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プロローグ 現世の終わり
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「こんな世界じゃ、空も飛べやしない――」
七月の強烈な日差しを遮る木々の下、涼しげにそよぐ風を浴びながら、車椅子に座った『老人』がとても低く小さな声で呟いた。
だがその消え入りそうなささやき声を、傍らの青年は聞き逃さなかった。
「もしかして例の話ですか!?」
興奮気味に聞いてくる青年の質問に辟易した『老人』は、さも面倒くさそうに手で宙を払った。
「いやなんでもない。ただのうわ言だ」
『老人』はそう言ってつれなく返し、さっさとこの会話を打ち切ろうとしたが、青年はこの謎めいた呟きにいたく興味をそそられたらしく、ひどく食い下がった。
「いやすごく気になりますよ。話してくださいよ。なんでも聞きますから。みなさんの話を聞くのも僕たちの仕事の内の一つですしね」
首都東京のベッドタウンとして昭和三十年代から数多くの住宅団地が次々と建設され、現在では実に五十万人もの人口を抱える巨大な中核都市、武尊市。
その市の中心部から北東方向を眺めると、三キロほど先のところに鬱蒼とした木々が生い茂る高台が見える。
そんな見晴らしのよい高台の上には、いくつもの行政施設が建っていた。
市内の医療機関の中核を担う武尊中央医療センターや、収容人員千人を超すコンサートホールを有す武尊市民文化ホール、そして総蔵書数三十五万冊を誇る武尊市中央図書館などがそれである。
そしてさらには自力での日常生活を送ることが困難となってしまった老人たちの終の棲家となる、特別介護老人福祉施設やすらぎの里もそこにはあった。
「さあどうぞ、思う存分話してくださいよ。さあ」
彼、桧垣大吾が大学を卒業し、このやすらぎの里に勤務するようになったのは今年の春からのことであり、まだわずか三ヶ月ほどしか経っていない。
そのためか彼の仕事振りは情熱に溢れており、入居者たちには『良く言えば熱血漢だが、悪く言えば暑苦しい』と、評されていた。
「言っても信じない」
『老人』は、桧垣を明らかに『暑苦しい』に分類していた。
七月に入ったばかりではあるが、もう梅雨も明け、そろそろ本格的な夏が近づいている。
頬を撫でるそよ風が心地よい午前中とはいえ、すでに気温は二十度を超えていた。
そのため『老人』は、桧垣の様な『暑苦しい』男にこれ以上まとわりつかれてはたまらない、とばかりに早々に話を切り上げるつもりだった。
「いやいや、そう言わずに話してくださいよ。さっきの話、どういう意味なんです?」
実は桧垣は、この『老人』に前々から興味津々であった。
とはいっても、桧垣が普段担当しているフロアはこの『老人』とは別のフロアであるため、会話をするのはもちろん、顔を見るのも今日がはじめてであった。
ではなぜ彼が今、この『老人』の介護をしているかといえば、それは今朝方、急にこの『老人』のフロアの担当者である篠原洋司が急病で入院したとの連絡が入ったため、代わりに今日より一週間の予定で臨時に桧垣が担当することになったからだった。
だが、なぜ顔すら知らないこの『老人』に桧垣が以前より興味を抱いていたのかというと、それは今年入ったばかりの新人である彼の元教育係で、今朝方入院してしまった篠原からこの『老人』の話を散々聞いていたからだった。
篠原の話によれば、この『老人』がやすらぎの里に入所してきたのはおよそ二年前。
当初より全くの無口で愛想が悪く、この世の不幸のすべてを背負っているかのような苦渋に満ちた表情をした陰鬱な『老人』だったと言う。
入所者の誰とも口を利かず、いつも一人で壁に向かって沈思黙考している様は、『面壁八年』で有名な中国禅の創始者、かの有名な達磨大師を想起させるほどであった。
また入居者だけではなく、所員の誰ともほとんど会話をしなかったが、それ以外では特に問題もないため何事も無く歳月は流れていった。
だが今からおよそ二ヶ月ほど前、沈黙は突然に破られた。
『老人』が、いきなり夜中に叫びだした。
