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第三章
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「……」
源治が強張る。
「私は……、私は」
月子は重ねられたままの手を引こうとした。だが源治は離さない。
「汚らわしいんです。もう、どうにもならないんです。……お願いだから、触らないで。貴方に触られたくないの」
身体が痛いような思いに駆られて、源治は眉を寄せた。
やはりそうなのか、と先ほどの懸念を思い出して愕然とする。
手を源治に預けたまま、うなだれた月子の項が黄昏時の光に白い。
だが、源治は月子に如何に思われても構わないと思った。嫌悪されていようと憎悪されていようと、彼女の助けになりたい。今の望みはそれだけだ。
「触らないで下さい。……貴方を、汚してしまいたくないの。私は、もうこんなに、汚らわしいから……」
「どこに汚れがある? どこに?」
搾り出すような声で話す白い項に、かぶさるようにして源治は鋭い口調で、月子の語尾を打ち消すように言った。
月子が手を引こうとする。それを源治は許さない。両手で月子の手を包み、強く握って離さない。
「此処に居るのは、心の優しい人だ。違いますか? 親のために、弟や妹のために、自ら傷つくことも厭わない、優しくて強い娘さんだ」
「やめてください……!」
「月子ほど、気高く綺麗な人を俺は他に知らない」
「もう、やめてください。お願い」
重ねた手の上に、月子の涙が散る。
「優しくしてもらう謂れなんてないんですから」
言葉が嗚咽に飲まれて消えた。
肩を震わせる月子を、座した源治が抱き寄せた。背に腕を回し、静かに力を込める。華奢な身体が源治の胸に収まった。抗うようにしばらくは月子は身じろぎしていたが、やがて、強張った肩から力が抜け、静かになり、弱く震えた。
山の陰が少し伸びた頃。
月子は嗚咽を治めて、何度か深く呼吸を繰り返す。源治はただ黙って、そんな月子を胸に抱いていた。
「戻らないと……」
「ああ……」
離したくない。だが、それは許されない。
月子が源治の胸を押し離す。抗わず、背に回した腕の力をそっと抜く。
無言で、月子の襟元に金の包みを差し入れた。
「これは、」
「要らないと思うなら、捨てて下さい」
「でも……」
月子の頬を、源治の指先が拭う。
濡れた睫毛が、源治の眼差しに近い。涙で洗った瞳が澄んでいる。両手で月子の頬を包んだ。掌の中の、鼻筋の細い、小さな美貌。何処もかしこも儚く細い面差しの中に、そこだけ柔らかな膨らみを持つ唇がある。果実のように見えた。その果実に、唇を触れた。
離した唇の隙間から、月子が
「もう、父も帰る頃だと思います」
と言った。どこか冷徹なその頭の働きが、源治には痛々しく感じられる。
源治は立ち上がり、しゃがみこんだままの月子を置いて、斜面を上がった。少し笑みが浮かんでいる。だがすぐにその緩みは彼の表情から消えた。淡い甘い口付けに酔っている場合ではない。状況は何も変わっていないのだ。
それでも胸の痞えが少し軽い。
月子は、自分の汚れで源治を汚したくないと言った。源治を嫌悪したのではなかった。
胸の辺りに触れる。月子が縋っていたところに、涙が少し残っていた。
(いつになったら……)
畑野家の戸口の前で溜息をついた。月子が涙を流さずにすむ日が来るのだろう。
その目の端に、役所を退けて来た畑野の小柄な姿が見えた。
月子はまだ、桑畑の中に居る。涙がひくのを待っている。泣き顔を見られては、弟妹達に心配を掛けてしまう。
皆、泣きたいのは同じだろう。
いつでも、涙の出る要因は転がっている。目の前にずっとある。隙間だらけの傾いだ家と、継ぎだらけの衣類。事足りぬ糧と、それと裏腹に育つ身体。
弟妹の皆が涙を堪えているのを、月子も痛いほど知っている。誰かが堰を切ってしまえば、何日でも泣き続けていられるほどの悲しみを、弟妹達の皆が持っている。
どうして、と月子はまた思う。
講に行かなければ良かった。それは常に思う。
だが行かずにはもう家の暮らしが成り立たないことも痛感している。
先日の城下の滞在で、月子は同じ年頃の娘が色鮮やかな振袖をまとって笑っている姿を見た。
あれが、現実に存在している人々の姿なのだとしたら、今の自分の姿は、今の暮らしは何なのだろう。そんな虚しさにとらわれた。そんなものを目の当たりにして、いっそう、講などに加わらなければ良かったと痛感した。
見たくなかった。
恵まれた人々と、貧しい自分との差異を、知りたくなかった。
そこに差が存在するのだと知っていても、あまりにもあからさまに見てしまったことが、月子を寂寞とした悲しみに落としている。
源治と父親が、父の居室の脇でなにやら話しているのが解る。
それを、知らぬげに見過ごしながら、病に沈んだ弟の太三郎の介抱をした。喀血の回数が増えている。そのたびに医師を呼ぶ。
この日の昼にも医師を呼んだ。医師は、わずかな介抱をした後に高い値を付けた薬を置いていく。
月子が講で得たものの多くは、そのために消えていった。
わずかな糧で畑野家の夕餉の支度が終わった頃、知らぬ間に源治が去っていたことを月子は悟った。
はあ、と溜息をつく。
もう息は白くならない。春になって、藍の空を見上げる夕暮れにさえ温もりが宿る。
