ふたつ名の令嬢と龍の託宣【全年齢版】

古堂 素央

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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

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 少し進むと、ふっと違和感に包まれた。人々のざわめきが、壁を隔てたようにぼんやりと耳に届く。

 顔を上げた先、大勢の着飾った貴族たちの向こうに、いっそう鮮やかな深紅のドレスを着た女性が目に入った。人波の合間を縫って、その女性はゆっくりと歩を進めている。
 とにかく人目を惹く女性だった。魅入られたようにその動きを目で追うと、リーゼロッテははっと体を強張らせた。

(誰もあのひとを見ていない――)

 あんなにも目立つドレスを着ているにもかかわらず、周囲の貴族は先ほどと同じく談笑を続けている。するりと脇を抜けるように、深紅の女は確実にこちらへと向かってきていた。

 人いきれに包まれる会場が、フィルター越しのようにぼんやりと目に映る。行き交う貴族の表情も、ぼかしがかかってまるで判別がつかなくなった。こもった人々のざわめきが、行き場を失ったかのごとく耳元で反響を繰り返す。

 その中を、くれないの女だけが音もなくこちらへと近づいてくる。その瞳と目が合って、リーゼロッテの全身は瞬時にあわ立った。首元には紅玉のしるし。妖艶な瞳を楽しげに細め、べにの引かれた唇がリーゼロッテに向けてにぃっと弧をえがく。

(――あれは、星を堕とす者)

 グレーデン家の長い廊下で、ガラス戸越しに相まみえたことが蘇る。震える体を叱咤しったして、リーゼロッテは咄嗟のようにジークヴァルトの姿を探した。

 すぐそこにいたはずなのに、視界はますます霞んで見える。ジークハルトの気配もしない。一歩また一歩と、着実に近づいてくる女を前に、リーゼロッテはただその場でおののいた。

 このままでは周囲の人間を巻き込むことになる。そのとき、ジークヴァルトが短剣で刺された瞬間が前触れなくフラッシュバックした。

『ジークヴァルトは死なないよ』
 ふいに守護者ジークハルトの言葉が蘇り、リーゼロッテは一歩後ずさった。

(そうよ、わたしだって託宣を受けた身。だったらわたしも死ぬことはないはずだわ)

 冷静に思い、あたりを見回す。とにかくここを離れるべきだ。庭に続くテラスへの扉を認めて、リーゼロッテはそこへと一目散に駆けだした。

 テラスの階段を降り、そのまま庭へと歩を進めた。日暮れ時を過ぎて、庭は所々街灯が灯されている。
 初夏の風が背の低い庭木を揺らす。合間に敷かれた石畳の小道を、リーゼロッテは必死に進んだ。

 小道が途切れ、芝生だけが広がる場所に出る。そこまで来てリーゼロッテはもつれるように足を取られた。

「きゃあっ」

 膨らんだスカートがかかとの高い靴にひっかかる。地面に両手をついたまま、リーゼロッテは恐る恐る背後を振り返った。

 迎えたばかりの夜の庭を、ほのかな明かりが照らし出す。その中にくれないの女は立っていた。女の髪を揺らすこともなく、吹く風はただリーゼロッテの脇をすり抜ける。

 ゆっくりと、ゆっくりと、女は勿体ぶったように近づいてくる。笑みを刷いているはずなのに、向けられてくるものは焼け付くような憎悪ばかりだ。

「いや……来ないで……」

 本能的な恐怖だけが支配する。じわりと涙が溢れだした。まだ遠い場所にいる女が、リーゼロッテに片手をかざした。その瞬間、かまいたちのようなやいばが身を襲う。
 咄嗟のように体を庇うも、腕に頬に、幾筋もの傷が走った。一瞬遅れて血が伝うが、恐怖のあまり痛みすら感じない。わななきながら、リーゼロッテはなおも近づく女を見上げた。

 無意識の中、ドレスのポケットを探る。念のために持ってきた涙の小瓶を開けて、リーゼロッテは震える手つきで振りまいた。

 線状に芝にかれた涙は、リーゼロッテを守るように緑の力を立ち昇らせる。幻想的に揺らめく壁を、紅の女は何事もなく踏み越えた。
 同時にじゅうと何かが焼けるような音がする。女は笑みを刷いたまま、リーゼロッテの少し手前で歩みを止めた。

 リーゼロッテの意識に同調するように、周囲にいた異形の者たちが恐怖を訴えてくる。感情のすべてを支配するこの戦慄せんりつは、異形のものなのか、自分のものなのか。それすらももう分からない。
 女の唇がいっそうにぃっと弧を描く。ゆっくりとかざされた手のひらは、再びリーゼロッテへと向けられた。

