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31話
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杏は市立病院にいた。
俺は院内に駆け込むやいなや、受け付けに身を乗り出し、スタッフを問い詰めた。
「杏……如月杏はどこだっ⁉」
スタッフのお姉さんは、固い笑顔で頭をかしげた。恐怖に少し表情を歪めている。
「知ってるんだろ⁉ 如月杏の場所を━━」
「こ、古路里くん……?」
俺の背後から引きつったような声が聞こえた。
振り返ると、杏がいた。待合い用の長椅子にちょこんと座り、怪訝な顔でこっちを見ている。
「ちょっと、ここは病院なんだから静かにしてよ」
「杏っ、無事なのかっ⁉ 手術はしたのか⁉」
「へ、ふぁ?」
長椅子の前でひざまずき、その顔を下からのぞきこむと、杏は小動物のようにぱちぱち瞬きした。
「救急車で運ばれたんだろ?」
「ちょ、ちょっと! 手術とか救急車ってさっきから何の話よ?」
「えっ、違うのか?」
※
病院からの帰り道。俺たちはとぼとぼと、ひとけのない暗い道を進んだ。
「だから。また少しふらっとしちゃっただけ。今回は打ちどころが悪くて、店の秤でおでこを切っちゃったの」
杏はおでこに小さいガーゼを貼り付けていた。
「私は別に平気だったんだけど、おでこは血が出やすいから店長が心配して、どうしても病院に行けって」
「……じゃ、じゃあ、救急車で運ばれたってのは?」
「だから、なによその話。尾ひれはひれもそこまでくると質が悪いんだから、まったく」
俺は煌々と光る街灯を見上げ、心の中で握りこぶしを作った。絶対トリエステのせいだ。やつめ、平然と救急車なんて嘘つきやがったな。
「まぁ、おでこに傷が残るのも嫌だし、念の為に診てもらったの」
杏は無念そうに自分のおでこをすりすり撫でている。
「頭の検査もしてもらったけど異常はなかったし。ただ貧血気味なのと疲れが出たんじゃないかって」
「それは、でも……大変なことだろ?」
「だからって、あんなに青ざめた顔で飛び込んできて、受付のお姉さんに食いかかるほどじゃないでしょ? 映画かと思った」
なんだかめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。俺だけがひとり騒いでただけじゃないか。
「でもまぁ、それだけ心配してくれたんだね。ありがとう」
杏の口調はなんだか平坦で、感動にうち震えているとは到底言い難いものだった。
こういうとき好感度のパラメータが見えたり、エロゲのヒロインのように頬を赤らめながら「別に喜んでなんかないんだからね」とか言ってくれれば、少しは手応えを感じるのだが。
ありていに言えば脈なしというやつなのだろう。距離感が近づいた感じはまるでしなかった。
なんにせよ、感謝されるために病院へと駆け込んだわけでも、見返りを求めてたわけでもないしな。現実とはこんなものなのか。
そうこうしてる間に家が近づいてきた。ボールの弾む音が聞こえてきた。
「あれ、古路里くんの妹さん?」
今日もトリエステは、杏の弟の遊び相手をしていたらしい。
街灯の下で青白く光るトリエステが俺を見つめ、妖しい笑みを浮かべた。
「あやめさん、今日も弟の面倒を見てくれたんですね。ありがとうございます」
「礼には及びませんわ」
ほんとこの吸血鬼、何を考えているのやら。
でも今は怒らないでいておいてやる。杏たちの目があるしな。
「さあ、行こうか。遊んでくれたお姉ちゃんにお礼しなさい」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「じゃあ、早くご飯にしよっか。お腹すいたでしょ」
「もうぺこぺこ!」
杏は弟の頭にぽんぽんと手を置いてから、手を取ってアパートの方へと歩きだした。
「いいのか、主水? 行ってしまうぞ」
トリエステが俺の脇腹を小突きながら囁いた。
「何がだよ……」
俺は煙たいふりをして、その肘を払った。
払った手でこめかみを掻く。汗で顔が冷たくなっていた。
横にいるトリエステは妖艶で人を茶化すような、またある意味何かを期待するような目で俺を見ていた。
俺はぐっと喉を鳴らしたあと、額の汗をぬぐい、「委員長」と後ろから呼びかけた。
彼女はちょうどドアノブに手をかけるところだった。
「なに? どうしたの?」
「あの……その……」
「なによ。もごもごして」
「あの……今からご飯作るなら、みんなの分をまとめて作ろうか? 俺が……」
長い沈黙があった。
向こうから近づいてくれる気配もなかったので、俺の方から杏の方へとゆっくり進んだ。
「怪我の件もあったし、疲れただろ」
「まぁ、正直……そうね……」
如月杏はうつむいて地面を見つめていた。
もうひと押しと、背中にトリエステの圧を感じる。
「トリ……妹が八百屋で野菜をもらったんだ。多すぎて食いきれるか心配だし。別に恩を売られたなんて思う必要もないし……」
必死に恩着せがましさを消そうとするほど怪しくなるのがわかった。
まだ彼女は悩んでいるようだった。
「でも、悪いし……」
「気にすることはない。それに作る飯が二人前から四人前になってもさほど手間は変わらない。とにかく杏は少し休んだ方がいい」
「だって。どうしようか」
如月杏は不安そうに弟を見下ろした。弟の方は期待の目で彼女を見返している。
俺は余計な気を遣われないよう、「味の保証はできないがな」と付け加えた。
