甘い先輩と甘くない私

五十鈴スミレ

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番外編

名前と意味と先輩と私

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 現在、私は、お付き合いというものをしている。
 たった数日前から、佐伯先輩と。
 初めての好きな人。初めてのお付き合い。
 初めてづくしで戸惑う私を、佐伯先輩は優しくリードしてくれる。
 目がつぶれてしまいそうなほどまぶしい笑顔で、好き、と言ってくれたりする。
 ……心臓が何個あっても足りない、ということは実際にあるのだと、私は思い知らされている。



「帰ろう、美知」

 下校の準備をしていたところで、教室の外から声がかかる。
 私の下の名前を呼ぶのは、もちろん、佐伯先輩だ。
 付き合う前から、一緒に帰るのが当たり前となってしまっていたけど、付き合う前と違うのは、下校時間を私が心待ちにしていること。
 ここ最近先輩を避けていた反動もあるのか、他愛もないことをお話ししながら帰るだけの時間が、とても楽しい。
 早く準備を終えなきゃ、と急ぐ私の横を、沙耶佳が通り過ぎていく。

「じゃあみっちー、佐伯先輩、また明日ね」
「あ、うん、また明日」
「また明日、中嶋さん」

 私と、佐伯先輩にも手を振って、沙耶佳は一人で帰っていく。
 いや、なんだか上機嫌に見えるから、一人ではない可能性もある。
 どこかで年上の恋人さんと合流する予定なのかもしれない。
 まあ、人のことは言えないから、別にいいんだけれど。
 今なら、沙耶佳が恋人の話をするときに、きれいな笑みを浮かべていた理由が理解できる。
 私もそんな顔ができるのかどうかは、あんまり自信がないものの。

「お待たせしました、先輩」
「待ってないよ、大丈夫。はい、手」
「…………」

 当然のように目の前に差し出される、私のものよりも大きな手に目を落とす。
 この手を取るとき、まだ、毎回照れてしまう。
 それでも佐伯先輩は、私から手を出すまで強引に握ろうとはしない。
 私のペースに合わせてくれているのか、流されるだけじゃなく私にも行動してほしいのか。
 どっちにしろ、恥ずかしいことに変わりはないんだけれど。
 どうかした? とでも言うように微笑む佐伯先輩を見ると、その手を取らないという選択肢は選べなくなってしまう。
 どこか負けたような心地で、私は大きな手に自分の手を重ねた。

 手をつなぎながら、校内を歩く。
 その意味を、わかっていないわけじゃない。
 彼氏彼女の関係だということを、公言しているのと同じこと。
 佐伯先輩の片思いは広い範囲に知れ渡っていたから、元からお付き合いを隠すことなんて不可能だった。
 めでたく恋人同士になれたので、他の人からアプローチされても困ります。
 そういう、意思表示でもあるんだと思う。佐伯先輩は学年問わず人気者だから。

 学校を出ると、少しだけ気が休まる。
 駅までの道のりにはもちろん同じ学校の生徒もいくらでもいるんだけれど、気分の問題だ。
 歩きながら話すのはもっぱら佐伯先輩。私はそれに相づちを打ったり、問いかけたり、たまに自分からも話したり。
 本当になんでもないことしか話していないはずなのに、楽しくて。
 自然と笑顔になっている自分がいることに、ちゃんと気づいている。
 好き、という気持ちは、とても心地いい。

 ただ、それとは別に。
 ここ数日、ずっと引っかかっている言葉がある。
 それは悪い意味ではないんだけれど……心臓には悪い。
 話の中に何度も出てくるその言葉を、耳にするたびに体温が一度ずつ上がっていくようだった。
 もう言わないでほしいような、もっと言ってほしいような。
 困るけれど、うれしい。
 その矛盾に、私はとうとう音を上げた。

「……その、佐伯先輩」
「何?」

 きょとん、と佐伯先輩は不思議そうな顔をした。
 話の流れをいきなりぶった切ったのだから、当然だろう。
 それでも、言わずにはいられなかった。

「名前……」

 美知、美知、美知。
 付き合うようになってから、より正確には、告白のときから。
 佐伯先輩は私の下の名前を呼ぶようになった。
 恋人としては何もおかしくないことだろうし、先輩もすごく自然に呼んでいた。
 でも、恋愛経験のない私には、とても刺激が強かった。

「ああ、美知って呼ぶの、ダメだった?」
「ダメじゃ、ないですけど……」
「そういえばちゃんと聞かないで勝手に呼んじゃってたね。ごめん」
「別に、了承を取るようなものではありませんし」

 謝ってほしいわけじゃなかった。
 ただの知り合いなら話は別だけれど、佐伯先輩は私の……恋人なのだから。
 名前を呼ぶのをやめてほしいわけでもない。
 私はただ、知ってほしかっただけ。
 名前を呼ばれて、私がどれだけドキドキしているのか。
 ちょっとだけ、呼ぶ回数をひかえてくれたら心臓が助かるかも、という、それだけのこと。

「ダメじゃないけど、恥ずかしい?」
「っ!」

 思っていたことを見事に言い当てられてしまった。
 恥ずかしくて、佐伯先輩の顔を見ていられない。
 うつむく私の耳に、佐伯先輩の密やかな笑い声が届いた。

「美知がいろんな表情を見せてくれるようになって、うれしい。でも、この呼び方はできれば慣れてほしいかな。やっぱりちゃんと名前で呼びたいから」

 そう言うとは思っていた。
 佐伯先輩は、想いを隠さない人だ。
 いつも、まっすぐな言葉で気持ちを伝えてくれた。
 名前を呼ぶことも、きっと、佐伯先輩の愛情表現の一つ。
 それなら、少しひかえて、なんて言えるわけがないじゃないか。

