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第三章
密 四
しおりを挟む御子ヶ池の麓六か村は、この年はかつて無い豊作だった。
「龍彦様が、よほど、贄をお気に召したに違いない」
みなほが姿を消したことを知らぬ、上岡の集落の他の者は噂する。
機会があれば、その贄の姿でも拝みたい。そんなことが語られた。
祭礼から、一月半が過ぎた。
上岡の工兵衛の元には、愛娘の真由からの手紙が届いた。真由を見初めた若殿とは、その後も睦まじいという報告であった。
金色の稲浪が、風の渡りを目に見せる。
海の遠いこの土地では知らぬ事だが、潮騒に似た音だった。
そのころ、山麓の社の境内の下に水が湧いた。
鳥居をくぐって境内に上がる階段の横といった場所だ。やがてその湧き水は一間四方ほどの水たまりになり、上の屋敷の者と神社の宮司が周囲を岩で囲んで保護した。
みなほが住んでいた小屋は、取り壊された。
祭礼でみなほが姿を消してから、一月後に村長の工兵衛が命じた。
「そもそも、不吉な家なのだ。とうに壊してしまえば良かった」
七歳の子までは知らぬ。
だが村のほとんどの者は、忘れていない。その小屋が禍々しい出来事の舞台だったことを。
魑魅魍魎の呪いであったか、ただ一人二人の狂気であったのか。
梁や柱に使われた材は、山麓の社で火にくべられた。
常の家ならば、火災に遭ったとしても使える材を人に分けることもある。だがみなほの小屋に使われていた物を欲しがる者など、村には一人も居ない。
「これでようよう、忘れ得る」
「みなほは、戻ってくるだろうか?」
「さあな」
吐き捨てた工兵衛の言葉は、贄の帰りを決して期待せぬ、という証だろう。
帰ってきたのなら、人に知られぬうちに喉を掻き切って、御子ヶ池の畔にでも埋めてしまうべきだ。
贄となったみなほが帰らなかったことは、工兵衛にも村の者達にも、むしろ幸いなことと感じられた。
贄を迎えに行った担い手達に犯されたあげくに死んだのか、あるいは彼の若者達が言うように本当に社から姿を消したのか。定かではない。
どちらでも良い。誰もその真実を探る気は無かった。
たとえ担い手がみなほの命を奪ったとしても、咎めるには、当たらない。
険しい山中を根城にする杣人か、行きずりの賊にでも攫われたか。
恐らくその辺りが真実であろうが、捜索の要はない。ただ、他の村人に難が及ばぬように、周囲の警戒を強めた。
冬に近くなる頃。
工兵衛の元に、真由から懐妊の知らせが届いた。
「めでたいことよ」
村の者達も口づてに喜びを広め、誰ともなく集まって、上岡の上の屋敷で祝宴が何度か開かれた。
「祭りからこのかた、幸いばかり」
「今年はかつて無い豊作であった上、真由様がご懐妊とは」
「何とめでたいことだ」
言祝ぎの傍らで、人々は口々に言う。
「忌みを祓ったのだな。きっと、やはりあれらは呪いであったのだ」
「居なくなって良かったのだ」
「もっと早くに焼き捨ててしまえば良かったのだなあ」
「そもそも贄として生まれついた者だったのだな、あれは。龍彦様に捧げたことで、これ、このとおり村はますます栄えるぞ」
みなほを贄に差し出して良かったと、語り合った。
親の代からみなほが住んでいた小屋を焼き捨てて、良かったと語り合った。
厄払いは時に大切なことだと、納得するように、語り合った。
やがて雪が来る頃に、みなほの住まいの後に小さなほこらが建った。
みなほやその親兄弟を祀るためではない。
血まみれの惨劇があった、呪わしかったその場所に、永劫、誰も住まぬようにという配慮だった。
龍彦はみなほと屋敷に居るばかりではない。
時折、一族の寄り合いのようなものに出る。留守にする。不在はほとんど一日か二日ほどで、すぐに帰ってくる。
「行っておいでなさいまし」
「すぐに帰る。可愛い妻が居るからな」
そっと床に指をついて見送るみなほの顎の下をくすぐりながら、龍彦は出かけていく。
見送ると行っても、屋敷の階段をおりて白い靄の奥に消えていくまでのほんの数瞬のことだ。
みなほがみたところ、龍彦は歩いて去る。乗り物もなく、馬もない。靄に隠れた後は、どのように、どこまで出かけていくのか知らない。
(人ではないお方だから、空でも飛ばれるのかしら?)
まさか、と冗談のように思う。鳥のように羽ばたく龍彦を想像し、みなほは一人の寝床の中で密かに笑った。
龍彦の不在の日々は、みなほには寂しい。
「おきさき様、お寂しゅうございませんか?」
「一緒に貝合わせでもいたしましょう」
「双六でもいたしましょう」
あゆとますが屋敷の下から声を掛けてくれる。龍彦に、みなほの無聊を慰めるように言い含められているのだろう。
彼女たちは屋敷に上がることができない。
何故かは知らないが、上がれないと言うからには、みなほが降りるしかないのである。
縁側の階段から降り、一番下の台に、貝桶から出した貝を並べた。
貝の内側には、美しい極彩色の絵が描かれている。雅な王朝の風景は、みなほには解らないものだ。ただ、貝の中の御殿の絵と、今のみなほの居る住まいの造りが似ていると思うくらいである。
貝合わせは、あゆが上手だ。
「そなたはとても目が良いのでしょうね」
「申し訳ありません」
「何故謝るの?」
「だって、おきさき様に勝って頂かないと」
「ふふ」
あゆの返事にみなほは笑った。子どもらしく、勝負事に勝つのは嬉しいのだろう。
勝敗のある遊びは、勝ったほうが面白い。だから、あゆはみなほに勝って欲しいと思いつつも、自らも勝ちたい気持ちがせめぎ合ってしまうのかもしれない。
「そのうち私も勝ちますから、良いの。今は、あゆが三つ勝ってるのね。私が一つ、ますも一つ。次の時は、私も勝てるようにがんばる。それで良いのよ。ねえ、ます?」
「おきさき様のおっしゃるとおりでございます」
「ありがとうございます、おきさき様。今度は双六をいたしましょうね」
あゆが安堵したような顔で笑う。
仕えるべき人に不快な思いをさせていないと解って、安心したのだろう。
その夜も次の夜また次の夜も、龍彦は戻らなかった。
これほど長い留守は、みなほが来てから初めてだった。
さらに次の日の朝。
みなほは身体が重くだるいように感じ、しばらく床に寝付いていた。
(ここでも風邪を引くのかしら)
常に温かく、素肌に近いような衣装でさえ快適な気候で過ごしている。
得体の知れない物だが、かつての粗末な食糧に比べれば十分な量の食べ物で腹も満たされていた。
風邪など引きようもないと思う。だが、立ち上がるとめまいがする。
肥えて身体が重いのかもしれない。かつてよりずっと満たされていて、食糧を得るために山を駆け回ることもなく、気楽に座って過ごすことが多い。
以前より肥えたとはいえ、みなほの腕も足も、同じ年頃の娘達よりよほど細い。腹の周りもへこんだままだ。背の肉も、胸の膨らみも、薄い。
「おきさき様、お食事でございます」
呼ばれて、みなほはふらりと階段のほうへ向かった。
一段、二段、と降りたときに、足を滑らせて階段の下に落ちた。
そこは、やはり水だった。
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