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第1部
葵の半休(びっくりランチ編)
しおりを挟む――プァン、と、ごく短く鳴ったクラクションと同時に、グレーメタリックが鈍色に光る国産のSUVがコンビニの狭い駐車場に入ってくる。
何となくコンビニの中に入るのも躊躇われて、外の駐車スペース付近で先ほど上司に言われた通り従順に、しかし戦々恐々と彼を待っていた葵は、入ってきたSUVを目の端に映しながらも、頭では自分がどんなミスをしでかしたのか、そればかりを考えていた。
すると停まったSUVの運転席側の窓から、突然「水奈瀬」と呼ばれて、驚きのあまり荷物を取り落としそうになる。
――黒河さん、だったのか……。
恐る恐る近づくと、侑司は無表情のまま「乗って」と助手席側を指す。
「いやでもあの」とあたふた逡巡していると「飯、付き合え」と聞こえて、葵は「は?」と間抜けな声をあげてしまった。
「――早く」
有無を言わせないその口調と視線に、葵は「もうどうにでもなれ」的な半ばやけっぱちな気分で助手席へ身体を滑り込ませた。
低いエンジン音にゆったりとした革張りのシート。車内はダークグレーの内装で、インテリアは至ってシンプルな標準装備のみと見たが、あまり車に詳しくない葵でも、かなりグレードが高い車だとわかる。
そして、何も言わず、前を見据えたままステアリングを操る黒河侑司。
ミント系の爽やかな香りと、小さな音量で流れるラジオの七十年代のアメリカンポップス、運転席には機械的無表情の我が上司……何だかよくわからない状況に戸惑う一方で、葵は鳩尾のあたりがキュッとなる奇妙な感覚(……緊張か?)を覚えていた。
「車で、いらっしゃってたんですね……」
ふと何気なく漏らせば、侑司はちらりとこちらに目を向け、再び前方に戻した。
「終電を気にしなくていいからな」
明瞭簡潔な答えに、ですよね……と小さく呟く。
葵が一人暮らしを始めた理由は、まさにそれだ。
慧徳学園前駅を通る私鉄線は、意外と上りの最終電車が早く、店を閉めてからでは間に合わないことも多い。そこで必死で兄を説得し、入社二年目にして葵はようやく一人暮らし生活に漕ぎ出したのだ。
そう考えると、都内各所に点在する店舗を回るマネージャーなら尚更、車通勤が必須なのはよくわかる。前任の杉浦も慧徳に来る時は車で来ていて、佐々木のアパートの駐車場に停めていた。
不便なことに、慧徳学園前店には客用三台分しか駐車場がなく、従業員用駐車場がない。
よって、佐々木チーフが借りている単身用のアパートの駐車場を、はるばる都心からやって来るマネージャーのために提供しているという現状なのである。(千住方面に家を持つ佐々木は、現在単身赴任という形で一人暮らし。さらに大家さんがあまり干渉しない人らしい)
店から少し歩くとはいえ(佐々木曰く、徒歩二分四十五秒)、来るたびに駅前のコインパーキングを利用するよりは経費的にも助かるので、本社も黙認しているのだろう。
ちなみにアルバイト学生は皆が近隣住まいなので、徒歩か自転車利用で、隣町に住む遼平だけが原付で来ている。
「黒河さんってお住まいはどちらなんですか?」
「……今住んでいるのは目黒のあたり」
「うわ、恵比寿に近いじゃないですか。マンションですか?」
「ああ」
「リッチですね……お一人ですか?」
「兄貴と一緒に住んでる。どっちもほとんど寝に帰ってるようなものだけどな」
兄貴……あの『櫻華亭』麻布店のチーフ、黒河和史さんか……と、頭に思い浮かべた時、隣でふ、と笑う気配がした。……え、笑っ、た?
