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松穂

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第1部

悩める弟、水奈瀬萩

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「――あれ?」
 しとしとと生温かく纏わりつくような雨が降りしきる夜、である。
 濡れたジャケットの水滴をぞんざいに払いつつ、マンションの廊下を進み自宅前まで来た水奈瀬萩は、玄関脇の窓から漏れる淡い灯りに一瞬足を止める。……が、すぐにああそうか、と思い直した。
 今夜は萩の姉、葵が実家のマンションに来る日だ……一週間前に萩自身が呼び出したのだから、忘れていたわけではない。
 今日の昼過ぎに『いいレシピ、ゲットなり!』と姉からメールがあったし、バイトも普段より早く上げてもらった。さらに、食事の用意がされているはずだからと、帰りがけにコンビニへ寄るのも止めた。
 つまりは、ついさっきまで念頭にあったことだった。
 なのに灯りが点いた自宅を見た途端、違和感を覚えるということは、よっぽど誰もいない自宅に帰るのが当たり前になっていたということか。

「ただいま」
 玄関ドアを開けて中に入れば、「おかえりー早かったねー」という弾んだ声と姉の笑顔がひょいと現れる。
「うわー、降ってきちゃったんだね。早く拭きなよー」
 遠く離れた土地に住む母とそっくりな声音の出迎えに、何となく感じる面映ゆさを隠しつつ、萩は雨で濡れたレザージャケットとローブーツを脱ぎ捨てた。

「もうすぐできるから先にお風呂入ってくればー?」
 キッチンのコンロに向かう姉は、こちらを振り返ることなくフライパンを握っている。はじける音と香ばしい匂いが、萩の空腹感をさらに刺激してきた。
「お湯張ってんの?」
「ううん、まだ。でも洗ってあるよ」
「あ、そ」
 湯張りは自分で、ってことね……萩はそのまま風呂場へ行き、浴槽の栓がしてあることを確かめて、湯張りボタンを押す。
 もう何度も、栓を閉め忘れたまま湯張りして、膨大な時間とお湯を無駄にしてきたので、こういう知恵もついている。
 バイクのヘルメットと荷物を部屋に置いて、もう一度ダイニングに戻り、冷蔵庫を開ければ新たに増えている缶ビールのストック。
 んでは遠慮なく、と一本取り出してプルタブを開けると、「お風呂出てから飲めばいいのに」と姉に苦笑された。

「結局、何作ったの?」
「んーっと、塩焼き」
「ただの?」
「ただの、とか言わなーい! これが一番シンプルに美味しく食べられるだろうって、チーフが教えてくれたの! 新鮮なら刺身でも美味しいって言ってたけど、さすがに今の時期はちょっと心配だし。地鶏は歯ごたえがあるから煮込むより焼いた方がいいんだって」
「んじゃ、炭火で焼いてよ」
「そんなの無理に決まってるでしょ! フライパンでも美味しく焼ける方法教えてもらったから大丈夫。こないだ買ってきた柚子胡椒も持ってきたしねー。あ、あと唐揚げ用にも仕込んで冷凍してあるから、蓮兄と一緒に食べてね。揚げてから、、、、、
「面倒くせー。蓮兄に頼も」
 萩は、喉を鳴らして缶ビールを煽った。

 一週間前に萩の母が住む宮崎から荷物が届いた。冷凍配送の宮崎地鶏肉塊である。
 兄の半端ない忙しさや萩の無精な性格を知っている母は、たまに送ってくれる荷物にあまり生鮮品を入れない。パックになった地鶏炭火焼やビール、焼酎などが大半なのだが、今回は伝手で安く大量に手に入ったとかで、ドカンと生肉が送られてきたのだ。
 今現在、水奈瀬家は兄と萩の二人暮らしなので、送られてきた計二キロの生肉を消費するのは結構な大業だ。いやそれ以前に、誰が調理するんだ、という話。
 一通りの家事はこなせる兄の蓮なら、時間があればそつなく調理してくれるのだろうが、最近は特に忙しいらしく休みもままならないらしい。萩自身に関していえば、持ち合わせている調理スキル、、、、、は、お湯を沸かすか電子レンジを操作するか、くらいだ。
 というわけで、姉の葵を呼び出した。

