夜空のダイヤモンド

柊 明日

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2章 初恋のおわり

18話

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 丁度お昼の時間も過ぎて、お客さんが減りだした頃。ほとんどのバイトはここで帰ってしまうため僕はただ一人、午後の予約分のケーキを黙々と箱へ詰めていた。そんなとき、背後から扉の開く音が聞こえてくる。挨拶をしようと振り返ると、そこには僕と同じ白いバイト用のエプロンの見知った女性が立っていた。彼女は僕の姿を確認するなり、ぱぁと満面の笑みを浮かべると元気にエプロンを揺らして勢いよく僕へと駆け寄った。

「瀬尾先輩、おはようございます~! もう風邪は治ったんですか?」

 すぐそばで僕を見上げる彼女の瞳はあまりにキラキラと輝いている。僕はとっさに目を逸らして、まるで仕事のためにそうしたかのように作業を再開した。

「おはよ~。おかげさまでもう大丈夫やで。ありがとうね」
「はいっ!」

 彼女の顔は見なかった。それでも、きっと満面の笑みのままであることが僕にはわかる。こういうやつがもう一人、身近に存在するから。
 僕はケーキを詰め終わった箱を丁寧に閉じる。冷蔵庫へ運ぼうとそれを持って歩み出すと、彼女はまるであいつのように、ちょこちょこと僕の後をつけた。

「なんやねん、仕事せぇや」と彼女を肘で小突く。
「まだ出勤の打刻してないから大丈夫でーす」と彼女はケラケラと笑った。

 ならば、まだ休憩室で休んでいればいいのにと思う。でも、きっと彼女はそれが狙いなのだろう。だって。

「それに」と彼女は立ち止まり、僕の服の裾を引いた。「瀬尾先輩とお話しするの、楽しいし……」

 そう呟いて僕を見上げる彼女の瞳は、明らかに恋を孕んでいた。
 僕は、彼女のその瞳が苦手だった。軽くあしらうにはあまりに純粋すぎて。でも、真剣に向き合う方法なんて僕にはわからなくて。だから、僕は彼女に掴まれた裾を無視して再び歩き出した。これが、僕にできる最大の誤魔化しだ。

「久しぶりやもんねぇ、お話しするん」
「え、っと……はい……」

 幸い、彼女はすぐに手を離してくれた。明らかに的を得ない僕の返答を、彼女は一体どう受け取るのだろうか。傷つけただろうか。僕も、その痛みをよく知っているはずなのに。

 しゃがみこんで、持ってきたケーキを冷蔵庫の下の方へ押し込む。彼女が背後から影を落とした。

「バイト全員、寂しがってましたよっ」

 そんな底抜けに明るい声は、少しだけ震えていた。

「そ、っか……」

 僕は立ち上がり、彼女のそばを離れようとその隣を通り抜ける。
 これ以上、傷つけたくなかった。──いや、これ以上傷つきたくなかった。

「逃げないでください」

 彼女は、そう言って今度は僕の手を握った。
 その手のぬくもりが、僕の恋人であるはずの人のことを思い出させた。詩音くん。彼は、僕に愛をくれなかった。キスもした。セックスもした。なのに、こうして真剣に手をとってくれることはなかった。
 だから、僕は確信する。きっと、詩音くんより何倍も何十倍も、彼女は僕を愛してくれている。いいや、詩音くんだけじゃないかもしれない。一茶にはひなたがいる。父には母がいる。お姉ちゃんだって、きっと彼氏の一人くらいいるだろう。そう思うと。
 僕を一番にしてくれる人なんて、もしかしたら。

「瀬尾先輩。一緒に、ご飯行きませんか」

 ドキッと、胸が鳴った。けれど、決してそれはいい意味ではない。額に汗が滲む。でも。

「……今度、ね」

 僕は断れなかった。これは、詩音くんへの裏切りと同意だ。あんなに好きだった詩音くんとやっと付き合えたのに僕は今、かつてと同じ熱量で彼を愛してはいない。信じてもいない。それを今、初めて自分自身の発言によって思い知らされた気がする。

 愛だと思っていたこれは、一体何だったのだろう。

 彼女は、きっと断られると思っていたのだろう。僕の返答を聞いて目を丸めた後、こんな曖昧な返事なのにも関わらず嬉しそうに何度も大きく頷いて見せた。そういう素直なところが、やっぱりあいつにそっくりで。僕は少しだけ、可愛いと思ってしまった。