その際、同室の入居者の記憶が確かならば、彼は第一声でこう叫んだという。
「すべて思い出したぞ!」と。
次いで彼は、何者かに対して呪詛の言葉を吐き連ねた。
「奴め!次こそは――次こそは必ず殺してやる!」
そしてそれから一時間近く、彼は叫び続けた。
同居者は凄まじい形相でわめきちらす『老人』を見て怖くなり、毛布をかぶっておびえていたため、彼の言葉は最初の二言しかはっきりとは覚えていなかった。
だが当然のことながら、この喧騒を耳にした当直の職員たちはおっとり刀で駆けつけた。
そして彼らは『老人』の興奮ぶりに驚きながらも、なんとかおとなしくさせようと努力した。
彼の叫びを注意深く聴き、対話をしようと試みた。
しかし、それは叶わなかった。
なぜなら『老人』の言葉の中には聞いたこともない単語がいくつも含まれており、職員たちの誰一人として彼の話しの内容を理解出来る者がいなかったからだ。
そのため職員たちは、「落ち着いてください」や「静かにしてください」といった定型文をただひたすら繰り返し言い続ける羽目となった。
しかしそんな状況も、一時間も経つとずいぶんと変わってきた。
さすがに叫びすぎたのか、『老人』は疲れ果て、息も絶え絶えの様子で下を向いておとなしくなった。
そしてついにベッドに倒れ伏し、その後わずか数秒で静かに寝息を立て始めた。
その瞬間気が抜けたのか、職員たちの中には腰が砕けてその場に座り込むものが何人もいたと言う。
それほどの大騒動だった。
だがそれ以降、『老人』は少しずつ話すようになった。
普段の日常的な会話が出来る時もあれば、騒ぎの晩の時のように、聞いたこともない単語を織り交ぜた話しをすることもあった。
だが会話が出来るようになったのは大きかった。
なんといってもこれまでは一言も口を利かなかったからだ。
そのことを考えれば、少しぐらい訳の分からない話しをしたとしても問題は無かった。
なぜならこの施設には痴呆性老人が多数おり、話しが通じないことなど職員にとっては日常茶飯事だったからだ。
そのため職員たちは、辛抱強くこの『老人』の話に耳を傾けた。
特に担当の篠原は、メモを取りながらよく彼と会話した。
聞いたことがない単語が会話に出ると、メモを取りつつその単語の意味を尋ねた。
一つ一つ丁寧にメモを取り続けた篠原は、ついに『老人』の語る話しの概要を、ある程度までは理解出来るまでになった。
それは――ここではない、ある別の世界の物語であった。
その物語とは――剣と魔法が支配する、稀有壮大なファンタジーであった。
そこは、我々の今いるこの世界とは別次元に存在し、『老人』はこの世界で生を終えるなり彼の世界に転生し、彼の世界で生を終えるとまたこの世界に転生し、ということを延々と繰り返してきたと言う。
彼の世界にはいわゆる機械文明はほとんど存在せず、そのかわり魔法が機械の代わりを担っている。
とはいえ魔法も万能ではないため、彼の世界よりもこちらの世界のほうが、利便性には長けているのだと言う。
だが、魔力が高いものにとって、彼の世界はとても魅惑的なのだそうだ。
なぜならば、徹底した平等主義のこの世界と違って彼の世界は弱肉強食であり、『力』が大きくものを言う世界だからであった。
『力』というものには、いくつかの種類がある。
単純な腕力も『力』の一つだが、多くの人々を従える力である権力も、また大いなる『力』の一つと言える。
そして、魔『力』も。
機械文明のない彼の世界に、もし本当に魔力というものが存在するならば、それがどれほどの効力を発揮するかは想像に難くないだろう。
『老人』がいうには、彼はこの魔力がとてつもなく高いのだそうだ。
何度転生しても彼の世界においては圧倒的な魔力を有し、それにより様々なことを為して来たのだと言う。
或る時は、さる亡国貴種の冒険譚に華を添え、
或る時は、咎なく極寒の流刑地に流された囚人たちの脱出行を手助けし、
また或る時は、自ら建国の志を抱いて勃興し、強大国との一大会戦を制して国父と尊ばれたこともあったと言う。
これらの話は、通常老人の妄想、もしくは夢物語で片付けられてしまうだろう。
しかし篠原は、これらの話を半ば本気で信じ込んでいた。
