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番外編
風邪をひいた日
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テストは憂うつ。特に受験生だから、最近は二週間のうち三日はテストを受けていると思う。
人によってはもう受験日を迎えていたり、これから本番という人もいるので、さすがにお昼休みは前よりはみんな静かに過ごすようになったと思う。
お弁当にしようと知佳ちゃんと席を作っていると、別グループの子が一緒に食べようと誘ってきた。
「こっち、今日二人いないからさ。一緒に食べない?」
近くの机を借りてくっつけると、少し雰囲気も明るくなった。
やっとテスト終わったね、で始まる会話は、あの問題が難しかったとかあれ解けた?みたいなテストのことで持ちきりになった。
「でもさ、テスト三昧の毎日にもなんだかんだいってけっこう慣れてきたよね」
そう?と訝しげに返す子はちょっとぐったりしていて、確かにそうかも。と頷く子はわりと元気にご飯を食べている。
「こうしてテストに慣れてきたら冬休み入って、センターでしょ?そんで学校に来なくなって、そのまま卒業。あっという間よね」
「その頃までには大学決まってたいよね」
それは言わないでー!と何人かが悲鳴をあげて、教室のあちこちで笑いが起こる。
知佳は良いなぁ、とやっぱり知佳ちゃんは羨ましがられた。
「センター前に受験終了でしょ?遊びたい放題じゃん」
「遊ばないわよ」
ムッとしたように知佳ちゃんは眉を上げた。
「センターだって一般だって受けるわよ。受験料払ってるんだから」
「………とても社長令嬢になろうってヒトのセリフとは思えない、庶民的なコメントね」
庶民だもの、と不機嫌に言う知佳ちゃんに、はいはいとみんな苦笑する。
「良いなぁ。住むとこもきっと大っきなマンションでしょ?」
「大学生なったら遊びに行かせてねー」
上半身でしなだれかかる女の子の身体を、知佳ちゃんは肩で押し返した。
「ちゃんと大学生になれたらね」
「キビシーっ」
けらけらと笑った女の子たちが、結香はどう?とこっちを向いた。
「結香も推薦貰えたんでしょ?」
うんと頷くと、良かったねーと声を揃えて言われた。
「けばミイラに進路邪魔された人って、年に何人もいたんだって。結香、危なかったね」
「学年主任なのに、受験の邪魔するの?」
学校だって生徒の進路が決まらないと困ると思うんだけど。
首を傾げると、一応周りを見渡してから、あのね、とこそこそと説明してくれた。
「学力だけ見て、担任や親に進路の変更させるんだって。家の事情とか生徒の希望とか無視して、志望校よりこっちの大学の方が偏差値高いから変えなさいって」
「親としても、できるだけ有名なとこ行ってもらった方が話のネタになるでしょ?だから、親からの受けは基本的に良いらしいのよね」
私のときは、結局先生の方が折れてくれたみたいだけど、学校から電話があったらと思うとちょっとゾッとした。
「最近、けばミイラ静かだよね。なんでだろ」
一人が首を傾げると、「静かなら良いじゃん」ともう一人がつまらなそうに言った。
「いい加減テストばかりでイライラするんだから、ムカつく人間が少しでも視界から減ってくれ方が良い」
校則には反してないはずだけど、髪型や制服の着方をすごく細かく注意された子が多いから、学年主任の先生は特に女の子からはちょっと嫌われている。
顧問でもない茶道部にいきなりやってきて、「そんなだらだらと遊んでいるのなら他の部活に転部しなさい」みたいなことを言ってきたこともあるらしい。
「あっちこそ不法侵入ですよ」とアスカちゃんが怒っていたっけ。
みんな学年主任の先生の話にはもう飽きたみたいで、もうすぐ来る冬休みの話に夢中になっていた。
「受験勉強はするけどさ、やっぱりクリスマスは楽しみたいよね」
だね、とみんながお弁当を食べながら頷いた。
「女子高生最後のクリスマスなのにデートできないのはキツいなぁー」
嘆くように言った一人の肩を、このぉ、と隣の子が突っついた。
「デートできる相手がいるだけいーじゃん、このこのぉ~」
肩を突つかれながら、「でもさぁ」とその子はため息をついた。
「最近、学校でもあんま話せてないしさ。このまま自然消滅しそうで」
確かに先輩たちの中でも、すごく仲良かったのに受験シーズンにすれ違ったまま解れてしまったカップルはかなり多いらしい。
私たちがお付き合いを始めたのは、先輩の受験が終わってからだけど、もし受験前に付き合ってたら。その人たちみたいに別れてしまって、私の進路も違ったのかもしれない。
先輩が高校生のうちにお付き合いしてたら、学校行事ももっと楽しかったのに。と思うことは何度もあったけど、だからこそ今この子みたいな不安がないんだと思う。
ほぅ、と息をつくと、「どうしたの、結香?」と顔を覗きこまれた。
「なんで結香のが切なそうにため息つくかな」
「感情移入しちゃった?」
すっかり自分のことばかり考えてましたとは言えないので、慌てて首を横に振る。
「ううん?あー、あのね?クリスマスプレゼント、渡す時間はない?」
苦し紛れに出したアイデアに、そうしようかな、とその子は呟いた。
「結香は?何あげるの?」
「ふぇっ?ぇええっとね」
どもる私を見て諦めたのか、「知佳は?」とその子は知佳ちゃんに視線を移した。
「ご飯」
「それ……ここ最近の習慣の差し入れでしょ?」
ジト目を向けられた知佳ちゃんだけど、それが何?というように軽く目を見開いた。
「いつもと同じように過ごした方が、受験に差し支えないでしょ?」
「そうかもしれないけどさー」
ため息をついた女の子は、隣の子に帰りに買い物付き合ってよと誘った。
さっきまではちょっと落ち込んでいたみたいだけど、彼氏に何を買おうかで楽しそうにしている。
とりあえず元気になったみたいで良かったと心の中で頷いていると、「結香」と隣から呼ばれた。
「なに?知佳ちゃん」
振り返ると、知佳ちゃんは一生懸命里芋を箸で追いかけながらだけど、はっきり言った。
「クリスマスプレゼントは探さなきゃいけないだろうけど、ヘタにムリして暴走しないでよ?クリスマスケーキはたぶんあるんだから、いつかみたいにケーキの材料大量に買い込むんじゃないわよ?」
「…………………………うん。解った」
バレンタインのケーキを気に入ってもらえたみたいだから、心のどこかでいざ何も見つからなかったらお菓子を作ろうと思っていたのがバレていたようです。
私は大学受験じゃないからみんなより時間に余裕があるみたいに思われているみたいだけど、そうでもない。
休みの日は新居で使うものを探し回ったり、買い集めたものをしまったり。学校では受験組じゃない私だってテストを受けるから、テスト勉強だってしなきゃいけない。
それに、四月から行くことになっている専門学校から入学前に読んでおいた方が良い本や画集の一覧というのを貰っていて、これが意外に探すのが大変なのです。
タイトルを見ると、たぶん専門的な本なんだろうけど、学校の図書館や近くの本屋さんにはなさそうなものばかり。
読みなさいと指定されているわけじゃないけど、学校を通してわざわざリストを渡してくるってことはやっぱり読んでおかないと授業で困るような気がする。