それでも、胸の中にある寒さを覆う日差しは、未だ遠いものであるようだった。
源治が強張る。
「私は……、私は」
月子は重ねられたままの手を引こうとした。だが源治は離さない。
「汚らわしいんです。もう、どうにもならないんです。……お願いだから、触らないで。貴方に触られたくないの」
身体が痛いような思いに駆られて、源治は眉を寄せた。
やはりそうなのか、と先ほどの懸念を思い出して愕然とする。
手を源治に預けたまま、うなだれた月子の項が黄昏時の光に白い。
だが、源治は月子に如何に思われても構わないと思った。嫌悪されていようと憎悪されていようと、彼女の助けになりたい。今の望みはそれだけだ。
「触らないで下さい。……貴方を、汚してしまいたくないの。私は、もうこんなに、汚らわしいから……」
「どこに汚れがある? どこに?」
搾り出すような声で話す白い項に、かぶさるようにして源治は鋭い口調で、月子の語尾を打ち消すように言った。
月子が手を引こうとする。それを源治は許さない。両手で月子の手を包み、強く握って離さない。
「此処に居るのは、心の優しい人だ。違いますか? 親のために、弟や妹のために、自ら傷つくことも厭わない、優しくて強い娘さんだ」
「やめてください……!」
「月子ほど、気高く綺麗な人を俺は他に知らない」
「もう、やめてください。お願い」
重ねた手の上に、月子の涙が散る。
「優しくしてもらう謂れなんてないんですから」
言葉が嗚咽に飲まれて消えた。
肩を震わせる月子を、座した源治が抱き寄せた。背に腕を回し、静かに力を込める。華奢な身体が源治の胸に収まった。抗うようにしばらくは月子は身じろぎしていたが、やがて、強張った肩から力が抜け、静かになり、弱く震えた。
山の陰が少し伸びた頃。
月子は嗚咽を治めて、何度か深く呼吸を繰り返す。源治はただ黙って、そんな月子を胸に抱いていた。
「戻らないと……」
「ああ……」
離したくない。だが、それは許されない。
月子が源治の胸を押し離す。抗わず、背に回した腕の力をそっと抜く。
無言で、月子の襟元に金の包みを差し入れた。
「これは、」
「要らないと思うなら、捨てて下さい」
「でも……」
月子の頬を、源治の指先が拭う。
濡れた睫毛が、源治の眼差しに近い。涙で洗った瞳が澄んでいる。両手で月子の頬を包んだ。掌の中の、鼻筋の細い、小さな美貌。何処もかしこも儚く細い面差しの中に、そこだけ柔らかな膨らみを持つ唇がある。果実のように見えた。その果実に、唇を触れた。
離した唇の隙間から、月子が
「もう、父も帰る頃だと思います」
と言った。どこか冷徹なその頭の働きが、源治には痛々しく感じられる。
源治は立ち上がり、しゃがみこんだままの月子を置いて、斜面を上がった。少し笑みが浮かんでいる。だがすぐにその緩みは彼の表情から消えた。淡い甘い口付けに酔っている場合ではない。状況は何も変わっていないのだ。
それでも胸の痞えが少し軽い。
月子は、自分の汚れで源治を汚したくないと言った。源治を嫌悪したのではなかった。
胸の辺りに触れる。月子が縋っていたところに、涙が少し残っていた。
(いつになったら……)
畑野家の戸口の前で溜息をついた。月子が涙を流さずにすむ日が来るのだろう。
その目の端に、役所を退けて来た畑野の小柄な姿が見えた。
月子はまだ、桑畑の中に居る。涙がひくのを待っている。泣き顔を見られては、弟妹達に心配を掛けてしまう。
皆、泣きたいのは同じだろう。
いつでも、涙の出る要因は転がっている。目の前にずっとある。隙間だらけの傾いだ家と、継ぎだらけの衣類。事足りぬ糧と、それと裏腹に育つ身体。
弟妹の皆が涙を堪えているのを、月子も痛いほど知っている。誰かが堰を切ってしまえば、何日でも泣き続けていられるほどの悲しみを、弟妹達の皆が持っている。
どうして、と月子はまた思う。
講に行かなければ良かった。それは常に思う。
だが行かずにはもう家の暮らしが成り立たないことも痛感している。
先日の城下の滞在で、月子は同じ年頃の娘が色鮮やかな振袖をまとって笑っている姿を見た。
あれが、現実に存在している人々の姿なのだとしたら、今の自分の姿は、今の暮らしは何なのだろう。そんな虚しさにとらわれた。そんなものを目の当たりにして、いっそう、講などに加わらなければ良かったと痛感した。
見たくなかった。
恵まれた人々と、貧しい自分との差異を、知りたくなかった。
そこに差が存在するのだと知っていても、あまりにもあからさまに見てしまったことが、月子を寂寞とした悲しみに落としている。
源治と父親が、父の居室の脇でなにやら話しているのが解る。
それを、知らぬげに見過ごしながら、病に沈んだ弟の太三郎の介抱をした。喀血の回数が増えている。そのたびに医師を呼ぶ。
この日の昼にも医師を呼んだ。医師は、わずかな介抱をした後に高い値を付けた薬を置いていく。
月子が講で得たものの多くは、そのために消えていった。
わずかな糧で畑野家の夕餉の支度が終わった頃、知らぬ間に源治が去っていたことを月子は悟った。
はあ、と溜息をつく。
もう息は白くならない。春になって、藍の空を見上げる夕暮れにさえ温もりが宿る。
それでも、胸の中にある寒さを覆う日差しは、未だ遠いものであるようだった。
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