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1 未知との遭遇
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第一章 『降り立つ魔界の公務員(オフィサー)』
1 未知との遭遇
6月。
梅雨独特のどんよりとした雨雲が広がる空の下。
児童養護施設「すこやか園」の園庭では年少の子どもたちが楽しそうに遊び、屋上では――17歳の少女・善夜がフェンスに背中を押しつけていた。
怯えて俯く彼女の前髪に覆われた額からは擦り傷がのぞき、目尻や頬にはあざが浮かび、切れた唇からは血が滲んでいた。身に纏う着古されたセーラー服も所々が破れ、砂埃にまみれている。
目の前では同年代の児童たちと、本来であれば守ってくれるはずの施設職員の男が彼女を取り囲みニヤニヤと笑っている。
「善夜……お前は何回トラブルを起こしたら気が済むんだ」
施設職員の男――高橋が、わざとらしく溜息をつく。
善夜は何も悪いことをしていない。部屋で小鳥のぬいぐるみを撫でていただけだ。家族からの唯一のプレゼント。柔らかい羽根と、優しい目。
それを大切にしていただけなのに――児童たちが部屋に押し入り、抵抗する彼女から奪い、屋上まで引きずっていった。
そして、善夜の目の前で――笑いながら引き裂いた。
布が裂ける音。飛び散る綿。善夜が「やめて」と叫んでも、誰も聞かなかった。
ぬいぐるみの残骸が、足元に散らばる。優しかった目のボタンは、もう善夜を見ていない。
そこに現れたのが、高橋だった。施設職員という役割上、とりあえずは駆けつける。けれど、いつも叱るポーズだけして去っていく。
案の定、残骸を一瞥しただけで彼は何も言わない。しかし、
「お前のせいでまた施設の評価が下がる。困るんだよ、俺たちが」
今回は違った。
火に油を注ぐようなその言葉と、嬉しそうにクスクスと笑いだす児童たちを前に、善夜は呆然とした。
なぜ自分だけが孤立し虐げられなければならないのか。
確かに性格は気弱だし、勉強も運動も苦手なうえに特技もない。
しかし、そんな児童は他にもいる。なのにどうして……
「それとも……俺の指導が全然足りなかったか?」
彼女の意識を引き戻したのは、高橋の陰険な声。
ニタリと口角を上げた彼が、楽しそうにこちらを見下ろしている。
「……っ……」
そのギラついた目つきに、さらに身体を萎縮させ黙って何度もかぶりを振る善夜。
何を言っても揚げ足を取られ、より酷く虐げられてきた彼女には、もはや自分を守るための言葉すら残されていなかった。
「だったら……どう責任取ったらいいか、わかるよな?」
「そうだよ! 自分で責任取れよ!」
「これ以上、私達に迷惑かけないでよね!」
突きつけられた男の冷たい言葉に児童達が続く。さらに追い打ちをかけるように吹きつけた突風が、彼女のスカートやハーフアップに結い上げた亜麻色の髪をなびかせ、足元の砂埃をフェンスの外へと舞い降らせた。ぬいぐるみの残骸とともに。
これだけの騒ぎであるにもかかわらず、園庭で遊ぶ年少の児童も彼らを見守る職員も、誰一人として自分を見ない。
「…………」
善夜はぎゅっと締めつける胸の痛みをほぐすように、ゆっくりと深呼吸したあと――
「……わかり……ました……」
嗚咽混じりに小さく答え、彼らに背を向けた。
これで痛みも悲しみも、全部終わるなら――
「今、死にます……」
その言葉で沸き起こる歓声と罵声の中。
涙で震える呼吸を整え、善夜は空を見上げる。
数羽の小鳥が自分に背を向けて、曇天を渡っていく。
震える指をフェンスにかけながら、彼女は一度も会ったことがない家族や、施設での生活に思いを馳せた。
家族には何か大事な理由があって、仕方なく自分を預けるしかなかったんだ。一緒に生活する仲間や職員達も、自分が期待に応えていけばきっといつか認めてくれる。
17年間、そう信じて理不尽な仕打ちに耐えてきた。この秋で18になる。
でも、ついに――誰も、彼女を見なかった。
「……もう、じゅうぶんだよね……」
自分に言い聞かせるように小さく呟くと、彼女はフェンスにかけた指に力を込めた――次の瞬間。
風と騒音と、突き刺すような罵声がピタリと止んだ。
「…………?」
突然襲った違和感に、善夜はフェンスに手をかけたまま固まった。
さっきまで確かに聞こえていた――風の音、児童たちの笑い声、罵声、遠くの車の音。それらが、全て消えた。
まるで世界から音が消えたみたいだ。