こんな感じでいろいろあって、基本出不精の私も今年の冬はなかなかアクティブに活動しているのです。
やることが特になくて、毎日毎日が退屈、というよりはずっと良いと思うけど、毎日毎日頑張ってるつもりでも全部がほとんど終わらないまま日々が過ぎていくというのもなかなかキツいみたい。
手帳に書いた「やることリスト」が相変わらず更新されないことにガッカリしながら歩いていると、「ぶつかるわよ」と話しかけられた。
と、同時に足に何かが当たった。
鉄の棒かと思ったそれは、夏に見せてもらったハリセンだった。
「そろそろ前を見ないと、ぶつかるわよ」
「へ。ぁ………ぅわっ」
ハリセンからその持ち主をぼんやり見て、顔を上げて瞬きをすると、目の前は電柱だった。
「ぁ、ありがとうございます」
慌ててお礼を言うと「ん」と頷きながら笹良さんはハリセンを折り畳んだ。
「言われるまでもないかもしれないけど、よそ見は危ないわよ」
そうですね、と肩をすくめた。
「ありがとうございました。ぶつからずにすみました」
「そ?こっちも止め方が雑で悪かったわ。手が届きそうになかったから、ついね」
にっこりと笑った笹良さんは「この間ね」とすぐに顔をしかめた。
「こう、向こうから来る人がずっとスマホを弄ってたのね?それでぶつかりそうになっちゃって」
「えぇっ!だ、大丈夫だったんですかっ?」
前に笹良さんは車椅子で転ぶのは本当に怖いと言っていた。一人ではなかなか起きられずにもがいているうちに車に轢かれでもしたらと思うと気が気でないと、そのときは苦笑していたけど心から怖がっていた。
だからつい強く聞いてしまったけど、平気平気と笹良さんは笑った。
「すみません!とちょっと大きく言ったら私に気づいてもらえたみたいだから、ぶつからずにすんだんだけどさ。声の大きさが気に入らなかったのか見ず知らずの人間に話しかけられたのが気に入らないのか知らないけどさ。すーっごく不機嫌そうに睨まれちゃってさ」
その人は笹良さんを睨みつけただけで、何も言わずに行ってしまったそうだ。
「それは、ひどいです」
頬を膨らませると、ねーっと笹良さんも顔をしかめた。
「そんなにスマホしなきゃいけないならさ、道路の端っこに止まってすればいーじゃんねぇ?自分一人がどっかにぶつかって痛がってるだけなら良いけどさ。私みたいのとかちっさい子どもとか、ひっくり返して怪我でもさせたらどうするんだって話じゃない?」
笹良さんは話しながら車椅子をゆっくり動かし始めた。初めて会った頃と違って、前を見ながらでも動かすのに困っていないみたい。
「ながらスマホって言葉は浸透したみたいだけどさ。やってることはただのよそ見でしょ。わざわざ名前つけることで、スマホやりながら歩くのが格好良いと勘違いする人間が増えるんじゃないかと心配になるのよね」
私は歩きながらだとスマホの文字が上手く読めないし、文字を打とうとしてもスマホを落としそうになるから、そもそもながらスマホができないんだけど、さっきよそ見でぶつかりそうになってたんだから同じことかもしれない。
「気をつけ、ます」
「ん。そうしてくれると助かる」
小さな声で言うと、笹良さんはニッと笑って「私もイチイチ睨まれずにすむもんね」と言ってから、それで?と一瞬私を見上げた。
「そんなせっぱ詰まった顔して何悩んでたの?」
予定がたくさんある中で先輩へのプレゼントを用意できるかを考えていたと言うと、笹良さんはそう、と頷きながら勢い良く車輪を回した。
「クリスマスプレゼントで必死に悩むなんて、やっぱり学生カップルは可愛いこと考えるのね」
そう言う笹良さんはリースにも可愛い飾りにも無関心で車椅子を動かしている。
笹良さんはクリスマスが嫌いなのかと聞いてみると「嫌いじゃないけど」と小首を傾げた。
「そりゃケーキや鳥は食べるけど、そんなにこだわりもないわね。だってクリスマスって祝日じゃないから、平日なら会社はフツーにあるし。子どもの頃は一大イベントだったけど、大人になればあんまり興味失くなるわよ。それに」
言いかけた笹良さんは、急にムッと怒ったような表情になった。
「毎年毎年クリスマスが近づくと、残業一つ持ってくるのも嫌みが一緒についてくるのよ。『これ、明後日までなんだけど彼氏に怒られちゃうかな?』とか。っとにあのオヤジたちったら………辞める前にセクハラで訴えときゃ良かったかしら」
他にもそのおじさんたちにはいろいろされたみたいで、笹良さんはずっとぶつぶつ呟きながら車椅子を動かしていく。
怒りとか恨みとかであまり前に集中してないようにもみえたから、前を見ないと危ないですよと言うべきかとは思ったんだけど。
たまに聞こえる、あぁすれば良かったこうすれば良かったの端々がちょっと怖くて。
すれ違う人がながらスマホをしないことを祈りながら、前をしっかり見つつ笹良さんの後ろから歩いて行ったのでした。
二人でこんにちはと声をかけると、いつもはいらっしゃいと穏やかな笑顔で出迎えてくれるお母さんが「上がってきてーっ」と奥から声を上げた。
「珍しいわね」
二人で首を傾げたけど、ここでジッとしても仕方ないから、二人でなんとか屋内に上がった。
部屋に入った私たちをいらっしゃいと迎えたお母さんは「ねぇ、どれが良い?」と床を指差した。
床の上には毛糸の束がいくつかてんでに置かれていた。灰色とか紺とか黄色が混じった白とか、どっちかというと落ち着いた色ばかりみたい。
「どれが、というと……?」
先に笹良さんが首を傾げると、「あのねぇ」とお母さんがちょっと紅くなった頬を手で覆ってふふっと笑った。
「ナオさんにセーターを編もうと思って!だってほら、もうすぐクリスマスだし!」
お父さんに似合う色はどれだと思う?と聞かれた私と笹良さんは、そろそろと指差した。
笹良さんは濃い緑色。私は紺。
私たちが選んだ毛糸をお母さんは嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。これを模様に使ってセーターを編みましょう。デザインを考えないと……そうだ、玉にするの手伝ってくれる?」
頷いた笹良さんの両手に毛糸を手早くかけて、少し離れてそれを巻き取っていくお母さんは本当に楽しそう。
「今からで間に合うんですか?」
大丈夫よーと毛糸を巻き取りながらお母さんは微笑んだ。
「子どもたちのはもう終わったから、あとはナオさんだけだもの」
この間ここでちょっと騒ぎがあったし、それがなくても私たちの引っ越しでお母さんはいろいろ手伝ってくれている。
毎日家事をする間に美紅ちゃんがお邪魔したときには相手もしてくれるし、お母さん本人から聞いてるわけじゃないけど、お母さんはきっと忙しい。
その中でもお母さんは先輩たちに何かを作ってあげたらしい。
やることがいっぱいあってため息ついてばかりの私とは全然違う。
「どうしたの、結香ちゃん?………あら、やだ」
小さなため息をしっかり聞かれてしまった。
違うと首を横に振る前に、ごめんなさいね、となぜかお母さんは困ったように首を傾げた。
「毎年のことだからつい作っちゃったけど、夕弦のは作っちゃ嫌だったかしら」
「ち!違いますよ?違います!」
慌てて否定するけど、お母さんは巻きかけの玉を抱えたままうんうん唸っている。
み、美紅ちゃんも似たようなこと言ってたけど。
先輩のことを全部私が自分でやりたがってると思われてない?