「これは、職質か?」
「え? あ、いえ……そういうわけじゃ……す、すみません……」
何となく気恥ずかしくなって、葵は視線をフロントガラスに戻す。……お一人ですか?は、さすがに失礼だったかもしれない。
つい矢継ぎ早に尋ねてしまった葵だが、侑司は特に気にした様子もなく、今度は柔らかい口調で葵に聞いた。
「水奈瀬の実家は?」
「妙光台です。今は……兄と弟しか住んでませんけど。母は宮崎にいるんですよ」
「……宮崎?」
ちょうど赤信号で車が止まり、侑司は容の良い瞳をこちらに向けた
「はい、父と母が生まれ育ったところです。私たち兄弟はこっちで生まれたので、時々遊びに行くぐらいで住んだことはないんですけど。……六年前に父が亡くなって、その翌年に母一人で宮崎に戻りました。今は友人と一緒に宮崎市内の園芸店で働いているんです」
「……そうか。……宮崎は遠いな」
「そうですね。でもいい所ですよ、南国って感じで。日差しは殺人級ですけどね」
春先でも、帽子、日傘に日焼け止めがなければ、一日で肌が赤くなってしまう強烈な太陽の光を思い出す。宮崎の快晴率は高く、葵が訪れる時は大抵抜けるような青空が広がっていることが多い。海も山も空気も、とても綺麗な土地だ。
信号が変わり発進すると、葵は不意に思い出した。
「あ! そうだ、黒河さん。水泳、やってたりします?」
運転席を振り向くと、ちらと目を合わせた侑司は怪訝な表情をした。
「……何でそう思う」
「えと……私の兄と体型が似ているんです。背も同じくらいなんですけど……それより首筋とか肩のラインとか、肩幅とかがよく似てます。競泳選手の身体って結構特徴あるので、何となくそんな気がして」
「お兄さんは……競泳選手、なのか?」
「いえいえ、普通の会社員です。学生の頃、ずっと競泳部だったんですよ。小学校の頃から泳ぎ続けているのでそれなりにいいタイムは持っているみたいです。高校の時はインハイにも進んで、大学の時には五輪選考会にも出て……それは予選敗退だったんですけど。でも、就職してからは忙しいらしくて、今は趣味で泳ぐ程度なんじゃないかな……世間には速い選手がゴロゴロしているんだ、ってよく言っています」
「だろうな……」
苦笑気味に呟く侑司の横顔が、少し物憂げに見えたのは気のせいだろうか。
「……あの、違っていたらすみません。ただの勘、なので……」
「いや、やっていたよ、水泳。……俺はインハイにも行けなかった」
「そうですか……。もしかしてバタフライ、ですか?」
葵の問いに、侑司は少し驚いたような顔をして、すぐにその表情をしかめる。
「……何でわかるんだ……」
「ただの……勘、です」
蓮兄と同じだ……葵は変な偶然に、胸がざわざわした。
* * * * *
「俺が食いたいものでいいか?」と言う侑司に快諾して連れてこられたのは、恵比寿から車で三十分ほど郊外に向けて走ったところにある、どう見ても食事をする所とは思えない建物だった。
国道から住宅地に入ってすぐの場所にある白く四角い建物は、割と新しい感じの小規模な食品工場にしか見えず、侑司がSUVを敷地内の駐車場に入れても、葵はクエスチョンマークを顔に貼り付けたままだ。
さっさと車を降りる侑司にならって、葵も急いでシートベルトを外し降りる。先を行く侑司について、工場の端から回り込めば、そこに併設する別の小さな棟とその入り口の真新しい看板が目に入り、ようやく侑司の意図するところがわかって、葵は思わず叫んでしまった。
「ここ……知ってます! 嘘……なんかイメージと違う……」
食堂らしくない入り口の《兆京食堂》という看板を見上げて、葵は茫然と呟いた。
「本工場はだいぶ古いからな、ここの土地に新工場を増設したんだよ。それで、食堂も新規で作って一緒にくっつけたというわけだ」
