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38話
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「ありがとう……」
それまで黙りこくっていた杏が、ぼそりと呟いた。学校に辿り着くまでの最後の難関、坂道に差し掛かった頃のことだ。
「気分は良くなったか?」
「うん、少しだけね」
「どうやら遅刻は免れられそうだ」
少し目眩がしていた。
喉がひりひりするように渇く。
「あなたのおかげね」と言った杏に、ふっと笑い返し、ペダルに力を込める。
自転車は中々進んでくれなかった。
俺は気を紛らわせるように、声を絞り出した。
「ずっと、ずっとだ」
「なに?」杏は肩越しに顔を覗かせた。
「俺はな。こうやって、女の子と自転車二人乗りするのを夢見ていたんだ」
「何それ」杏は小さく吹き出した。「ちっぽけな夢ね」
なだらかな坂と思っていたが、強敵だった。観念した俺は立ち漕ぎになり、坂を必死に登る。さらに汗が吹き出し始めた。
「ちっぽけ? そうかな。しかしだな。もう、一生叶わないと思っていたんだ」
「それはおじいさんが言う台詞でしょ?」
「委員長には夢、ないのか?」
「私?」少し驚いたように聞き返す杏。「……そうね私も同じ夢だったかも」
彼女がどんな表情で言っているのか、俺にはわからなかった。ただその声は寂しく響いた。
「ねえ、古路里くん?」
「なんだ?」
「由奈さんのこと好き?」
いつか訊かれると思っていた。もちろんどう答えようかも散々悩んだ。
「好きかもな。正直まだよくわからないけど」
「やっぱりそうだよね……」
「でも、それと同じくらい杏のことも気になるよ」
「やだ、寒気がする」
「信じてもらえなくてもいいさ。一番寒気がしてんのは俺自身だしな」
「どうせかわいい子とか美人に飽きたから私みたいなちんちくりんに興味が出たんでしょ」
「誰とも付き合ったことないって言っても信じてくれなさそうだな」
長い間、杏は押し黙っていた。俺のプレイボーイらしからぬ数々の言動を振り返れば、整合性も取れない話ではないと思っているのかもしれない。
ギコギコと自転車のきしむ音が響いていた。
「でもね。正直、わかんないなその気持ち。人を好きになるってどんな感じだろう」
「たしかに俺も長いこと忘れていたな。ずっと独りだったんだ。そりゃ家族はいたし、気楽で不自由もない生活だったけど、寂しくないわけざゃなかった」
「なんだか不思議な話。でも嘘ではないみたい」
「さっ、そんなこと話してるうちに学校だ!」
道の向こうに校門が見えてきた。
だがその時、あまりに意外な結末が俺たちの前に突きつけられた。
「どういうことだ。門が閉じてるぞ……」
咄嗟に腕時計へと目を走らせる。
「まだ、三分あるはずだ……」
「もしかして教官に閉められたのかな」
俺は自転車の速度を上げた。
門が閉められていようが構わない。要は授業に間に合えば、彼女の顔に泥が塗られることはないのだ。
「もういいって、古路里くん」委員長は寂しげに囁いた。「二人で謝ろう……」
「まだ遅刻じゃない。余裕で間に合う」
「ちょ、ちょっと前!」杏は突然声を上擦らせ、俺の肩を激しくた叩いた。「信号赤だって!」
そんなことは当然わかっている。ちゃんと目を開けて、前を見据えているわけだからな。
「杏、大丈夫だ。ほらっ」
横断歩道まで数メートル。
神の思し召しとばかりに信号が青に切り替わった。
ラストスパート。最後の力で自転車を押し進める。
「古路里くんっ!」
杏の声が耳の内側で何度も反射した。
それは神の思し召しでもなんでもなかった。
前しか見ていなかった俺は、横から直進してくる車の存在に気づかなかった。
いや、音には聞いていた。確かに。だが相当な距離があるため、てっきり手前で止まると信じ込んでしまったのだ。
巨大な塊が物凄い速度で迫ってくる。
━━やっちまった。またトラックだ。
運転手は、よそ見というより、何かに意識を奪われたように側道を見つめ━━そして危機を察知したのか、ぎょっと俺と目が合った。
運転手の顔が青ざめる瞬間まで網膜は捉えていた。
右耳に突き刺さるクラクションの音。
そしてタイヤが地面を擦る。空気を引き裂くような音が立て続けに響いた。
全身が硬直する。
この坂道だ。もうこれ以上速度を上げることはできない。
走馬灯のように、ある映画のことを思い出していた。
その映画の中では、美しいヴァンパイアがヒロインを守るために、迫りくる車を手で押し返していた。
しかし、さすがの俺でもトラックは相手が悪い。
だからこのやり方しかないんだ。
「杏、ごめんな」
ロケットが宇宙まで辿り着くには、ガスの噴射であったり、部品であったりと、後ろに何かを置いて行かなければならない。
運動の第三法則だ。
俺は後ろに手を回し、杏の襟首を掴んだ。