杏は顔を上げると、困ったふうに笑って肩をすくめた。
「何か勘違いしてるみたいだけど。それじゃあ三人分お願いしようかな。母親は帰りが遅いの」
俺は院内に駆け込むやいなや、受け付けに身を乗り出し、スタッフを問い詰めた。
「杏……如月杏はどこだっ⁉」
スタッフのお姉さんは、固い笑顔で頭をかしげた。恐怖に少し表情を歪めている。
「知ってるんだろ⁉ 如月杏の場所を━━」
「こ、古路里くん……?」
俺の背後から引きつったような声が聞こえた。
振り返ると、杏がいた。待合い用の長椅子にちょこんと座り、怪訝な顔でこっちを見ている。
「ちょっと、ここは病院なんだから静かにしてよ」
「杏っ、無事なのかっ⁉ 手術はしたのか⁉」
「へ、ふぁ?」
長椅子の前でひざまずき、その顔を下からのぞきこむと、杏は小動物のようにぱちぱち瞬きした。
「救急車で運ばれたんだろ?」
「ちょ、ちょっと! 手術とか救急車ってさっきから何の話よ?」
「えっ、違うのか?」
※
病院からの帰り道。俺たちはとぼとぼと、ひとけのない暗い道を進んだ。
「だから。また少しふらっとしちゃっただけ。今回は打ちどころが悪くて、店の秤でおでこを切っちゃったの」
杏はおでこに小さいガーゼを貼り付けていた。
「私は別に平気だったんだけど、おでこは血が出やすいから店長が心配して、どうしても病院に行けって」
「……じゃ、じゃあ、救急車で運ばれたってのは?」
「だから、なによその話。尾ひれはひれもそこまでくると質が悪いんだから、まったく」
俺は煌々と光る街灯を見上げ、心の中で握りこぶしを作った。絶対トリエステのせいだ。やつめ、平然と救急車なんて嘘つきやがったな。
「まぁ、おでこに傷が残るのも嫌だし、念の為に診てもらったの」
杏は無念そうに自分のおでこをすりすり撫でている。
「頭の検査もしてもらったけど異常はなかったし。ただ貧血気味なのと疲れが出たんじゃないかって」
「それは、でも……大変なことだろ?」
「だからって、あんなに青ざめた顔で飛び込んできて、受付のお姉さんに食いかかるほどじゃないでしょ? 映画かと思った」
なんだかめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。俺だけがひとり騒いでただけじゃないか。
「でもまぁ、それだけ心配してくれたんだね。ありがとう」
杏の口調はなんだか平坦で、感動にうち震えているとは到底言い難いものだった。
こういうとき好感度のパラメータが見えたり、エロゲのヒロインのように頬を赤らめながら「別に喜んでなんかないんだからね」とか言ってくれれば、少しは手応えを感じるのだが。
ありていに言えば脈なしというやつなのだろう。距離感が近づいた感じはまるでしなかった。
なんにせよ、感謝されるために病院へと駆け込んだわけでも、見返りを求めてたわけでもないしな。現実とはこんなものなのか。
そうこうしてる間に家が近づいてきた。ボールの弾む音が聞こえてきた。
「あれ、古路里くんの妹さん?」
今日もトリエステは、杏の弟の遊び相手をしていたらしい。
街灯の下で青白く光るトリエステが俺を見つめ、妖しい笑みを浮かべた。
「あやめさん、今日も弟の面倒を見てくれたんですね。ありがとうございます」
「礼には及びませんわ」
ほんとこの吸血鬼、何を考えているのやら。
でも今は怒らないでいておいてやる。杏たちの目があるしな。
「さあ、行こうか。遊んでくれたお姉ちゃんにお礼しなさい」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「じゃあ、早くご飯にしよっか。お腹すいたでしょ」
「もうぺこぺこ!」
杏は弟の頭にぽんぽんと手を置いてから、手を取ってアパートの方へと歩きだした。
「いいのか、主水? 行ってしまうぞ」
トリエステが俺の脇腹を小突きながら囁いた。
「何がだよ……」
俺は煙たいふりをして、その肘を払った。
払った手でこめかみを掻く。汗で顔が冷たくなっていた。
横にいるトリエステは妖艶で人を茶化すような、またある意味何かを期待するような目で俺を見ていた。
俺はぐっと喉を鳴らしたあと、額の汗をぬぐい、「委員長」と後ろから呼びかけた。
彼女はちょうどドアノブに手をかけるところだった。
「なに? どうしたの?」
「あの……その……」
「なによ。もごもごして」
「あの……今からご飯作るなら、みんなの分をまとめて作ろうか? 俺が……」
長い沈黙があった。
向こうから近づいてくれる気配もなかったので、俺の方から杏の方へとゆっくり進んだ。
「怪我の件もあったし、疲れただろ」
「まぁ、正直……そうね……」
如月杏はうつむいて地面を見つめていた。
もうひと押しと、背中にトリエステの圧を感じる。
「トリ……妹が八百屋で野菜をもらったんだ。多すぎて食いきれるか心配だし。別に恩を売られたなんて思う必要もないし……」
必死に恩着せがましさを消そうとするほど怪しくなるのがわかった。
まだ彼女は悩んでいるようだった。
「でも、悪いし……」
「気にすることはない。それに作る飯が二人前から四人前になってもさほど手間は変わらない。とにかく杏は少し休んだ方がいい」
「だって。どうしようか」
如月杏は不安そうに弟を見下ろした。弟の方は期待の目で彼女を見返している。
俺は余計な気を遣われないよう、「味の保証はできないがな」と付け加えた。
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