうちの子は近所の子達にいじめられたんだよ! 少しくらい痛い目にあえばいいんだ」
「何にしても、やっとあたしらも楽になれるってもんだよ」
「これ以上みなほに関わって、こっちまで呪いに触れたらたまらないからね。あたしはまだ死にたくないよ」
「子を殺すのもまっぴらさ。みなほの父親みたいに!」
「行って、帰ってこなきゃ良いんだけど」
「くわばら、くわばら」
あはは、と三人の女達の笑い声が聞こえた。
「ちょっとは、みなほだっていい目を見ただろうよ。良い物を食べて、良い小袖だって着られた」
「ああ! 前は汚かったもんねえ」
「村長さまの機転には感心だよ。卯年の神籤では村長の名前が引かれたってのに、うまいことみなほを養い子ってことにして」
「真由様が贄なんかになったら気の毒すぎるよ。みなほでいいさ、贄は」
「今まで生かしてもらった恩を旦那様に返せて、みなほも良かったってもんだ」
贄なんか
痛い目にあえばいい
みなほのせいで
みなほなんか
みなほでいい
女達の話し声を聞き、すう、と心が冷たくなるのを感じた。
しくり、と胸が痛い。
足音を立てずに後ずさる。
好き、嫌い、という感情はみなほには解らない。
ただ聞こえてきた言葉に含まれる棘が、みなほの心を痛め、手足の先を凍えさせた。
同時に、夏に若殿に迎えられていった真由の桜色の頬を思い出す。
美しく、気立ての優しい真由のことを、みなほは仰ぎ見た。侍女達は冷たかったが、真由は何くれと無くみなほに親切だった。真由の親切に触れると、みなほは心がじわりと温かくなるのを感じた。
若殿に連れられて去る真由を、上の屋敷の家人達も、村人達も温かい目で見送った。みなほも同じように、優しかった真由の幸いな笑顔を見送った。
身代わり、と聞いた。
真由があのような桜色の笑顔で、美々しい衣装を着て、颯爽とした若殿に愛でられるために、みなほは代わりに贄になるのだ。
そういうことか。
(……贄、って何?)
祭礼での大役であることだけは知っている。
何度か、祭礼の段取りについてみなほは教わってきた。衣装を新たに仕立てるために、宮司が指示をしに来たこともあった。
贄という役目は、綺麗な絹の衣を着るのだと、みなほは浮き立った。
ただそれだけだと思っていた。
(痛い目にあえばいい、ってどういうこと?)
おぼろに感じていた様々な疑問が、みなほの脳裏で言葉の形を取ったのは、潔斎が始まってからだ。
どうして?
(私は、呪われているの?)
黙って祈祷を受けながら、みなほはずっと考えた。祖父や父が、家族を殺したとは聞いた。己だけが生き残りだと。血まみれで息絶えた家族を、はきとは記憶にはないが、みなほは見たそうだ。
潔斎に入ってからは口を利くなと命じられている。
それゆえに、全ての疑問も、答えも、己の頭の中でのみ考える。
何年か前に、祭の日と気付かずに外へ出て、村の人々の遠巻きの冷たい視線に怯えた。
今年の春に、不意に村長の工兵衛に住まいから連れ出された。立派な姿をした国主と若殿に目通りし、祭礼での大役を務めるのだと宣言された。
その日から、みなほは小屋での一人住まいを終え、屋敷の中で侍女達に傅かれる身になった。嬉しかった。着る物も良くなったし、食べる物も増えた。
何より、人が身近に居ても、遠巻きにはされなくなった。どころか、村の者達が尊崇する真由や、工兵衛がみなほには温かな笑顔を見せてくれることもあったのだ。
みなほは、人が側に居る温もりを八歳で失った。春から今までの間に、失ったそれを少しずつ思い出した。
その温もりの側に、また戻れるのだと思っていたのに。
いきさつを知らないまま贄となって、幸いに思っていたのに。
偽りだったようだ。
贄とは、忌まれるべき役目のようだ。
贄とは、痛めつけられることのようだ。
真由は、みなほを身代わりにした。
だから真由と工兵衛はみなほに優しかった。
あの遠巻きの冷たい視線は、ずっとみなほに向けられていた。
真由や工兵衛は、忌まれるべき役目をみなほに押しつけた。
その安堵故に、みなほに笑顔を見せていただけだった。
何も、変わってなどいなかった。
誰も変わってなどいなかった。
みなほに優しい眼差しをくれる人は、今もなお、誰もいないままだったことを悟った。
失った父母きょうだいのことを思い出す。
みなほが痛い思いをしたときに、いたわってくれる手が過去にあった。可愛らしい笑顔を見せてくれた弟が、無邪気に伸ばしてきた手もあった。それらはもうこの世にはない。失ったことだと噛みしめた。
全てを奪ったのは、父だった。
あの日。
家に帰ったみなほが見たのは、鉈を握って血にまみれて倒れた父と、その鉈に襲われ身体を欠損した母ときょうだい達だった。
皆、こときれていた。
赤い、赤い、その光景は、不意にみなほの脳裏をかすめて、不明瞭なまま消える。
「生き残ったのはお前だけだな」
工兵衛の声が頭上から降ってきた。見上げると、彼の顔も真っ赤に染まって見えた。そしてみなほは気を失った。工兵衛はべたついた手でみなほを支えた。
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