神のお告げと人の道

春想亭 桜木春緒

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 拝殿は、建ててから何年経っただろう。柱も床も渋く黒ずんでいた。
 神前には先ほど孫八郎がしたためた神籤の紙を載せた三方が並べて置かれている。右を一、左を二とする旨、宮司が説明した。その手前には高さ一尺ほどの六角柱の木箱が立っている。木箱の小さな穴から番号の付いた棒を振り出すのだ。
 神籤の方向を見つめて、政事総宰の沢以下諸奉行など重役達が寒そうに肩を竦めて座していた。畳にして十数畳ほどの広さの拝殿は、大の男が十人も座ると窮屈だ。
 孫八郎は彼らの一歩前の場を示されてそこに膝を下ろした。
 大幣をざっと振って宮司が祝詞を唱える。孫八郎の位置からは宮司の背に遮られて紙が載った三方は見えない。祝詞が途切れた。大幣を傍らに置き、神籤の箱を孫八郎に差し出した。
 手渡された六角柱の箱をおもむろに振る。からからと頼りない音で、中に入れた棒が二本しかない事が解る。口になる小さな穴を下に向けると、一、と数字の書かれた棒が顔を出した。
 宮司が恭しく神籤の箱を受け取り元の位置に戻す。右側の三方から取り上げたもの掲げて身体を横に向け、左の隅にすり足で後ずさる。
 宮司が神籤を開いた。
「開」
 言ったとおりの文字が、ひらかれた紙に書いてある。
 く、と孫八郎の喉の奥が詰まったように鳴った。その音をため息のような別の声が隠した。ため息は孫八郎の背後から漏れた。政事奉行の山本のようだ。彼は恭順を主張していた。
「今一度……」
 山本と共に桑名への残留を唱えていた小寺が呻くように言った。
「何を申す。鎮国公、守国公の神託であろうが。無礼な」
 再度の神籤をという望みを、東下を唱えていた杉山が遮った。
「しかし、これほどの大事。三度までは神籤を引いてしかるべき」
「未練がましいぞ」
 尻の後ろのざわめきに、孫八郎は首を振り向けた。
「あと二度、神籤を引こう。それで良かろう。――宮司殿」
 うなずいた宮司が、開いた神籤を再び畳んで三方に戻した。
(何故だ)
 袴の膝の辺りを握りしめた。宮司が大幣を掲げる背中を見るともなく見る。

 守、とのみ、孫八郎は書いたはずだった。
 祖霊を欺く罰当たりの仕業とは思いながら、孫八郎は「開」という神籤を作らなかった。三方に載せたのは「守」と書いた神籤のみのはずだった。
 だが宮司が引いた籤は、「開」。
 つまり今は、正しく二つの選択肢が三方に載っていることは解った。幸いにあと二回、神籤を引くことにはなった。それで本当に開と決まれば、先ほどの議論のときに言ったとおり、孫八郎は城の留守居をして腹を切らねばならなくなる。
(もしやすると、これこそが神意であるかもしれんな)
 真実の神意ならば、それも良いか、とほのかに笑いたくなった。
 それも一個の武士として面白い死に様かもしれない。
 皆を主君定敬の下に送り出した後、白装束でも纏って一人、城で敵の将を迎える。何が官軍だ、と腹を切るその場で痛烈に面罵してやろうか。
 錦の御旗を押し立てただけで、にわかに官軍などと正義面をするとは片腹痛い。これまで桑名藩や会津藩の士が、帝のおわす京の治安のためにどれほど労を払ってきたか。今ごろ官軍などと言っている薩長土肥の者達より、よほど強く、勤王の志を示してきたはずだ。正義は、彼ら官軍にはない。あんな連中の足元に抗いもせず跪くようなことは、士道に悖る。
「酒井殿」
「は?」
 憤りのような物思いに耽っている間に、宮司の祝詞が終わったらしい。先ほどと同じように神籤の箱を振った。二、と書かれた棒が飛び出した。
「守」
 と、宮司が言った。おう、と声が上がった。孫八郎の口からも同じような嘆声が漏れる。また解らなくなった。神籤はもう一度だ。次で、決まる。
「どうぞ」
 箱を受け取って、乾いた唇を噛みしめる。
(鎮国公、守国公……。正しき道を示し給え)
 掌は合わせぬが、目を固く閉じて胸の中で祖霊の名を唱え、孫八郎は祈った。
 官軍と称している者達は、間違っている。彼らに頭を下げるのは、これまでの桑名の家中の働きを否定するようなものだ。これまでに命を落とした者達も報われぬ。我らは間違っていない、罪人ではない。でき得れば己も、信念に従った道の中で命を終えたい。
 否。
 守るべきは何なのか。武士の意地なのか、名誉なのか。城か、土地か。否。
 孫八郎の胸中に、願いがこだまする。
 ほお、という沢のおっとりした声で、孫八郎は目蓋を上げた。振り出した神籤は、一であった。
「開、であるか。決まり申したな」
「よし。それでよし。急ぎ、皆を集めて触れを出さねば!」
 元より東下を主張していた杉山が勇んで立ち上がった。それ立て、行こう、と皆を促す。
 背後に気配を聞きながら、孫八郎はようやく目を開き、細く長い息を吐く。冷や汗がうなじを少し湿らせた。

 ともかくも藩の進路は東下と定まった。
 桑名に残った藩士達を城に集めて出陣の触れを出し、家族の避難なども急ぎ手配しなければならない。忙しくなる。
 ぼんやりしている暇など一瞬もないはずだが、孫八郎は尻に根が生えたように立ち上がれなくなっている。宮司と禰宜が神籤を載せた三方を片付けるのを何も映さぬ目で見送った。
「酒井殿よ」
 他の者達が去って広くなった拝殿に、孫八郎と沢だけが残っている。
「これは如何な物だろうな」
 沢が懐から折りたたんだ紙を取り出して開く。孫八郎の筆跡で「守」と書いてある。
「祖霊を、また皆を、欺くようなことはいかんだろうよ」
 神籤を作ったところへ沢が来て、孫八郎は慌てて三方に神籤を上げた。それから潔斎に向かった。
 あのときに沢が神籤の中身を改めて、「開」の札を作って三方に載せたのだろう。
「ご容赦くだされ」
「鎮国公守国公の神託により、我らは東下、殿を追うことになり申した。神たる祖霊のお告げとして正しく選ばれたことゆえ、もうよろしかろう。さて……。誰か広間に火を入れて置いてくれると良いのだがのう」
(正しく、とは?)
 小さな憤りを感じた。

 何を以て正しいとするのか、沢には解るのだろうか。本当に守るべきものが何なのか、沢は判断が付いているのか。神籤の公正さなどという、小さな正しさを守ることだと沢は思っているのか。
 しかし確かに姑息な真似をしようとしたのは、孫八郎のほうである。神籤の選択肢を勝手に一つとし、祖霊と家中の者達を欺こうとした。それが沢に露見した。
 孫八郎は沢に向き直って深々と頭を下げた。
 沢については、あまり好人物だと思ったことはない。だがこの場で、神籤のすり替えについて暴くことなく沈黙を守ってくれたことは、ありがたかった。
 存外に優しげな声で、さあ行こう、と沢が孫八郎に言う。
 正しく神託で決まったこと。それは、その通りだ。
 拝殿から出た孫八郎は天を仰ぐ。正しいことは何か。かしこき祖霊に、もう一度問いただしたくなった。

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