水霊の贄 孤独な少女は人ならぬ彼へ捧げられた

春想亭 桜木春緒

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第四章

俗 五

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 浮草たち歩き巫女の一行は、上の屋敷から社へ居所を移した。
「工兵衛旦那は贄の御前を認められぬそうだ」
 代わって宿を提供する宮司が言った。

 みなほは閉じ込められた倉庫から急に外へ出された。倉庫ではなく、社殿の中に入る。
「みなほよ、やはりそなたは神に嫁いだ身だ。それがよくわかったゆえ、今までのことを許されよ」
「いえ、何も……」
 村で尊崇を集めていた宮司が、目の前で頭を下げる。不思議な心地だった。
 今までのこと、とは、今からどのくらいさかのぼったことを指すのだろうか。倉庫に閉じ込められた頃だろうか。村長と宮司が共謀して真由の代わりに贄に為したことだろうか。それとも、もっと以前だろうか。
(何を許せと言うの?)
 水に垂れた墨汁のような、じわりとした影が心に広がった。
 これからは宮司の屋敷で暮らすことになる、と聞いた。
 宮司の屋敷は神社の横にある。村に最も近い一の鳥居と、先頃泉が湧き出したニの鳥居の間から横に行く。池と参道を隔てて向かい側といった場所である。村長の上岡工兵衛の住まう上の屋敷の次に、村では大きな家だ。
 宮司が歩き巫女の浮草を呼び込んだ。
「では頼む」
「お任せを」
 何だろう、と問う気持ちでみなほは浮草を見る。浮草が外に声を掛けると、他に二人の女が来た。
 お召し替えを、と若い巫女が言う。みなほが返事をする前に、勝手に帯が解かれる。粗末に色あせた藍の衣から、白い小袖に着替える。肌触りに覚えがあった。
 贄として御子ヶ池に行ったときの小袖である。
(龍彦様……)
 にわかに胸の奥が潤う。
 白小袖の上に袴を着け、水干を被せられた。誰かが髪に櫛を入れている。もつれた毛を無理矢理に引くため、首が後ろに反った。おそらく数本の毛がぶちぶちと音を立てて抜けた。痛い。
 仕上げに浮草がみなほの唇に紅を差す。
「これでいい」
「どうしてこんな風に」
「そうだね。たぶんこんな風にした方が村の人が喜ぶからさ」
「村の人」
 ぞく、とみなほは背筋が寒くなった。
 かつて、贄になる前に、村の人々から向けられた冷たい視線を思い出す。皆に向けられた忌避の念は、骨身に痛いほど心に刻まれている。思えばみなほは足が震える。
「みんなが楽しみにしてるよ。外で待ってんだ」
「え、……嫌」
「嫌、だって? なんでさ?」
 浮草が頓狂な声を上げる。
「だってさ、こうしてちょっと綺麗にしてみんなに見てもらえるんだよ? 気分が良いじゃないか」
「みんなに見られるの、が、嫌……」
 遠巻きの、あの冷たい、忌まわしい者を見る目が、忘れられない。
「変な子だねえ」
「でも、かえって良いじゃない。隠して、ちょっともったいつけたほうが、値打ちが出るよ」
「わかった。それじゃ追っ払ってくる」
 一番若い女が社殿の外へ出て行く。
 黄昏時に、みなほは浮草に手を引かれて社殿を出た。通り道には誰も居ない、と聞いて少し安心した。
 春が近い。淡い靄を感じるような斜めの光で、鳥居の影が参道に落ちている。聞いたとおり、そこに人は居ない。
 社殿から境内を通り、鳥居をくぐる。石段を降りたところで池に気付いた。澄み切った水をたたえる小さな池である。過去にはなかったと覚しい。
「そなたが姿を消した後に現れた泉だ。斜面の岩から湧き出でた」
 一間四方ほどのを岩で囲ってある。その中に清らかな水が湛えられている。
 浮草を先頭に、女が二人、その後ろにみなほが続き、みなほの後ろに宮司が続く。
 女達の後ろからつと列をはずれ、みなほは小さな池に近づいた。水に触れたかった。
(御子ヶ池の水に似ている)
 そのくらい綺麗に澄んだ水であった。触れると冷たい。
 雪がようよう消える頃に御子ヶ池の畔に帰ってきた。あれから一月ほど過ぎただろうか。ふと気付けば地面芽吹いた草も伸び、木々には萌黄の若葉が散見する。春になりつつあった。
 ふと、めまいのように目の前が揺らいだ。手を水から離し、かがめていた膝を伸ばす。
 深く幽かに、雷と似た音が耳の底を過ぎた。
「地揺れかな」
 宮司が呟く。よくある微震だったのか、とみなほは得心した。