「ひなたにそっくり」

 僕が笑うと、彼女はきょとんと首を傾けた。





 ケーキ屋さんのバイトを終えて、居酒屋さんのバイトへ向かって。そうしてようやく全てのシフトが終わったのは、陽も落ち始めている時刻だった。
 ただでさえ疲れているというのに、頭の中には彼女とのご飯の約束があって。こんなことならバイト中の方が無駄なことを考えられない分、幾分かマシに思える。はぁと大きなため息を一つ。バイトで乱れているであろう前髪を整えると視界に入った、少し色落ちして金色に近づいた茶色のメッシュを見て、僕は二つ目のため息を零した。

 果たして僕は、詩音くんにどんな顔をしてただいまを言えばいいのだろう。いっそのこと、このままネカフェにで も行って一人きりになりたいとも思う。しかし、と僕はその思いを拭い去った。
 今日は短期間とはいえ、一茶もバイトへ出かけている。つまり、ひなたと詩音くんが二人きりの時間もあったというわけだ。最悪の可能性としては、帰ったらまた修羅場が待っているということも十分にあり得ることになる。そうなったとき。きっと、僕がいないと三人は困るだろうから。

 僕は出来るだけ何も考えないようにということを考えながら帰路につく。家へ着いたとき、僕は敢えてチャイムを押し込むことなく、久しぶりにカバンの小さなポケットから鍵を取り出した。チャイムを押したとき、万が一にでも泣き顔のひなたが飛び出して来たらそれこそ耐えられないだろうから。僕は、いつも通り飛び出してくる彼の顔が笑顔であることを祈りながら、ひんやりと冷たいドアノブをひねった。
 しかし。予想に反して、ひなたがいつも通りにその音に反応して飛び出してくるなんてことはなかった。珍しい、と考えながらも僕は再び気合を入れるように指先で乱れてもいない前髪を整える。もしかしたら、飛び出してこられない理由があるのかもしれないから。
 珍しく彼のお出迎えが行われなかった理由は、僕が踏み込んだリビングの光景ですぐに察することとなった。

「ひなた、そっちだめ、戻って戻って」
「え、でもあっちに敵いる……」
「あいつこっちに気づいてないからバレないように通り過ぎたほうが弾消費しなくていい」

 ゲームのコントローラーを持ったひなたにべったりとくっついて指示を飛ばすのは、いつになく真剣な様子の詩音くん。ひなたはよくわかっていないようだが、彼の指示に従おうと、食い入るように画面を見つめていた。どうやら、彼はゲームに夢中で僕の帰宅に気づかなかったらしい。そしてそれは、現在進行形のようだ。

 一方で、一茶も既に帰っているようでソファ背もたれからは栗色のアホ毛が二本生えている。彼が右手に握るスマホには、よく某動画サイトの広告で見かける有名な漫画が表示されていた。目の前では自分の恋人と、その恋人を襲った前科のある人がベタベタくっついているというのに。
 しかし、僕はそれを見て胸を撫でおろした。彼がこうしてくつろいでいるということはきっと、詩音くんとひなたの間に何もなかったということだろうから。

 二本のアホ毛がふいにくるりと方向を変える。彼は僕を見て、不自然にゆっくり瞬いた。

「楓、疲れてる?」と彼はおかえりの挨拶よりも先に僕を訝しむ。
「まぁ、バイト終わりやしな。一茶は何読んでたん?」

 僕は敢えてふはっと笑い声をあげてから、自然な流れで話を逸らすように彼のスマホを見せてもらおうとかがみ込んだ。
 しかし、彼は僕のように表情を偽ることもせずに眉を顰めて不快感を露わにすると、「秘密」とだけ言ってスマホをうつ伏せにソファへ置いて大きく伸びをした。

「今日は詩音くんの奢りでピザ頼んでくれたんだってよ。届く前に着替えてきたら?」

 彼は相変わらずどこか不満そうな顔をしながら、よいしょと声を上げて席を立つ。僕には優しい彼の思考がすぐにわかった。伊達に何年も幼馴染をやっているわけでもない。僕は声を出さずに首肯で返すと、彼の言う通りに慌てて自分の部屋へ駆け足に向うのだった。





 部屋へ入り扉を閉じる。色々思うことはあるが、今はそれどころではない。早く着替えてリビングへ戻らないと、きっとまたひなたが遅いと怒るのだろう。そう思って、薄暗い部屋で証明のスイッチを手さぐりに探していた時。急に、まるで電源の切られた機械のように突然体の力が抜ける感覚に襲われ、手に持っていたカバンが床に落ちた。
 