音だけではない。風も、動きも――
「――時間固定、無事完了しました」
「――!!?」
突如聞こえた聞き覚えのない男の声に、善夜は思わずびくりと肩を弾ませる。
落ち着いたトーンでありながらも、芯のある低い声。
「そうですね……今のところ気配はありません」
肩をこわばらせたまま固まる彼女をよそに、その淡々とした声は誰かと話しているようだった。
慌てて周囲を見回すも、視界に声の主らしき人物は入ってこない。
フェンスの外に広がる民家の屋根や、電柱と電線、等間隔に配置された鉄塔が並んでいるだけだった。職員と児童たちも、先ほどと変わらぬ好奇と侮蔑のこもった目をこちらに向けて立っているが――誰もピクリとも動かない。
「…………え……?」
目の前の出来事を受け入れられず、彼女は軽く目をこする。
しかし、状況は変わっていない。自分を罵っている者は大きな口を開けたまま、楽しそうにこちらを見ている者はまばたき一つしない。
「何が……どうなってるの……?」
園庭を走り回っている児童達も、脇道を行く車も、空を横切っていく鳥達も。
まるで時間が――止まっている。
「――!!?」
善夜が再びビクリと肩を弾ませたのは、背中に風が逆流する感覚を感じたからだ。
何者かがすぐ後ろに立っている気配がある。
「……はい、問題ありません」
案の定、間近で例の男の声が聞こえる。
「すでに確保しています」
恐怖心と好奇心がせめぎ合うようにゆっくりと。
振り返った善夜の目が、大きく見開かれた。
「……!……!」
そこに、男が立っていた。
ショートにしては伸び気味の黒髪。黒いスーツ。二十代半ばから三十代前半だろうか――端正ではあるものの、逆に言えば特徴のない顔立ちで、年齢が見えない。前髪から覗く切れ長の目に宿った闇色の瞳が、無感情に善夜を見下ろしている。
彼は折り畳み式の黒い端末を耳に当てたまま、静かに言った。
「――では、公務執行に入ります」
善夜は、声も出せずに立ち尽くすしかなかった。
時間が止まり、謎の男が現れ――今、何が起きているのか、まるでわからない。
――でも、一つだけ気になることがある。
「……あの、『公務』って……」
小さく呟いたが、男は答えない。
「……お役所の人……?」
そんなはずはない。時間を止められるお役所の人なんて、いるわけがない。
でも、彼の真面目そうな顔と――ほとんど触れたことのなかった『敵意のない態度』が、善夜の緊張を少しだけほぐした。
1 未知との遭遇
6月。
梅雨独特のどんよりとした雨雲が広がる空の下。
児童養護施設「すこやか園」の園庭では年少の子どもたちが楽しそうに遊び、屋上では――17歳の少女・善夜がフェンスに背中を押しつけていた。
怯えて俯く彼女の前髪に覆われた額からは擦り傷がのぞき、目尻や頬にはあざが浮かび、切れた唇からは血が滲んでいた。身に纏う着古されたセーラー服も所々が破れ、砂埃にまみれている。
目の前では同年代の児童たちと、本来であれば守ってくれるはずの施設職員の男が彼女を取り囲みニヤニヤと笑っている。
「善夜……お前は何回トラブルを起こしたら気が済むんだ」
施設職員の男――高橋が、わざとらしく溜息をつく。
善夜は何も悪いことをしていない。部屋で小鳥のぬいぐるみを撫でていただけだ。家族からの唯一のプレゼント。柔らかい羽根と、優しい目。
それを大切にしていただけなのに――児童たちが部屋に押し入り、抵抗する彼女から奪い、屋上まで引きずっていった。
そして、善夜の目の前で――笑いながら引き裂いた。
布が裂ける音。飛び散る綿。善夜が「やめて」と叫んでも、誰も聞かなかった。
ぬいぐるみの残骸が、足元に散らばる。優しかった目のボタンは、もう善夜を見ていない。
そこに現れたのが、高橋だった。施設職員という役割上、とりあえずは駆けつける。けれど、いつも叱るポーズだけして去っていく。
案の定、残骸を一瞥しただけで彼は何も言わない。しかし、
「お前のせいでまた施設の評価が下がる。困るんだよ、俺たちが」
今回は違った。
火に油を注ぐようなその言葉と、嬉しそうにクスクスと笑いだす児童たちを前に、善夜は呆然とした。
なぜ自分だけが孤立し虐げられなければならないのか。
確かに性格は気弱だし、勉強も運動も苦手なうえに特技もない。
しかし、そんな児童は他にもいる。なのにどうして……
「それとも……俺の指導が全然足りなかったか?」
彼女の意識を引き戻したのは、高橋の陰険な声。
ニタリと口角を上げた彼が、楽しそうにこちらを見下ろしている。
