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第1部
諸岡良晃、両手を上げる
しおりを挟む「あー、お疲れさまです」
「おやおや、モロちゃん。何をしているのかなー、こんな所で」
諸岡がエレベーターホール脇の階段から降りようとしたところ、上から降りてきたのは珍しく疲れた様子ダダ漏れの杉浦崇宏。鞄を手にしているところから、もう帰宅するつもりらしい。
「経理に呼ばれたんですよ。うちのバイトの雇用契約書に不備があって。宇佐美さんに叱られました」
「ウサちゃん怒らすなんて、けしからんねー」
「杉さん、疲れてますね」
「さすがの杉さんも疲れてますよー」
軽い口調ながらもやっぱり気だるげな様子。ゆっくり連れ立って階段を降りながら、諸岡は隣の上司を窺い見た。
「そういえば麻布の黒河チーフ、『紫櫻庵』の料理長就任、承諾したそうですね」
「なーんでそんなこと知ってんのさー」
「まぁ、ちょっと」
諸岡はにこりと笑んで言葉を濁す。
黒河家の長男であり、現『櫻華亭』麻布店の料理長である黒河和史に “放浪癖” があることは社内の密かな、かつ有名な噂である。それが父親譲りの先天性なものであるということも。
そんな彼が、新事業店舗『紫櫻庵』の名誉ある料理長の座を固辞していたのは、この先さらに頑丈な鎖でクロカワフーズに縛られることを嫌ったのではないか、という噂もまことしやかに囁かれている。
だが、何がどう心境を変化させたのか、彼はようやく『紫櫻庵』という城郭に腰を据える決意を持ったらしい。上層部の安堵顔(一部は “忌み顔” だろうが)が知れるというものだ。
その功績は、おそらく今目の前にいるこの上司にあるのではないか、と諸岡は踏んでいた。
ぼんやり階段を降りる杉浦は「情報元は、エリちゃんかなー」と呆れたように笑う。
「まったくー、エリちゃんは『アーコレード』に入り浸りだねー。まーた今田一派に睨まれちゃうよー」
そう言うこの上司も、かの一派によく思われていない人物の一人だ。
「言わせておけばいいんですよ。矜持だけ高くて時代の流れについていけない古い人間は、そのうち嫌でも淘汰されますから」
「……モロちゃんって、性格と顔が合ってないよねー」
「よく言われます」
そんなやり取りをしつつ、階段を降りきったところで杉浦の携帯が着信を告げる。二回繰り返されたその着ボイスに、諸岡は遠慮なくプハッと吹き出した。
――それいけ菓子パン型ヒーロー、とどめの攻撃決めゼリフ。
肩を震わせる諸岡に、「これ聞かせると喜ぶんですー」と、杉浦はブスっくれて携帯電話を操作している。そう言えば、この人の愛娘はまだ小さかったっけ……。
笑いの余韻で息を吐きつつふと視線を転じれば、一階ロビーのソファベンチに座る、牧野女史と水奈瀬葵の姿が目に入った。二人して缶飲料片手に何やら楽しげな様子だ。おそらくこの後飲みに行くので、大久保や他のメンバーを待っているのだろう。諸岡も誘われているので行くつもりだ。
「杉さんも飲みに行きましょうよ。今日はもう終わりでしょう? 最近行ってないし久しぶりに」
「ヤダねー。俺は帰るよ」
その場に立ち止まったまま、かなり古い型の携帯を操作し続ける杉浦は、プンッと頭を斜め四十五度にひねった。……大人気ない。
「いいじゃないですか。何なら俺から奥さんに電話してあげましょうか?」
「なーんでキミがうちの奥さんに電話すんのー?」
「前に何回かかけましたよね? 俺のアパートに泊まりますからって証言させら――」
「あーはいはいそーでしたねそのせつはどーも。でも、今日は、帰る!」
ものすごい速さでメールを打ち終えたらしい杉浦は、携帯を内ポケットにしま……えなかった。
高らかに鳴り響く、某宇宙帝国の暗黒卿テーマ曲。これは諸岡も知っている。このベタな設定は、徳永GMか鶴岡マネージャーからの電話なのだ。
