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第1部
衝撃!激突!レセプション(激突編)
しおりを挟むガシャンと空瓶のビールケースを重ね、葵は一息吐く。
今日のパーティーはリカーの種類が多いせいか、ビールの需要は少なめだと、バーカウンター担当の柏木支配人が言っていた。でも総量はそれなりに多い。
バーカウンター裏に戻り、集められた空瓶を手早くケースに収め、もう一度運ぶ。
ガシャンと上に重ね、また急いで戻る。
「あ! 葵ちゃん、それオレがやるよ? 葵ちゃんはこっちのワインボトルの仕分けを……」
「……小野寺さん、封を切ってないワインはそっちの木箱にまとめておいて、ってさっき柏木さんが。お願いしていいですか?」
「あ? あ、うん……って、ちょっ、葵ちゃ――」
「――小野寺君、出したワインの数ですが――」
柏木に呼ばれたらしい小野寺双子の片割れ(やはりどちらかわからず)は、それ以上葵を追うこともままならず、それ幸いと葵はまたビール瓶を片付け始める。
とにかく、身体を酷使していないと……指の震えが誤魔化せない。
あの後――
休憩に与えられた時間を、葵は昼食も食べずに、一人女子トイレに籠っていた。
何とか動揺を鎮め、時間に気づき、慌てて持ち場に戻ったのは休憩時間二分オーバー。
よっぽど蒼白な顔でもしていたのか、遅くなってしまったことを謝る葵に、諸岡が「ちゃんと食べてきた?」と心配そうに問うてきたが、柏木に促されてすぐに休憩へ出ることとなり、怪訝な顔をしつつもそれ以上尋ねることはしなかった。
幸いなことに、パーティーは最後の挨拶に入ろうとする段階で、裏では慌ただしく片付け作業が始まっていた。強張った表情が解けない葵に誰も気づかない。
仕事に戻った葵は、黙々と身体を動かした。
「お、大丈夫かい?」
すれ違った松濤店の仙田支配人が声をかけてくれたが、葵は何とか笑顔を作ってやり過ごす。引きつった顔は、重いビールケースを持っているせいだと思って欲しい。
会場裏の廊下や控室は、空いた皿やグラスを下げてくる者、ビュッフェ用の大皿を何枚も重ねて持ってくる者、保温ポットを両手にいくつも持っている者など、スタッフが入り乱れてごった返している。
ぶつからないように、かつ足早に人々の間をすり抜けて、葵は機材置場の端にもう一度、耳障りな音を立ててビールケースを重ね置いた。
ケースの重さで、両の手のひらは赤くなってじんじんと痺れている。
――震えは、ない。
大丈夫だ……
そう、大丈夫。……見間違い、だったかもしれない。
今更だが、葵はそう思い込もうとしていた。
カフェ内は広くてかなり距離が離れていた……似ている人、だったのかもしれない……あの人は、東京にいない……もう、会うはず、ない……
ギュッと両の拳を握り込んで、葵は顔を上げた。
――早く、戻らなきゃ。
葵はくるりと振り返って―― 「――水奈瀬っ!」
「……きゃっ……!」
「っわっ……!」
衝撃に弾き飛ばされ物凄い音が響き渡り、葵は何が何だかわからないまま、床にひっくり返っていた。
「――大丈夫かっ! 水奈瀬!」
「……え……あ、黒河さん……?」
茫然と見上げる葵を、侑司が険しい表情で見下ろしている。
「……い……って……」
葵と同じく床に尻をついた、黒のショップコート姿の若い青年が呻きながら身を起こした。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
「あ……はい、僕は大丈夫です……すみませ……っあぁ!」
その男性が、床上にひっくり返っている葵に目を止めると、悲壮な顔で葵に近寄る。
「も、申し訳ないです……っ……かかってしまって……」
「え……? あ……」
葵が自分の姿を見下ろすと、無残にもベストやシャツがびっしょりだ……しかも、熱い……?