『兆京食堂』とは、上野の外れにある老舗精肉工場の兆京精肉が運営している、古くて小さな飲食店で、いくつかメニューはあるのだが、とにかく “ビフカツ” が美味で有名な店である。
昭和初期から営業し続けるまさに “町中の食堂” と言った風情の『兆京食堂』は、年季の入った狭い店構えにもかかわらずリピーターが凄まじく、毎日毎日長蛇の列だと、テレビの情報番組などでもよく取り上げられているのだ。
侑司によると、ここに新工場と第二『兆京食堂』を新設したことは公に宣伝告知していないらしく、今のところ平日なら並ばずに入れる状況だということだ。
入り口自動ドアから中に入る侑司に続いていくと、広々とした空間は明るい社員食堂のような雰囲気で、ざわざわと賑わう人々もスーツを着たサラリーマンや、作業服を着た青年のグループ、年配の夫婦らしき二人組など、多種多様でかなり混みあっている。本家本元の『兆京食堂』とはその趣が異なるが、ここはここで繁盛しているらしい。
漂う焼き物、揚げ物の芳しい匂い……調理場の掛け合い声、調理機器の雑多な音に客の喧騒……その軽快で活気のある空気感が、葵の五感を一気に惹きつけた。
「……こんな場所に新しくできていたなんて知りませんでした。ここのビフカツ、食べてみたかったんですよ。『兆京食堂』っていつも混んでて入れないって聞いていたので諦めていたんです」
葵が嬉しさと期待感で思わず声を弾ませると、侑司も少し笑った。
「ずっとうちでお世話になってる精肉工場だからな、一度くらい食べておくのもいいだろう」
「はい、念願叶いました! うわぁ、何にしよう……やっぱりロースかな……でも、ヒレもいいな……」
「120、180、240g……1ポンドまである。好きなだけ食え」
「1ポンドって……約460gって書いてありますよ……無理ですから。……っていうか、どうやって揚げるんでしょうね……」
二人で食券を買い(侑司がさっさと二人分支払った)、調理場の端にある窓口の割烹着姿の女性に手渡すと、侑司の後について空いたテーブルに着いた。
それとなく店内を見回せば、まだ真新しい色合いが残る店内は人々が賑わいうごめき合い、食べる人、帰る人、入ってくる人が入り乱れ、回転率の良さが窺える。
料理は運んでくれるらしいが、お冷はセルフサービス。そして、ご飯おかわり一膳まで無料、千切りキャベツおかわり自由。
葵たちのテーブルの隣では、作業服を着た青年グループが各々立ち上がり、自ら食べ終わったトレーを洗い場の窓口に運んでいる。店内を捌いているらしい割烹着に三角布の中年女性は見たところ二人だけだから、バッシングは自主的に、ってとこか。
「ごっそさーん」
「はーい、ありがとねー」
「オバちゃんまた来るー」
「あいよー」
こんなやり取りが交わされるのを耳にして、何だかいいなぁー、とつい微笑んでしまう。
キョロキョロとあちこちに視線を漂わせて観察していると、向かいに座った侑司から、くく、と笑う声がした。
「職業病だな」
片腕をテーブルに乗せて、軽く身体を斜めに傾けている侑司は、柔らかな笑みを葵に向けていた。
「すみません、ついクセで……」
俯きながら、葵は頬に熱が上がるのを感じる。また笑った……というより笑われたのだけど。
どうにも居たたまれず、落ち着きなく居住まいを正していると「わかる。俺もそうだから」と言って、侑司はその視線を活気ある店内へ向けた。
「どこの飲食店に入っても、スタッフ側、経営側の目線で見てしまう。採算は取れているのか、客単価は、客の回転率は、QSCから店の雰囲気、スタッフの表情まで……チェックし出せばきりがない」
「もしかして……気に入らなければ食べずに出てきちゃったりします?」
「……ないこともない」
ぼそりと言いきる侑司の言葉に、この人ならあり得る……と妙に納得した。
そもそも基準が『櫻華亭』だ。
最高ランクの食材と料理、徹底したきめ細やかなサービスを、幼少の頃から体感していると、佐々木も言っていたではないか。