 葵は仕事場近くのアパートで一人暮らしをしている。家を出た当初はひと月に一、二回ほど顔を見せていたのに、ここ最近は呼ばない限り帰ってこない。
 遠く離れているわけじゃない……確かにこのマンションから葵の職場までは乗り換えがあって終電は早いし、交通の便がいいわけではないが、通えない範囲じゃないのだ。それを二年前、半ば強引に兄を説き伏せて、葵は一人で暮らし始めた。
 “交通の便” だけじゃない、姉の胸深くに隠された理由も何となくわかるから、萩だって強く反対はできなかった。
 今更だが――もっと強く反対して、一人暮らしなんか諦めさせればよかった……そう痛切に思う。

「なぁ……仕事、忙しいの?」
「んー、今月はそうでもないかな……こうお天気が悪いとなかなか客足もね。その代わり来月から忙しくなりそうだよ。萩は? 実習って三年生からでしょ?」
「オレんとこは年明けから。今年いっぱいは余裕……っていっても試験あるけど」
「そっか。頑張れ頑張れ。学生の本分は勉学なり……っと。よし、いいかな。はい、お皿ちょーだい」
 平皿に香ばしく焼かれた鶏肉が、じゅわっ、ごろごろっと入る。
 アチ、と指で摘まんだ一つを口に頬張れば、塩コショウだけでも十分旨味を感じる。
 ――地鶏、マジ旨い。

「こら。先にお風呂入っておいでよー。ほら、湯張り終わった」
 姉と湯張り終了のメロディに追い立てられて、萩は缶に残ったビールを一気に飲み干し、風呂場へと向かった。


* * * * *


 その夜、兄の蓮が帰宅したのは二十一時前、それでもいつもよりだいぶ早い。
 兄のため、甲斐甲斐しく食事を温め直す姉の姿を横目に、萩はリビングのソファでテレビを見ながら焼酎のお湯割りを飲んでいた。
 水奈瀬兄妹弟は、三人とも酒に強い。両親ともに強かったのでそういう体質なのだろう。
 ただ、三人ともに共通するのだが、飲みすぎると翌日腹を下す。
 特に冷たいビールや炭酸で割った物などは覿面てきめんだ。ジョッキ二、三杯くらいまでなら平気なのだけど。
 だから、水奈瀬家では夏でも早々にビールを切り上げ、他に移る。大抵、芋焼酎のお湯割り……これも宮崎出身である両親の影響だ。
 
「あ、今日ね、アオヤギ・スイミングに行ってきたの。久しぶりに泳がせてもらっちゃった」
 菜箸を大げさに振りながら、葵が機嫌良さげに言う。
「あそこね、今度リニューアルで改装工事するんだって。謙悟さんがコーチとして入ってからスクール生が増えたって、おばさんすごく嬉しそうだった。そりゃあ、かつてのオリンピック出場選手がコーチだったら、うちの子も習わせたい!って思うよね」
「謙悟さんに会ったの?」
「ううん、今日は会えなかった。忙しいみたい。でも伸悟さんには会ったよ。たまたま実家に帰ってきてて」
「……へぇ」
 不意に大きく脈打った心拍を悟られないよう、萩は視線をテレビに戻し、リモコンでチャンネルを変えた。見てないけど。