――と、自身の皮膚感覚を認識した瞬間、グイッと強い力で引っ張り上げられて、葵は手首を大きな手で掴まれたまま、ずんずんと引っ張られていった。
「ちょ……っと……く、黒河さん……?」
見上げた侑司の横顔は、物凄く険しくて、怖い。
慄きながら、引きずられるままに裏廊下の突き当たりにある、給湯室に押し込まれた。
そして真っ直ぐシンクに向い、葵の左腕をそこだけ優しい力で引いて、侑司は思い切り蛇口をひねった。
「……っ!」
シャツの上から容赦なく冷たい水を浴びせられて、葵の身体はビクンと跳ね上る。
「あ……悪い、痛むか……?」
水量を加減しながら、侑司は気遣わしげに葵を覗き込んだ。思わぬその近さに心臓が飛び上がりそうになる。
「あ、あのっ……だっ、大丈夫です、大したことないです……」
「すまない……気づいていながら、間に合わなかった……」
そう言われて、葵は薄らと思い出す。
確かぶつかる寸前、「水奈瀬!」という切羽詰まったような声が聞こえたっけ……
「こっちは……かぶらなかったか?」
侑司は葵の左腕を支え持ったまま、右半身をチェックし始めた。
濡れていないか確かめているのだろう……大きな手で、葵の右腕を優しく撫ぜるように触っていく。
「左側、だけみたいだな……」
低い声が、葵の耳元にダイレクトに響いた。
「い、いえ……本当に、大丈夫です……そんなに、熱くなかった、ような……」
ぶつかった青年はチューフィングを何台か重ねて持っていたようだった。二層になっているそれは、上段に料理、下段にお湯を張って、下から固形燃料で温める様式のビュッフェ器材である。だが、幸いなことに彼が片付けようとしていたのは料理が空だったようで、下段のお湯だけがぶつかった拍子に飛び出したらしい。
衝突した驚きの方が大きくて感覚が麻痺していたのか、ようやく今頃、左腕がジンジンとした感覚を放っている。だが、それよりも正直、尻と向こう脛の方が痛い。
転がった時に尻を打ったのだろうが、向こう脛の痛みが解せない。あの角型チューフィングがぶつかったのか。
「……赤いな……」
侑司が眉根を寄せた険しい顔のまま、葵の左手を取る。
大きな手が、葵の手を包み込むように、そっと持ち上げた。
シャツの袖口から覗く手の甲が少し赤くなっていたが、葵はむしろ自分の顔の方が心配だった。熱く火照って、この手よりも真っ赤になっているに違いない。
――……なんか、今度は心臓が痛くなってきた……
「く、黒河さん……濡れちゃってますよ……」
支え支えられ寄りそった長さの違う二本の腕は、止めどない流水を容赦なく受け止めている。侑司のワイシャツも、前腕辺りまで濡れてしまっていた。
「水奈瀬、着替えは? この格好で来たのか?」
「いいえまさか! ちゃんとこっちで着替えました」
「そうか……なら、着替えた方がいいな。病院へ連れて行く」
「えぇっ? 病院っ? い、行かないですっ! 大丈夫です! も、もう仕事に戻りますっ!」
「何言ってるんだ! 軽く見えても火傷は痕が残るんだ! ちゃんと処置しておかないと――」
「そんな、大げさです! 直接かぶったわけじゃないし、沸騰したてのお湯でもありません! ホントにそれほど痛くないんです! もう大丈夫です!」
「嘘をつくな! つい五分ほど前まで火が点いていた角台なんだ! そこに張っていたお湯をかぶったんだぞ! 痛くないわけないだろ!」
「い、痛くないわけ、ないわけ、ないんですっ! じゃあ、見てください! たいして何とも――」
「バカ! やめろ!」
患部を見せようと、濡れたシャツを無理矢理まくりあげようとする葵を、侑司が焦ったように押しとどめる。衣服の上から火傷をした場合、無理に衣服を脱がせてはならないことくらい、葵も知ってはいたが、この際そんなことは頭から吹き飛んでいた。
「ちょ……っとっ……離して下さいっ!」
「いい加減にしろ! その手を離せ!」
「――あの」
不意に割り込んだ物静かなひと声に、葵と侑司は、揉み合ったまま同時に振りかえる。
給湯室の入り口に、困惑気な表情をした柏木が立っていた。