葵はクロカワフーズの社員ではあるが、正式な客として『櫻華亭』の料理を食したことは一度もない。せいぜい研修期間の賄い食と会議での試食程度である。『櫻華亭』レベルで鍛えられた彼の味覚器官の精密さには、到底及ぶべくもないだろう。
端正な横顔を見つつ、この人の奥さんになる人は大変だろうなー、とぼんやり思う。
たかが洋食と侮るなかれ……ハンバーグ一品にしても、老舗洋食屋の味はたやすく一般家庭で再現できるものではないのだから。
ふと、侑司の視線がこちらに向いた。
「水奈瀬だったらどうする。いくら雑誌や口コミ、ネットで情報収集できるとは言っても、所詮は他人の評価だ。自分の好みや期待に沿っているかどうかは実際確かめなければわからない。店に入った瞬間落胆することもあれば、オーダーする時に幻滅する場合もある。下手すれば料理が来て初めてやめておけばよかった、と思うこともある。そんな時、匙を置くか否か……だ」
淡々と語りながら、侑司はお冷のグラスをその長い指でゆっくりなぞる。その動きに視線を囚われたまま、うーん……と葵は考えた。
実際今日、そうなる可能性はあったな、と思う。
諸岡の話を聞かなかったら、疑いもなく雑誌で見つけた店に行っていただろう。そして、訪れたことを後悔するような事態になっていたかもしれない。
――その時、自分だったらどうするだろうか。
葵は視線を戻し、しっかり侑司を見て答えた。
「匙は置きません。たぶん、余程のことがない限り全部いただきます。作っていただいた以上、全部食べるのがお店に対する礼儀だとも思いますし。……でも、不快に感じたりおかしいなと思ったことは、ちゃんと従業員に言います」
すると侑司は「らしいな」と言って、ふと何かに思い当ったように意味ありげな笑みを浮かべた。
「そう言えばお前、本店チーフにもの申したらしいな」
「本店チーフ……国武さん、ですか?」
「……あの人の濁声は、確かに聞き取りづらい」
「……!」
悠然とした侑司の言葉で、ポン!と発火したように思い出した。
何で知っているの!と心中焦るが、管轄は違えど『櫻華亭』のマネージャーだったのだから、誰かに聞いてもおかしくない。
「あ、あれは……悪気があったわけじゃ、ないんです。ただ、どうしても聞き取れなくて……BとDも一緒に聞こえるし、ライスなのかダイスなのか全然わからなくて。それで……ちょっと、言っちゃいました……」
もう三年も前の、『櫻華亭』本店における研修中のことだ。研修としてお世話になっている身でありながら、天下の『櫻華亭』本店料理長様に「今の言い方はわかりません!」と抗議してしまったという、若気の至り的逸話。今思えば、言語道断、怖いもの知らずにもほどがある。
だって無我夢中で必死だったのだ、あの頃はまだ何も知らなかったのだ……プスプスと燻る頭中で言い訳してみる。
火照る頬の熱を逃すように、ほぅっと息を吐き出した葵を、侑司は珍しくも柔らかな光を放つ瞳を細めてじっと見つめた。
「……それも……才能、なのかもな」
初めて目にする優しげな彼の表情に気を取られた葵には、その言葉が上手く理解できなかった。
そうこうするうちに、注文した料理が運ばれてきて、二人は早速箸を手に取った。
『兆京』名物、ビフカツ定食……葵はヒレ120g、侑司はロース180gだ。
付け合わせは千切りキャベツと野菜のピクルス(これも『兆京』オリジナルで人気が高い)のみ、白飯は椀盛りでわかめと麩の味噌汁がつく。
まずはソース無しで、サク、とかぶりつけば、容易に噛みきれる柔らかな食感、熱さとともに伝わる肉の旨み。ただ柔らかいだけではなく、肉の歯ごたえと味がしっかりと感じられて、さすが精肉屋、と膝を打ちたくなる。
「美味いか?」
正面からかけられた声に葵が、熱々の一口を嚥下して「はい、ものすごーく美味しいです」と答えると、侑司は「そうか」と満足そうに頷いた。