「それでね、伸悟さんって『SIGMA SPORTS』に転職してたんだって。もう四年も前に。萩、知ってた? 私全然知らなくって、聞いた時ビックリしちゃった」
 リモコンを操る指が、止まる。
「蓮兄ってば、同じ会社なら教えてくれればいいのにね。伸悟さんも何か驚いた顔してたなー。きっと私が知ってると思ってたんだよ。……蓮兄と同じ本社勤務かな? それ聞くの忘れちゃったんだよねー。いきなり『葵ちゃん綺麗になったねー、口説いていい?』とか言うんだもん。そういうところ全然変わってなくて笑っちゃった。小母さんに叩かれてたよ。あ、今度ね、うちのお店にも友達連れて来てくれるって」
 そっと姉の表情を盗み見れば、ふふふ、と楽しそうに笑っている。

「あの人は昔っから口が上手いもんな。で、章悟さんは口が悪い。葵はよく章悟さんに虐められてたよな」
「そうそう、で、麻実ちゃんと伸悟さんがいつも助けてくれたの。懐かしい」
「章悟さん、今、隣の学区で小学校の先生やってんの、知ってた?」
「うん、それは前に麻実ちゃんから聞いたー。 “元ヤンもどき” でも教師になれるんだーって笑ってた」
「 “元ヤンもどき” ね……それは否定しないけど」
 答えつつ、萩は内心ほっとする。……どうやら危うい方向から逸れたようだ、と。

 青柳家は上から、謙悟、伸悟、章悟、麻実、という四兄弟妹きょうだいがいて、水奈瀬家とは家族ぐるみで仲がよかった。
 一番上の謙悟が、兄の蓮と同い年。そして二つ下の伸悟、その一つ下の章悟、そのまた二つ下の麻実……葵が、麻実より一つ下で、萩自身は葵より三つ下になるので、両家の長男とは九つも離れていることになり、はっきり言って萩は青柳家の面々と仲良く遊んだという記憶は、ない。
 ただ、親同士仲が良く、子供は全員『アオヤギ・スイミング』にも通っていたため、何かと家族ぐるみで集まってはレジャーを楽しんだ幼少時代、最年少の萩はみんなに可愛がってもらったらしい。
 それも年々子供らが大きくなるにつれて少なくなり……父が亡くなり母がこの地を離れた今、萩はスイミングに顔を出すこともないので、青柳家の人々とはもう何年も久しく会っていない。
 ……青柳伸悟、以外は。

実可子みかこ小母さん、萩に会いたがってたよ。ちゃんと食べてるか心配だって」
「食ってるよ、心配されなくても」
「その中身によるの。萩は稀に見る面倒くさがりやなんだから。蓮兄だって忙しいし、食事くらい作れるように練習したら?」
「作れなくっても、この時代生きていけるし」 
「この時代でも、栄養失調で病む人多いんだからね!」
「このオレが栄養失調に見える?」
「う……見えない、けど。……いつの間にか蓮兄の身長越しちゃってさ……あ、蓮兄、出た?」
「何の話?」
 風呂から出てきた蓮が、濡れた頭を拭きながらダイニングに入ってくる。
「ううん、何でもないよ。萩がまたでかくなったなぁ、って話。あ、リビングで食べる? じゃあそっちに持ってくねー」

 すっかり手の止まっていた葵が、慌ててキッチンに戻りせかせかと準備する。
 缶ビールを持ってリビングのテーブル脇に腰を下ろした蓮が、小気味いい音をさせてプルタブを開け、一緒に持ってきたグラスにとぷとぷと注いだ。
 蓮はいつも缶から直接飲まない。缶の味が嫌だとか何とか……几帳面というか、潔癖というか。
 缶に味なんかあるかよ、と萩は思う。

「はい、お待たせ。これ、こないだ宮崎で買ってきた柚子胡椒。ちょっとつけるとまた違って美味しかった。ね、萩」
「まぁまぁ、だな」
「あれだけ食べた人の台詞じゃないよね」
 ジトッと睨まれて萩は肩をすくめる。
「お前はもういいのか?」
 テーブルに並べられた皿を見回しながら蓮は箸を取ったが、さすがに萩は首を振った。
 姉はかなり張り切ったらしく、今夜の献立は地鶏以外にも煮物や揚げ物、サラダ、汁物など盛りだくさんで、萩も久々の家庭料理とあって、がっついた感は否めない。
 姉は同じ職場にプロの料理人がいるせいか、自分の料理はたいしたことないと思っているようだが、萩としてはこれだけ作れりゃ十分だと思う。