なぜならば、『老人』の話には圧倒的なまでの質感があったからだ。
作り話にしてはディティールが細かく、しかも重厚な質感を持っていたのだ。
話しの端々に漂うその質感のようなものが、これらの話しが真実であることを物語っていると、篠原は思った。
だから篠原は桧垣に話した。
彼はメモを見せつつ、『老人』の物語を桧垣につまびらかに語った。
そして桧垣もまた、この『老人』に興味を持った。
「僕、あなたの話を結構信じてるんです。篠原先輩もです。だから話してくださいよ」
青年の少しばかり無神経な話し振りに、老人は少し鼻白んだものの、仕方なく観念しておもむろに語りだす。
「そうだな。空を飛ぶというのは、気持ちがいいものだ。あの漂うような浮遊感がなんともいえん」
「それは水に浮いている感覚とは違うのですか?」
「いや、似たようなものだ。水に浮くとは、重力によって下に落ちる力と水の浮力によって上に上がろうとする力がせめぎあっている状態のことだ」
桧垣は思い出す。
プールで天井を見上げながら、ただいたずらに水に浮かんでいたときのことを。
重力と浮力がせめぎあう、あの感覚を。
「たしかに重力と浮力を感じてますね」
「空に浮くというのは、魔力による浮力で重力に逆らうことだ。つまり水に浮いている感覚とほぼ同じと言っていい。ただし、水に浮いているときというのはかなり不自由なものだ。少しバランスを崩せばたちまち水に沈んでしまう。だが魔力で空に浮いている時は、思うがまま自由自在に体を動かすことが出来るのだ。それが実に気持ちがいい。もっとも、浮力が極めて高いという死海などでは、多少バランスを崩したところで沈んだりはしないのだろうし、もしかすると空に浮く感覚とかなり近いのかもしれんな」
「なるほど、それは気持ち良さそうですね。僕も飛んでみたいもんです」
桧垣は、心底から羨ましげに言った。
するとその様子を見た老人が、いぶかしげに桧垣に問うた。
「桧垣さん……だったかな?あんた本当にわたしの話を信じているのか?」
「ええ。とはいっても、半信半疑というのが本当のところですけどね」
「夢見がちな小中学生でもあるまいし、こんな与太話を信じるとは君、歳はいくつなんだ?」
「二十二歳です……ていうか与太話なんですか?」
「さあな。それにしても二十二か。若いな。今のわたしの半分以下か」
「半分以下どころか、どう見たって三分の一以下でしょう」
桧垣は笑いながら言った。
だが老人は、真顔でこう答えた。
「いや、わたしは五十歳になったばかりだ。それも、今日な」
「えっ!五十歳!?」
桧垣は心底驚いた。
『彼』の顔や手に刻まれている皺は、非常に深く、桧垣には八十歳は優に超えているように見える。
だが『彼』は五十歳だという。それも今日が誕生日だというのだ。
「驚いているようだな。まあ通常、このような施設には六十五歳以下は入所出来んからな。若くともそれ以上と普通なら思ってしまうな」
「もしや、特定疾病……」
「その通りだ。特定疾病対象者は、六十五歳以下でも特別に入所出来るからな」
「もしや、早老症ですか?」
「良く勉強しているな。その通りだ。中でも、ヴェルネス症候群と呼ばれるものだそうだ」
-早老症およびヴェルネス症候群-
早老症とは、染色体の異常により老化が急激に進んでしまう遺伝子病である。
中でもヴェルネス症候群とは、幼少期より発症する通常の早老症とは異なり、成人してから発症する。
そしてその症例はこれまでに約二千例程が報告されているが、その内の実に半数以上が日本人であった。
日本人にヴェルネス症候群が多い理由は、はっきりとは判っていないが、通常の早老症と同じく遺伝子病なため、日本人の祖先に原因となる遺伝子を持つものが多かったためであろうと推測されている。
「そうだったんですか。それで……」
「それで、とはなにかね?」
「あっいえ、すみません。いや、その、確か早老症の患者さんは低身長だったな、と思い出しまして」
「そうか。わたしの体は小さいからな。すまんな。気を使わせた」
「あっいえ、こちらこそすみません。僕ちょっと無神経なところがありまして……」
「ああ、知ってるよ。さっきからちょくちょく、な」