「イヤーな予感がする」と顔を顰めながら再び携帯画面に目を落とした杉浦は、渋々通話ボタンを押す。
「……はい、……まだいますけど? ……えー、マジですかー……はい……わかりましたよ……はーい、じゃ」
イヤーな予感とやらは的中したのだろう。杉浦は明らかにイヤそーな口調で手短に通話を終えた。
仮にも上司に対してあの口調……それが許されるのがこの杉浦という男。ただのチャラ男と思ったら大間違いなのだ。
「召集命令、ですか?」
「……アーンド待機命令。これからレセプション会場下見だってさー。『櫻華亭』連中が終わるまで待っとけ、だとー。あうぅ、帰れない……」
「ご愁傷さまです」
「モロちゃん……実の娘に人見知りされる父親の気持ち、君にはわかるまいさー……」
普段、どこか人を食ったような余裕しゃくしゃく杉浦の、何とも切ない親馬鹿ぶりに同情した諸岡は、缶コーヒーでもご馳走してあげることにした。
* * * * *
「聞きたいことがあるんですけど」
「俺は別に聞きたくないしー」
エントランスロビーの奥にある自販機コーナーで、男二人が可愛らしい丸テーブルを陣取る。
ガラス越し見る人気のないエントランスロビーには、牧野昭美と水奈瀬葵以外誰もいない。こちらからはよく見えるが、向こうは気づいていないのだろう。
この簡易休憩所は、自販機コーナーとその奥に仕切られた小さな喫煙室が設けられおり、自販機コーナー側の壁の一部がガラス張りになっている。よって、今杉浦と諸岡がいるテーブルから、正面玄関口とエレベーターホールが一望できるのだ。もし誰かがやってくればすぐに目に留まるし、逆に、玄関口とエレベーターホールを行き来する者には、その動線から外れているためこの中にいる人間に気づきにくいという利点もある。
今は、奥の喫煙所にも人がいない。つまりここは絶好の密談スペースなのだ。
「単刀直入に聞きます。……黒河マネージャーに何があったんです?」
「聞きたくないって言ったのにー」
「俺の死活問題なんですけど」
「アハハ、それは自業自得だよ、モロオカくん」
「その “自業” って何なんですか。なんで俺、睨まれたんですか」
「じゃれ合ってたくせにー」
「やっぱりアレですか! あんなの誰だってするでしょ? 杉さんだっていつもセクハラまがいのことしているじゃないですか」
「失礼だな、モロオカ氏。ボクはセクハラなんてしませんよ? すべて必要不可欠最重要必須事項であるところのいわゆる、コミュニケーション、です」
こみゅにけぇぃしょん、どぅゆあんだすたーん?と、軽く諸岡をイラッとさせて、杉浦は缶コーヒーのプルタブを開けた。
楽しそうにコーヒーを飲む上司に、諸岡は細目をつり上げ詰め寄る。
「あの二人……まさか」
「モロちゃん的に、どう思うー?」
「……いや、水奈瀬は…… “ない” 気がするんですけど……?」
「 “ナイ” よねー、あの子。うん、まだ、ナイねー」
「まだ……ですか?」
「希望的観測でねー」
「なるほど……」
ということは、もう一方は確実に “ある” ということだ。
ちょっと首を伸ばし、ガラス越しに見える件の彼女を諸岡は注意深く観察する。こちらの気も知らないで、ニコニコうんうんと牧野女史の話を聞いている水奈瀬葵。……無邪気すぎる。
諸岡は、はぁーと脱力するまま丸テーブルの上に突っ伏した。
「……マジで気づかなかった……」
「まぁねー、俺の超高感度アンテナを以てしても、受信できるシグナルは微々たるもんだからねー」
「いつから、なんですか?」
「さぁ、いつからでしょう」
「だって、あの二人、そんなに接点なかったですよね?」
「そうだっけねー」
「杉さん、こっちは真剣なんです。俺、黒河マネージャーを敵に回したくはありません」
「敵って大げさなー」