「葵、お前まだ風呂入ってないんだろ? 今ならお湯温かいぞ」
「じゃあ入ってこよっかな。あ、ご飯は炊いてあるから」
「ああ、サンキュ」
「うちのお風呂、久しぶりだー」
 鼻歌でも歌いそうなノリで、葵がリビングから出ていく。葵のアパートは狭いユニットバスなので、うちの広い湯船に浸かるのが楽しみなのだろう。
 今日はこのまま泊まるらしいし、おそらくあと小一時間は出てこない、ということだ。
 テレビに視線を向けつつゆっくりビールを飲む兄に向かい、萩は口を開いた。

「……今日、アオヤギ・スイミングに行ったんだと」
 それだけで、蓮は萩が何を言いたいのかわかったようだ。
「ああ……夕方伸悟から電話があった。偶然会ったらしい」
 淡々と告げる蓮の様子に、萩は苛立ちが募っていく。
 不穏な空気を感じたのか、蓮は諭すように静かに制した。
「大丈夫だって。そんな顔すんなよ……伸悟の転職の件は、小母さんがぺらぺらと喋ってしまったらしいが、今どこに勤務しているかは話に出てないそうだ。『御蔵屋百貨店、、、、、、』の名も、出ていない」
 耳障りな、有名百貨店の名を聞いて、萩の表情はますます険しくなる。
「でも、葵の耳に入んの、時間の問題じゃね?」
「例え葵が知ったとしても、それがなんだ? 伸悟が『御蔵屋百貨店』勤務しているのはたまたま偶然だ。 “元彼” の “元勤務地” に “偶然” 幼馴染が勤務していた……ただそれだけだ。葵が今更、『御蔵屋百貨店』に出向くとは思えないし、 “あの男” と葵が会うことは、ない」
「だからって、このまま黙って放っておく気か? 絶対ないとは言えないだろ? 何とかなんないのかよ!」
「何とかって……お前な、人様の会社の人事をどうにかできるわけないって、さんざん話したろ? とりあえずそれとなく動向は探っているし、何か動きがあれば知らせてくれるように言ってある。そもそも、二度と近づかないよう釘を刺してあるんだ。奴だってノコノコ――」
婚約解消、、、、したんだろ! 葵に未練たっぷりかもしれないって、そう言ったの蓮兄だぞ! 奴はここの住所だって知ってるし、葵の働く場所だって知ってんだ! いつ姿現すかわかったもんじゃない!」
「わかったから……でかい声出すなって」
 サッと風呂場の方に目線を走らせて、蓮は深いため息を吐くとグラスのビールを一気に飲み干した。