そう言うと『彼』は、朗らかに笑った。
桧垣も、苦笑まじりではあったが大いに笑った。
その時、施設のチャイムがやさしく鳴った。
「ああ、もう日向ぼっこの時間は終わりですね。部屋に戻りましょう」
言うや桧垣は、車椅子を押して暖かな木陰を出るなり、建物内へと向かった。
「またあとで、お話しを聞かせてください」
桧垣はとても明るい調子で言った。
だが『彼』の返事は、「あ、いや……うん……」といった具合で、大層歯切れが悪かった。
「三時のおやつの時にでも、またお話ししましょうよ」
桧垣の度重なる誘いであったが、やはり『彼』の返事は歯切れ悪く、言葉をだいぶ濁していた。
そうこうする内に彼らは無事部屋に辿り着き、桧垣は『彼』を抱えてベッドへと移した。
「じゃあ、またあとで」
そう言って立ち去ろうとする桧垣を、『彼』が意を決した様子で呼び止めた。
「桧垣さん、すまんがもう、あんたとは話は出来ない」
「えっ!なんでですか?いいじゃないですか。後でまた話しましょうよ」
「いや、残念だがもうしたくても出来ないんだ。わたしにはもう、時間がないんでな」
桧垣は『彼』の言葉に、この施設に流れるゆったりとした時間の流れを思い、いぶかしみながら答えた。
「時間なら、それこそたっぷりあると思いますよ」
終の棲家たるこの施設には、悠久の時が流れている。
そしてそれは、生を終えるその時まで、実にゆるやかにただひたすらに流れ続けるのだ。
だから桧垣は言ったのである。
この施設に集う全ての老人には、たっぷりと時間だけはあるのだと。
そしてそれは、目の前の『彼』も例外ではないのだと。
だが『彼』は、大きくかぶりを振ってそれを否定した。
そしてそれまでの柔和な表情を一変させ、非常に厳しい顔つきとなって言った。
「わたしはもう、まもなく死ぬんだ」
「なにをいってるんですか!?大丈夫ですよ、見るからにお元気そうですし。まだまだ長生きしますって」
「いや、桧垣さんわたしは死ぬよ。それもあと、わずか一時間後のことだ」
桧垣は驚きつつ、ベッド脇の収納台上に置かれた時計を見た。
時計の針は午前十一時を指していた。
「今日の正午に、わたしは死ぬ。いや正確に言おう。わたしは転生するんだ」
「転生!?本気ですか?どうやって?」
「わたしはこれまで幾たびも転生してきた。幾たびも幾たびも。それこそ数え切れないくらいにだ」
「それはお聞きしました」
「だがな、わたしはなにも好き好んで転生しているわけではないんだよ。桧垣さん、転生とはな、わたしの意志ではなく、強制的に行われるものなんだ」
「強制的に……」
「五十歳の誕生日、正午の鐘が鳴るその時に、な」
「そんな!」
「あんたとは今日はじめて話しをしたが、実に楽しかったよ。ありがとう。それから篠原さんにはお世話になった。直接お礼を言いたかったのだが、残念ながらそれは叶わなくなった。すまないが、あんたからよろしく言っておいてくれ」
桧垣は、『彼』の話しを鵜呑みには出来なかった。
『彼』の話には、確かにしっかりとしたディティールがある。
荒唐無稽と切って捨てられない何か、がある。
だが、だからと言って全面的に信じられるものでもない。
結局、『彼』の話は、桧垣にとってあくまで半信半疑のものに過ぎなかった。
「いやいや、なにを言ってるんですか。そんなわけないじゃないですか」
桧垣の声は上ずり、調子っぱずれとなった。
それを聞いた『彼』は、優しく微笑み、そして言った。
「ああ、そうだな。それより桧垣さん、他にも仕事があるんだろ。あまりこんなところで油を売っていると怒られるぞ」
「それもそうですね。じゃ、行きます。……行きますね」
「ああ」
桧垣は後ろ髪引かれる思いながらも、『彼』の部屋を後にした。
そんな桧垣を、『彼』は優しい笑顔で見送った。
そして『彼』は、静かにベッドに潜り込んで居住まいを正した。心を落ち着けて、その時が来るのをただ静かに待つ。
それからしばしの時が流れ、そしてついにすべての時計の針が天頂方向を指した。
その瞬間、ヨーロッパのどこかの国の寺院で録音したという美しい鐘の音が、スピーカーを通して施設内にやさしく鳴り響く。