「杉さんくらいですよ、あの人からかって楽しめるのって」
「あはは、そーかもー」
「仕事上では最高の上司なんですけどね」
「おやおや、ホントー?」
「面白いくらいに仕事が進みます。あの人、処理能力半端ないので事務関係はホントに助かるんですよ。イベント企画もスムーズに進みますし」
「何それー。まるで今までのマネージャーがダメダメだったみたいじゃん」
「まぁ、そうですかね」
「ヒドイよモロちゃん!」
「とにかく。せめて何がどこまでどうなっているのか教えてください。今後の仕事に支障をきたさないためにも」
「アハハー、必死だねーモロちゃん。ま、気持ちはわかるけどねー」
細目を精いっぱい開いて真剣さをアピールする諸岡に笑いつつも、杉浦の顔に拒否の意はなく、どこか面白がっているような色をちらりと瞬かせた。
「俺も詳しいことは知らないよー? わかるのは……ごく最近、スイッチ入っちゃった、ってことかなー」
「スイッチ、ですか?」
「そう、彼のスイッチ。なーんかねー、バチンと入っちゃったみたいなんだよねー。とうとう、というか、ようやくというか……」
「抽象的すぎてわかりにくいです」
「ハハ、まーまー、そう急かすなってー。こないださー、慧徳でちょっとした騒動があったらしくてさー、妊婦の破水事件」
「妊婦……? 破水、事件?」
唐突に降って湧いた脈絡のない言葉をおうむ返しに問えば、杉浦はクックと笑う。
「お前さー、気づいてたでしょ? あの子のアキレス腱」
言われて、諸岡のシナプスが一挙に繋がる。
今まですっかり記憶のかなたに沈んでいたが、慧徳店オープンから約一年間、彼女と一緒に仕事をした中で確かに諸岡は発見していた。
――彼女に関するいくつかの “タブー・ワード” を。
三年前の四月、新入社員だと言って引き会わされた彼女は、まだ初々しさを全面に醸し出す “女の子” のニュアンスが勝っているような女性だった。
すらりとした体躯は少々細すぎるような気もしたが、姿勢よく凛とした雰囲気を持っていて、礼儀正しくはきはきとした喋り方も好ましい。
屈託のない笑顔と、快活でさっぱりした性格はスタッフにも客にも受けが良く、何よりも仕事に関して常に真摯に懸命で、オープニング当初の秩序に欠ける慌ただしさの中、ほどなく彼女は店のムードメーカーとなり、彼女を中心としたいい雰囲気が早々に出来上がっていった。
諸岡が、それに気づいたのは、オープンから数か月たった頃だったと思う。
まず、恋愛話は徹底的に避ける。自分の話のみならず、他人の恋愛においてもその口はぴったりとくっついてしまう。この年頃の女の子にしては変だな、と少々奇妙に感じたのが一つ。
そしてもう一つ。ある特定の客層が来店すると、その表情を不自然なほどに凍りつかせるのだ。それは――、
――妊婦、そして、乳幼児。
他のどんな客にだって――酔っ払いにだって、ホームレスにだって――変わらない笑顔で変わらない接客をするのに、年若い妊婦や乳幼児を含む家族連れが来店すると、彼女の顔は強張り、動きは途端にぎこちなくなる。
すぐに持ち直し何でもなかったように振る舞うので、客に対して不快感を与えたり、不審な顔をされたりすることはなかったと思う。が、いつでも屈託ない真っ直ぐな笑顔を向ける水奈瀬葵があんな表情をするのだから、諸岡の中で強く印象に残っているのだ。
しかし諸岡は直接そのことに関して、誰かの前で(もちろん本人の前でも)口にしたことはない。
大体、妊婦や乳幼児がそう頻繁に来店するわけもなく、彼女の不自然さを目にするのはごく稀であったし、諸岡自身も慧徳と恵比寿両店を行き来しなければならない大変な時期だったということもあって、そこまで首を突っ込む余裕はなかったのだ。
「で、水奈瀬は……大丈夫だったんですか?」
「んー、ダメだったみたい」
真っ青な顔してさー今にも卒倒しそうだったんだってー、と話す杉浦はいやに楽しげだ。諸岡は眉根を寄せる。
