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第八章

魔人の力

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「ウオオオオォォォォォォォォォ!」

 空気を震わせるような凄まじい魔人の咆哮が地下全体に響き渡った。その圧力にランブスターは一瞬身体を震わせた。

(…身体ガ…熱イ…)

 突如現れた目の前の異様な存在に恐怖を覚えたランブスターは再生したばかりの右のハサミから強力な水鉄砲を放った。魔人はそれを左の黒い炎のかぎ爪で打ち払い、すぐさま前方へ跳んだ。黒い炎の軌跡を残しながら高速で距離を詰め、すれ違いざまにランブスターの右のハサミと数本の足をまとめて切り裂いた。ランブスターはバランスを失い、横に倒れた。

(…殺ス…)

 魔人は右腕の黒い炎を槍のようにとがらせ、敵のがら空きな背中に突き刺した。いかなる刃物を通さないランブスターの殻はいともたやすく突き破られ、黒い炎の槍は腹部まで貫通した。その苦痛にもがくかのようにランブスターは残った左のハサミと足をバタバタと動かした。

(…喰ライ尽クス!)

 黒い炎の槍を突き刺したまま魔人は右腕から黒い電撃を放ち、敵の全身を包み込んだ。雷属性の禁断魔法――『ペインスパーク』である。その黒い電撃は対象の肉体はおろか、精神まで蝕み、恐ろしい苦痛をもたらす。魔人の力をもってすれば詠唱なしでも禁断魔法を発動させることが可能となるのだ。
 黒い電撃は巨大なザリガニの内外にくまなく伝わり、ほどなくしてその全身を真っ黒な炭に変えてしまった。その亡骸はあっという間に風化し、形を失ったことを視認した魔人は全身の黒い炎を少しずつひっこめた。

「…ぷはぁっ!」

 黒い炎が完全に消えた直後、大きく息を吐いた静葉は両ひざから崩れ落ち、両手を地面につけた。そのまま彼女は倒した魔物の生命力を吸収しながら息を整えた。

「はぁ…はぁ…あー、反動しんどい…」

 魔王から力を注がれ、魔人と化したのは時間にしてわずか一分であった。しかし、その力の行使は一時間のフルマラソンと同じくらいの心身の負担をもたらすことになった。巨大な魔物の生命力を吸収することができなかったら間違いなく意識を失い、倒れていたであろう。

『無事に撃破することができたようだな』

 静葉の脳内に魔王の声が響いた。

「…無事じゃないわよ、くそったれ」
 魔王の声掛けに対し、静葉は悪態をついて返した。
『一分だけとはいえ、魔人の力を制御できたのだ。余にとっては上出来だ。次も期待しているぞ』
「次って…できればなりたくないわよあんなの。とんだスーパーモードだわ」
 頭の中から魔王の気配が遠ざかった。元の黒色に戻った髪の毛をいじりながら静葉は魔人になった時の感覚を振り返った。
 猛暑日の屋外に居続けたかのように全身が発熱し、周囲には殺意という暴風が常にまとわりつく。殺戮衝動に流され、思考が少しずつむしばまれていく。少しでも気を抜けば力に心身を奪われ、ただの獣と化していたであろう。

「…集中力めっちゃ使ったわ…」

『嵐の中でこそ茶を点てろ』、『暗闇の中の手綱を握り続けろ』。以前、ズワースから教えられた言葉に従い、わずかに残した理性をもって魔人の力をかろうじて制御した。その精神的な負担と力そのものを振るった肉体的負担は正直、何度も経験したくないものであった。

「…ああ、くそ。小腹がすいたわ。空からパンとココアでも降ってこないかし――ら?」

 尻もちをつき、天を仰いだ静葉がそう呟くと、文字通り空から降って来た小包が彼女の腹部に落下してきた。包みを開くとその中にはコッペパンが一つとボトル入りのココアが入っていた。

『ご注文のパンとココアをお届けしたよ。魔勇者様』

 悪魔の羽とタヌキの尻尾を生やし、一つ目が描かれた紫水晶の球がそう言いながらゆっくりと降下してきた。一つ目から発せられたサーチライトは魔勇者のあきれ顔をきれいに照らしていた。

『いやー、凄まじい魔力だったねー!妨害魔法を発動させてなければより正確な数値を測ることができたんだけどねー!』
 フロートアイから楽しそうなあまりにものんきな言葉に対し、静葉はいら立ちが募った。
「どいつもこいつも…いいからさっさと助けなさいよ。ロープなりワープなりなんかあんでしょ?」
 難癖をつけ、静葉は受け取ったココアを一気に呷った。
『大丈夫大丈夫!今、上からメイリスが――おや?』
 何かに気づいたコノハはフロートアイの目の部分から発しているサーチライトを動かし、静葉の背後を照らした。
「何よ?童顔フリーマンでもいた?」
『いや。妙な魔力反応を感知してね…なんだろう?』
 立ち上がった静葉が後ろを振り向くと、右腕と下半身が欠損した女神像が彼女をにらむように佇んでいた。

「これは…?」
『ファナトス様の像だね。でも、どこから魔力が…?』
 フロートアイは半壊した女神像をくまなく注視した。そして、その右肩に付着した青色の正三角形が光に照らされて、ほんのりと輝いていた。
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