そんなつもり全然ないのに………!
私の動揺に構わず、そぅだ!とお母さんは楽しそうに手を叩いた。拍子に玉がお母さんの膝で跳ねて転がったけど、それはどうでもよくなったみたい。
「結香ちゃんも、夕弦に何か編みましょう!」
「ふぇっ?」
「笹良ちゃんも、光司くんに。ね?」
「えぇぇ」
私が驚いて、笹良さんはすごくやる気のなさそうに引いて。
二人ともやると即答しなかったからお母さんは不思議そうに首を傾げた。
「あ、あの………編み物はそんなにやったことなくて」
秋にちょっとやってみたけど、すぐに男の子たちが代わってくれたから、実際はほとんどやってない。
そりゃ、ちゃんと編めればクリスマスプレゼントにできるかもしれないけど、私はもともと手先が器用なわけでもない。
先輩に自信をもって渡せるほどの物を作れる気がぜんぜんしない………
私の不安をお母さんは「大丈夫よー」の一言で吹き飛ばした。
「もちろん私が教えるし、マフラーならまっすぐ編むだけだもの。ね?」
「う、ぅう………は、い………」
自信はないけど、ここまで勧められるとちょっと断れない。それに、クリスマスプレゼントの悩みが解決するかも、と思うとやっぱりやってみようかなと思えてしまう。
私が頷くと、お母さんは満足そうに頷いて笹良さんを振り返った。
「いや、私はそもそも編み物なんてしたことないし……やりたくないっていうか」
なんとか断ろうとする笹良さんに、あら、とお母さんは首を傾げた。
「でも。光司くん、頭寒そうよ?」
「ぅぐ」
お母さんの一言に笹良さんは胸に手を当てて言葉に詰まった。
「………………………やり、ます……………」
「そう?」
すごく小さな声で笹良さんが言うと、お母さんはにーっこりと微笑んで、パンパンと手を打った。
「じゃあ、まずは色を選びましょう。ね?」
頑張りましょうね?と笑顔で言われた私と笹良さんは引きつる頬を堪えて頷いたのでした。
「………それで、無理して体調を崩したら意味がないだろう」
「ずびばぜん………ふぇ、ぶしっ」
謝った拍子に、堪えきれなかったくしゃみが出てしまった。
聞かれた聞かれた聞かれたぁぁぁ!
いや!そもそも鼻水、咳、くしゃみが止まらない姿を晒してる時点で憤死ものなんだけど!
でもでも!やっぱりくしゃみは聞かれたくなかったよぉぉぉ!
なんなの、『ぶしっ』て!
なんでこういうときに女の子らしいくしゃみできないかなぁ、もう!
ただでさえ熱い顔に熱が溜まって頭がガンガン痛くなってきた。なんだか勝手に涙もあふれでてきた気がする。
「うぅぅ~………」
滲んだ視界の端で先輩の影がサッと動くと目元に柔らかい物が当てられた。勝手に浮かんだ涙がそれに吸いとられていく。
「ほら」
少しだけクリアになった視界に長方形の箱が差し出された。
白い影に向かって伸ばした手に、柔らかい感触が当たるように先輩が箱をずらしてくれる。
全身がだるくて、鼻をかむのも一苦労。
なんとかかみ終わってぼおっとしていると、今度は赤いゴミ箱を差し出された。
かかか…彼氏に鼻をかむのを手伝ってもらう女の子って………女の子として、大丈夫なのかなぁ………?
ものすごく疑問には思ったけど、だからといって何をどう直すべきかを思いつけるほど脳ミソが働いていない。
情けなさと息苦しさではふはふ息継ぎをしていると、ピタリと大きな手がおでこに当てられた。
温かくて安心する手だけど、今はなんだか少しひんやりしているような気がする。前髪の乱れとか、汗で髪がペタついてないかどうかが気になって気になって仕方なくなった。
「熱いな」
おでこで確かめたのに、先輩はその手の甲で私の首をするっと撫でた。
おでこよりも汗が気になる場所だけど、触ってもらうと嬉しくて大きな手にすり寄った。
「熱はずっと高いのか」
「ぇぇと………………」
昨日の夜はまだ熱までは出てなくて、今朝になったら三十七度五分あって。お昼に計ったら三十七度七分あった。
辿々しく説明すると、先輩は小さくため息をつくとローテーブルに置きっぱなしになっていた体温計を差し出して計れと言った。
のろのろと体温計を脇の下に差してじっと待つ。
気まずい沈黙の中、体温計が鳴る。
体温計を読んだ先輩は、さっきよりは大きなため息をついた。
「三十八度三分」
お昼のときよりもさらに上がってると先輩は眉をしかめる。
「ず、びばべ」
「とにかく、横になれ」
謝ろうとするのを遮るように、先輩が私の肩を押した。
強く押したわけじゃないのに、私の身体は簡単にベッドに沈んだ。そんなに長く起きていたわけでもないのに布団が少し冷たくなっていて、冷えが火照った身体に嬉しいのか、悪寒がひどくなって困るのか、自分でも解らない。
すぐに先輩が上掛けを丁寧にかけてくれた。
少しずつ寒さがとれて縮んでた手足をゆっくり伸ばす。ホッと息をつくついでに咳が出た。
「汗をかいているな。着替えよう」
「ぇほっ………ぅええっ?」
汗を拭かないともっと具合ガンガン悪くなるのは解る。
でも、それは自分でやるから良いです。
その一言を言わなきゃと思いついたのは、ドアがパタリと閉まったあとでした。
私の顔が紅いのは、風邪の熱だけじゃないはず。
「いい加減パジャマを脱いで後ろを向け」
湯が冷める、という先輩の主張は解るけど、さすがに目の前で堂々とパジャマを脱ぐなんてできるわけがない。
そこに置いといてくれたら自分でやりますから、という私の主張は先輩にあっさり却下された。
「熱で朦朧としているんだ。倒して湯を被ったらどうする」
確かにトイレに行って帰ってくるのも一労働のこの状態で、 ベッドの外に出て動くのはけっこう手間取ると思う。あんまり布団の外にいたらもっと具合が悪くなるだろうし、手伝ってもらうのが正解なのはすごく解るんだけど。
でもさすがに恥ずかしすぎる。
頑なに身体を抱きしめて唸る私を見て、先輩はため息をつくと、ひた、と私を見据えた。
「これ以上駄々を捏ねるなら………俺が脱がせて拭いて着替えさせる」
ものすごく真面目な顔で言われるものだから、一瞬何を言われているのか脳が理解してなかった。
じわじわと内容が脳に染みるにつれて脳ミソが沸騰するように熱くなった。
「…………っ、じ!じぶ、じぶんで!」
「脱げるか?」
頭痛を堪えながら頭を縦に振ると、一つ頷いて先輩は後ろを振り向いた。
ホッと息をついて、前開きのボタンを外す。
最初は手元がよく見えなくて上手くボタンが摘まめなかったけど、深呼吸をしながらゆっくり外した。
最後のボタンを外して大きくやりきった満足感のため息をつくと、「出来たか」と背中をこちらに向けたまま先輩が聞いてきた。
はい、と頷くと「じゃあ、そちらを向くぞ」と宣言されるので慌てて後ろを向いてパジャマを脱ぐ。
「拭くぞ」
声をかけられた、と思ったらじんわりと温かい物が肩に当てられ、動いていく。
少し寒いけど、気持ち良い。
それだけ阿瀬をかいていたのかと思うと、無性に恥ずかしくなった。
「結香、身体を弛めろ。拭けない」
「は、はぃ」
ヒトに、しかも先輩にはだかの背中を見られながら拭かれるのは恥ずかしいけど、綺麗になるのは気持ち良い。
タオルが離れて、良し、と小さい呟き声が聞こえた。
