Fail 少年少女は興味本位で失敗する

春想亭 桜木春緒

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 時計を振り返る。十六時を指していた。

 帰らなきゃ、と奈恵が言った。怯えたような顔をしている。母親が帰宅すると言っていた時間が迫っている。
 圭介の胸に乗せていた汗ばんだ頬をあげて、見上げている。肌が紅潮して血が透けている。
「ねえ、圭ちゃん……」
「わかってるよ」
 奈恵の肩に手を回して、壁にもたれて座っている。その姿勢からそれでも圭介が動こうとしないのを、奈恵は眉を寄せて見上げた。
「圭ちゃん、ママ帰ってきちゃう」
「わかってるよ。……つまんねぇな、お前」
 圭介が苛立たしく奈恵を見下ろす。
「泣くな。……っとに」
「だって」
 身体を起こした。だって、と奈恵はもう一度言った。
 だがそれ以上の何かは、言葉にならない。圭介が目の端で奈恵を見ていた。眼球の白いところが青白く澄んでいて、綺麗な目で、そして酷く奈恵には冷たい。

 すっと視線を外して、圭介は不自由な動作で着衣を整える。
 うなだれたまま圭介に背を向けて、奈恵もベッドの下から下着を拾って穿いた。
「奈恵、手ぇ……」
 振り向いた奈恵の手を取った。圭介の重みに奈恵は耐えて、彼が立ち上がる動作に介添えした。
 玄関で、圭介が靴を履くのを手伝う。
「誰も、通ってないよ」
 ドアを少し開けて、奈恵が言った。人目に付きたくないという圭介の気持ちは、奈恵と同じだった。
「ここでいい。……出なくて良い」
 扉を押さえる奈恵の前を、ぎこちなく圭介が通る。
「またな…」
 通り過ぎる前に、少し身をかがめて、圭介は奈恵の額にキスをした。
 ずっとうつむいていた奈恵が顔を上げた。頬を紅くしている。
「気をつけてね。早く、良くなってね……」
 圭介が振り向いて頷いたときには、奈恵の胸の温度がふわりと上がるように、彼は柔らかい笑顔になっていた。
 きい、と門扉の軋る音がした。
 扉を閉めて、鍵をかける。

 (何で……?)座り込んで泣きたくなった。
 しかしそうしてもいられない。急いで、奈恵はシャワーを浴びるために浴室に行った。
 お帰り、と母親を迎えたとき、奈恵の髪はまだ濡れたままだった。
「あら、もうお風呂入ったの?」
意外なような声で言われて、母の顔を見ずに頷く。少し恥ずかしくなった。

 はあ、と奈恵は溜息をつく。
 窓を開けて、部屋の中の生ぬるい空気を掃う。秋の暮れ方の冷たい風が、奈恵の頬を通り過ぎた。
 ベッドの周りを仔細に見る。圭介が忘れた物などないだろうか。取っ手を縛って密封したスーパーのレジ袋の中に、丸めたティッシュが詰まっている。圭介が使ったコンドームも入っていた。これを次の燃えるごみの日に母親の目に付かないように処分する必要がある。

 窓を、閉めた。
 もう一度、深く溜息をついて、奈恵は圭介の居た辺りに頬をつけてベッドに横たわった。
 ついさっきまでここで、と奈恵は胸をさざめかせて思う。圭介が居たところに、普段とは違う違和感がある。夏のあの日以来の感触だった。
 圭介は、うっとりとしたように気持ちが良いと何度も奈恵の耳元に囁いていた。それなのに、どうしてそのことが終わった途端に彼は冷たくなるのだろう。

 好きじゃないのかもしれない。
 圭介は、奈恵を好きではないのかもしれない。ただ、そういうことが出来る身体が欲しいだけなのかもしれない。
(好きになって欲しいの……?)
 奈恵は自分に訊ねた。答えはない。考えたくないと思う。ただ、鼻の奥がつんとして、涙が湧いて出た。

 ママが帰ってきちゃう、と奈恵にせかされてひどく苛立った。
 だが、長居しすぎたと圭介もわかっていた。わかっているからこそ、解りきったことを言う奈恵に苛立ちを覚えたのだ。
 奈恵の家の最寄り駅の改札を通ったときに、知人は居ないだろうと見渡した。何よりも、ここで叔母になど会っては最も困る。
 