「うちのビーフカツも肉厚ですけど、ここのも食べごたえありますね。しかも肉自体がシンプルな味で美味しいです。このソースは……何だろう……ドミとも違うし……」
「うちのドミよりトマトが強いな。さらっとしているしエスパニョールに近い……香味は玉ネギと人参、セロリ……ニンニクあたりで、仕込みにはそんなに時間をかけていない。これだけ新鮮で旨みのある肉を使うなら、ソースにあれこれ手をかけなくてもいい」
淡々とした様子で語りながら、侑司は千切りキャベツにテーブル備え付けのドレッシングをかけている。
「……わかるんですか? ソースに使われている食材、とか」
「そんなの……わかるんじゃないか? 普通」
至極当然のように言って、侑司は大きめにカットされたカツの一切れを頬張った。
男の人らしく豪快にかぶりつく侑司の様子を、つい、興味深く見つめてしまう。
男兄弟の中で育った葵は、もちろん男ならではの食べっぷりなど見慣れているはずなのに、目の前の彼の食べ方はとても新鮮に感じた。普段から無機的な印象を与えられていた人物の、隠されていた一面が現れた気がして、何だか目が離せない。
「……食わないのか?」
「た、食べます!」
――ダメだ、集中!
『兆京』のビフカツを上の空で食すなんて勿体ない!
滅多に味わえない極上の味を集中して堪能すべく、葵も負けじと箸で取った一片にかぶりついた。
* * * * *
食後、セルフサービスのほうじ茶を飲んでから、二人は『兆京食堂』を後にした。
最寄りの駅まで送ってくれれば電車で帰ります、と言う葵の申し出は簡単に却下され、結局、店まで送ってもらうこととなる。
途中、妙に見覚えのある景色に、葵は「あれ?」とウインドウに顔を寄せ、外を見回した。
「黒河さん、ここ私の実家がある辺りです……あ、この道の先に、昔通ってたスイミングクラブがあるんですよ」
フロントガラス越しに左前方を指さした葵を、侑司はちらと見てまた視線を戻した。
「……水奈瀬も水泳をやっていたのか?」
「あれ、言ってませんでしたっけ? うちの兄弟は全員『アオヤギ・スイミング』のクラブ生なんです。私と弟は小学校卒業でクラブは辞めちゃったんですけど、青柳家とは家族ぐるみで仲が良くて、何かと交流が続いているんですよ」
「……そう、か……アオヤギ……水奈瀬の兄貴というのは……」
「はい? ……あ、青柳先生! 久しぶりだー」
通り過ぎ様、ウインドウ越しに見かけた、上背肩幅のある坊主頭の中年男性は、葵が大分お世話になった『アオヤギ・スイミング』のオーナー兼コーチ、青柳大悟だ。つまり、親友青柳麻実の父親である。
ちょうどスイミングクラブの門前で作業着姿の男性二人と、建物の外観を指さしながら何やら話をしている。
「停まるか?」と車を減速させた侑司の言葉に、葵は慌てて首を振った。
「いいんです、いつでも会えますし、また今度、挨拶しがてら泳ぎに行こうと思ってたので」
「今でも泳いでるのか?」
「たまーに、ですかね。時間がなくてなかなか行けないんですけど。無性に泳ぎたくなる時があるんですよ。変ですよね、中学高校はテニスをやってたのに、身体動かしたいなーと思うと、ラケット振るより泳ぎにいっちゃうんです。……あ、黒河さんだって、今も時々泳いでいますよね?」
「……何でそう思う」
「うーん……やっぱり……身体つき、ですかねぇ……」
葵が少し身を引いて、隣に座る侑司の身体全体をまじまじと眺めると、彼は何故か顔をしかめる。
「……お前、時々凄いこと言うな……」
呆れたように小さく呟いた侑司に、葵は、スゴイこと?と首を傾げた。
「いや、いい……それより、水奈瀬の兄貴って……もしかして定埠高校、か?」
「よく知ってますね……って、あの、もしかして……兄を知ってるんですか?」
「ああ、アオヤギ・スイミングで思い出した……青柳謙悟といつも一緒にいただろう」