胸をしっかり隠しながら少し後ろを覗くと、先輩がたらいにお湯を足して指で確かめていた。
私が見ているのに気づくと、先輩は魔法瓶を指差した。
「湯が冷めたらこれで調節しろ。前側と脚は自分で拭けるか?」
こくこく頷くと、先輩は立ち上がってドアへ向かって歩きだした。
「あまり時間をかけるとまた身体が冷えるからな。手早く済ませろよ」
ドアに向かってそう言うと、先輩はそのままドアを開けて廊下に出た。
ふぇっと叫ぶ自分の声が思ったより大きく聞こえて、自分の声なのに驚いた。
先輩が何か話しかけて、顔を覗きこんでくれたけど、まだ傍にいてくれたことにお礼を言わなきゃとか、今の悲鳴で驚かせちゃったかな、とかぐるぐる頭の中が忙しなくて言葉がぜんぜん出てこない。
あ、そもそもこの部屋にずっといたら、先輩に風邪をうつしてしまうかもしれない。
傍で看病してくれたことにお礼を言いながら、風邪をうつしちゃう前に部屋から出てもらわなきゃと口を開く前に、先輩はサッと大きな手で私のおでこを覆った。
「ーーーうん。少しは熱が引いたようだな」
この部屋に来たときと同じようにおでこと首を触った先輩は、念のため計ってみろと体温計を渡してきた。
三十七度六分。まだまだ治っていないけど、さっきよりはだいぶ楽になったと思う。
真っ赤な顔ではふはふ言っていた私を見た先輩は、言わなくても解ってくれたみたいで、結果を言うとそうかと少し破顔してくれた。
「少し下がって良かったな」
「ぁい、ぁぃがとぉございまぅ」
喉が痛くて声が出ない。たぶんまだ腫れてるだろうし、寝てたから喉も乾いた。
先輩はまだローテーブルに置いてあった魔法瓶のお湯をカップに淹れて、ほら、と持たせてくれた。
「とりあえず、これを飲め。かなり冷めているだろうが」
一人で飲めるかと聞かれるのに大丈夫と頷いて、カップに口をつける。
ぬるま湯というにも少し冷めていたけれど、今の喉にはすごく嬉しい。ノドに負担をかけないように、少しずつ、少しずつカップのお湯を啜った。
カップのお湯で喉が潤って、咳払いをするとだいぶ話しやすくなった気がする。心の中で安心のため息をついた。
先輩?と囁くような声で話しかけると、先輩は何だと聞くように首を傾げた。
「ずっと、いてくれたん、ですか」
「当然だろう」
即答する先輩に、つい顔がへにゃっとなりそうになるのを堪えて、でも、と続けた。
「いっしょのへやいた、ら、せんぱいも、かぜ、ひいちゃうから」
私の言葉を聞いた先輩は、心から不思議だというように首を傾げた。
「傍に居なければ看病にならないだろう」
優しく、でも反論は許さないというように柔らかくおでこに手を乗せられる。
一刻も早く帰ってもらわなきゃいけないのに、こうして触ってもらえるとやっぱり嬉しい。
「それより、腹はどうだ。何か食べれそうか」
お昼は薬をついた。飲むためになんとか少しだけ食べたけど、今はちょっとお腹が空いたような気がする。少しだけでもしっかり寝てスッキリしたせいかもしれない。
「のどいたい、けど、おなか、すき、まひた」
待ってろと囁いた先輩がすぐに部屋を出ていく。
先輩に今あまりこの部屋にいてほしくないという願いは本当の私の願いなのに、いざ先輩がいなくなってしまうとすごく寂しい。
すごく勝手だ。わがままだ。
頭では解ってるのに、ドアが開いて先輩の顔が見えるとやっぱり嬉しさで顔がにやけた。
「これ、食べれるか」
差し出された器を覗くと白いゼリーみたいなものがふるふる震えていた。
「ミルクプリンだ」
何だろうと見つめていると、先輩がそう答えた。
今ではほとんどなくなったけど、陽くんも小さい頃はよく風邪をひいていたらしい。
今の私みたいに熱と喉が痛くてまともにご飯を食べられない陽くんのために、お母さんはこのミルクプリンを作った。
「どうだ。食べれそうか」
ベッドの端に腰かけた先輩が心配そうに見つめてくる。
いただきますを言うと、ちょっと掬って食べてみる。
ほんのり甘くて冷たい。スルッと入っていくから喉も痛くない。いつもよそうご飯の量より少しずつ多いけど、これなら食べきれそう。
頷くと先輩は安心したように破顔して、一緒に持ってきていたポカリスエットを注いでくれる。
「ゆっくり食べろよ。無理して食べきる必要は無いからな」
子どもに言い聞かせるみたいな声。
でも、見守ってくれるのがすごく安心できて嬉しい。いつもみたいに、子ども扱いしてる、と怒らないのは風邪で気弱になってるからかな。
お腹いっぱいでもないけど、少しお腹に食べ物を入れて薬を飲むとホッとする。
重い目を開けて見ると、食器を片づけた先輩は今度は加湿器の様子を見ていた。
「眠いなら寝て良いんだぞ」
私の視線に気づいた先輩は、少し苦笑するとこちらへ来てくれて布団がちゃんとかかっているかを確認してくれる。
先輩、と呼ぶと、うん?と優しく聞き返してくれる。
「も、すこし、いてくれますか?」
「あぁ」
優しい返事と頭を撫でてくれる温かくて大きな手にホッとする。
「ちゃんと居るから、さっさと寝ろ」
寝ないと回復しない、と言い聞かせる口調は少しぶっきらぼうだけど手の隙間から見える目が優しくて、くふふと笑い声で頷いた。
◆ 経験者だからといって ◆
帰宅すると、母さんがすっ飛んで来た。
「夕弦っ!ゆゆゆゆ結香ちゃんの容態はっ」
「風邪だ。ただの」
飛び付いてきそうな勢いを避けつつ、今日一日でだいぶ落ち着いてはきたことを伝えると、母さんは深い安堵の嘆息を洩らした。
母さん、と呼ぶと俺を振り返った母さんは少なからず覚悟していたのか、少々真面目な表情に変わった。
親に向かって注意等誉めれた態度ではないが、これは言わねばならない。
「三年生はテストが多いんだ。クリスマスプレゼントの相談に乗ってくれたことは有り難いが、無理はさせないでくれ」
「テスト?」
何故か母さんは心底不思議そうに首を傾げる。
結香のように大学受験をしない生徒、就職組ですら三年生は皆テストを受けさせられるのだと説明すると、どこか感心したように頷いてから、再び首を傾げた。
「就職する子も一緒にテストを受けろなんて、乱暴な話ねぇ」
二年前に説明したはずだが、と言うとあっさり母さんは「そうだっけ?」と首を傾げた。
「そういえば早く帰ってくる日なのかいつもの時間なのか、よく解らなかったわねぇ」
六年後には双子も高三だ。
あの二人がどういう選択をするのかは未知数だが、俺の受験についてほぼ覚えていない様子の母さんが二人分のサポートを出来るのか、今から尋常でない程の不安を覚えた。
つい額を押さえると、「なぁによぅ」と母さんが拗ね始めた。
「だいたい、夕弦が何でも自分でやっちゃったせいじゃないー。せっかくお夜食のメニューだって考えていたのに、貴方ってば徹夜で受験勉強してくれないし!」
わざわざ夜更けまで勉強して無駄に体調を悪くするのを避けただけなのだが、母さんは気に入らなかったらしい。
合格したのだから良いだろう、と返すと「そうだけど!そうだけどぉぉ!」と地団駄を踏み始めた。
大学生の息子が居る母親の言動では無い。
「ーーーとにかく。受験生ではないとはいえ、結香も知らず知らずのうちにストレスを溜めているんだ。母さんが新たにストレスを増やすのは止めてくれ」
「判ってるわよぅぅ。夕弦のいぢわるっ」
