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第九話 身支度

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「準備できたから、早速行くわよ! 時間を無駄になんかしていられない」
 アイーシャはそう言いソファから立ち上がり、大きく伸びをする。ブレンは重いリュックを持ち上げ背中に担いだ。

「はあ……本当に行ってしまうんじゃな……?」
 エルデンが深いため息と主に言葉を漏らす。気落ちしたようなその姿は、いつもより背が縮んでいるようにさえ見えた。

「本当に行くわ。でも心配し過ぎよ! 潜ってせいぜい三階なんだから。おじいちゃんなんて十階くらいまで潜ってたんでしょ、しかも一人で?」

「ううむ……それはそうなんじゃが、最近のダンジョンはどうも様子がおかしいと聞くからのう……」
 アイーシャに答えながら、エルデンはまた深いため息をついた。

「何かそうらしいけど……ダンジョンがまともだった試しなんかないでしょ? 誤差の範囲よ、きっと」

 最近のダンジョンの様子がおかしいというのは、アイーシャも風の噂で知っていた。

 交換所のローガンは多くの冒険者と付き合いがあるため情報も集まるが、そのローガンの話では、今までに現れることの無かった未知の魔物が姿を現しているらしい。

 それだけではない。ダンジョンは数日毎に姿を変えるが、その頻度が早くなっているらしい。大体五日周期だったものが、四日や三日で変化を起こしている。

 ダンジョンに挑む冒険者は基本的にこの周期の間に探索を行う。変化に巻き込まれれば階段の位置が変わって帰れなくなったり、通路や壁に呑み込まれて死んでしまうからだ。変化の周期が早く短くなったのなら、それだけダンジョンの探索の難易度は上がってしまう。

 アイーシャの予定では日帰り……今は午前九時で、せいぜい午後三時には帰る予定だった。前回のダンジョンの変化は昨日であるため危険はないと考えていたが、それも確実ではない。何せ相手はダンジョンなのだ。中に入ってくる人間の都合など考えてくれない。

 それに今の所変化に巻き込まれて帰れなくなったという話は聞かない。それでも、未知の魔物が現れ怪我人や死者が増えているのは事実だった。蘇生が間に合ったため完全に死んだ者は最近はいないようだが、アイーシャが死者にならない保証はない。

 アイーシャもエルデンもその事は当然分かっている。そしてアイーシャは覚悟を決め、エルデンは心配をしているのだった。

「とにかく、もう行くわ。何かお土産を買ってくるから、楽しみに待ってて」

「う、うむ。気を付けるんじゃぞ……」

「行くわよ、ブレン」

「分かった」

 荷物を背負いアイーシャはスタスタと歩いていく。そしてドアを開け、もう一度エルデンに振り返った。

「行ってきます、おじいちゃん」

「ああ、気を付けてな」

 エルデンの視線はいつまでもアイーシャを見つめていたが、アイーシャはそれを気にする風もなく家を出ていった。ブレンは無言でその後をついていく。

 かつてはエルデンがこのようにダンジョンに向かい、アイーシャが見送っていた。この立場になって初めて、エルデンは見送ること、待つことのつらさを味わっていた。


「さあ、ブレン。初めてのダンジョンなんだから、気合入れていくわよ!」

「気合? どこに入れるんだ。もうリュックはいっぱいだぞ」

「そういう事じゃないわよ、このポンコツ! まあいいわ……ん? 誰かこっちに来る……」

 勇ましく出発しようとしたアイーシャだったが、こちらに歩いてくる人影を見つけた。若い男。こちらに手を振りながらにこやかに近づいてきている。知り合いではなかった。

「おーい! いたいた! 君がアイーシャちゃんかい? それと噂の魔導人形!」

 男は叫ぶように言いながらアイーシャに走り寄る。アイーシャは怪訝な目を向けるが、男は気にする風もなく近くにまで来て立ち止まった。

「ああ良かった! その恰好を見るとダンジョンへ向かうんだね? 調達士と聞いていたがまさか一人で行くなんて……勇ましいね! あ、魔導人形も一緒だから二人か? まあ細かい事だね!」

 馴れ馴れしい口調でまくしたてる男に、アイーシャは逃げるように一歩下がった。

「な、何よあんた? 何の用?」

「失礼! どうも心が勇み足なもので……綺麗な女の子を見るといつもこうなんだ! はい、名刺をどうぞ」

 そう言い、男はポケットから名刺を取り出しアイーシャに渡した。

「三峡新聞……記者見習、マジェスタ?」

 三峡新聞といえばアイーシャでも聞いたことのあるそれなりに大きな新聞社だった。しかし見習いの記者とは……アイーシャはうさん臭いものを見るようにマジェスタを睨んだ。

「ええ、実は変わった魔導人形を連れたかわいい女性がいると聞いて……取材に参りました! お話、聞かせていただけませんか?」
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