「そうです! 謙悟さんは青柳家の長男で、うちの蓮兄と同い年なんです。謙悟さん、オリンピック選手にもなりましたからね、この辺ではすっかり有名人です」
「ああ、青柳謙悟は昔から有名だったよ。定埠自体が強豪揃いで有名だったからな。青柳謙悟も水奈瀬の兄貴にも、大会で何度か会ったことがある」
「……うわぁ、それはまた……スゴイ、偶然ですね……」
行きの車の中で感じた、奇妙にざわざわする感覚が、再び胸の内に戻ってきた。
思えば、兄の蓮と隣にいるこの上司は同い年だ。同学年でそれなりにいい成績を出している学校の水泳部に所属していたら、どこかの大会で会っていてもおかしくはない。
地区大会、支部大会、関東大会、インターハイ……大会にも色々あるが……中学、高校の学区はどこだったんだろうか……
「――黒河さんは、どこの高校だったんですか?」
何気なく問うた葵は、完全に油断していた。これ以上の “何か” はないだろうと心のどこかで思っていたに違いない。
葵の問いかけに侑司は一瞬こちらを向いた。が、すぐに視線をフロントに戻し、少しの間の後、低く呟くように返した答えは――、
「……慧徳学園」
「え……――えっ……えぇぇっっ?!」
――葵を、絶句のち絶叫させるに、十分であった。
* * * * *
「ありがとうございました。ごちそうさまでした」
遠ざかるグレーメタリックの車体を見送っていると、一陣の風が葵の髪をふわっと巻き上げる。
これから渋谷店へ寄ってその後本部に戻る、という侑司は、葵を店の前で降ろすとそのまま走り去っていった。
侑司は今日元々休みだったらしいが、休日返上であちこち回らなければならないほど忙しいようだ。通常勤務時間内では後回しにしがちな、しかし片付けておかなくては後々厄介な……というような些細な雑事に追われ、ここ何カ月も完全なオフは取れていないと言っていた。
時刻は午後三時四十分――店はランチタイムが終わり、賄いの準備に入っている頃だろう。
店前から裏口に通じる小路に向かい、葵はゆっくりと歩き出す。しかし頭の中は、受けた驚きがいまだ後を引いてパチパチ音を立てているようだ。
――驚愕の新事実発覚……まさか彼が、慧徳学園出身、とは。
聞けば、黒河侑司と彼の兄の和史は、慧徳学園幼稚部に入園して以来、高等部を卒業するまでずっと慧徳学園だったらしい。いつか亜美が言っていた純然たる “筋金入り” そのものだったというわけだ。
さらに驚かされたのは、あの杉浦も小学部からの慧徳学園生だったらしく、侑司の兄、黒河和史と杉浦は同級生だということだ。
そんなことひと言も聞いてない……唖然とした葵に、侑司は苦笑していた。――隠していたわけじゃないだろ、と。
確かに葵だって尋ねたことはない……マネージャーの出身校なんていちいち聞かない。
でも、今更ながら思い当たる節はあって、逆に、今まで全く気づかなかった自分に驚きだ。
――まだ杉浦が担当マネージャーだった頃。
制服を着た高校生が親と一緒にディナーへ来店した時、「俺もあんな頃があったな~」と、杉浦が胡散臭いノスタルジアに浸っていたことがあった。確か、あの時の高校生の制服は慧徳学園高等部のものだった……
でもまさか、慧徳学園そのものに懐かしさを感じていたなんて、思いもしなかった。
杉浦も黒河和史も、そして黒河侑司も、ここらでよく見かけるあの制服を着て、毎日この町の学校へ通っていたんだろうか……想像できない。
それぞれの今現在のキャラが濃すぎて、彼らの高校生時代を想像できない。
とりとめもない思考を持て余しながら、店奥の事務室に繋がる裏口のドアを開けると、池谷が一人デスクのパソコンに向かっていた。おそらくランチタイムの売上日報を入力しているのだろう。
フロアや洗い場からは、まだ忙しそうな音がしている。
「池谷くん、お疲れさまー。忙しかった? ありがとね」