地団駄を踏みながらなお悔しがる母さんに、俺は大きく嘆息したのであった。
人によってはもう受験日を迎えていたり、これから本番という人もいるので、さすがにお昼休みは前よりはみんな静かに過ごすようになったと思う。
お弁当にしようと知佳ちゃんと席を作っていると、別グループの子が一緒に食べようと誘ってきた。
「こっち、今日二人いないからさ。一緒に食べない?」
近くの机を借りてくっつけると、少し雰囲気も明るくなった。
やっとテスト終わったね、で始まる会話は、あの問題が難しかったとかあれ解けた?みたいなテストのことで持ちきりになった。
「でもさ、テスト三昧の毎日にもなんだかんだいってけっこう慣れてきたよね」
そう?と訝しげに返す子はちょっとぐったりしていて、確かにそうかも。と頷く子はわりと元気にご飯を食べている。
「こうしてテストに慣れてきたら冬休み入って、センターでしょ?そんで学校に来なくなって、そのまま卒業。あっという間よね」
「その頃までには大学決まってたいよね」
それは言わないでー!と何人かが悲鳴をあげて、教室のあちこちで笑いが起こる。
知佳は良いなぁ、とやっぱり知佳ちゃんは羨ましがられた。
「センター前に受験終了でしょ?遊びたい放題じゃん」
「遊ばないわよ」
ムッとしたように知佳ちゃんは眉を上げた。
「センターだって一般だって受けるわよ。受験料払ってるんだから」
「………とても社長令嬢になろうってヒトのセリフとは思えない、庶民的なコメントね」
庶民だもの、と不機嫌に言う知佳ちゃんに、はいはいとみんな苦笑する。
「良いなぁ。住むとこもきっと大っきなマンションでしょ?」
「大学生なったら遊びに行かせてねー」
上半身でしなだれかかる女の子の身体を、知佳ちゃんは肩で押し返した。
「ちゃんと大学生になれたらね」
「キビシーっ」
けらけらと笑った女の子たちが、結香はどう?とこっちを向いた。
「結香も推薦貰えたんでしょ?」
うんと頷くと、良かったねーと声を揃えて言われた。
「けばミイラに進路邪魔された人って、年に何人もいたんだって。結香、危なかったね」
「学年主任なのに、受験の邪魔するの?」
学校だって生徒の進路が決まらないと困ると思うんだけど。
首を傾げると、一応周りを見渡してから、あのね、とこそこそと説明してくれた。
「学力だけ見て、担任や親に進路の変更させるんだって。家の事情とか生徒の希望とか無視して、志望校よりこっちの大学の方が偏差値高いから変えなさいって」
「親としても、できるだけ有名なとこ行ってもらった方が話のネタになるでしょ?だから、親からの受けは基本的に良いらしいのよね」
私のときは、結局先生の方が折れてくれたみたいだけど、学校から電話があったらと思うとちょっとゾッとした。
「最近、けばミイラ静かだよね。なんでだろ」
一人が首を傾げると、「静かなら良いじゃん」ともう一人がつまらなそうに言った。
「いい加減テストばかりでイライラするんだから、ムカつく人間が少しでも視界から減ってくれ方が良い」
校則には反してないはずだけど、髪型や制服の着方をすごく細かく注意された子が多いから、学年主任の先生は特に女の子からはちょっと嫌われている。
顧問でもない茶道部にいきなりやってきて、「そんなだらだらと遊んでいるのなら他の部活に転部しなさい」みたいなことを言ってきたこともあるらしい。
「あっちこそ不法侵入ですよ」とアスカちゃんが怒っていたっけ。
みんな学年主任の先生の話にはもう飽きたみたいで、もうすぐ来る冬休みの話に夢中になっていた。
「受験勉強はするけどさ、やっぱりクリスマスは楽しみたいよね」
だね、とみんながお弁当を食べながら頷いた。
「女子高生最後のクリスマスなのにデートできないのはキツいなぁー」
嘆くように言った一人の肩を、このぉ、と隣の子が突っついた。
「デートできる相手がいるだけいーじゃん、このこのぉ~」
肩を突つかれながら、「でもさぁ」とその子はため息をついた。
「最近、学校でもあんま話せてないしさ。このまま自然消滅しそうで」
確かに先輩たちの中でも、すごく仲良かったのに受験シーズンにすれ違ったまま解れてしまったカップルはかなり多いらしい。
私たちがお付き合いを始めたのは、先輩の受験が終わってからだけど、もし受験前に付き合ってたら。その人たちみたいに別れてしまって、私の進路も違ったのかもしれない。
先輩が高校生のうちにお付き合いしてたら、学校行事ももっと楽しかったのに。と思うことは何度もあったけど、だからこそ今この子みたいな不安がないんだと思う。
ほぅ、と息をつくと、「どうしたの、結香?」と顔を覗きこまれた。
「なんで結香のが切なそうにため息つくかな」
「感情移入しちゃった?」
すっかり自分のことばかり考えてましたとは言えないので、慌てて首を横に振る。
「ううん?あー、あのね?クリスマスプレゼント、渡す時間はない?」
苦し紛れに出したアイデアに、そうしようかな、とその子は呟いた。
「結香は?何あげるの?」
「ふぇっ?ぇええっとね」
どもる私を見て諦めたのか、「知佳は?」とその子は知佳ちゃんに視線を移した。
「ご飯」
「それ……ここ最近の習慣の差し入れでしょ?」
ジト目を向けられた知佳ちゃんだけど、それが何?というように軽く目を見開いた。
「いつもと同じように過ごした方が、受験に差し支えないでしょ?」
「そうかもしれないけどさー」
ため息をついた女の子は、隣の子に帰りに買い物付き合ってよと誘った。
さっきまではちょっと落ち込んでいたみたいだけど、彼氏に何を買おうかで楽しそうにしている。
とりあえず元気になったみたいで良かったと心の中で頷いていると、「結香」と隣から呼ばれた。
「なに?知佳ちゃん」
振り返ると、知佳ちゃんは一生懸命里芋を箸で追いかけながらだけど、はっきり言った。
「クリスマスプレゼントは探さなきゃいけないだろうけど、ヘタにムリして暴走しないでよ?クリスマスケーキはたぶんあるんだから、いつかみたいにケーキの材料大量に買い込むんじゃないわよ?」
「…………………………うん。解った」
バレンタインのケーキを気に入ってもらえたみたいだから、心のどこかでいざ何も見つからなかったらお菓子を作ろうと思っていたのがバレていたようです。
私は大学受験じゃないからみんなより時間に余裕があるみたいに思われているみたいだけど、そうでもない。
休みの日は新居で使うものを探し回ったり、買い集めたものをしまったり。学校では受験組じゃない私だってテストを受けるから、テスト勉強だってしなきゃいけない。
それに、四月から行くことになっている専門学校から入学前に読んでおいた方が良い本や画集の一覧というのを貰っていて、これが意外に探すのが大変なのです。
タイトルを見ると、たぶん専門的な本なんだろうけど、学校の図書館や近くの本屋さんにはなさそうなものばかり。
読みなさいと指定されているわけじゃないけど、学校を通してわざわざリストを渡してくるってことはやっぱり読んでおかないと授業で困るような気がする。
こんな感じでいろいろあって、基本出不精の私も今年の冬はなかなかアクティブに活動しているのです。