 のろのろと走る私鉄電車で、ほぼ二十分。奈恵の家のほうが東京に近い。圭介の自宅の最寄り駅に着いたときに、ほんの少し空が暗くなっていた。
 駅ビルの書店に立ち寄り、入院中に発行されてはずの「Number」を探す。圭介の記憶では、ここの店ではバックナンバーを扱っていたはずだ。すみません、と立ち読みをする人の間を松葉杖で不自由に避けながら、棚を見上げた。一番、右端に探しているものがあった。
 帰宅が遅いことを不審がられた時には書店に居たと言おうと思った。

 薄い雑誌を小脇に抱えた。少し頭をめぐらせる。グラビア誌や、もっと過激で卑猥なものを扱っているコーナーが見える。
(ふん……)
 とそこで立ち読みをしている男性の後姿を心の中であざ笑った。
 脚を開いて、胸元の膨らみを強調してもの欲しそうな目を向けているグラビアの表紙など、今の圭介には馬鹿馬鹿しい物のように感じられた。胸をどきどきさせながらその写真を見ていた記憶も遠くはないが、夢中でそんな雑誌を見ている男を気の毒なように思う。
 その表紙の女の子の方が大人で胸も大きい。
 だが、奈恵のほうが肌がきれいで顔立ちが良い。清楚な雰囲気がある。奈恵は、年齢も年齢だからまだ子供じみていて、大粒の目が、きれいというよりは、あどけなくて可愛らしい。

 ついさっき。
 そのあどけない清楚な顔を歪めて、圭介の物を奈恵は口に咥えて吸った。そして圭介の上で奈恵は、可愛い声で喘ぎながら華奢な身体を淫靡に波立たせていた。圭介が奈恵の中を擦ってぐちゅぐちゅと出入りする音が、耳に蘇った。
 思い出すと、またおかしな気分になりそうだ。

 緩みそうになる口元を、咳き込む振りをして押さえる。そのままレジに向かった。
 奈恵は、おとなしい。彼女の、眉を寄せる弱弱しい表情など、いっそ壊してしまおうかと思うような雰囲気がある。何かいつもおどおどしている。言いたい事を半分も言えない性質だろう。
 そんな弱い奈恵が、圭介には苛立たしい。苛立たしいが、逆に圭介はそこにつけこんでいるともいえる。
 携帯電話を見た。奈恵からメールも電話も入らないのはわかっている。自分から誰かに何かを働きかけることを、奈恵はたぶんできない。
 一方で、奈恵は求められれば断ることもできない。このまま、もし圭介が奈恵を求めることを止めれば、そのまま、ただのいとこ同士に戻るだろう。だが圭介が奈恵を欲しいと思う限り、関係は終わらない。無論、今は終わらせるつもりなどない。
 千円札を出しておつりをもらって、バッグの中に雑誌を入れた。

 気づけば、奈恵のことばかりを考えている。
(あいつ俺のこと好きかな)
 ふと、思いついたことに、圭介は少し呆然とした。奈恵の性格はわかっている。だからこそ、そんなことを考えた。

 求めれば断れない奈恵。
 ただ断れないだけだろうか。圭介を。
 好きであるとは限らないのではないだろうか。

 ふ、と溜息をつく。
(それならそれでも、まあいいけど)
 たそがれ時の住宅地の景色を流す車窓を見ながら圭介は思うことにした。
 どうせ、奈恵が圭介を好きでも嫌いでも、会う機会さえあれば、やることはできる。欲しいときに会えば、奈恵は圭介に身体を開くだろう。抵抗したとしても、あの華奢で非力な身体を押さえつけるのは簡単なことだ。
(それに、どうせ……)
 と思う。
 圭介を身体に入れてしまえば、奈恵は、心地の良い感触を求めて自ら身体を揺する。恥じらいながら、嫌といいながら、秘所の襞を濡らして圭介を締め付けることを、奈恵の身体は快いものともう覚えてしまっている。今日もそうだった。
 奈恵の気持ちはどうでもいい。残酷だとは思わない。奈恵は奈恵で、圭介とすることが気持ちいいのだろうと思うからだ。
 圭介にも奈恵にも、不都合なことは何もない。悪い事は何もしていない。そう思った。

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