荷物を下ろし、池谷の背後からパソコン画面をのぞきながら葵が声をかけると、「ういーす」と言いながら振り返った池谷は、そのまま視線を止めて、意味ありげににやりと笑った。
「テンチョー、デートだろ」
「え?」
言われた意味を取りかねて葵が池谷を見返すと、彼がすっと葵の身体に顔を寄せたので、一瞬ぎょっとして身を引いた。
「それ、車の芳香剤の匂いだろ。テンチョーは車を持っていない。タクシーはそんな匂いさせない。テンチョーのお兄さんか友達の車ってのも考えられるけど、俺の記憶が正しければ、お兄さんの車はミント系の匂いじゃない。そして俺の知る限り、テンチョーが半休の日に朝から遊ぶ可能性のある友達は、麻実さん一人だけ。その麻実さんも車は持っていない」
「だ、だからって、何でデートにな――」
「極めつけは――、お土産」
葵の抗議を遮った池谷は、足元に置いた紙袋に視線を移した。
「思いのほか楽しい時間を過ごした後は、周りにその気分をおすそ分けしたくなるもんだよ、人間って。ミントに混じってスゲーいい匂いがする。なに、揚げ物?」
まったくこじつけもいいとこじゃないか、と呆れ半分で、葵は二冊の大判本を入れた紙袋の中から、ひとまわり小さい紙袋を取り出した。
「はい、『兆京』のビフカツサンド、ピクルス付き。賄いの時にみんなで食べて」
「うっそ、マジで? サンキュー店長。いただきまーす」
男のわりに細い線で綺麗な顔立ちの池谷は、顔に似合わず口が悪く、年下のくせに葵に対しても容赦ない。しかし、接客時は巨大なネコを被り、妙な色気さえをも醸し出しているので、常連のおばさま方に人気があるのだ。
そんな池谷も、さすがに『兆京』のビフカツサンドの前では、屈託のない嬉々とした表情をしている。
『兆京』のビフカツサンドは、お持ち帰りの名物商品として有名だが、本工場に隣接する食堂でしか買えず、しかも売り切れ必至の超レア土産なのだ。しかし、今日連れていってもらった新しい食堂でも売っていたので、葵は侑司を傍らで待たせつつも、四切れ入りを三パックも購入してしまった。(当然これは自腹で買った)
「でも、何で『兆京』? あそこは美味いって評判だけど、デートにしちゃあムードも何も無くねー?」
「だからデートじゃないってば! たまたまって言うか……行きがかり上って言うか……」
自分だって、何がどうなって彼と食事することになったのかよくわからないのだ。
朝からの流れを簡単に且つ誤解のないように、どう説明しようかと口ごもった時、フロアへ続くドアが勢いよく開いて、甲高い声が響いた。
「あ、店長! お疲れ様でーす! 今日は早くないですか……って、店長! なーんか可愛いカッコしてる! どしたんですか! あ、もしかしてデート!」
キランと瞳を輝かせて跳ね跳んできた亜美に、葵は思わずじり、と後ずさる。
「デ、デートじゃないよ、亜美ちゃん……あ、お土産! お土産があるから後でみんなで食べて? 賄いまだでしょ?」
「うっわぁー! これって有名なやつですよねー、いい匂ーい! いただきまーす!」
池谷が抱える紙袋に、頭半分突っ込む勢いで中をのぞき込む亜美を見て、葵は内心胸をなでおろす。
黒河侑司と二人で食事してきたなどと言おうものなら、せっかく鎮火していた “恋愛のすすめ”話が、再びゴウゴウと燃えさかるに違いない。
余計なことを突っ込まれないうちにさっさと着替えてこようと、荷物を持って更衣室(という名の極狭着替えスペース)に向かおうとした時――、
「チーフー! 笹モッチー! 遼平くーん! 店長から差し入れー! 今日デートだったらしいですよぉー!」
厨房に駆け込んだ亜美の明るい声が響き渡った。
あぁ……と頭を抱え込みたくなる葵だったが、すぐに、あれ?と首を傾げ、池谷を振り返る。
「今日、遼平も早く来たの?」
遼平は平日調理学校があるため、夕方賄いが終わる頃にやって来る。今日もシフトはディナーだけだったはずだが。