やることが特になくて、毎日毎日が退屈、というよりはずっと良いと思うけど、毎日毎日頑張ってるつもりでも全部がほとんど終わらないまま日々が過ぎていくというのもなかなかキツいみたい。
手帳に書いた「やることリスト」が相変わらず更新されないことにガッカリしながら歩いていると、「ぶつかるわよ」と話しかけられた。
と、同時に足に何かが当たった。
鉄の棒かと思ったそれは、夏に見せてもらったハリセンだった。
「そろそろ前を見ないと、ぶつかるわよ」
「へ。ぁ………ぅわっ」
ハリセンからその持ち主をぼんやり見て、顔を上げて瞬きをすると、目の前は電柱だった。
「ぁ、ありがとうございます」
慌ててお礼を言うと「ん」と頷きながら笹良さんはハリセンを折り畳んだ。
「言われるまでもないかもしれないけど、よそ見は危ないわよ」
そうですね、と肩をすくめた。
「ありがとうございました。ぶつからずにすみました」
「そ?こっちも止め方が雑で悪かったわ。手が届きそうになかったから、ついね」
にっこりと笑った笹良さんは「この間ね」とすぐに顔をしかめた。
「こう、向こうから来る人がずっとスマホを弄ってたのね?それでぶつかりそうになっちゃって」
「えぇっ!だ、大丈夫だったんですかっ?」
前に笹良さんは車椅子で転ぶのは本当に怖いと言っていた。一人ではなかなか起きられずにもがいているうちに車に轢かれでもしたらと思うと気が気でないと、そのときは苦笑していたけど心から怖がっていた。
だからつい強く聞いてしまったけど、平気平気と笹良さんは笑った。
「すみません!とちょっと大きく言ったら私に気づいてもらえたみたいだから、ぶつからずにすんだんだけどさ。声の大きさが気に入らなかったのか見ず知らずの人間に話しかけられたのが気に入らないのか知らないけどさ。すーっごく不機嫌そうに睨まれちゃってさ」
その人は笹良さんを睨みつけただけで、何も言わずに行ってしまったそうだ。
「それは、ひどいです」
頬を膨らませると、ねーっと笹良さんも顔をしかめた。
「そんなにスマホしなきゃいけないならさ、道路の端っこに止まってすればいーじゃんねぇ?自分一人がどっかにぶつかって痛がってるだけなら良いけどさ。私みたいのとかちっさい子どもとか、ひっくり返して怪我でもさせたらどうするんだって話じゃない?」
笹良さんは話しながら車椅子をゆっくり動かし始めた。初めて会った頃と違って、前を見ながらでも動かすのに困っていないみたい。
「ながらスマホって言葉は浸透したみたいだけどさ。やってることはただのよそ見でしょ。わざわざ名前つけることで、スマホやりながら歩くのが格好良いと勘違いする人間が増えるんじゃないかと心配になるのよね」
私は歩きながらだとスマホの文字が上手く読めないし、文字を打とうとしてもスマホを落としそうになるから、そもそもながらスマホができないんだけど、さっきよそ見でぶつかりそうになってたんだから同じことかもしれない。
「気をつけ、ます」
「ん。そうしてくれると助かる」
小さな声で言うと、笹良さんはニッと笑って「私もイチイチ睨まれずにすむもんね」と言ってから、それで?と一瞬私を見上げた。
「そんなせっぱ詰まった顔して何悩んでたの?」
予定がたくさんある中で先輩へのプレゼントを用意できるかを考えていたと言うと、笹良さんはそう、と頷きながら勢い良く車輪を回した。
「クリスマスプレゼントで必死に悩むなんて、やっぱり学生カップルは可愛いこと考えるのね」
そう言う笹良さんはリースにも可愛い飾りにも無関心で車椅子を動かしている。
笹良さんはクリスマスが嫌いなのかと聞いてみると「嫌いじゃないけど」と小首を傾げた。
「そりゃケーキや鳥は食べるけど、そんなにこだわりもないわね。だってクリスマスって祝日じゃないから、平日なら会社はフツーにあるし。子どもの頃は一大イベントだったけど、大人になればあんまり興味失くなるわよ。それに」
言いかけた笹良さんは、急にムッと怒ったような表情になった。
「毎年毎年クリスマスが近づくと、残業一つ持ってくるのも嫌みが一緒についてくるのよ。『これ、明後日までなんだけど彼氏に怒られちゃうかな?』とか。っとにあのオヤジたちったら………辞める前にセクハラで訴えときゃ良かったかしら」
他にもそのおじさんたちにはいろいろされたみたいで、笹良さんはずっとぶつぶつ呟きながら車椅子を動かしていく。
怒りとか恨みとかであまり前に集中してないようにもみえたから、前を見ないと危ないですよと言うべきかとは思ったんだけど。
たまに聞こえる、あぁすれば良かったこうすれば良かったの端々がちょっと怖くて。
すれ違う人がながらスマホをしないことを祈りながら、前をしっかり見つつ笹良さんの後ろから歩いて行ったのでした。
二人でこんにちはと声をかけると、いつもはいらっしゃいと穏やかな笑顔で出迎えてくれるお母さんが「上がってきてーっ」と奥から声を上げた。
「珍しいわね」
二人で首を傾げたけど、ここでジッとしても仕方ないから、二人でなんとか屋内に上がった。
部屋に入った私たちをいらっしゃいと迎えたお母さんは「ねぇ、どれが良い?」と床を指差した。
床の上には毛糸の束がいくつかてんでに置かれていた。灰色とか紺とか黄色が混じった白とか、どっちかというと落ち着いた色ばかりみたい。
「どれが、というと……?」
先に笹良さんが首を傾げると、「あのねぇ」とお母さんがちょっと紅くなった頬を手で覆ってふふっと笑った。
「ナオさんにセーターを編もうと思って!だってほら、もうすぐクリスマスだし!」
お父さんに似合う色はどれだと思う?と聞かれた私と笹良さんは、そろそろと指差した。
笹良さんは濃い緑色。私は紺。
私たちが選んだ毛糸をお母さんは嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。これを模様に使ってセーターを編みましょう。デザインを考えないと……そうだ、玉にするの手伝ってくれる?」
頷いた笹良さんの両手に毛糸を手早くかけて、少し離れてそれを巻き取っていくお母さんは本当に楽しそう。
「今からで間に合うんですか?」
大丈夫よーと毛糸を巻き取りながらお母さんは微笑んだ。
「子どもたちのはもう終わったから、あとはナオさんだけだもの」
この間ここでちょっと騒ぎがあったし、それがなくても私たちの引っ越しでお母さんはいろいろ手伝ってくれている。
毎日家事をする間に美紅ちゃんがお邪魔したときには相手もしてくれるし、お母さん本人から聞いてるわけじゃないけど、お母さんはきっと忙しい。
その中でもお母さんは先輩たちに何かを作ってあげたらしい。
やることがいっぱいあってため息ついてばかりの私とは全然違う。
「どうしたの、結香ちゃん?………あら、やだ」
小さなため息をしっかり聞かれてしまった。
違うと首を横に振る前に、ごめんなさいね、となぜかお母さんは困ったように首を傾げた。
「毎年のことだからつい作っちゃったけど、夕弦のは作っちゃ嫌だったかしら」
「ち!違いますよ?違います!」
慌てて否定するけど、お母さんは巻きかけの玉を抱えたままうんうん唸っている。
み、美紅ちゃんも似たようなこと言ってたけど。
先輩のことを全部私が自分でやりたがってると思われてない?