「衝突事故が起こったと聞きまして。水奈瀬さんは……無事ですか?」
「あ、はい! 大丈夫です! お騒がせしてしまって申し訳ありません! 今すぐ戻ります!」
「駄目だ。――柏木、水奈瀬を病院へ連れていく。バーカンは大丈夫か?」
「……ちょっとっ、黒河さん! 私、病院へは行きません! 離して下さい!」
「はい、もうあらかた引き上げているので、あとはゲストがはけた後の大台やパテーションの撤収だけです」
「そうか……悪いが牧野さんを呼んできてくれるか? たぶん二番台の裏にいる」
「わかりました」
「黒河さんっ! 離……して、くだ、さいっ!」
「あと、穂積さんに下げ場から一人抜けると伝えておいてくれ。あそこは人数がいるから問題はないだろうが」
「柏木さんっ! 私、戻ります!」
「了解です。もし回らないようなら自分が入ります」
「ああ、悪いな。頼む」
「待って下さい! 柏木さ……ん――っ!」
もがもがと必死に身をよじり拘束を解こうとするが、鋼の体躯の持ち主はびくともしない。葵の叫びは無情にも届かず、柏木は給湯室をひらりと出ていってしまった。
「……ホントに……大丈夫、なんです……」
葵は何だか泣きたくなってきた。
自分の痛みなどどうにでもなるのだ。痕が残ったって構わない。でも、自分の不注意が引き起こしたことで、こうして周りの皆に迷惑をかけることはこの上なく我慢ならない。
それに……どうしても、病院は……病院だけは、行きたくないのだ……
「水奈、瀬……?」
不意に俯いて大人しく静かになった葵を、侑司が身をかがめて覗き込む。
す、と葵の前髪に侑司の指が入り、さら、とかき分けた……
「――葵ちゃんっ! 大丈夫っ? ……あら」
ダダダッ!とパンプスにあるまじき靴音をさせて駆けこんできた牧野昭美は、給湯室に入るや否や豆鉄砲を食らった鳩のような顔になる。
「牧野さん……」
力なく顔を上げた葵に、牧野はハッと我に返ったように走り寄ってきた。
「葵ちゃん! 大丈夫なの? 大火傷で重傷だなんて言うからビックリしちゃった! ちゃんと冷やした? ……あらやだ、びっしょりじゃない! あー……だいぶ赤いわね……腕だけなの? 顔は? 首とかこの辺は……無事みたいね……よかった」
さりげなく侑司を押しのけ、牧野は葵の顔を両手で挿み込み、右、左とクイクイ動かす。葵はされるがまま、人形になった気分だ。
「……牧野さん、水奈瀬を控室に連れて行って着替えさせてもらえますか? 俺、車のキーを取ってきますから」
「OK、任せなさい。あ、杉さんには言っといた方がいいよー。俺の侑司がいない!ってまた騒ぎ出すから」
「知りませんよ……あ、牧野さん……」
侑司は牧野を引っ張って葵に背を向けた。ボソボソと何かを言っているが、葵には聞こえない。
そうして、物問いたげな葵と意味深な笑顔を浮かべる牧野を置いて、侑司は足早に給湯室を出ていった。
「さ、葵ちゃん、着替えた方がいいわね……と、その前に、ちょっと見せてね……」
唐突に、牧野は葵の着ているベストのボタンを素早く外していく。さらになんと、シャツのボタンも外し始めた。
「……えっ……ま、牧野さんっ……?」
「ごめんね、ちょっと動かないで……ああ、下にキャミソール着てたのね。よいしょ……んー大丈夫みたいね……よかったわ……うふふ、葵ちゃん、肌真っ白ね」
「ひぁっ……牧野さんっ?」
スリッと人差し指で葵の脇腹を撫でた牧野女史は、にんまりと笑う。
「ごめんごめん、あんまり綺麗な肌だから、つい。でも安心したわ。身体の方はベストを着てたから守れたのね。黒河くん、身体にもかかったんじゃないかって心配してたから」
「へ……? 黒河さんが?」
「そ。あの黒河さんが。さあ、着替えに行きましょ! 風邪ひいちゃうわ。あ、その前にボタン止めなきゃ」
ベストとシャツのボタンを全開して、キャミソールを半分捲りあげている自分のあられもないいで立ちに気づき、葵は慌てて着衣をかき合わせた。
結局、葵はすぐに帰宅することとなった。ごく軽度の火傷とはいえ、肘下から手の甲にかけて赤くなっているのは事実で、しかも制服もびっしょり濡れてしまったことから、今更仕事に戻ることは許されなかった。
