27 / 44
第三章
10
しおりを挟む
「……」
源治が強張る。
「私は……、私は」
月子は重ねられたままの手を引こうとした。だが源治は離さない。
「汚らわしいんです。もう、どうにもならないんです。……お願いだから、触らないで。貴方に触られたくないの」
身体が痛いような思いに駆られて、源治は眉を寄せた。
やはりそうなのか、と先ほどの懸念を思い出して愕然とする。
手を源治に預けたまま、うなだれた月子の項が黄昏時の光に白い。
だが、源治は月子に如何に思われても構わないと思った。嫌悪されていようと憎悪されていようと、彼女の助けになりたい。今の望みはそれだけだ。
「触らないで下さい。……貴方を、汚してしまいたくないの。私は、もうこんなに、汚らわしいから……」
「どこに汚れがある? どこに?」
搾り出すような声で話す白い項に、かぶさるようにして源治は鋭い口調で、月子の語尾を打ち消すように言った。
月子が手を引こうとする。それを源治は許さない。両手で月子の手を包み、強く握って離さない。
「此処に居るのは、心の優しい人だ。違いますか? 親のために、弟や妹のために、自ら傷つくことも厭わない、優しくて強い娘さんだ」
「やめてください……!」
「月子ほど、気高く綺麗な人を俺は他に知らない」
「もう、やめてください。お願い」
重ねた手の上に、月子の涙が散る。
「優しくしてもらう謂れなんてないんですから」
言葉が嗚咽に飲まれて消えた。
肩を震わせる月子を、座した源治が抱き寄せた。背に腕を回し、静かに力を込める。華奢な身体が源治の胸に収まった。抗うようにしばらくは月子は身じろぎしていたが、やがて、強張った肩から力が抜け、静かになり、弱く震えた。
山の陰が少し伸びた頃。
月子は嗚咽を治めて、何度か深く呼吸を繰り返す。源治はただ黙って、そんな月子を胸に抱いていた。
「戻らないと……」
「ああ……」
離したくない。だが、それは許されない。
月子が源治の胸を押し離す。抗わず、背に回した腕の力をそっと抜く。
無言で、月子の襟元に金の包みを差し入れた。
「これは、」
「要らないと思うなら、捨てて下さい」
「でも……」
月子の頬を、源治の指先が拭う。
濡れた睫毛が、源治の眼差しに近い。涙で洗った瞳が澄んでいる。両手で月子の頬を包んだ。掌の中の、鼻筋の細い、小さな美貌。何処もかしこも儚く細い面差しの中に、そこだけ柔らかな膨らみを持つ唇がある。果実のように見えた。その果実に、唇を触れた。
離した唇の隙間から、月子が
「もう、父も帰る頃だと思います」
と言った。どこか冷徹なその頭の働きが、源治には痛々しく感じられる。
源治は立ち上がり、しゃがみこんだままの月子を置いて、斜面を上がった。少し笑みが浮かんでいる。だがすぐにその緩みは彼の表情から消えた。淡い甘い口付けに酔っている場合ではない。状況は何も変わっていないのだ。
それでも胸の痞えが少し軽い。
月子は、自分の汚れで源治を汚したくないと言った。源治を嫌悪したのではなかった。
胸の辺りに触れる。月子が縋っていたところに、涙が少し残っていた。
(いつになったら……)
畑野家の戸口の前で溜息をついた。月子が涙を流さずにすむ日が来るのだろう。
その目の端に、役所を退けて来た畑野の小柄な姿が見えた。
月子はまだ、桑畑の中に居る。涙がひくのを待っている。泣き顔を見られては、弟妹達に心配を掛けてしまう。
皆、泣きたいのは同じだろう。
いつでも、涙の出る要因は転がっている。目の前にずっとある。隙間だらけの傾いだ家と、継ぎだらけの衣類。事足りぬ糧と、それと裏腹に育つ身体。
弟妹の皆が涙を堪えているのを、月子も痛いほど知っている。誰かが堰を切ってしまえば、何日でも泣き続けていられるほどの悲しみを、弟妹達の皆が持っている。
どうして、と月子はまた思う。
講に行かなければ良かった。それは常に思う。
だが行かずにはもう家の暮らしが成り立たないことも痛感している。
先日の城下の滞在で、月子は同じ年頃の娘が色鮮やかな振袖をまとって笑っている姿を見た。
あれが、現実に存在している人々の姿なのだとしたら、今の自分の姿は、今の暮らしは何なのだろう。そんな虚しさにとらわれた。そんなものを目の当たりにして、いっそう、講などに加わらなければ良かったと痛感した。
見たくなかった。
恵まれた人々と、貧しい自分との差異を、知りたくなかった。
そこに差が存在するのだと知っていても、あまりにもあからさまに見てしまったことが、月子を寂寞とした悲しみに落としている。
源治と父親が、父の居室の脇でなにやら話しているのが解る。
それを、知らぬげに見過ごしながら、病に沈んだ弟の太三郎の介抱をした。喀血の回数が増えている。そのたびに医師を呼ぶ。
この日の昼にも医師を呼んだ。医師は、わずかな介抱をした後に高い値を付けた薬を置いていく。
月子が講で得たものの多くは、そのために消えていった。
わずかな糧で畑野家の夕餉の支度が終わった頃、知らぬ間に源治が去っていたことを月子は悟った。
はあ、と溜息をつく。
もう息は白くならない。春になって、藍の空を見上げる夕暮れにさえ温もりが宿る。
それでも、胸の中にある寒さを覆う日差しは、未だ遠いものであるようだった。
源治が強張る。
