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87 裏口へ
しおりを挟む「ふう、ようやく着いたよ。まったく」
俺は夜更けにマール邸を抜けだし、メラルダ夫人が住まうキーファー侯爵邸へとやってきた。
だがここへ来るまでの道程は一苦労だった。
「一回来たっきりだから迷っちゃったよ。夜中だから道も昼間とは違うしさ」
俺は一人であーだこーだと愚痴を呟くと、ようやくと落ち着きを取り戻した。
「だがまあとりあえずは到着したことだし、良しとするか」
俺はそう独りごちると、キーファー侯爵邸に忍び足で近付いていった。
夜更けとはいえ、屋敷にはまだ明かりがちらほらと見える。
「まだ寝静まったとはいえないな。さてどうするか、明かりが全部消えるまで待つか。それとも……」
俺はキーファー侯爵邸を、斜めの位置から見上げながら、考えた。
右手の先の方には玄関があり、そこには警備員が常駐している。
「まずは裏口へ回ろう。正面突破は無謀すぎる」
俺はとりあえずの方針を決めると、左に曲がってキーファー侯爵邸の裏口を目指した。
静かに出来るだけ足音を立てずに屋敷の外周に沿って歩く。
側面を終え、角を右に曲がって屋敷の裏手へと出た。
「裏口はこの先かな?」
キーファー侯爵邸の塀は高くそびえ立っている。
何処の場所も変わらずの高さで、およそ三メートルはある。
「塀を乗り越えるのはまず無理だ。なので、裏口の警備が手薄だと助かるんだけど」
俺はそう呟きながら、目を細めて塀の先を見た。
そこには裏口らしきものが見えた。
「やっぱり警備員いるか。まあそうだよな。でも正面玄関よりは手薄そうだ」
俺はゆっくりと裏口へと近付いていった。
裏口は小さいながらも門があり、通用門といった感じであった。
だがそこには警備員が二人立っていて、周囲の様子を窺っていた。
俺は一旦屋敷の塀から離れ、道の反対側へと移動した。
この道は、正面玄関のある道と比べ、かなり狭い路地のような感じであった。
今夜の月は、屋敷を明るく照らすように浮かんでいる。
つまりは路地を挟んだ建物には大きな陰が出来ていた。
俺が身を隠すには絶好であったといえる。
「よし、これならかなり近づけそうだ」
俺は静かに一歩一歩建物の陰に隠れて裏口前へと近付いていった。
そして裏口の斜め前、十メートルほどのところで、俺は止まった。
「参ったな。隙が見えない。結構な手練れと見える」
俺は小声で呟いた。
そしてしばらくの間、二人の警備員を観察した。
だが彼らは微動だにしなかった。
ひたすらに真正面を向き、ときおり首を左右に振って侵入者を警戒していた。
「何か注意を逸らす方法でもあればいいんだけど」
俺は考えた。
ネルヴァから教わった魔法で、何か転用できるものがなかったか思い出そうとした。
だが特にそれらしきものは思いつかなかった。
「参ったな。倒そうと思えば出来るけど、それじゃあ、まずいよなあ。かといって上手いこと侵入する方法は思いつかないし……」
俺はキーファー侯爵邸の面前で、路頭に迷っていた。
すると突然、屋敷の中で騒ぎが起こった。
裏口に面している明かりの灯った部屋から、ひどく耳障りな悲鳴のような金切り声が聞こえてきたのだ。
メラルダ夫人か?
たぶんそうだ。
あの声には聞き覚えがある。
確かにあのような金切り声を聞いたのは初めてだけど、生来の声質ってものがある。
今の声は、メラルダ夫人で間違いないだろう。
視線を落とすと、警備員たちも反応していた。
二人とも後ろの屋敷を振り返って見ている。
そして何やら互いに話し合っている。
何を話しているのか、その内容までは聞き取れなかったが、その顔や雰囲気から驚いた様子のようだ。
ということは、こういうことは滅多にないってことか?
驚くということはそういうことだろう。
意外だな。
一度会ったきりだが、メラルダ夫人の印象から、こういったことは日常茶飯事のイメージだった。
誰彼構わず、手当たり次第に怒鳴ってそうなイメージだ。
だが警備員の様子から、これは珍しいことらしい。
俺はそこでふと考えた。
なるほど。
世間的な体面を気にする人なら、こんな風に外にも聞こえるような大声は出さないか。
うん。それならメラルダ夫人のイメージとも合致するな。
あの人、かなりの見栄っ張りに見えるし。
しかしそうなると、なぜ通常ならば聞こえないはずの金切り声が聞こえたのだろうか?
当然、答えは一つだ。
メラルダ夫人にとって予期せぬ出来事が起こったからだ。
それは何か?
もしかしたら、メイデン王子が俺たちに捕らえられたことを知ったとか?
おそらくそれだ。
このタイミングだし、それしか考えられない。
となればおそらくこの後、動きがある。
俺は夜の闇にジッと身を潜めて、その時が来るのを待つのであった。
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