葵が着替えている間に、牧野女史が氷やタオルなどを細々と用意し、簡単な応急処置を施してくれた。
「水膨れも皮膚損傷もないし、さっきよりだいぶ赤味は引いたわね……たぶん病院へ行かなくても大丈夫だと思うけど……もうちょっと冷やしておこっか。これ、タオルで包んであるけど、直接腕に当てない方がいいかも。腕にも軽く何か巻いておこうかな」
「すみません……ありがとうございます……あの、牧野さん……さっきぶつかった時、すごい音がしたと思うんです。会場の方まで響いたんじゃないでしょうか……」
「ああ、たぶん大丈夫。ちょうどいいタイミングで “黒河和史料理長” の挨拶が終わった時だったみたい。拍手喝采で音が紛れたのね。私も柏木くんに聞くまでまったく知らなかったもの」
「そうですか……」
「あ、大久保も心配してたわよ。あの子今、クローク入ってるから抜け出せないのよね。お大事にって言ってた」
「ありがとうございます……何から何まで……牧野さん、ごめんなさい」
「いいってば! ……世にも珍しい貴重なもの見れたしね。……え? ううん、何でもないの。こっちの話。うふふ」
そんなやり取りの中、何人もの人が控室に足を運んでくれた。同じセクションに入っていた諸岡や小野寺双子も心配そうな顔を見せたし、柏木支配人や穂積支配人も代わる代わる様子を見に来てくれた。
ぶつかった相手の『紫櫻庵』の男性スタッフも謝りに来てくれて、その時はお互いにペコペコ頭を下げ合った。ちなみに彼は、葵と同じく尻をしたたかに打っただけで他に被害はないという。それには葵もほっとした。
そして何と杉浦まで「アオイちゃあぁんっ! 火傷したってぇっ?」と叫びながら駆けこんで来た。すぐに、鶴岡マネージャーに首根っこを引きずられながら戻っていったが。
皆が口々に、「大したことなくてよかった」「後は気にせず早く帰んな」と言ってくれたのが、葵にとって救いだった。
その後、葵の元へ戻ってきた侑司は気遣うように「本当に病院へ行かなくてもいいのか?」と尋ねてきたが、「大丈夫です」と言い張る葵に、少し眉根を寄せたものの「わかった」と頷いてくれた。危険な薄氷の上から安全地帯に引き戻された気分であった。
ただ、家まで送るという有無を言わせない声音の侑司には、逆らうことができなかった。
そうして、何故か妙にご機嫌な牧野女史に見送られ、葵は侑司とともに『フィーデール・インターナショナル・ホール』の地下駐車場へ向かったのだった。
* * * * *
雨は昼間より一層激しくなり、今や土砂降りであった。グレーメタリックのSUVは大きくワイパーを振りながら走行していく。
以前乗った時のままの、飾り気のないハイグレードな内装とミント系の仄かな香り。
それでも前回とは打って変わって、助手席に座る葵の面持ちは暗い。病院行きは辛うじて免れたものの、心中に巣食う不安と奇妙な胸騒ぎが治まらない。
静かな沈黙の車内は、激しい雨の音に完全包囲されている。腕に当てているタオルに包んだビニール入りの氷が、それに抵抗するかのように、くぐもった微かな音を立てた。
「……何か、あったのか?」
「え……?」
赤信号で停止中、侑司の視線が助手席の葵に向いた。悪天候のせいか、道は混んでいて信号ごとに引っかかる気がする。
「顔色がよくない。……具合、悪かったのか?」
「い、いえ、そんなことは、ないです」
「……そうか。……寒くないか?」
侑司の長い指先が、エアコンのパネルスイッチを操作する。静かな車内はBGMさえかかっておらず、外の雨音が妙に耳についた。
ワイパーに消されてはまた生まれるフロントガラス上の無数の水滴が、それぞれ不屈の意志を持っているように見えた。隠しても押し込んでも再び顔を出す、過去の亡霊のように。
――もう二度と会わないだろう、と思っていた、かの人。
それでも葵には、また蓋をして隠して奥深い場所に押し込むしか、出来得る手立てがない。
