立つ風に誘われて

真川紅美

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跋、丘で巡り合うのは

神の使いか、否か

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 Quod ergo Deus coniunxit, homo non separet.

 聞いたことがあるだろうか。この言葉を。

 黄昏の修道院。今日ここに、一人の修道女がやってくる、と、ある港町の司祭から連絡があった。
 遠くからやってくるのは、罪人を護送しているような厳重な造りの馬車。とてもこの教会にやってくるとは思えない。
「お前たち」
「リヒャート神父」
「彼女は私に任せて。祈りの準備を」
「……かしこまりました」
 彼らはよく私に仕えてくれている。友を弔い、説法するしか能のない男に。
「……ずいぶんと頑張ったものだなあ。エミー」
 総帥まで上り詰め、その子等によってその立場を追い落とされ処刑されるはずだった一人の女性。
 ここの近くには、友と呼べた男たちがたくさん眠っている。この修道院のほど近くには、先の大戦で激戦区として有名になってしまった平原がある。それまでは風光明媚な貴族の別荘があるようなのどかで優雅な場所だったのに、今や弔う人々が訪れる巡礼の地となってしまっている。
 私の活動の拠点の近くで散った英雄ともたちは、あちらで戸惑っていることだろう。私が本当はこちらにいて奴らが死んだ近くの修道院に潜伏しているとは知らないはずだから。まあ、いつも待ち合わせには私が待たされたんだ。それぐらい良いだろう。
 そんなことに思いをはせているとやがて馬車は私の前に止まり、一人の男が私の前に立ちふさがり敬礼を返す。
「お久しぶりです。お義父様」
「そんな言い方はよさないか。ディール将軍?」
 せっかく隠遁してたのがばれちまうだろう。と笑って私は扉に目を向ける。
「彼女には事情は?」
「腹くくってどの屠殺場に向かうんだと言っていましたよ」
「……」
 いたずら好きな子供たちめ。老いぼれにとどめ差すつもりか。
 あきれながらたくましい軍人になった彼に目を細める。
「レオンはどうかな?」
「添え木が見つかりました」
「……そうか。ならばよかった」
 私を知る密使にちょくちょく話を聞いていたがうまく立ち直ったらしい。彼女との軋轢で一番ひどい目にあっていた息子の無事を聞いて安心する。それだけが神の与えたもうた救いの光だ。
「いいんですかい?」
「何がだね?」
 静かな問いに首を傾げるとディールは表情を呼んで薄く笑みを刷いてうつむいた。
「いや、差し出がましい真似を……」
「親父が明かすなら別にいいさ。私から明かすことは一つもない」
「……」
 微妙な顔をした義理の長男に私は肩をすくめて紺の神官服の襟元を開けた。
「こんなんなってまで死にそびれてた親父は今ここにいますだなんて、今更言えるわけねえだろ」
 そこにあるのはおびただしい量の弾痕。切創痕。そして、火傷痕のケロイド。片足はひき肉になり、両腕は動きはするがほとんど握力がない状態。ペン先でひっかくのがやっとだ。
 防衛に尽力し最後まで踏ん張って戦ったはいいものの、爆発に巻き込まれ、それがとどめになっていたはずだった。何があったのか、それこそ神の起こしたもうた奇跡か。命だけは無事だった。
「……そうですね」
 自分に置き換えたのだろう。うなずいた彼はとても賢明な子だ。少し寂しそうな顔をする長男の姿に少し心が痛むが、私たちの身柄はそんなに簡単なものじゃない。
「くれぐれも、他言無いように」
「わかっています。その前に、この落とし前でデスマーチが決まっているんですからそんな暇ありませんよ」
「そりゃあお疲れ様」
 手伝う気はないと笑ってみせると彼はうめいて御者席に戻った。
「……さて。入門される女性をここへ」
 服の襟を戻して、彼の部下へ告げると、神妙な顔をして彼らはゆっくりと鋼鉄の扉を開いた。
「……」
 罪人用の洗いざらしの生成りのワンピースを着ていたのは、記憶にあるよりずっと老いを見せた女性。もともと綺麗だった金髪もこの勾留に寄ってか、パサつき、干し草のようになっていた。そして私の背景にある一つの建物を淡い色の双眸で見止め、剣呑にその目を細めた。
「……なんのまねだ。ディール」
 低い声は、そのまま。ああ少し、酒に焼けただろうか。
「俺はすべきことを果たしたまでですよ。中将の命令をね」
 にっと笑ったディールは後は知らねといわんばかりに部下を引き連れて逃げていく。彼女の怒声は確かに聞きたくない代物かもしれない。
「罪人には似合わん場所に連れてこられたものだ」
 ぼそりと呟いて、ようやく私に目を向けた。そして、その表情が一気に抜け落ちて顔色すら失せる。もともと年齢がわかりにくい顔立ちをしていたから、二十年近く経っていてもさほど風貌が変わったということはない。ディールの言うことには息子はそっくりだそうだ。
 言ってやるのだ。彼女に。
「天国へ一番近い場所へようこそ」
 父親に年々似てくる笑顔を浮かべて崩れ落ちる彼女を両の腕で抱きしめて懐かしいぬくもりを抱きしめる。
「う……うそ……うそだ……」
 うろたえることのない彼女の震える声。ぴたりとはまるような感触にほっとしながら私は耳の裏に鼻先をこすりつけた。
「おかえりなさい。エミー。疲れたろう……?」
 そういってあげられるのは、この世で一人。私だけ。
 彼女はとっくの昔に亡くしたと一人で頑張ってきたのだ。
「うそ……。なん……で……ぇ?」
 引き連れたように息をしてそう紡ぐ彼女に詳しいことはまだ話してやらない。
「僕はここにいるよ? エミー」

 神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。

 聖書の御言葉に従ったまでのこと。
「死が分かつまで。だったろう?」
 やがてうなるように泣きだした彼女のやせ細った体を抱きしめながら、それでも長らくそばにいられなかった分の辛苦を感じていた。

 彼女は、息子たちにやってはならないことをした。
 彼女は、国の英雄たちにやってはならないことをした。
 彼女は、国を治める国王にやってはならないことをした。
 彼女は、彼女は――。

「償おう。これからは、僕がそばにいる」

 死するだけが償いではない。
 傷つき枯れ木のようになってしまった彼女のそばにあり続けるのが、彼女を一人にしてしまった私の償い。

「償う?」

 一気に幼くなってしまった彼女のつぶやきに、涙をぬぐう。
「どうすれば……? わからない……」
 彼女は聡明な女性だ。
 とっくに自分の犯した罪も咎も何もかも自覚している。そのしでかした大きさも。
「それを考えられるのが、ここさ」
 ここで修道士たちと一緒にね。
 さあ行こう。
 まだ立ち直っていない彼女の膝が震えているのをさりげなく支えながら、夕暮れが差し込む風景に目を細めた。
「りかるど……?」
 幼い呼び声に私は首を横に振って、彼女を修道院へ案内するべくエスコートするのだった。

 義足の片足で、せいぜい格好がつくように。

 私がいなくなってから、彼女と息子のきずながよじれたのであれば、その咎は私の物だ。
「一人にはしない」
 扉に手をかけて開く。
 壇上には、慈悲深き微笑みを浮かべた聖女の像が、我ら罪を抱えた子羊たちを憐れむようにたたずんでいた――。
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