「ああ、今日は休みだったんだと。ゴールデンウィーク中に専門学校でイベントがあって、その振替休日とか何とか言ってたな。ちょうど笹本にフライヤーを教えようかってチーフが言ってたの聞いて、サービスヘルプに入ってくれたんじゃん? おかげで笹本も何回か揚げることができたみたいだし」
「そっか……気、遣ってくれたんだね。あとでお礼言っとこ。……あ、そだ。池谷くんさ……、くろ……あ、えと、杉浦さんの母校が慧徳学園って、知ってた?」
「あ? 知ってるよ。一応OBだかんね。てか何で? 今更だけど」
「……あ? い、いや別に」
「ちなみに、黒河マネージャーも慧徳出身、らしいけど?」
「し、知ってたんだ?」
私だけが知らなかったのか……と、思わず口がポカンと開く。
「……へぇ、なるほどね」
「え? 何?」
「別に?」
したり顔でふふん、と池谷は笑う。
釈然としないまま、再び着替えに向かえば、「遼平くん、これお皿に移そっかー」という亜美の可愛い声が厨房から聞こえてくる。
亜美は今日、ランチで上がるはずだが、きっと賄いも食べていくのだろう。
本来は朝から晩までシフトに入る一日通しの人にしか賄いは付かないのだが、慧徳学園前店ではランチ上がりやディナー入りでも自由に取ることができるようにしてある。もちろん無料だ。
これは、葵が店長に昇格してから、マネージャーだった杉浦やチーフの佐々木にお願いして決めたことだった。
慧徳学園前店は、アルバイトの出勤可能率がかなり高い。
フロアでは亜美や池谷、篠崎の大学生三人が、休日はもちろんのこと、平日でも講義の時間割でぽつぽつと空いた時間、ランチシフトに入ってくれるし、厨房でも笹本、吉田、遼平の三人が、交代で上手く平日・休日、ランチ・ディナーのシフトを補ってくれるので、とても助かっている。
学校との両立は大変だろうし、遊びに行きたい年頃でもあるだろうに、みんな『アーコレード』を優先してくれるのだ。
だからこそ、葵としては、みんなの負担をできるだけ軽くしてあげたい。賄いの配慮も、今回のような差し入れも、ただ日ごろの感謝の気持ちを何かの形で返してあげたいだけなのだ。
別に、楽かった時間のおすそ分け、だなんて、そんなつもりじゃない。断じて。
――まあ、……楽しかったし、美味しかった、けど。
「亜美も必死だよな……」
ふと、池谷の呟き声が聞こえた。
「……え、亜美ちゃん、学校忙しいの?」
再び振り返った葵に、池谷の返事はない。
パソコン画面を見つめたまま、池谷は手を振って追い払うような仕草をした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ バッシング……テーブルの皿やグラスを片付けること。bus ……(レストランなどの)給仕の助手をする(おもに口語)の意からきているらしいです。
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もう、みんな、うるさい!
私は私。好きに生きさせてよね。
この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。
彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。
私の人生に彩りをくれる、その人。
その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。
⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。
⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。
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