 バイトの制服が部屋の絨毯の上に散乱する。それと同時に、バイト先で染みついたケーキの甘い匂いと居酒屋さんの揚げ物の匂いが混ざったような、独特な香りが部屋へ広がった。

 たったそれだけの事だった。制服はすぐに拾い上げれば片付くし、匂いが嫌なら消臭剤でも使えばいい。なのに。何故か、一粒涙が溢れた。どうしてかわからない。ただ、目の前のこの光景を見ていきなり、嫌なこと全てがフラッシュバックした。

 自分はひなたの代わりであること。詩音くんの目的はあくまでも僕の体であること。それでも幸せなはずだったのに、女の子の誘いを断り切れなかったこと。今日だって、帰ってきても気づいてもらえなかったこと、詩音くんがひなたにくっついていたこと。
 それだけじゃない。一茶のことだって。彼は僕を想うが故に怒ってくれているのに、僕はそんな彼が大切にしてくれている“僕”であれなかった。ひなただってきっと、こんな僕に幻滅していることだろう、と根拠もないけど確信を抱く。
 瞳に、二粒目の涙の予感がした。僕はそれをこらえるため腕へ、白くなるほど爪を立てる。これ以上、みんなが僕に期待するものを裏切ってはいけないから。
 僕はひなたとは違う。可愛い愛されキャラでもないし、素直で寛大な心だって持ち合わせていない。だから。僕は彼の分まで“手のかからないいい子ちゃん”でいる必要があった。

「ひなたばっかり、ずるい……」

 うっかり、口から本音が零れ落ちた。その時、突然背後の扉がノックもなしに勢いよく開かれた。

 彼は遠慮なくずかずかと部屋へ入り込むと、不自然に立ち尽くす僕を素通りして部屋に散らばった服を拾い上げた。

「楓~、ダメだよ。部屋散らかしたら一茶に怒られるんだよ」

 彼は無遠慮に明るい声で笑うと、ケーキ屋のエプロンを鼻まで持っていき犬のようにくんくんと匂いを嗅ぐ。

「わぁ、美味そぉ。今度買ってきてよ。社員割とかあるでしょ?」

 そういう彼の表情は長めのもみあげに隠れてよくわからないけれど、きっと底なしに無邪気な顔をしているのだろう。僕はさっき腕についた痕に合わせて、再び強く爪を立てて唇を噛む。どうせ彼も気づいていると思う。
彼は視界を広げるようにそのもみあげをおもむろに耳へかけると、そんな僕を見てふっと笑った。

「楓と一緒に食べたいな、おっきいケーキ」

 そうガキみたいなことを言う彼の表情は、予想に反していつもよりもずっと大人びていた。薄暗い部屋でもわずかな光を反射する真ん丸の大きな目が細められた時、僕の瞳から二粒目の雫が零れ落ちた。
 彼は、そんな僕を慰めるでもなく拾い上げた服をカバンへ戻しながら楽し気におしゃべりを続ける。

「久しぶりだね、俺がバイト終わりの楓の部屋来てお世話するの」
「お世話ちゃうわ」と僕はボソッと呟く。

 彼はそんなキレのないツッコミでも満足したようで、にまにまと口元を緩めながらフフフと満足げに髪を揺らした。

「一茶と付き合ったからやろ、来なくなったん」と僕が相変わらず低いトーンで呟く。
「うん、そうだよ。一茶妬くんだもん」

 彼は特に気にした様子なくそう笑うと、すくっと立ち上がり服を入れたカバンを持って扉へ向かう。
 ついさっきまでは一人になりたいだなんて思っていたのに、今度は、一人になるのが怖かった。だからつい、彼の腕の中のカバンの取っ手を掴んで彼を引き留める。

「待ってや……すぐ着替え終わるから、一緒に行こ」

 声が震えているのが自分でもわかる。それは彼も気づいているはずだった。しかし、彼はしばしの沈黙の後、ぷっと笑って口元へ手を当てた。

「着替え見てほしいとか、セクハラぁ?」
「男同士やろ……」と僕は大まじめに言葉を返す。

 しかし、彼は拗ねた子供のようにふいと顔を背けると相変わらず肩を揺らして僕の手を振り切って扉へ向かう。

「俺の恋人も男で~す」

 彼はそう言葉を残して、扉を開けたまま部屋を去っていった。本当に、なにからなにまで生意気な奴だ。しかし。そんないつも通りのふざけた調子のひなたを見て、たまらなく安心する僕もいた。

「クソガキやな、ほんま」

 僕はかすかに濡れた目元を拭いながらも、そう口に出してぷっと噴き出すのだった。
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