「笑い事じゃないですよ」
「ハハ、別に彼女を笑ったわけじゃないよ? 俺はね、そこに登場したヒーローくんに同情したのさ。どんな気持ちだったのかなーってね」
「ヒーロー、くん? まさか、黒河マネージャー」
「そ。たまたま慧徳に居合わせたみたいでさー。茫然とするアオイちゃんを一喝したらしいのさ。しっかりしろー!ってね。で、その時店内にいた客の手助けもあって、何とか破水した妊婦さんを病院へ送り出したんだってー。あ、その妊婦さん、シノちゃんのおねーさんだったみたい。覚えてる? シノちゃん。クマ顔の」
「ああ……篠崎、ですよね。池谷と仲良い、真面目な感じの」
「そーそー。それはいいとして、そのヒーローくんてば、その後、アオイちゃんに向って『今日は帰れ、そんな顔で接客するつもりか』って容赦なくバッサリ」
「うわ。酷いじゃないですか」
「荒療治過ぎるよねー。アオイちゃん帰した後のあいつの顔、見たかったなー」
ククク、と杉浦は一人悦に入って笑う。
「まぁ、赤ちゃんも無事に産まれたらしいし、アオイちゃんも次の日は普通に仕事してたらしいし? 大事にならなくてよかったよねー」
歌うように言って、杉浦は缶コーヒーをくいと煽る。
諸岡はそんな彼を、眇めた目つきで一瞥した。
「杉さん……何でそんなに詳しく、知ってるんですか?」
「ん? イケちゃんに聞いたのよ、メールで。あいつはその場にいなかったらしいから脚色されてるかもしんないけどねー。いやー、あいつと “メル友” になったの正解だったねー。頭の切れるやつは情報伝達力が高い」
あっけらかんとのたまう上司に、諸岡はまさか、と思う。
「杉さんって……もしかして、各店舗にその “メル友” を作ってませんか?」
「おや? 知らなかったのかねモロオカ氏。お宅のトッキーはボクの忠実なる “メル友ーズ” ですよ?」
やっぱり……諸岡はじっとりとした視線を杉浦に送る。
トッキーと呼ばれる鴇田という男は、恵比寿店オープン当初からいる役者志望のフリーターで、苦労しているせいかなかなかに世の中をわかっている青年だ。まさかこの上司のスパイだったとは。
この人の情報収集能力にはいつも感心していたが、何のことはない、あちこちに情報屋を仕込んでいたんじゃないか。この分じゃ自分もどう報告されているかわかったもんじゃない。
「いーじゃん、別にー。前担当者だった俺としては色々と気になるわけよ。ほら、アフターフォローってやつ?」
「はいはい、まぁいいですけど。それで? 突っぱねたのにスイッチONってどういうことなんですか?」
「それが黒河ユージって人間なのさー。いうなれば、黒河家のプロパティーだね」
「……ホントに抽象的すぎてわかりません」
「わからなくていいよ、諸岡氏。俺の楽しみが半減するじゃん。黒河兄弟の行動理論は俺の生涯研究テーマだからねー」
「……杉さん、そのうち誤解されますよ……ま、それは置いといてですね。じゃあ、さっさと二人がくっつけば俺は冤罪から放免されるわけですね」
「甘いなモロちゃん。あの二人に世間一般の “段階” や “速度” を求めちゃダメだよー。ユージも大概朴念仁だけどさー、アオイちゃんも、もーすこーし、時間かかるだろーなー」
「あの……杉さん……水奈瀬は、その……」
「ん? なに?」
「いえ、何でもないです……」
諸岡の良心が、つい問うてしまいそうになる下世話な好奇心を押しとどめた。
水奈瀬葵が、何故、妊婦や乳幼児に対して過剰な反応を示すのか、何故、頑なに恋愛話を避けようとするのか、諸岡はもちろん何も知らない。
しかし、発見したいくつかのキーワードを並べ、おおよその憶測を立てることはできる。さすがに口に出すことはしなかったが、卑俗な推し当てをしなかったといえば嘘になる。
たぶん、杉浦も同じような心持なのだろう。あえて知らないまま知らないふりをしているのだ。本来なら、知りたいことは狡猾なまでに手をまわしてとことん調べ上げる男なのである、杉浦崇宏という人間は。だが、可愛い部下の過去を興味本位で暴き立てるようなヒトデナシではない、と信じたい。
「……わかりました……いや、ちっともわかりませんけど。わからないなりに察するとすれば、つまりあの殺人ビームは “無意識の意識” ってとこなんですね?」
「モロちゃん、上手いこと言うねー!」
杉浦は缶を掲げてそのまま中身を煽る。諸岡は手の中のスチール缶に目を落とした。
いつからだったのだろう、今日までまったく気づかなかった……というより、考えもしなかった。
諸岡自身、他人様の(自分も含む)恋愛事情にあまり関心がなく、それ絡みの話には疎い自覚はあるが、あのサイボーグ人間に “恋情” という感情がある事自体驚きだ。そのお相手が、自分に一番近しい後輩だということも。
水奈瀬葵。確かに世の男がロックオンしたがりそうな女性ではある。
気立てはよく、見た目も癒し系の愛らしさがあるだろう。異性の好みは千差万別であるからして一概には言えないが、恋愛感情抜きにしても、彼女は人間的に不思議な魅了を持っていると思う。
“柔らかな引力” ……言い得て妙な表現をしたのは、隣にいるチャラけた上司であったか。
事実、自分も後輩として可愛がっているし、それ以上の感情を持って彼女を密かに狙っている男どもが、クロカワフーズ内でも何人かいるのは知っている。
それにそうだ、慧徳の店にも彼女に思いを寄せている男がいたんじゃないか? ……名前は何といったか、確かオープン当初からいる若いコックのアルバイトだった。
ただ、水奈瀬葵にはまるでその気がないようで、誰とも何の進展も見られず……というより、自分がそれだけ関心を持たれていることすら、まったく気づいていない。もしかしたら、秘められた彼女の過去が、恋愛モードへのシフトチェンジを阻害し続けているのかもしれない。
そこに、黒河侑司参戦なり、とくるか。
面白くなってきた……と思いたいところだが、誤認識されているらしい諸岡としては正直面白がっている場合ではない。
あれは……黒河侑司という男は、できれば敵に回したくない。
黒河侑司。老舗洋食屋『櫻華亭』の創業者である黒河一家の次男。父はクロカワフーズ現総料理長兼社長・黒河紀生、母は同社営業統括部長・黒河沙紀絵。
史上最年少で『櫻華亭』本店支配人就任し、そのわずか二年後にマネージャー昇格というこれまた異例の速さ。
その少し前に彼の兄・黒河和史が、厨房において史上最速の料理長就任を成し遂げたことも相まって、社内のほんの一部の間では、嫉妬交じりの批判的な噂が囁かれたらしい。――曰く、あまりにも人間味のない彼の硬質な雰囲気は接客業に向いていないと上から判断され、やむを得ず経営方面へ押しやられたのだ、云々。
しかし、彼が数々の改革を成し遂げ、誰の目にも明らかな賞賛に値する結果を叩き出したのは事実だ。続く不景気の煽りで一時期売り上げが低迷気味であった『櫻華亭』本店を、再び上昇気流に乗せたのだから、相当な胆力の持ち主なのは間違いないだろう。
一方で、使えない人間は容赦なく排除するという非情さも密かに伝わっている。本店支配人時代、彼の指示に従えない数人の従業員を一遍に辞めさせたというのは有名な話だ。当時入社後間もなかった諸岡も、明日は我が身か、と身を縮めたものだ。
そういう噂の影響もあってか、黒河侑司が『アーコレード』の担当マネージャーになる前までは、諸岡の中で、彼はあまり心証の良くない人間であった。何しろ、見た目からして冷徹で無機質、友好を結べそうな要素がひとかけらもない。
よって、『櫻華亭』至上主義――クロカワフーズの一部の人間が掲げる差別的な思考を、彼もまた支持する人間なのかと、勝手に思い込んでしまっていた。
「そう言えばモロちゃん、ユージのことを今田一派だと思ってたでしょ」
思考を読まれたかと思った諸岡は、内心ギクリと揺れる。
「ま、まぁ……あの人、ホテル店舗担当だったじゃないですか。同じ括りなのかなーと思っていただけですよ」
『櫻華亭』こそクロカワフーズの心髄であり、何をおいても優先優遇されるべき存在だ――という選民意識が強い一派は、クロカワフーズの問題児――否、問題爺――今田顧問を筆頭にした『櫻華亭』ホテル店舗(赤坂・日比谷・汐留)の連中たちだ。ほんの一握りの役職者らが、行き過ぎたエリート思考に染まっている。
そんな連中たちは、新参者の『アーコレード』や『プルナス』を認めていない。当然、そこで働くスタッフも同様に認めることはない。
入社してから研修も配属も『アーコレード』であった諸岡は、彼らから何度となく、高慢な態度や視線を向けられてきた。廉価で低級な新参者は、格式や伝統を重んじるクロカワフーズの面汚しとでも思っているのだろう。
それでも、何か直接的な害を被ったこともなかったし、他の『櫻華亭』メンバーは大御所チームも含めて、皆気さくで鷹揚な人が多かった。だからそういった蔑視も、さほど気にならずに済んでいた……のだが。
「ふふーん? それだけー? もっと他に思い当たる理由があるんじゃないのー?」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる杉浦を、糸目なりにギロリと睨む。
「わかっていたなら、何でもっと早く教えてくれなかったんですか」
特に自分と接点のない黒河侑司というサイボーグじみた上司が、ごく稀に、焼き切るような視線を投げかけてくる――その不可解な事実を、下層階級への蔑視だと思い込むのは当然の成り行きじゃないのか。そこに “恋情” が絡んでいるなど、誰が気づくというのか。
「仕方ないよー。このクロカワフーズの中で、アオイちゃんに一番近しい独身男は、モロちゃんなんだから」
「危うく男に生まれたことを後悔しそうになるじゃないですか。そんなフォローは要りませんよ。……あーあ、せっかく今、上手くいっているのに……」
若干の焦りと共に漏れ出た言葉を、チャラ上司は、あっはっはと大口で笑った。
「いかに今日まで、モロちゃんが緊張と警戒でピリッピリになっていたかがよくわかるねー。ユージのこと、最初は全く信用できなかったでしょ。モロちゃんて、自分に関係ないことはどうでもいいっていうドライちゃんだけど、自分のテリトリーを犯すやつには容赦ないモンねー」
さすが人間観察のスペシャリストを自称するだけある。図星を一突きされて我知らず顔が火照った。
「今は信頼してますよ。正直、偏見を持っていた自分を反省しています。黒河マネージャーはいい上司ですよ」
「なーんかソレ、やっぱりイイ気がしなーい」
口を尖らせてはいるものの、杉浦の口調はどこか嬉しそうだ。もしかしたら誤解されやすい不器用な後輩のことを、彼なりに案じているのかもしれない。
諸岡だって人を見る目は持っている。黒河侑司が誤解されやすいタイプだということも、敢えて彼が誤解を正そうとしていないことも、今ではきちんとわかっている。
四月の人事異動後、最初のうちは戦々恐々としていた諸岡だったが、何週間か経つにつれて抱いていた懸念が徐々に薄れていくのをはっきりと感じた。
黒河侑司は、理由なく部下を虐げるような暴君でもないし、『アーコレード』に対して侮蔑するような観念は、まったくと言っていいほど持ち合わせてもいなかった。
相変わらず無駄口を叩かない機械人間的な部分はあるが、それなりに会話する中で、意外に面倒見がいい義理固い人間であることを知った。客に接する姿勢は一貫して誠実であるし、店のスタッフに対する配慮や店長である諸岡の立場を蔑ろにしないフォローの仕方は、とてもやりやすい。
仕事に関してのストイックな厳格さはむしろ諸岡の望むところで、杉浦のやり方とはまた違うマネジメントの奥深さを目の当たりにできて、密かに憧れの念を抱いたほどだ。
――だからこそ、諸岡はすっかり油断していた。
危険信号はずっと赤色点滅していたのに、まるっと失念してしまっていたのだ……あの眼力に、途轍もない殺傷力があることを。
――違う、誤解だ、あんなのただのスキンシップだ、下心なんてこれっぽっちもないんだー……
そんな心の叫びを表に出したところで、あの殺人ビームを前にしてどんな効力があるのやら、だ。ひたすら己の軽率さを呪うしかない。
「大丈夫だってー。ユージはこの世で “公私混同” を最も嫌う人種なの。仕事に私情は挟まないよー」
あっけらかんとした杉浦の声が小憎らしい。諸岡は長く絞り出すように息を吐き出し、天井を仰いだ。
「……これって……、頭に銃を突きつけられた気分ですね。杉さん、交渉人請け負ってくれませんか」
「やだねー。俺だって死にたくないもーん。本人に言えばー? 両手上げてさー、 “ボク、敵、チガイマース” ってさー」
「それが言えれば苦労しませんよ! 言えないから杉さんに頼んでるんじゃないですか!」
「モロちゃん、へたれー」
「渋谷店と牧野さんの番号を一週間も着信拒否ったあなたに言われたくはありません」
「うぅ……それは言わない約束……あ、ほらほら、終わったらしいよー」
杉浦の声に、諸岡が首をひねってガラス窓の向こうを見やれば、ぞろぞろとエレベーターホールからやってくる『櫻華亭』メンバーの一団。その中には、今までネタになっていた黒河侑司の姿もある。
『アーコレード』担当のはずの彼は、途中抜けて『櫻華亭』の方に移動したのだ。
「ユージも大変だよねー。今田顧問、やりたい放題の癖に全くマネジメントできないらしくてさー、結局あいつが呼ばれちゃうの。鶴さんも『紫櫻庵』に足かけてるから今田顧問の尻ぬぐいしきれないんだよねー。ホテルの支配人連中、みーんな使えないしー」
杉浦が他人事のようにのんびりと言う。
「杉さんがちょっとフォローにまわってあげればいいんじゃないですか?」
「お前ねー、俺をショートさせる気ー? 俺が今どんだけタコ足配線状態か……」
「はいはい、タコなんですね」
「モロちゃん、やっぱり顔と性格合ってない」
「あ」
「ん?」
見るともなくガラス越しに玄関ホールを眺めていれば、颯爽と歩く黒河侑司に駆け寄る水奈瀬葵の姿。
心なしか、彼女の顔が赤く上気しているような……
「おんや~? どーしたのかなー、アオイちゃーん、ペコペコしちゃってー……なになに? 『すみません黒河さん、ワタシ、諸岡さんとは何でもないんです!』 『いや、俺も悪かったよ……つい、お前とあいつがじゃれ合ってるのを見て嫉妬してしまった……』 『そんな……あれは諸岡さんが無理矢理……』 『やっぱりそうか……あとでギリッギリに絞め上げておく』 『え! 乱暴はいけません! ワタシは、ワタシは……』 『水奈瀬……言わなくていい。お前の気持ちはちゃんとわかっている。悪いのは諸岡だ』 『黒河さん……ワタシは、アナタにドコまでもついていきます! キラキラキラーん!』……ってなとこじゃなーい? アハ、俺ってアフレコの才能あるかもー」
ご丁寧に声色まで変えて、遠目に映る二人の動きに勝手放題の台詞をつけて喜ぶ杉浦崇宏。
こういうところが、今一つ完全に尊敬しきれない理由の一つだ。
しかも、妙に合っているし……(マジ、ホントだったらどうしよう)
コーヒー缶を空き缶ボックスに投げ入れ、ナイッシュー!とガッツポーズする上司に、諸岡は、思わず縋るような目線を送ってしまった。
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