これまでに数えきれないほど転生し続けた『彼』は、こうして『最後』の転生を果たした。
七月の強烈な日差しを遮る木々の下、涼しげにそよぐ風を浴びながら、車椅子に座った『老人』がとても低く小さな声で呟いた。
だがその消え入りそうなささやき声を、傍らの青年は聞き逃さなかった。
「もしかして例の話ですか!?」
興奮気味に聞いてくる青年の質問に辟易した『老人』は、さも面倒くさそうに手で宙を払った。
「いやなんでもない。ただのうわ言だ」
『老人』はそう言ってつれなく返し、さっさとこの会話を打ち切ろうとしたが、青年はこの謎めいた呟きにいたく興味をそそられたらしく、ひどく食い下がった。
「いやすごく気になりますよ。話してくださいよ。なんでも聞きますから。みなさんの話を聞くのも僕たちの仕事の内の一つですしね」
首都東京のベッドタウンとして昭和三十年代から数多くの住宅団地が次々と建設され、現在では実に五十万人もの人口を抱える巨大な中核都市、武尊市。
その市の中心部から北東方向を眺めると、三キロほど先のところに鬱蒼とした木々が生い茂る高台が見える。
そんな見晴らしのよい高台の上には、いくつもの行政施設が建っていた。
市内の医療機関の中核を担う武尊中央医療センターや、収容人員千人を超すコンサートホールを有す武尊市民文化ホール、そして総蔵書数三十五万冊を誇る武尊市中央図書館などがそれである。
そしてさらには自力での日常生活を送ることが困難となってしまった老人たちの終の棲家となる、特別介護老人福祉施設やすらぎの里もそこにはあった。
「さあどうぞ、思う存分話してくださいよ。さあ」
彼、桧垣大吾が大学を卒業し、このやすらぎの里に勤務するようになったのは今年の春からのことであり、まだわずか三ヶ月ほどしか経っていない。
そのためか彼の仕事振りは情熱に溢れており、入居者たちには『良く言えば熱血漢だが、悪く言えば暑苦しい』と、評されていた。
「言っても信じない」
『老人』は、桧垣を明らかに『暑苦しい』に分類していた。
七月に入ったばかりではあるが、もう梅雨も明け、そろそろ本格的な夏が近づいている。
頬を撫でるそよ風が心地よい午前中とはいえ、すでに気温は二十度を超えていた。
そのため『老人』は、桧垣の様な『暑苦しい』男にこれ以上まとわりつかれてはたまらない、とばかりに早々に話を切り上げるつもりだった。
「いやいや、そう言わずに話してくださいよ。さっきの話、どういう意味なんです?」
実は桧垣は、この『老人』に前々から興味津々であった。
とはいっても、桧垣が普段担当しているフロアはこの『老人』とは別のフロアであるため、会話をするのはもちろん、顔を見るのも今日がはじめてであった。
ではなぜ彼が今、この『老人』の介護をしているかといえば、それは今朝方、急にこの『老人』のフロアの担当者である篠原洋司が急病で入院したとの連絡が入ったため、代わりに今日より一週間の予定で臨時に桧垣が担当することになったからだった。
だが、なぜ顔すら知らないこの『老人』に桧垣が以前より興味を抱いていたのかというと、それは今年入ったばかりの新人である彼の元教育係で、今朝方入院してしまった篠原からこの『老人』の話を散々聞いていたからだった。
篠原の話によれば、この『老人』がやすらぎの里に入所してきたのはおよそ二年前。
当初より全くの無口で愛想が悪く、この世の不幸のすべてを背負っているかのような苦渋に満ちた表情をした陰鬱な『老人』だったと言う。
入所者の誰とも口を利かず、いつも一人で壁に向かって沈思黙考している様は、『面壁八年』で有名な中国禅の創始者、かの有名な達磨大師を想起させるほどであった。
また入居者だけではなく、所員の誰ともほとんど会話をしなかったが、それ以外では特に問題もないため何事も無く歳月は流れていった。
だが今からおよそ二ヶ月ほど前、沈黙は突然に破られた。
『老人』が、いきなり夜中に叫びだした。
その際、同室の入居者の記憶が確かならば、彼は第一声でこう叫んだという。
「すべて思い出したぞ!」と。
次いで彼は、何者かに対して呪詛の言葉を吐き連ねた。
「奴め!次こそは――次こそは必ず殺してやる!」