そんなつもり全然ないのに………!
私の動揺に構わず、そぅだ!とお母さんは楽しそうに手を叩いた。拍子に玉がお母さんの膝で跳ねて転がったけど、それはどうでもよくなったみたい。
「結香ちゃんも、夕弦に何か編みましょう!」
「ふぇっ?」
「笹良ちゃんも、光司くんに。ね?」
「えぇぇ」
私が驚いて、笹良さんはすごくやる気のなさそうに引いて。
二人ともやると即答しなかったからお母さんは不思議そうに首を傾げた。
「あ、あの………編み物はそんなにやったことなくて」
秋にちょっとやってみたけど、すぐに男の子たちが代わってくれたから、実際はほとんどやってない。
そりゃ、ちゃんと編めればクリスマスプレゼントにできるかもしれないけど、私はもともと手先が器用なわけでもない。
先輩に自信をもって渡せるほどの物を作れる気がぜんぜんしない………
私の不安をお母さんは「大丈夫よー」の一言で吹き飛ばした。
「もちろん私が教えるし、マフラーならまっすぐ編むだけだもの。ね?」
「う、ぅう………は、い………」
自信はないけど、ここまで勧められるとちょっと断れない。それに、クリスマスプレゼントの悩みが解決するかも、と思うとやっぱりやってみようかなと思えてしまう。
私が頷くと、お母さんは満足そうに頷いて笹良さんを振り返った。
「いや、私はそもそも編み物なんてしたことないし……やりたくないっていうか」
なんとか断ろうとする笹良さんに、あら、とお母さんは首を傾げた。
「でも。光司くん、頭寒そうよ?」
「ぅぐ」
お母さんの一言に笹良さんは胸に手を当てて言葉に詰まった。
「………………………やり、ます……………」
「そう?」
すごく小さな声で笹良さんが言うと、お母さんはにーっこりと微笑んで、パンパンと手を打った。
「じゃあ、まずは色を選びましょう。ね?」
頑張りましょうね?と笑顔で言われた私と笹良さんは引きつる頬を堪えて頷いたのでした。
「………それで、無理して体調を崩したら意味がないだろう」
「ずびばぜん………ふぇ、ぶしっ」
謝った拍子に、堪えきれなかったくしゃみが出てしまった。
聞かれた聞かれた聞かれたぁぁぁ!
いや!そもそも鼻水、咳、くしゃみが止まらない姿を晒してる時点で憤死ものなんだけど!
でもでも!やっぱりくしゃみは聞かれたくなかったよぉぉぉ!
なんなの、『ぶしっ』て!
なんでこういうときに女の子らしいくしゃみできないかなぁ、もう!
ただでさえ熱い顔に熱が溜まって頭がガンガン痛くなってきた。なんだか勝手に涙もあふれでてきた気がする。
「うぅぅ~………」
滲んだ視界の端で先輩の影がサッと動くと目元に柔らかい物が当てられた。勝手に浮かんだ涙がそれに吸いとられていく。
「ほら」
少しだけクリアになった視界に長方形の箱が差し出された。
白い影に向かって伸ばした手に、柔らかい感触が当たるように先輩が箱をずらしてくれる。
全身がだるくて、鼻をかむのも一苦労。
なんとかかみ終わってぼおっとしていると、今度は赤いゴミ箱を差し出された。
かかか…彼氏に鼻をかむのを手伝ってもらう女の子って………女の子として、大丈夫なのかなぁ………?
ものすごく疑問には思ったけど、だからといって何をどう直すべきかを思いつけるほど脳ミソが働いていない。
情けなさと息苦しさではふはふ息継ぎをしていると、ピタリと大きな手がおでこに当てられた。
温かくて安心する手だけど、今はなんだか少しひんやりしているような気がする。前髪の乱れとか、汗で髪がペタついてないかどうかが気になって気になって仕方なくなった。
「熱いな」
おでこで確かめたのに、先輩はその手の甲で私の首をするっと撫でた。
おでこよりも汗が気になる場所だけど、触ってもらうと嬉しくて大きな手にすり寄った。
「熱はずっと高いのか」
「ぇぇと………………」
昨日の夜はまだ熱までは出てなくて、今朝になったら三十七度五分あって。お昼に計ったら三十七度七分あった。
辿々しく説明すると、先輩は小さくため息をつくとローテーブルに置きっぱなしになっていた体温計を差し出して計れと言った。
のろのろと体温計を脇の下に差してじっと待つ。
気まずい沈黙の中、体温計が鳴る。
体温計を読んだ先輩は、さっきよりは大きなため息をついた。
「三十八度三分」
お昼のときよりもさらに上がってると先輩は眉をしかめる。
「ず、びばべ」
「とにかく、横になれ」
謝ろうとするのを遮るように、先輩が私の肩を押した。
強く押したわけじゃないのに、私の身体は簡単にベッドに沈んだ。そんなに長く起きていたわけでもないのに布団が少し冷たくなっていて、冷えが火照った身体に嬉しいのか、悪寒がひどくなって困るのか、自分でも解らない。
すぐに先輩が上掛けを丁寧にかけてくれた。
少しずつ寒さがとれて縮んでた手足をゆっくり伸ばす。ホッと息をつくついでに咳が出た。
「汗をかいているな。着替えよう」
「ぇほっ………ぅええっ?」
汗を拭かないともっと具合ガンガン悪くなるのは解る。
でも、それは自分でやるから良いです。
その一言を言わなきゃと思いついたのは、ドアがパタリと閉まったあとでした。
私の顔が紅いのは、風邪の熱だけじゃないはず。
「いい加減パジャマを脱いで後ろを向け」
湯が冷める、という先輩の主張は解るけど、さすがに目の前で堂々とパジャマを脱ぐなんてできるわけがない。
そこに置いといてくれたら自分でやりますから、という私の主張は先輩にあっさり却下された。
「熱で朦朧としているんだ。倒して湯を被ったらどうする」
確かにトイレに行って帰ってくるのも一労働のこの状態で、 ベッドの外に出て動くのはけっこう手間取ると思う。あんまり布団の外にいたらもっと具合が悪くなるだろうし、手伝ってもらうのが正解なのはすごく解るんだけど。
でもさすがに恥ずかしすぎる。
頑なに身体を抱きしめて唸る私を見て、先輩はため息をつくと、ひた、と私を見据えた。
「これ以上駄々を捏ねるなら………俺が脱がせて拭いて着替えさせる」
ものすごく真面目な顔で言われるものだから、一瞬何を言われているのか脳が理解してなかった。
じわじわと内容が脳に染みるにつれて脳ミソが沸騰するように熱くなった。
「…………っ、じ!じぶ、じぶんで!」
「脱げるか?」
頭痛を堪えながら頭を縦に振ると、一つ頷いて先輩は後ろを振り向いた。
ホッと息をついて、前開きのボタンを外す。
最初は手元がよく見えなくて上手くボタンが摘まめなかったけど、深呼吸をしながらゆっくり外した。
最後のボタンを外して大きくやりきった満足感のため息をつくと、「出来たか」と背中をこちらに向けたまま先輩が聞いてきた。