「私は……、私は」
月子は重ねられたままの手を引こうとした。だが源治は離さない。
「汚らわしいんです。もう、どうにもならないんです。……お願いだから、触らないで。貴方に触られたくないの」
身体が痛いような思いに駆られて、源治は眉を寄せた。
やはりそうなのか、と先ほどの懸念を思い出して愕然とする。
手を源治に預けたまま、うなだれた月子の項が黄昏時の光に白い。
だが、源治は月子に如何に思われても構わないと思った。嫌悪されていようと憎悪されていようと、彼女の助けになりたい。今の望みはそれだけだ。
「触らないで下さい。……貴方を、汚してしまいたくないの。私は、もうこんなに、汚らわしいから……」
「どこに汚れがある? どこに?」
搾り出すような声で話す白い項に、かぶさるようにして源治は鋭い口調で、月子の語尾を打ち消すように言った。
月子が手を引こうとする。それを源治は許さない。両手で月子の手を包み、強く握って離さない。
「此処に居るのは、心の優しい人だ。違いますか? 親のために、弟や妹のために、自ら傷つくことも厭わない、優しくて強い娘さんだ」
「やめてください……!」
「月子ほど、気高く綺麗な人を俺は他に知らない」
「もう、やめてください。お願い」
重ねた手の上に、月子の涙が散る。
「優しくしてもらう謂れなんてないんですから」
言葉が嗚咽に飲まれて消えた。
肩を震わせる月子を、座した源治が抱き寄せた。背に腕を回し、静かに力を込める。華奢な身体が源治の胸に収まった。抗うようにしばらくは月子は身じろぎしていたが、やがて、強張った肩から力が抜け、静かになり、弱く震えた。
山の陰が少し伸びた頃。
月子は嗚咽を治めて、何度か深く呼吸を繰り返す。源治はただ黙って、そんな月子を胸に抱いていた。
「戻らないと……」
「ああ……」
離したくない。だが、それは許されない。
月子が源治の胸を押し離す。抗わず、背に回した腕の力をそっと抜く。
無言で、月子の襟元に金の包みを差し入れた。
「これは、」
「要らないと思うなら、捨てて下さい」
「でも……」
月子の頬を、源治の指先が拭う。
濡れた睫毛が、源治の眼差しに近い。涙で洗った瞳が澄んでいる。両手で月子の頬を包んだ。掌の中の、鼻筋の細い、小さな美貌。何処もかしこも儚く細い面差しの中に、そこだけ柔らかな膨らみを持つ唇がある。果実のように見えた。その果実に、唇を触れた。
離した唇の隙間から、月子が
「もう、父も帰る頃だと思います」
と言った。どこか冷徹なその頭の働きが、源治には痛々しく感じられる。
源治は立ち上がり、しゃがみこんだままの月子を置いて、斜面を上がった。少し笑みが浮かんでいる。だがすぐにその緩みは彼の表情から消えた。淡い甘い口付けに酔っている場合ではない。状況は何も変わっていないのだ。
それでも胸の痞えが少し軽い。
月子は、自分の汚れで源治を汚したくないと言った。源治を嫌悪したのではなかった。
胸の辺りに触れる。月子が縋っていたところに、涙が少し残っていた。
(いつになったら……)
畑野家の戸口の前で溜息をついた。月子が涙を流さずにすむ日が来るのだろう。
その目の端に、役所を退けて来た畑野の小柄な姿が見えた。
月子はまだ、桑畑の中に居る。涙がひくのを待っている。泣き顔を見られては、弟妹達に心配を掛けてしまう。
皆、泣きたいのは同じだろう。
いつでも、涙の出る要因は転がっている。目の前にずっとある。隙間だらけの傾いだ家と、継ぎだらけの衣類。事足りぬ糧と、それと裏腹に育つ身体。
弟妹の皆が涙を堪えているのを、月子も痛いほど知っている。誰かが堰を切ってしまえば、何日でも泣き続けていられるほどの悲しみを、弟妹達の皆が持っている。
どうして、と月子はまた思う。
講に行かなければ良かった。それは常に思う。
だが行かずにはもう家の暮らしが成り立たないことも痛感している。
先日の城下の滞在で、月子は同じ年頃の娘が色鮮やかな振袖をまとって笑っている姿を見た。
あれが、現実に存在している人々の姿なのだとしたら、今の自分の姿は、今の暮らしは何なのだろう。そんな虚しさにとらわれた。そんなものを目の当たりにして、いっそう、講などに加わらなければ良かったと痛感した。
見たくなかった。
恵まれた人々と、貧しい自分との差異を、知りたくなかった。
そこに差が存在するのだと知っていても、あまりにもあからさまに見てしまったことが、月子を寂寞とした悲しみに落としている。
源治と父親が、父の居室の脇でなにやら話しているのが解る。
それを、知らぬげに見過ごしながら、病に沈んだ弟の太三郎の介抱をした。喀血の回数が増えている。そのたびに医師を呼ぶ。
この日の昼にも医師を呼んだ。医師は、わずかな介抱をした後に高い値を付けた薬を置いていく。
月子が講で得たものの多くは、そのために消えていった。
わずかな糧で畑野家の夕餉の支度が終わった頃、知らぬ間に源治が去っていたことを月子は悟った。
はあ、と溜息をつく。
もう息は白くならない。春になって、藍の空を見上げる夕暮れにさえ温もりが宿る。
それでも、胸の中にある寒さを覆う日差しは、未だ遠いものであるようだった。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる