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 奈恵、と怒鳴りそうになって、声が出ない。
 その圭介に、マサが近づいてくる。

「圭介! おい、圭介、どういうことだ? 何で……?」
「マサ、お前……」
 フルスイングで、圭介はマサの頬を平手で張り飛ばした。
「グーじゃないだけよかったと思えよ、マサ」
 チームのジャージの上に、さおりが着ていたのと同じベンチコートを着ていた。スパイクが泥と芝で汚れていた。練習の後か、または練習中に抜け出して、すぐにマサが駆けつけたのはそれで見て取れる。
 困惑した顔のマサのジャージの襟首を掴んで引っ張り、壁に押さえつけた。背の高いマサを見上げて、強い視線でにらみつける。
「何やってんだ、お前……。マサ、この馬鹿野郎」
 大声にはならなかった。場をわきまえて、というわけではない。こみ上げる思いが、声を掠れさせた。圭介は押し殺した声でマサを罵る。
「圭介! さおりはどうした? さおりは……」
 マサは圭介に身体を揺さぶられながら、抵抗することもなくただ、さおりは、とだけ何度も言った。
「後で、何回でも殴っていい。さおりはどこなんだよ? 教えてくれ」
 頼むから、と圭介の両肩をマサの両手が強く掴んだ。
 圭介より背が高い。骨格も大きく、逞しい。角張った輪郭をして、美形ではない。細い眼裂の目蓋が一重で、そこが爽快で涼しげだ。
 その目が、必死の眼差しで圭介を捉えている。
「三階の……、ナースステーションに行けば教えてもらえるよ」
「ありがとう」
 それだけを言い残して、圭介の手を振りほどいてマサはエレベーターに大股に向かっていく。

 最悪だ、と思いながら圭介はマサを見送った。
 さおりが好きになったのがマサだったのは、どこかで納得していた。だが、そのマサは、考え得る限り、最悪のことをさおりにした。腹が立ってたまらない。
(さおりが好きなんだろ? 好きなら、どうしてもっと大事にしようとしなかったんだ? それができないマサじゃないだろうに)
 圭介の知る限り、一番良い奴、と思うのがマサだ。大事な友達で、尊敬できる選手であり、頼もしい男だ。だから、さおりがマサを選んだことには納得が出来た。
 そのマサが、最悪の過ちを犯した。さおりに。
 圭介も、好きだったはずのさおりに。

 さおりを好きだったのはもう、過去のことだ。そう思うようにしようとしたのは、いつからだったか。

「もう圭ちゃんなんか嫌い!」
 耳にそんな言葉が蘇る。
 誰が、そんなことを言っただろう。
「奈恵……?」
 そんなわけがない。奈恵は、そんなことを圭介に言うはずがない。
 違う。
 言っていた。確かに奈恵の声で、奈恵の口からそう聞いた。
(違う、奈恵)

 見えなくなっていくマサの背中を呆然と目で追った。そのまましばらく立ちすくんでふと我に返る。
 奈恵を、追わなくては。

 好きなのは、奈恵だよ。
 先週、そんなことを口に出した気がする。
 大きな目を潤ませて、戸惑うように「ほんと?」と奈恵は言った。嬉しそうだった。
 圭介からのささやかな贈り物のシュシュを、この上なく大切に握りしめて、大事な物だと頷いた。奈恵は、間違いなく圭介を好きになっていたと思う。だからその気持ちに答えてやろうとした。
 嫌いなはずはない。奈恵を。
 奈恵も。……いや、そうだろうか。
 ふと、病院の自動ドアの前で圭介は足を止めた。
 透明のガラスが左右に開いて冷たい風を圭介に当てる。その先へ、寒い外へと圭介は足を踏み出せない。

 最悪だ。
 マサがさおりに犯した過ちは、最悪だ。
 無責任に子供を作り、さおりは苦しんで流産をした。しかしもし、そういうことにならなかったとしたら、あの二人は産まれくる子供の父と母になれたのか。
 いや、無理だ。
 それを、解っていたのか。納得の上だったら良い。だがマサの様子を見る限り、そんな覚悟は見えなかった。
 だったらどうして、そんなまねをしたんだ。
 もっと殴りつけて、責めてやりたかった。

 だが、どうなのだろう。
 圭介が奈恵にしてきたことは、それよりましなことなのか。
 避妊はした。そういう行為で子供が出来ることは知っているから、そうならないようにと気をつけていた。
 それだけで、圭介は奈恵を傷つけなかったと言えるのか。
 マサがさおりに犯した過ちより、ましだったと言えるのか。


 最悪だ。
 冬休みを終える二日前。
 圭介は、携帯を眺めながら頭の中で呟いた。

 発信履歴には、マサと、さおりと、その下に奈恵の名前が刻まれている。
 あの日から奈恵に何度も電話をかけた。メールも送った。
 奈恵は一度も電話にも出ず、メールへの返信もない。
(聞けよ、奈恵。……きっとお前、誤解してるから)
 だから電話に出てくれと願うように何度も奈恵にコールをした。
 何のために奈恵にそれを伝えたいのか。
 誤解をときたい。
 奈恵は、誤解をしているに違いない。

 赤ちゃん、残念だったね。……早くさおりさんのとこ行って。

 そして、もういい、と言って圭介の言葉に耳をふさいだ。奈恵はさおりが流産した赤ちゃんの父親を圭介だと思っているのだろう。
(奈恵、違う。……さおりとは、俺は何にもない)
 何も、ないんだ。と奈恵に言いたかった。
 さおりと、何もないと言うことが、どこか辛いようでもあったが、残念ながらそれは事実だ。好きだった。過去にそう思っていた。それだけの間柄で、それ以上にはなれなかった。
 奈恵にはなんて言えば良いのだろう。
 さおりのことは好きだったが、さおりはマサを好きになって、二人は付き合っているから、もうあきらめたとでも言うべきなのだろうか。
 病院の人たちに、さおりの恋人のように見られて嬉しかったが、本当は違うのだと言えば良いのだろうか。
 そこまで話す必要はないだろうか。
 ただ、さおりの子供の父親が自分ではなく、マサなのだと言うことだけ告げれば良いのだろうか。

 自分より傷ついて辛い気持ちの人が居ると思うと、気が楽になる。
 そんな、ひどい言葉を投げつけられるような、そんな間柄でしかない。さおりは、圭介の気持ちに気づいていたらしい。そして、はっきりしないから、と苛立っていたと言っていた。
 マサよりも先に、はっきり気持ちを告げていたのなら、さおりは圭介を選んだとでも言うのか。
 そんな期待を思い出させることも、残酷な仕打ちだ。

 さおりは、気の強い性格だろう。
 多分、そんなところに圭介は惹かれていたのだと思う。
 だから、奈恵の自信のない気弱な態度には、苛立たされる事が多かった。しっかりしろよ、と何度か言ったかも知れない。
 苛々してた、とさおりは言っていた。
 同じ事を、圭介は奈恵に言っていたかもしれない。
(……似てるんだ。奈恵と、俺は)
 そんなことに初めて気づいた。

 笑いたくなってしまった。
 さおりから見た圭介と、圭介から見た奈恵。
 はっきりと気持ちを表さないじれったいような態度で、相手を苛立たせていた。そんなところが、似ている。
 だから、苛立ったのか。自分の足りない部分と同じ姿を奈恵に見て、それが嫌で、苛立った。
 そういうことなのかも知れない。

 だから腹立たしくて、自分よりもなお気弱な奈恵を、痛めつけるようなまねをしていたのか。

 最悪だ。
 何度目か、圭介は頭の中で呟いた。
(ずっと、奈恵を傷つけてた)
 傷つけて、身体の快感だけ手に入れて、支配して、変な優越感に浸っていた。その優越感が、圭介にとっての救いだったのかもしれない。救われたくて、何度も奈恵を求めて、傷つけた。

 奈恵に対する気持ちは、多分そういうものだったのだろう。
(最悪なのは、俺じゃないか……)

 思う相手が別の人を好きになった。将来はプロのサッカー選手になりたいと願っているのに、大事な時期に負傷で身動きが取れない。圭介には、それが辛く、悲しいことだった。
 そんな自分を、自分で哀れんでいた。こんなに自分は可哀想なのだから、何をしても許してもらえるだろう、そんな気分でいたのだろうか。
 圭介には、そのことがひどく、惨めで情けない。今になって思い返せば、そんな過去の自分をたたきのめしたいくらいに腹立たしく感じた。
 
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