 梅の花が終わる頃には、近隣の村々からもみなほを拝む者が現れるようになった。 
 早朝に、被衣《かずき》などで顔を隠して社殿に上がる。社を訪れる人にみなほを拝ませ、ある程度人が集まったら、浮草たちがみなほについて語る。御子ヶ池の神に愛でられて、彼の世界に渡り、そして帰ってきた。みなほが浮草に話したことを、聞いた浮草が誇大に喧伝する。
「この御子ヶ池を祀る麓の村々でも、かつてこのように、長く御子様のご寵愛を受けた女は居ない。みなほ様は奇瑞の証」
 などと宮司が話を締めると、社殿の下に居る人々が嘆声を漏らしながら手を合わせるのだ。供物の価値が高い順で、みなほの近くに座らせ、話が終わると、みなほは最も近くに座る者の頭を撫でることになっていた。
「おお、ありがたや」
「この子にもどうか」
 子を抱いた母親に頼まれて、小さな手を摩ることもある。それでその子の母親は泣いて喜ぶのだ。
 日が落ちる頃に、また宮司の屋敷に戻る。歩き巫女の一行が供物を捧げ持ちながら、ずっとみなほに付きそう。
 屋敷に帰ると、宮司と歩き巫女達が供物を部屋に広げて、分けて取る。絹や糸、衣などは女達が喜ぶ。米や芋、干した魚などは、食膳に並ぶ。
「たいした物がないわねえ」
「こんな田舎じゃあね。仕方ない」
「絹なんかは、そのうち町で売れば良い」
 みなほは屋敷に帰ると奥の小さな部屋に一人で籠もる。皆と話すことがなく、居心地が悪い。そのため供物の分配には加わらない。
 一人で、着替える。水干と袴を脱ぎ、小袖になる。水干を畳むのも手早くなった。
 離れたところから、浮草たちの話し声が聞こえる。話が遠い。心も遠い。彼女たちの話は、みなほにはよくわからない。どこか知らぬ土地の国守様だの、お金持ちの商人だの、そういう人たちに会えばもっと何か良いことがあると言う。それが、よくわからないのだ。
「こんなに大事にしてやってんのにさ」
 という声が聞こえた。
 みなほは、龍彦の屋敷に居たときが懐かしかった。
(帰りたい)
 と思う。帰るべき領域でないことは、解っている。
 あの湖水の屋敷は、つまり龍彦の世界では、みなほは異物だった。龍彦から離れて、あの湖水に落ちたときに身に染みた。
 あゆやますも懐かしい。可愛らしく、みなほを慕ってくれた。おきさきさま、と崇めるように呼び、みなほが喜ぶと嬉しいと笑った。
(あの子達も人ではなかったけれど)
 それでも、みなほの心をずっと温めてくれた。
 村で生きていたときに知らなかった心の温もりを、あゆとますと、そして誰よりも龍彦が、みなほに与えてくれた。
 壁際に寄りかかって、膝を抱えてうずくまる。目を閉じて、龍彦の事を思い出す。そっと、指先であの美しい顔をなぞるように記憶をたどる。
 離れたところから、手を打ち鳴らし、歌う声が聞こえてくる。
 人々の楽しげな笑いの中に、みなほは入れない。

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