「お前の心配はわかる……俺だって葵とあいつを会わせたくない。でも、会いに来るという確証はないだろう? あの男が戻って来て二か月たってるが、今のところ何もないのは確かだ。もうきれいさっぱり忘れていると考えた方が自然だ」
「でも、」
「きれいさっぱり忘れていたのに、こっちからコンタクトを取ればいやでも意識する。変な刺激は与えたくないんだよ……。いずれにせよ、ここへは来ないはずだ。もし万が一自宅近辺で姿を見かけたら、弁護士を通じて法的処置を取らせてもらうと言ってある。もちろん実際にそうするつもりだ。お前が言う、、葵がいる場所については……そっちにも奴が行くと決まったわけじゃない。奴は葵が働いていた、、、、、場所は知っているが、今、働いている、 、、、、、場所は知らない」
「は? それこそ “同じ” だろーが」
「それを、奴は知らないんだよ。まさか学生時代にバイトしていた同じ場所で、正社員として働いているとは思わないだろう。店自体が変わっているんだ。奴が葵を探しに『アーコレード』を訪ねていくとは思えない。まして、あの近辺に住んでいるとは思わないはずだ……まぁ、可能性がないわけじゃないからな、一応手は打とうと思っているが……とにかく、前から言ってるように、お前はこれ以上――」
「――『首を突っ込むな、ややこしくなる』だろ? ……クソが」
 吐き出すような萩の暴言に蓮は眉をひそめたが、さすが慣れているのか怒りはしない。
「その代わり、『俺が知り得たことは全部話す』……条件は守ってるだろう? 今後も何かあれば真っ先にお前に話すよ。約束する」
 そう言って、地鶏塩焼きを口に放り込んだ蓮は、何事かを考えながら咀嚼する。
 理論派の兄と違って、萩は行動派だ。頭で考えるよりも手っ取り早く動きたい。思い立ったらじっとしていられないのだ。
 ――だから、イライラする。
「それで? 手を打つって、何だよ?」
 苛立ちを露わに問えば、蓮は「まぁ、待て……」と熟考しきりだ。
 チッ、と舌打ちして、萩は空になったグラスを持って立ち上がりキッチンへ向かった。

「……くっそ……」
 悪態を吐きつつ、シンク下の収納扉を開けて、宮崎産芋焼酎一升瓶を取り出す。
 大きめのタンブラーグラスに、一升瓶から勢いよく透明な液体を注げば、ふわりと広がる濃厚で甘やかな香り。
 で飲み干したいのを堪えて、電気ポットのお湯を注ぎ足そうとボタンを押すと、ブシュッといやな空気音……お湯切れかよ。
 型の古い電気ポットは、湯を沸すのに時間がかかる。再び舌打ちして、萩はイライラと薬缶を取り出した。

 名前を口に出すのも腹立たしい “あの男” が、東京へ戻ってくる……そう兄から聞かされたのは、今年の三月下旬……萩が一人で宮崎を訪れた彼岸の頃だった。
 名古屋からさらに遠い福岡に飛ばされたと聞いていたのに、もう二度と会うことも話に出ることもないだろうと安堵していたのに、やっと葵が心身ともに立ち直ったのに。
 そういきり立つ萩を見かねたのか、兄は緊急に秘密の会合を設けることにした。それが五月のゴールデンウィーク中のことだ。
 招集されたのは、かねてからの協力者である青柳家の次男、青柳伸悟。『絶対に単独で勝手な行動をとらない』という、小学生の遠足のしおりにでも書かれていそうな忌々しい条件の元、萩もその会合に参加することが許された。
 三人だけの秘密会合が行われたのは、六本木にあるいかにも “都会の中の隠れ家” 的な居酒屋だ。その個室で、三つの額を突き合わせるようにして今後の対策を練った。伸悟がもたらしたいくつかの新しい情報に、文字通り瞬間沸騰しまくる萩だったが、蓮と伸悟から言葉巧みに説き伏せられ宥められた。今でも思い出すだけで血が上る。