そしてそれから一時間近く、彼は叫び続けた。
同居者は凄まじい形相でわめきちらす『老人』を見て怖くなり、毛布をかぶっておびえていたため、彼の言葉は最初の二言しかはっきりとは覚えていなかった。
だが当然のことながら、この喧騒を耳にした当直の職員たちはおっとり刀で駆けつけた。
そして彼らは『老人』の興奮ぶりに驚きながらも、なんとかおとなしくさせようと努力した。
彼の叫びを注意深く聴き、対話をしようと試みた。
しかし、それは叶わなかった。
なぜなら『老人』の言葉の中には聞いたこともない単語がいくつも含まれており、職員たちの誰一人として彼の話しの内容を理解出来る者がいなかったからだ。
そのため職員たちは、「落ち着いてください」や「静かにしてください」といった定型文をただひたすら繰り返し言い続ける羽目となった。
しかしそんな状況も、一時間も経つとずいぶんと変わってきた。
さすがに叫びすぎたのか、『老人』は疲れ果て、息も絶え絶えの様子で下を向いておとなしくなった。
そしてついにベッドに倒れ伏し、その後わずか数秒で静かに寝息を立て始めた。
その瞬間気が抜けたのか、職員たちの中には腰が砕けてその場に座り込むものが何人もいたと言う。
それほどの大騒動だった。
だがそれ以降、『老人』は少しずつ話すようになった。
普段の日常的な会話が出来る時もあれば、騒ぎの晩の時のように、聞いたこともない単語を織り交ぜた話しをすることもあった。
だが会話が出来るようになったのは大きかった。
なんといってもこれまでは一言も口を利かなかったからだ。
そのことを考えれば、少しぐらい訳の分からない話しをしたとしても問題は無かった。
なぜならこの施設には痴呆性老人が多数おり、話しが通じないことなど職員にとっては日常茶飯事だったからだ。
そのため職員たちは、辛抱強くこの『老人』の話に耳を傾けた。
特に担当の篠原は、メモを取りながらよく彼と会話した。
聞いたことがない単語が会話に出ると、メモを取りつつその単語の意味を尋ねた。
一つ一つ丁寧にメモを取り続けた篠原は、ついに『老人』の語る話しの概要を、ある程度までは理解出来るまでになった。
それは――ここではない、ある別の世界の物語であった。
その物語とは――剣と魔法が支配する、稀有壮大なファンタジーであった。
そこは、我々の今いるこの世界とは別次元に存在し、『老人』はこの世界で生を終えるなり彼の世界に転生し、彼の世界で生を終えるとまたこの世界に転生し、ということを延々と繰り返してきたと言う。
彼の世界にはいわゆる機械文明はほとんど存在せず、そのかわり魔法が機械の代わりを担っている。
とはいえ魔法も万能ではないため、彼の世界よりもこちらの世界のほうが、利便性には長けているのだと言う。
だが、魔力が高いものにとって、彼の世界はとても魅惑的なのだそうだ。
なぜならば、徹底した平等主義のこの世界と違って彼の世界は弱肉強食であり、『力』が大きくものを言う世界だからであった。
『力』というものには、いくつかの種類がある。
単純な腕力も『力』の一つだが、多くの人々を従える力である権力も、また大いなる『力』の一つと言える。
そして、魔『力』も。
機械文明のない彼の世界に、もし本当に魔力というものが存在するならば、それがどれほどの効力を発揮するかは想像に難くないだろう。
『老人』がいうには、彼はこの魔力がとてつもなく高いのだそうだ。
何度転生しても彼の世界においては圧倒的な魔力を有し、それにより様々なことを為して来たのだと言う。
或る時は、さる亡国貴種の冒険譚に華を添え、
或る時は、咎なく極寒の流刑地に流された囚人たちの脱出行を手助けし、
また或る時は、自ら建国の志を抱いて勃興し、強大国との一大会戦を制して国父と尊ばれたこともあったと言う。
これらの話は、通常老人の妄想、もしくは夢物語で片付けられてしまうだろう。
しかし篠原は、これらの話を半ば本気で信じ込んでいた。
なぜならば、『老人』の話には圧倒的なまでの質感があったからだ。
作り話にしてはディティールが細かく、しかも重厚な質感を持っていたのだ。
話しの端々に漂うその質感のようなものが、これらの話しが真実であることを物語っていると、篠原は思った。
だから篠原は桧垣に話した。
彼はメモを見せつつ、『老人』の物語を桧垣につまびらかに語った。
そして桧垣もまた、この『老人』に興味を持った。
「僕、あなたの話を結構信じてるんです。篠原先輩もです。だから話してくださいよ」
青年の少しばかり無神経な話し振りに、老人は少し鼻白んだものの、仕方なく観念しておもむろに語りだす。
「そうだな。空を飛ぶというのは、気持ちがいいものだ。あの漂うような浮遊感がなんともいえん」
「それは水に浮いている感覚とは違うのですか?」
「いや、似たようなものだ。水に浮くとは、重力によって下に落ちる力と水の浮力によって上に上がろうとする力がせめぎあっている状態のことだ」
桧垣は思い出す。
プールで天井を見上げながら、ただいたずらに水に浮かんでいたときのことを。
重力と浮力がせめぎあう、あの感覚を。
「たしかに重力と浮力を感じてますね」
「空に浮くというのは、魔力による浮力で重力に逆らうことだ。つまり水に浮いている感覚とほぼ同じと言っていい。ただし、水に浮いているときというのはかなり不自由なものだ。少しバランスを崩せばたちまち水に沈んでしまう。だが魔力で空に浮いている時は、思うがまま自由自在に体を動かすことが出来るのだ。それが実に気持ちがいい。もっとも、浮力が極めて高いという死海などでは、多少バランスを崩したところで沈んだりはしないのだろうし、もしかすると空に浮く感覚とかなり近いのかもしれんな」
「なるほど、それは気持ち良さそうですね。僕も飛んでみたいもんです」
桧垣は、心底から羨ましげに言った。
するとその様子を見た老人が、いぶかしげに桧垣に問うた。
「桧垣さん……だったかな?あんた本当にわたしの話を信じているのか?」
「ええ。とはいっても、半信半疑というのが本当のところですけどね」
「夢見がちな小中学生でもあるまいし、こんな与太話を信じるとは君、歳はいくつなんだ?」
「二十二歳です……ていうか与太話なんですか?」
「さあな。それにしても二十二か。若いな。今のわたしの半分以下か」
「半分以下どころか、どう見たって三分の一以下でしょう」
桧垣は笑いながら言った。
だが老人は、真顔でこう答えた。
「いや、わたしは五十歳になったばかりだ。それも、今日な」
「えっ!五十歳!?」
桧垣は心底驚いた。
『彼』の顔や手に刻まれている皺は、非常に深く、桧垣には八十歳は優に超えているように見える。
だが『彼』は五十歳だという。それも今日が誕生日だというのだ。
「驚いているようだな。まあ通常、このような施設には六十五歳以下は入所出来んからな。若くともそれ以上と普通なら思ってしまうな」
「もしや、特定疾病……」
「その通りだ。特定疾病対象者は、六十五歳以下でも特別に入所出来るからな」
「もしや、早老症ですか?」
「良く勉強しているな。その通りだ。中でも、ヴェルネス症候群と呼ばれるものだそうだ」
-早老症およびヴェルネス症候群-
早老症とは、染色体の異常により老化が急激に進んでしまう遺伝子病である。
中でもヴェルネス症候群とは、幼少期より発症する通常の早老症とは異なり、成人してから発症する。
そしてその症例はこれまでに約二千例程が報告されているが、その内の実に半数以上が日本人であった。
日本人にヴェルネス症候群が多い理由は、はっきりとは判っていないが、通常の早老症と同じく遺伝子病なため、日本人の祖先に原因となる遺伝子を持つものが多かったためであろうと推測されている。
「そうだったんですか。それで……」
「それで、とはなにかね?」
「あっいえ、すみません。いや、その、確か早老症の患者さんは低身長だったな、と思い出しまして」
「そうか。わたしの体は小さいからな。すまんな。気を使わせた」
「あっいえ、こちらこそすみません。僕ちょっと無神経なところがありまして……」
「ああ、知ってるよ。さっきからちょくちょく、な」
そう言うと『彼』は、朗らかに笑った。
桧垣も、苦笑まじりではあったが大いに笑った。
その時、施設のチャイムがやさしく鳴った。
「ああ、もう日向ぼっこの時間は終わりですね。部屋に戻りましょう」