道の向こうは道沿いに茂みが植えられている。そこへ向けて、強引に投げ飛ばした。
それまで黙りこくっていた杏が、ぼそりと呟いた。学校に辿り着くまでの最後の難関、坂道に差し掛かった頃のことだ。
「気分は良くなったか?」
「うん、少しだけね」
「どうやら遅刻は免れられそうだ」
少し目眩がしていた。
喉がひりひりするように渇く。
「あなたのおかげね」と言った杏に、ふっと笑い返し、ペダルに力を込める。
自転車は中々進んでくれなかった。
俺は気を紛らわせるように、声を絞り出した。
「ずっと、ずっとだ」
「なに?」杏は肩越しに顔を覗かせた。
「俺はな。こうやって、女の子と自転車二人乗りするのを夢見ていたんだ」
「何それ」杏は小さく吹き出した。「ちっぽけな夢ね」
なだらかな坂と思っていたが、強敵だった。観念した俺は立ち漕ぎになり、坂を必死に登る。さらに汗が吹き出し始めた。
「ちっぽけ? そうかな。しかしだな。もう、一生叶わないと思っていたんだ」
「それはおじいさんが言う台詞でしょ?」
「委員長には夢、ないのか?」
「私?」少し驚いたように聞き返す杏。「……そうね私も同じ夢だったかも」
彼女がどんな表情で言っているのか、俺にはわからなかった。ただその声は寂しく響いた。
「ねえ、古路里くん?」
「なんだ?」
「由奈さんのこと好き?」
いつか訊かれると思っていた。もちろんどう答えようかも散々悩んだ。
「好きかもな。正直まだよくわからないけど」
「やっぱりそうだよね……」
「でも、それと同じくらい杏のことも気になるよ」
「やだ、寒気がする」
「信じてもらえなくてもいいさ。一番寒気がしてんのは俺自身だしな」
「どうせかわいい子とか美人に飽きたから私みたいなちんちくりんに興味が出たんでしょ」
「誰とも付き合ったことないって言っても信じてくれなさそうだな」
長い間、杏は押し黙っていた。俺のプレイボーイらしからぬ数々の言動を振り返れば、整合性も取れない話ではないと思っているのかもしれない。
ギコギコと自転車のきしむ音が響いていた。
「でもね。正直、わかんないなその気持ち。人を好きになるってどんな感じだろう」
「たしかに俺も長いこと忘れていたな。ずっと独りだったんだ。そりゃ家族はいたし、気楽で不自由もない生活だったけど、寂しくないわけざゃなかった」
「なんだか不思議な話。でも嘘ではないみたい」
「さっ、そんなこと話してるうちに学校だ!」
道の向こうに校門が見えてきた。
だがその時、あまりに意外な結末が俺たちの前に突きつけられた。
「どういうことだ。門が閉じてるぞ……」
咄嗟に腕時計へと目を走らせる。
「まだ、三分あるはずだ……」
「もしかして教官に閉められたのかな」
俺は自転車の速度を上げた。
門が閉められていようが構わない。要は授業に間に合えば、彼女の顔に泥が塗られることはないのだ。
「もういいって、古路里くん」委員長は寂しげに囁いた。「二人で謝ろう……」
「まだ遅刻じゃない。余裕で間に合う」
「ちょ、ちょっと前!」杏は突然声を上擦らせ、俺の肩を激しくた叩いた。「信号赤だって!」
そんなことは当然わかっている。ちゃんと目を開けて、前を見据えているわけだからな。
「杏、大丈夫だ。ほらっ」
横断歩道まで数メートル。
神の思し召しとばかりに信号が青に切り替わった。
ラストスパート。最後の力で自転車を押し進める。
「古路里くんっ!」
杏の声が耳の内側で何度も反射した。
それは神の思し召しでもなんでもなかった。
前しか見ていなかった俺は、横から直進してくる車の存在に気づかなかった。
いや、音には聞いていた。確かに。だが相当な距離があるため、てっきり手前で止まると信じ込んでしまったのだ。
巨大な塊が物凄い速度で迫ってくる。
━━やっちまった。またトラックだ。
運転手は、よそ見というより、何かに意識を奪われたように側道を見つめ━━そして危機を察知したのか、ぎょっと俺と目が合った。
運転手の顔が青ざめる瞬間まで網膜は捉えていた。
右耳に突き刺さるクラクションの音。
そしてタイヤが地面を擦る。空気を引き裂くような音が立て続けに響いた。
全身が硬直する。
この坂道だ。もうこれ以上速度を上げることはできない。
走馬灯のように、ある映画のことを思い出していた。
その映画の中では、美しいヴァンパイアがヒロインを守るために、迫りくる車を手で押し返していた。
しかし、さすがの俺でもトラックは相手が悪い。
だからこのやり方しかないんだ。
「杏、ごめんな」
ロケットが宇宙まで辿り着くには、ガスの噴射であったり、部品であったりと、後ろに何かを置いて行かなければならない。
運動の第三法則だ。
俺は後ろに手を回し、杏の襟首を掴んだ。
道の向こうは道沿いに茂みが植えられている。そこへ向けて、強引に投げ飛ばした。
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