「……がんばります」
「俺のことも、一哉って呼んでいいんだよ?」
「……それは、ちょっと」
「ゆっくり、ね」

 きゅ、とつないだ手を少し強く握られて、胸までぎゅうっと握り込まれたように感じた。
 ゆっくり、時間をかけて。
 佐伯先輩は私が追いつくまで、待ってくれている。
 それでいて、たまに彼のほうから一気に距離を狭めてくる。
 優しくて、でも少し強引なところもある。
 私はいつもドキドキさせられっぱなしで、佐伯先輩といると寿命が縮まりそうだ。
 それでも、嫌だなんて思えないんだから、恋というものは恐ろしい。

「そういえば、美知って名前、ちょっと変わってるよね」
「そうかもしれませんね」
「由来とかあるの?」

 変わった話題にほっとして、私は顔を上げる。
 同名の人がいないわけじゃないけど、少なくともよくある名前ではない。
 興味津々な表情をしている先輩に思わず苦笑してしまう。

「そのままですよ。美しきを知る……簡単に言うと、情緒豊かできれいな子になってほしいってことです。完全に名前負けですね」

 せっかくきれいな名前をつけてもらったというのに、蓋を開けてみれば本の虫だ。
 本が好きだからといって、情緒豊かというわけではない。
 むしろ私は基本的にローテンションで、感情の起伏は少ないほうだ。
 きれい、という点については、もう完全に親にもあきらめられている。

「そんなことないよ、美知はきれいだよ」

 だから、そんなことを言われるとは思ってもいなかった。
 佐伯先輩はいつもと変わらない微笑みを浮かべていて、声もいつもと違いはなくて。
 まるで、自然と口からこぼれ落ちたかのように、そう言った。
 私は驚いて足を止めてしまった。
 目をぱちくりとさせて、佐伯先輩の顔をまじまじと見る。
 冗談を言っているようには見えないけれど。

「……佐伯先輩に言われると冗談にしか聞こえませんね」
「本気なんだけどなぁ」

 くしゃり、と佐伯先輩の微笑みが苦笑いに変わる。
 そんな表情もそこらの女子よりも美しいんだから、やっぱり冗談にしか聞こえない。
 きれいなのは、美しきを知っているのは、佐伯先輩のほうだ。

「美知の、冷静に物事を見極めようとする目が、すごくきれいだと思うよ。本を読んでるときの顔も、なんだか侵しがたい雰囲気できれいだし。俺の前で見せてくれるどんな表情だって、かわいいし、きれいだ」

 私と向き合った先輩は、その視線でまっすぐ私を射抜く。
 真っ黒い瞳には、私への想いが映っていて。
 本気で言っているんだということが、理解できた。できてしまった。

「どんな話題からでも口説く方向に持っていくの、やめてください……」
「本当のことを言ってるだけなんだけどな」

 けろりとした顔をしている。
 まったく、佐伯先輩には敵わない。
 そもそも佐伯先輩に勝てた試しがないのは、知らないふりをしていたい事実だ。

「……実はまだ、もう一つ意味がありまして」
「へぇ、どんな?」

 止まっていた足を動かしながら、話し始める。
 問いかけてきた佐伯先輩と、私は顔を上げて目を合わせた。
 真っ赤になった顔は、きっと夕日が隠してくれているはず、と信じて。

「自分の望む道を進めるように、と」

 言いながら、つないだ手に、少しだけ力を込める。
 伝わるだろうか。
 ちゃんと、私も望んでいるんだ、ということを。
 佐伯先輩が私に隠すことなく気持ちを伝えてくれるように。
 私も、佐伯先輩に伝えたい。
 先輩が想ってくれているのと同じくらい、私も先輩のことが好きなんだということを。
 佐伯先輩は、わかっているよ、と言うように、ふわりとあたたかな笑みを浮かべてくれた。

「ああ、だから知美じゃないんだね」
「そういうことです」

 合点がいったような顔をした佐伯先輩に、私もうなずく。
 漢字だけではなく、みち、という音にも意味がある。
 二重の意味の込められた名前。
 小学校のとき、自分の名前の由来を親に聞いてくる宿題で、先生にいい由来だと褒められたことがあった。
 ちゃんと意味を込められていて、めずらしい名前だけれど、読みを間違えられることはほぼない。
 名付けてくれた両親に感謝したものだった。

「素敵な名前だね」
「……それは、否定しません」

 佐伯先輩の褒め言葉を、今度は素直に受け取れた。
 名前負けだ、と思うことはあっても、実は自分の名前をけっこう気に入っていた。
 名は体を表す、という言葉もある。
 もしこの名前じゃなかったら、私は知る喜びを、読書の喜びを知らなかったかもしれない。
 そうしたら、佐伯先輩とも出会えなかったかもしれない。
 なんて、ありえないもしものことを考えてしまう。
 この名前でよかった、と思うのは、別にそんな理由だけではないけれど。



 こうして佐伯先輩と手をつないで帰り道を歩いているのも、私が望んで私が選んだ道だ。
 できることなら、少しでも長く。
 途方もないくらい長い道を、佐伯先輩と歩めたらいい、なんて。
 今の私には、恥ずかしくて言えるわけもなかったのだけれど。

 なんとなく、佐伯先輩も同じ気持ちでいてくれているような、そんな気がした。
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