はい、と頷くと「じゃあ、そちらを向くぞ」と宣言されるので慌てて後ろを向いてパジャマを脱ぐ。
「拭くぞ」
声をかけられた、と思ったらじんわりと温かい物が肩に当てられ、動いていく。
少し寒いけど、気持ち良い。
それだけ阿瀬をかいていたのかと思うと、無性に恥ずかしくなった。
「結香、身体を弛めろ。拭けない」
「は、はぃ」
ヒトに、しかも先輩にはだかの背中を見られながら拭かれるのは恥ずかしいけど、綺麗になるのは気持ち良い。
タオルが離れて、良し、と小さい呟き声が聞こえた。
胸をしっかり隠しながら少し後ろを覗くと、先輩がたらいにお湯を足して指で確かめていた。
私が見ているのに気づくと、先輩は魔法瓶を指差した。
「湯が冷めたらこれで調節しろ。前側と脚は自分で拭けるか?」
こくこく頷くと、先輩は立ち上がってドアへ向かって歩きだした。
「あまり時間をかけるとまた身体が冷えるからな。手早く済ませろよ」
ドアに向かってそう言うと、先輩はそのままドアを開けて廊下に出た。
ふぇっと叫ぶ自分の声が思ったより大きく聞こえて、自分の声なのに驚いた。
先輩が何か話しかけて、顔を覗きこんでくれたけど、まだ傍にいてくれたことにお礼を言わなきゃとか、今の悲鳴で驚かせちゃったかな、とかぐるぐる頭の中が忙しなくて言葉がぜんぜん出てこない。
あ、そもそもこの部屋にずっといたら、先輩に風邪をうつしてしまうかもしれない。
傍で看病してくれたことにお礼を言いながら、風邪をうつしちゃう前に部屋から出てもらわなきゃと口を開く前に、先輩はサッと大きな手で私のおでこを覆った。
「ーーーうん。少しは熱が引いたようだな」
この部屋に来たときと同じようにおでこと首を触った先輩は、念のため計ってみろと体温計を渡してきた。
三十七度六分。まだまだ治っていないけど、さっきよりはだいぶ楽になったと思う。
真っ赤な顔ではふはふ言っていた私を見た先輩は、言わなくても解ってくれたみたいで、結果を言うとそうかと少し破顔してくれた。
「少し下がって良かったな」
「ぁい、ぁぃがとぉございまぅ」
喉が痛くて声が出ない。たぶんまだ腫れてるだろうし、寝てたから喉も乾いた。
先輩はまだローテーブルに置いてあった魔法瓶のお湯をカップに淹れて、ほら、と持たせてくれた。
「とりあえず、これを飲め。かなり冷めているだろうが」
一人で飲めるかと聞かれるのに大丈夫と頷いて、カップに口をつける。
ぬるま湯というにも少し冷めていたけれど、今の喉にはすごく嬉しい。ノドに負担をかけないように、少しずつ、少しずつカップのお湯を啜った。
カップのお湯で喉が潤って、咳払いをするとだいぶ話しやすくなった気がする。心の中で安心のため息をついた。
先輩?と囁くような声で話しかけると、先輩は何だと聞くように首を傾げた。
「ずっと、いてくれたん、ですか」
「当然だろう」
即答する先輩に、つい顔がへにゃっとなりそうになるのを堪えて、でも、と続けた。
「いっしょのへやいた、ら、せんぱいも、かぜ、ひいちゃうから」
私の言葉を聞いた先輩は、心から不思議だというように首を傾げた。
「傍に居なければ看病にならないだろう」
優しく、でも反論は許さないというように柔らかくおでこに手を乗せられる。
一刻も早く帰ってもらわなきゃいけないのに、こうして触ってもらえるとやっぱり嬉しい。
「それより、腹はどうだ。何か食べれそうか」
お昼は薬をついた。飲むためになんとか少しだけ食べたけど、今はちょっとお腹が空いたような気がする。少しだけでもしっかり寝てスッキリしたせいかもしれない。
「のどいたい、けど、おなか、すき、まひた」
待ってろと囁いた先輩がすぐに部屋を出ていく。
先輩に今あまりこの部屋にいてほしくないという願いは本当の私の願いなのに、いざ先輩がいなくなってしまうとすごく寂しい。
すごく勝手だ。わがままだ。
頭では解ってるのに、ドアが開いて先輩の顔が見えるとやっぱり嬉しさで顔がにやけた。
「これ、食べれるか」
差し出された器を覗くと白いゼリーみたいなものがふるふる震えていた。
「ミルクプリンだ」
何だろうと見つめていると、先輩がそう答えた。
今ではほとんどなくなったけど、陽くんも小さい頃はよく風邪をひいていたらしい。
今の私みたいに熱と喉が痛くてまともにご飯を食べられない陽くんのために、お母さんはこのミルクプリンを作った。
「どうだ。食べれそうか」
ベッドの端に腰かけた先輩が心配そうに見つめてくる。
いただきますを言うと、ちょっと掬って食べてみる。
ほんのり甘くて冷たい。スルッと入っていくから喉も痛くない。いつもよそうご飯の量より少しずつ多いけど、これなら食べきれそう。
頷くと先輩は安心したように破顔して、一緒に持ってきていたポカリスエットを注いでくれる。
「ゆっくり食べろよ。無理して食べきる必要は無いからな」
子どもに言い聞かせるみたいな声。
でも、見守ってくれるのがすごく安心できて嬉しい。いつもみたいに、子ども扱いしてる、と怒らないのは風邪で気弱になってるからかな。
お腹いっぱいでもないけど、少しお腹に食べ物を入れて薬を飲むとホッとする。
重い目を開けて見ると、食器を片づけた先輩は今度は加湿器の様子を見ていた。
「眠いなら寝て良いんだぞ」
私の視線に気づいた先輩は、少し苦笑するとこちらへ来てくれて布団がちゃんとかかっているかを確認してくれる。
先輩、と呼ぶと、うん?と優しく聞き返してくれる。
「も、すこし、いてくれますか?」
「あぁ」
優しい返事と頭を撫でてくれる温かくて大きな手にホッとする。
「ちゃんと居るから、さっさと寝ろ」
寝ないと回復しない、と言い聞かせる口調は少しぶっきらぼうだけど手の隙間から見える目が優しくて、くふふと笑い声で頷いた。
◆ 経験者だからといって ◆
帰宅すると、母さんがすっ飛んで来た。
「夕弦っ!ゆゆゆゆ結香ちゃんの容態はっ」
「風邪だ。ただの」
飛び付いてきそうな勢いを避けつつ、今日一日でだいぶ落ち着いてはきたことを伝えると、母さんは深い安堵の嘆息を洩らした。
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「三年生はテストが多いんだ。クリスマスプレゼントの相談に乗ってくれたことは有り難いが、無理はさせないでくれ」
「テスト?」
何故か母さんは心底不思議そうに首を傾げる。
結香のように大学受験をしない生徒、就職組ですら三年生は皆テストを受けさせられるのだと説明すると、どこか感心したように頷いてから、再び首を傾げた。
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