言うや桧垣は、車椅子を押して暖かな木陰を出るなり、建物内へと向かった。
「またあとで、お話しを聞かせてください」
桧垣はとても明るい調子で言った。
だが『彼』の返事は、「あ、いや……うん……」といった具合で、大層歯切れが悪かった。
「三時のおやつの時にでも、またお話ししましょうよ」
桧垣の度重なる誘いであったが、やはり『彼』の返事は歯切れ悪く、言葉をだいぶ濁していた。
そうこうする内に彼らは無事部屋に辿り着き、桧垣は『彼』を抱えてベッドへと移した。
「じゃあ、またあとで」
そう言って立ち去ろうとする桧垣を、『彼』が意を決した様子で呼び止めた。
「桧垣さん、すまんがもう、あんたとは話は出来ない」
「えっ!なんでですか?いいじゃないですか。後でまた話しましょうよ」
「いや、残念だがもうしたくても出来ないんだ。わたしにはもう、時間がないんでな」
桧垣は『彼』の言葉に、この施設に流れるゆったりとした時間の流れを思い、いぶかしみながら答えた。
「時間なら、それこそたっぷりあると思いますよ」
終の棲家たるこの施設には、悠久の時が流れている。
そしてそれは、生を終えるその時まで、実にゆるやかにただひたすらに流れ続けるのだ。
だから桧垣は言ったのである。
この施設に集う全ての老人には、たっぷりと時間だけはあるのだと。
そしてそれは、目の前の『彼』も例外ではないのだと。
だが『彼』は、大きくかぶりを振ってそれを否定した。
そしてそれまでの柔和な表情を一変させ、非常に厳しい顔つきとなって言った。
「わたしはもう、まもなく死ぬんだ」
「なにをいってるんですか!?大丈夫ですよ、見るからにお元気そうですし。まだまだ長生きしますって」
「いや、桧垣さんわたしは死ぬよ。それもあと、わずか一時間後のことだ」
桧垣は驚きつつ、ベッド脇の収納台上に置かれた時計を見た。
時計の針は午前十一時を指していた。
「今日の正午に、わたしは死ぬ。いや正確に言おう。わたしは転生するんだ」
「転生!?本気ですか?どうやって?」
「わたしはこれまで幾たびも転生してきた。幾たびも幾たびも。それこそ数え切れないくらいにだ」
「それはお聞きしました」
「だがな、わたしはなにも好き好んで転生しているわけではないんだよ。桧垣さん、転生とはな、わたしの意志ではなく、強制的に行われるものなんだ」
「強制的に……」
「五十歳の誕生日、正午の鐘が鳴るその時に、な」
「そんな!」
「あんたとは今日はじめて話しをしたが、実に楽しかったよ。ありがとう。それから篠原さんにはお世話になった。直接お礼を言いたかったのだが、残念ながらそれは叶わなくなった。すまないが、あんたからよろしく言っておいてくれ」
桧垣は、『彼』の話しを鵜呑みには出来なかった。
『彼』の話には、確かにしっかりとしたディティールがある。
荒唐無稽と切って捨てられない何か、がある。
だが、だからと言って全面的に信じられるものでもない。
結局、『彼』の話は、桧垣にとってあくまで半信半疑のものに過ぎなかった。
「いやいや、なにを言ってるんですか。そんなわけないじゃないですか」
桧垣の声は上ずり、調子っぱずれとなった。
それを聞いた『彼』は、優しく微笑み、そして言った。
「ああ、そうだな。それより桧垣さん、他にも仕事があるんだろ。あまりこんなところで油を売っていると怒られるぞ」
「それもそうですね。じゃ、行きます。……行きますね」
「ああ」
桧垣は後ろ髪引かれる思いながらも、『彼』の部屋を後にした。
そんな桧垣を、『彼』は優しい笑顔で見送った。
そして『彼』は、静かにベッドに潜り込んで居住まいを正した。心を落ち着けて、その時が来るのをただ静かに待つ。
それからしばしの時が流れ、そしてついにすべての時計の針が天頂方向を指した。
その瞬間、ヨーロッパのどこかの国の寺院で録音したという美しい鐘の音が、スピーカーを通して施設内にやさしく鳴り響く。
これまでに数えきれないほど転生し続けた『彼』は、こうして『最後』の転生を果たした。
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