 『御蔵屋みくらや百貨店』……日本でもトップ5に入る、老舗の有名百貨店は、名古屋に本店を構え、札幌、仙台、銀座、大阪、高松、福岡と全国に支店を持つ。
 萩は『御蔵屋百貨店』に何の怨みも嫉みもないが、この名は耳にするだけで苦々しい。そして、姉の耳からも遠ざけておきたいと切実に願う。―― “あの男” が勤める百貨店だから。
 しかしその『御蔵屋百貨店』に、青柳伸悟が勤めていたことは不幸中の幸いだったと言っていいかもしれない。
 四年前、姉の葵に降りかかった最低最悪な災い。口を閉ざしたまま衰弱していく姉を見かね、兄は事の真相を突き止めようと、忙しい合間を縫って東奔西走していた。
 だが、絡まった何本かの細い糸を解しながらたどっていく作業は、思うほどスムーズにはいかない。当時高校生だった萩は、蓮からもたらされる芳しくない捜査結果を聞くのみで為すすべもなく、ずいぶん歯がゆい思いをしたものだった。
 そんな時だ。昔馴染である青柳伸悟が、絡まった糸を解す決定的な一手をもたらしたのは。
 ちょうどその頃、青柳伸悟はそれまで勤めていた小規模なアパレル会社を辞め、蓮と同じ会社『SIGMA SPORTS』に転職していた。そして『御蔵屋百貨店』銀座支店にテナントで入っている『SIGMA SPORTS銀座店』に配属されていたのだ。
 偶然にも、かの『御蔵屋百貨店』にて、とある一場面、、、、、、を目撃していた、青柳伸悟。
 そのことがきっかけで、伸悟は影の協力者となった。絶対に他者へ漏らすわけにはいかない水奈瀬家の秘密を彼にだけ明かしたのも、幼い頃からの付き合いである彼を全面的に信頼してのことだ。彼は事情を全て聞き取ったうえで、自ら “間諜” の役をかって出てくれた。
 蓮と萩が事の次第を全て知ることができたのは、転職したばかりの身にもかかわらず、彼が時間を割いて詳細を調べ上げてくれたおかげだ。
 水奈瀬家の問題に巻き込んでしまったことは悪いと思うが、彼は親身になって葵を心配し、躊躇することなく協力してくれた。そして何より箝口令を固く厳守してくれた。

 あれから四年経った今、青柳伸悟は『SIGMA SPORTS 銀座店』の店長に昇格しており、ますます複雑なネットワークの網を百貨店内に広げている。そこで知り得た些細な情報を、逃さず蓮に報告してくれるのだ。
 あの男が舞い戻ってくると、蓮や萩がいち早く知ることができたのも、青柳伸悟のおかげなのである。
 今日、何の偶然か、葵と伸悟が『アオヤギ・スイミング』で会ったという。ここ何年も久しく会っていなかったというのに、どうしてかこのタイミングで。伸悟なら何も悟られぬよう上手く振る舞えるとわかっていても、予期しない偶然に、腹立たしい予感ばかりが湧いて出る。

 ――葵は知らない。
 こうして伸悟が陰で動いてくれていること、そして蓮や萩がすべてを知っている、、、、、、、、、ということも。
 四年前、どんなに諭しても脅しても、葵は口を割らなかった。庇う価値もない “あの男” を庇ったのだ。
 あまりにも痛々しいその健気さに、蓮は葵への追及を諦めるしかなかった。葵に内緒で調べるしかなかったのだ。
 葵は怒るだろうか、それとも再び悲しみ傷つくだろうか……葵が必死に庇ったあの男の正体を、秘密裏に容赦なく暴きだしたことに。
 でも、そうする他、蓮と萩の怒りの行き場はなかった。
 日に日に細くなり、ボロボロと打ちひしがれていく葵を見るうち、兄も自分も、このまま泣き寝入りすることはどうにも我慢がならなかった。事の真相を何が何でも突き止めたかった。
 兄は当時、その心境をあまり多く語らなかったが、少なくとも萩は、相手の男を引きずり出しぶん殴った上で葵の前に土下座させたかったくらいだ。場合によっては警察に突き出し訴えてやりたいとさえ思っていた。
 ――なのに、結局、それは叶わなかった。

「萩ー、俺にもお湯割り」
 居間から兄が催促する。返事しないことで苛立ちをアピールし、わざと音を立てて新たなグラスを用意することで了解の意を伝えた。
 ガスコンロから噴き出る青い炎が薬缶を舐めるようにあぶっている。薬缶の側面からはみ出す強すぎる炎は、行き場のない怒りのように、荒れ狂い、踊り千切れる。

 苦心してたどり着いた元凶はすでに東京を去っていた。
 さらに、心身共に痛手を負った葵は不安定で脆弱な精神状態に陥っており、とてもじゃないが、あの男と対面させることができなかった。
 あの当時の葵をそばでつぶさに見ていた萩だからこそ、会わせるのはやめた方がいいという蓮の意見に、否と叫ぶことはできなかったのだ。
 結局、兄弟が出した最終的な結論は、このまま忌まわしいことすべてを封印して、時間による癒しを待つ……情けないことに、それがその時考えうる最上の策であった。

 あれから四年……長くじれったく、一進一退する姉の状態に何度も歯噛みしたが、それでも時の流れ、というのは有効だったと信じたい。
 壊れてしまいそうだった姉は、ようやく本来の姿に戻った。
 仕事は順調で遣り甲斐があるらしく、会えばいつだって笑顔だ。姉の言葉通り、毎日充実しているのだろう。
 だからこそ許せない。また戻ってきただと? どのツラ下げて? ……ふざけるな!と叫びたくもなる。
 とにかく、奴と関わるものすべてに葵を近づけたくない。
 今度こそ葵を、守ってやりたいのだ。

 とはいうものの、萩にも学校やバイトがあるため、四六時中姉と一緒にいるわけにもいかない。九つ上の兄も同様、いや、自分以上に時間の融通が利かないとなれば、万が一の場合はどうしようもない。
 せめて、葵がマンションに戻って来てくれれば、自分の目の届く範囲にいてくれれば、と思う。
 だからしつこいくらいに戻って来いと言ったが、仕事が大好きな姉は仕事場の近くから離れたくないと言う。これ以上言っても、本当の理由を話さない限り葵が帰ってくることはないだろう。
 ――大体、あの職種は拘束時間が長すぎんだよ。夜中二時帰宅ってなんだよ、飲み屋じゃあるまいし。
 心の中で喚き散らしてはみるが、直接仕事を辞めろと言えないのが辛いところだ。今の仕事のおかげで、姉は本来の明るく快活な姿を取り戻せたのだと、思うから。

 小さく、シュ、シュ、とコンロの上でヤカン口から蒸気が音を立てる。
 ダイニングテーブルにだるく寄りかかりながら、萩は虚ろに視線を彷徨わせた。こんな時、必ずと言っていいほど、周波が合致するように脳内へ差し込まれる映像――

『――……お願い……母さんには、言わないで……』

 嫌でも甦るあの時の壮絶な光景。
 このダイニングテーブルのすぐ下、今自分が立っているまさにこの場所だ。
 うずくまり額に脂汗を滲ませ痛さに顔を歪めて、それでも必死に訴え続ける姉の姿。
 弱く消え入りそうな声で、姉は、何度も何度もうわ言のように繰り返していた。母を悲しませたくない、母に余計な気苦労をかけたくない、その一心で。
 どんなに時が経っても、あの場面が萩の脳裏から消えることはない。
 自分がもっと早く気づいていたら……あんなことになるずいぶん前から、その片鱗を確かに目にしていたはずなのに、当時高校生だった萩はその重大さにこれっぽっちも気づかなかった。
 取り返しのつかない事態に陥り、ようやく事の重大さに気づいた時には既に遅く。
 その後、日に日に痩せ細っていく葵の姿を見ながらも、どうすることもできずただオロオロと見守るしかなかった自分。

 憎悪と悔恨――
 大きなわざわいを残したあの男に向かう心火のエネルギーは、同時にそれを傍観し見逃してしまった自分にも向かっている。
 そして、ふつふつと煮えたぎる怒りの中から、奇妙な螺旋を描いて立ち上っていく嫌な予感。

 ――絶対に来る……あの男は、必ず、葵に会うため、やってくる――

 こういう類の萩の予感はたいてい当たる。
 もし、自分の勘が当たっているのなら、その時は――、

 激しい音を立てながら、渦巻き噴き出し踊り狂う白い蒸気を、萩は鋭く睨みつける。

 ――……絶対に、容赦しない――




 
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