 その手の内に、みるみるうちに禍々しい気が宿る。きたる衝撃を覚悟して、リーゼロッテは庇うように手をクロスした。ぎゅっと瞳を閉じているにもかかわらず、けがれた灼熱しゃくねつが自分に向けて放たれたのが、手に取るように分かってしまった。
 痛みと熱が近づいてくる。身構えたその瞬間、あたたかい何かが守るようにすぐ目の前に立ちはだかった。

 大きな背が目に入る。

 リーゼロッテを後ろ手に庇いながら、くれないの女に向けて青の力を放つジークヴァルトがそこにいた。

 放たれた力は女をれた。巻き添えのように周囲の異形が一掃されて、その引きちぎられる瞬間の叫びに、リーゼロッテは胸を押しつぶされた。
 身をひるがえした女は、笑みを残したままその場からかき消える。嘘のように重圧が消え、リーゼロッテの頬を爽やかな初夏の風がすり抜けた。

「なぜオレを呼ばなかった」

 振り返ったジークヴァルトが無表情で見下ろしてくる。芝生にへたり込んだまま、逆光のジークヴァルトの顔を呆然と見上げた。

「わたくし……誰かを巻き込んだらいけないと思って……」
「だったらなおさらオレを呼べ」
「ですが、ジークヴァルト様は……」

 鳴りやまぬ鼓動が耳をつく。安堵で放心する中、なんとかうまい言葉いいわけを探した。

「大きなお怪我をなさったばかりで、これ以上ご負担になるのもためらわれて」
「ためらう必要などないだろう。ダーミッシュ嬢はオレの託宣の……いや、オレの婚約者だ」

 言い直したジークヴァルトの顔をじっと見つめる。女はすぐ泣くから面倒くさい。いつかジークヴァルトが言った言葉が思い出されて、リーゼロッテは溢れそうになる涙を必死にこらえた。

「名を……呼ぶこともしない、形ばかりの婚約者に……そこまでする必要などございませんでしょう?」

 ぐっと奥歯を食いしばる。泣いては駄目だ。これ以上ジークヴァルトに面倒くさい女だとは思われたくはなかった。

「わたくしとジークヴァルト様は龍が決めた相手同士。これからは自分のことは自分で守ります。名ばかりの婚約者など、もう捨て置いてくださいませ」

 震える唇が、決定的な言葉を紡いでいく。こうなれば、ジークヴァルトとの間に横たわる溝を、埋めることなどできはしないだろう。

 目の前に立つジークヴァルトはぐっと顔をしかめた。誠意を尽くしてくれるジークヴァルトに、ひどいことを言っているのは分かっていた。でももう、自分を押し殺すことが、リーゼロッテにはできなくなってしまった。

 無言のまま、ジークヴァルトはジャケットを脱いだ。片膝をつき、それをリーゼロッテの肩にかけてくる。かまいたちで無残に乱れた姿を隠すように、ジャケットの前を合わせて包み込む。
 このままではいつものように抱き上げられてしまう。咄嗟に思ったリーゼロッテは、そうはさせまいと自力で立ち上がろうとした。

 その瞬間、ジークヴァルトは合わせたジャケットを掴んだまま、リーゼロッテを強く自身に引き寄せた。予想しなかった動きに、リーゼロッテは大きくバランスを崩す。
 そのままもたれかかるように見上げたその先で、リーゼロッテはジークヴァルトに唇をふさがれた。

 何がおきているのかまるで分らない。視点が合わないほど近くある顔に押されて、リーゼロッテはさらに上向かされた。

「ん……んんっ」

 身をよじろうにも、ジャケットで包まれたままの体は身動きすら取れない。すそからはみ出した指先が、かろうじてジークヴァルトのシャツを小さく掴んだ。

 翻弄されるまま、ジークヴァルトはなおも口づけを深めてくる。苦しくて空気を求めて開いた唇に、ためらいもなく舌が差し込まれた。
 最大限に上向かされて、気づくと後頭部を押さえつけられている。中腰のまま中途半端に立ち上がった体が、再び地面に膝をつきそうになった。すかさず背中を支えられて、なすすべもなくリーゼロッテはその口づけを受け入れた。

 離されることなく角度を変えてくる唇に、意識を保てなくなる。ますます深くなる口づけに、あえぐように息を漏らした。

「あ……はっ」

 脱力したまま、ジークヴァルトに全身を預けた。もう何も考えられない。リーゼロッテの体から完全に力が抜けたところで、ジークヴァルトはようやくその唇にわずかな隙間を開けた。


「これでいいんだろう?」

 すれすれのままそう言って、名残なごりしそうにリーゼロッテの下唇を、ジークヴァルトはもう一度だけちゅっとんだ。






【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。いきなりジークヴァルト様に唇を奪われ、放心状態になってしまったわたし。今も思う初恋の人がいるはずのヴァルト様に向かって、思いのたけをぶちまけて?
 次回、第3章 寡黙な公爵と託宣の涙 第17話「こころ結んで」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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