人違いだと思う……似ていただけだ……もし仮に本人だったとしても、もう葵には関係のない人だ……大丈夫大丈夫、大丈夫……
「……ぶわっ……!」
突然バサッと、葵の顔面に何かが被さる。
「着てろ。一応そっち側の温度は上げているが、完全にエアコン切ってしまうと曇るんだよ。悪いな」
「あ、ありがとう、ございます……」
ほんのりと温かい、彼が脱いだばかりの黒いスーツジャケット。
葵は薄手の七分袖ブラウスだけで上着は持ってきておらず、しかも氷で腕を冷やしていたせいもあってか、正直鳥肌になっていた。
当てていた氷を外し、スーツジャケットで身をくるむ。
シワにならないように、そっと、前から、袖を通さずに。
侑司の体温が残る大きなジャケットにくるまれて、葵は静かに目を閉じる。伝わる温かさが、不安や胸騒ぎで渦巻く闇色の霧を、少しだけ薄めてくれるような気がした。
――信号が青に変わる。
雨の中を滑るように、車体はゆっくりと発進した。
* * * * *
雨煙に光るグレーメタリックのSUVが、慧徳学園前の住宅街の小路を分け行って、葵のアパートがある区画に近づいた。
結局、帰ってくるのに一時間近くかかってしまった。
時刻は夕方……いくら日が長いこの時期とは言え、こうも雨が降れば外は薄暗い。
アパートへの小路に入り、この辺でいいです、と言おうとした葵は、フロントガラス越しに見えた光景に「あ」と固まった。
薄暗がりの中にSUVのライトで浮かび上がった白いステーションワゴン。
無駄に長い(と葵は思っている)車体のシルエットが、アパート下の駐車場に、窮屈そうに停められている。
「蓮兄……」
呟いた葵の視線をたどって、侑司も前方を見やる。
向こうもこちらに気づいたのだろう……運転席側のドアが開き、大きな黒い傘が開いて、長身の男が出てきた。
「水奈瀬、蓮……」
無表情に前を見据える黒河侑司は、低い声でその名を発した。
「――葵、今日は休みじゃなかったのか?」
激しさを増した土砂降りの中、葵がSUVから降りて、雨靄の中に佇む兄の傍に駆け寄ると、黒傘の下から向けられる訝しげな視線。
「ううん、今日はレセプションパーティーのヘルプがあって……」
説明する葵の、傘を持つ左腕が布に包まれているのに目を止めた蓮は、さらにその表情を険しくする。
その時、傘を打つ雨音の中に、ざり、と砂利を踏む足音が聞こえ、葵の背後から傘を差した侑司が静かに前へ進み出てきた。
「……上司の黒河です。今日、私の不手際で妹さんに火傷を負わせてしまいました。申し訳ありません」
低くもよく通る声音で、静かに頭を下げる侑司に葵はぎょっとし、慌てて否定した。
「違います! 私の不注意でぶつかったんです! 蓮兄、違うの! 黒河さんはまったく関係なくて、でも応急処置とかしてくれて、それで、ここまで送ってくれたの!」
下げた頭をゆっくり上げた上司、それを黙ったまま見据える兄。
葵の声はまったく届いていないかのように、二人の男が対峙する。
じっと澱みなく黒河侑司を見据えていた兄の眼差しが、ふと葵に向けられた。
「――葵、お前……先に中へ入ってろ」
「え?」
「いいから。入ってろ」
――その一瞬、パッと閃めいた稲妻に、周囲は青白く浮かび上がる。
ざあざあと激しい雨音の中、次いで、ゴロゴロと唸るような雷鳴が遠くから聞こえた。
不安に駆られて兄と侑司を交互に見上げれば、兄は再び視線を真っ直ぐ侑司へと向け、それを受けつつ今度は侑司がその視線を葵に向けた。
「……水奈瀬。明日まだ痛むようなら病院へ行った方がいい」
「黒河さん……」
「今日は早く休め」
まるで、大丈夫だ、とでも言うように、侑司は僅かに微笑んだ。
葵は「……はい」と頷くしかない。
再度、侑司にお礼を言って頭を下げると、葵はちらと兄を見やり、そのままアパートへの階段を上った。
二階の自宅玄関前、気になり階下を振り返る。
アパート下に並ぶ、似たような二つの黒い傘。
――そしてまた、青白い閃光が瞬いた。
応援ありがとうございます!
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