「……っ……」
そのギラついた目つきに、さらに身体を萎縮させ黙って何度もかぶりを振る善夜。
何を言っても揚げ足を取られ、より酷く虐げられてきた彼女には、もはや自分を守るための言葉すら残されていなかった。
「だったら……どう責任取ったらいいか、わかるよな?」
「そうだよ! 自分で責任取れよ!」
「これ以上、私達に迷惑かけないでよね!」
突きつけられた男の冷たい言葉に児童達が続く。さらに追い打ちをかけるように吹きつけた突風が、彼女のスカートやハーフアップに結い上げた亜麻色の髪をなびかせ、足元の砂埃をフェンスの外へと舞い降らせた。ぬいぐるみの残骸とともに。
これだけの騒ぎであるにもかかわらず、園庭で遊ぶ年少の児童も彼らを見守る職員も、誰一人として自分を見ない。
「…………」
善夜はぎゅっと締めつける胸の痛みをほぐすように、ゆっくりと深呼吸したあと――
「……わかり……ました……」
嗚咽混じりに小さく答え、彼らに背を向けた。
これで痛みも悲しみも、全部終わるなら――
「今、死にます……」
その言葉で沸き起こる歓声と罵声の中。
涙で震える呼吸を整え、善夜は空を見上げる。
数羽の小鳥が自分に背を向けて、曇天を渡っていく。
震える指をフェンスにかけながら、彼女は一度も会ったことがない家族や、施設での生活に思いを馳せた。
家族には何か大事な理由があって、仕方なく自分を預けるしかなかったんだ。一緒に生活する仲間や職員達も、自分が期待に応えていけばきっといつか認めてくれる。
17年間、そう信じて理不尽な仕打ちに耐えてきた。この秋で18になる。
でも、ついに――誰も、彼女を見なかった。
「……もう、じゅうぶんだよね……」
自分に言い聞かせるように小さく呟くと、彼女はフェンスにかけた指に力を込めた――次の瞬間。
風と騒音と、突き刺すような罵声がピタリと止んだ。
「…………?」
突然襲った違和感に、善夜はフェンスに手をかけたまま固まった。
さっきまで確かに聞こえていた――風の音、児童たちの笑い声、罵声、遠くの車の音。それらが、全て消えた。
まるで世界から音が消えたみたいだ。
音だけではない。風も、動きも――
「――時間固定、無事完了しました」
「――!!?」
突如聞こえた聞き覚えのない男の声に、善夜は思わずびくりと肩を弾ませる。
落ち着いたトーンでありながらも、芯のある低い声。
「そうですね……今のところ気配はありません」
肩をこわばらせたまま固まる彼女をよそに、その淡々とした声は誰かと話しているようだった。
慌てて周囲を見回すも、視界に声の主らしき人物は入ってこない。
フェンスの外に広がる民家の屋根や、電柱と電線、等間隔に配置された鉄塔が並んでいるだけだった。職員と児童たちも、先ほどと変わらぬ好奇と侮蔑のこもった目をこちらに向けて立っているが――誰もピクリとも動かない。
「…………え……?」
目の前の出来事を受け入れられず、彼女は軽く目をこする。
しかし、状況は変わっていない。自分を罵っている者は大きな口を開けたまま、楽しそうにこちらを見ている者はまばたき一つしない。
「何が……どうなってるの……?」
園庭を走り回っている児童達も、脇道を行く車も、空を横切っていく鳥達も。
まるで時間が――止まっている。
「――!!?」
善夜が再びビクリと肩を弾ませたのは、背中に風が逆流する感覚を感じたからだ。
何者かがすぐ後ろに立っている気配がある。
「……はい、問題ありません」
案の定、間近で例の男の声が聞こえる。
「すでに確保しています」
恐怖心と好奇心がせめぎ合うようにゆっくりと。
振り返った善夜の目が、大きく見開かれた。
「……!……!」
そこに、男が立っていた。
ショートにしては伸び気味の黒髪。黒いスーツ。二十代半ばから三十代前半だろうか――端正ではあるものの、逆に言えば特徴のない顔立ちで、年齢が見えない。前髪から覗く切れ長の目に宿った闇色の瞳が、無感情に善夜を見下ろしている。
彼は折り畳み式の黒い端末を耳に当てたまま、静かに言った。
「――では、公務執行に入ります」
善夜は、声も出せずに立ち尽くすしかなかった。
時間が止まり、謎の男が現れ――今、何が起きているのか、まるでわからない。
――でも、一つだけ気になることがある。
「……あの、『公務』って……」
小さく呟いたが、男は答えない。
「……お役所の人……?」
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