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松穂

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第1部

杉浦崇宏の華麗なるアシスト

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 ――うぅー……疲れた……もう、無理…… 
 杉浦崇宏はふらふらとエレベーターを降り、営業事業部室までの薄暗い廊下を進む。
 足の裏もふくらはぎも、腰までもが痛い。中途半端に入れたアルコールが、さらに気怠さを増長させている。
 認めたくはないが、もう若さだけでは突っ走れない、ということだ。……くそぅ。
 しかも、タクシーから降りてほんの少しの距離を歩いただけなのに、降りやまない雨のせいでスーツの裾はじっとり湿ってしまって、不快なことこの上ない。
 ……もう散々だ。

 ――『紫櫻庵』開店レセプションパーティー、無事閉幕。
 指揮官を任された自分が言うのもなんだが、今日はまずまずの出来具合だったのではないだろうか。
 あいにくだった天気にもさほど影響を受けた様子はなく、ゲストの入りは上々だった。
 寄せ集めた当初はどうなることやら、であった『紫櫻庵』正式スタッフは、事前の研修が上手くいったと見えて、予想以上にいい動きを見せてくれた。さらに、各店舗のヘルプも陰ながら尽力してくれて、開場から最後のゲストがはけるまで、理想的な見せ方、、、ができたと思う。

 一方料理についても、伝統と郷愁をベースとした洋風テイストに、絶妙な加減で斬新さと意外性を盛り込み、作り手の “手” を存分に込められた仕上がりになっていた。今日のゲストが老齢から若者に至るまで幅広い年齢層だったにもかかわらず、感嘆の声があちこちから上がったのは、 “黒河” の名がなくとも必至であっただろう。
 一部の批判の声―― “洋風割烹” などという訳のわからないコンセプトを、『櫻華亭』レベルの客層に受け入れられるのか、云々――は、開会ギリギリまで囁かれていたようだが、それもすべて杞憂に終わったといってもいい。
 ――黒河和史、重責全う、である。

 本日、拍手喝采大絶賛をその身に浴びた、新生『紫櫻庵』の料理長黒河和史。
 料理長就任の件においてひと悶着はあったが、当面しばらくは腰を据えて『紫櫻庵』のために腕を振るうと約束させた。それがパーティー開幕わずか二週間前。……マジで危ういところだった。
 結局、和史を説得しえたのは、彼の婚約者の宇佐美奈々である。二人がどんな話をしたのか杉浦にはわからないが、まったく神様仏様宇佐美様、なのだ。
 しかし、彼女に助力を求めるその一方で、対外的フォローを万全に整え、方々に八方美人を振り撒きまくった自分だってよく頑張ったのだ。総責任者としての責務は果たせたであろうと自負している。……グッジョブ俺。

 腹をくくった今日の和史は、神憑かみがかったように腕をふるい、一種のトランス状態だったらしい。
 だからこその、あの芸術的ノスタルジア感溢れる傑作料理の数々……あいつにとってあれは、ここまでやってきた集大成なのかもしれないな……と、若干ほろ苦い思いもある。
 黒河和史の中に渦巻く数多くの葛藤は、未だぐるぐると絡みついたままのようだが、杉浦にしてみればそんなのクソくらえといったところだ。
 結果良ければすべて良し……古人はいい言葉を残してくれた。

 ――ということで、ファーストステージ無事クリア! 今日は速攻帰ってゆっくり食事して思う存分愛娘と遊んで愛妻とラブラブして、しこたま寝てやる!
 ……と、思っていたのだが。そうは問屋が卸さなかった。
 午後五時前には解散となり、嬉々として帰り支度を済ませた杉浦に、鬼の声がかかる。
「飲みに行くぞ、お前も来い」
 レセプション成功に気を良くした徳永・鶴岡両氏の勅命、、だ。
 ――正気か、このオッサンたち……
 杉浦の記憶が正しければ、昨夜から一睡もしていないはずだ……自分も、そしてこのオッサンたちも、だ。
 大体、何故どいつもこいつも同じようなセリフで、既に決定事項のように同行命令を下すのか。
 “俺はお前らの肴じゃなーーーいっ!” と、声にならない声で何度叫んだことか。
 しかし、心中舌打ち悪態をつきつつも、ノーとは言えない中間管理職杉浦崇宏三十五歳。
 結局、『フィーデール・インターナショナル・ホール』からタクシーに乗って、土砂降り雨の中、新橋駅高架下まで繰り出したのだから、杉浦はもう疲労度二倍である。どうせなら、隣にある『ホテルシングラー・インターナショナル汐留』最上階のスカイラウンジバーとかに行きたかったぜ……。
 それでもこれでも、上司二人の機嫌を損ねることなく、何とか一杯だけに止めてするりと逃げ出してきたのだ。

 では何故、首尾よく逃げ出したにもかかわらず、ここクロカワフーズ本社にいるかというと、これまたあのオッサン二人のイカれた戯言のせいだ。
 上機嫌で杯を重ねていく徳永・鶴岡両氏は、恐ろしいことに「明日朝一でもう一度打ち合わせするか」などとのたまうではないか。
 適当に相槌を打ちながら二人の話を聞き流していた杉浦は、その瞬間、心の底から我が身の危機を感じた。
 ――明日一日は完全オフだと信じたからこそ、前夜一睡もせず頑張ったんだ! 底なしのバイタリティを持つあんたたちと一緒にしないでくれっ!
 心の中の雄叫びは、まだ死にたくないっ!と同義であった。


 疲労しきった身体を引きずりながら、誰もいない本社ビルの中をのろのろ歩く。
 ――全くこの会社ときたら、どんだけタフなやつが多いんだ? Tボーグか? あのオッサンたちもTのつくサイボーグなのか? 人間の皮を被った恐るべき機械人間め……

 とりあえず、企画運営書と報告書……これさえ出しときゃ、杉浦がいなくとも勝手に打ち合わせなり反省会なりできるはず。いや、やってくれ。
 要領のいい杉浦は、パーティーの準備中だけでなく開会してからも、こまめにメモをとって問題点から改善策まですべて書き込んである。
 あとはちょちょいっと見やすくまとめるだけだ。そんなの十五分で終わらせてやる。
 そしてファイルごと徳永のデスクに置いて、携帯の電源を切り速攻帰宅。
 明日はどんなことがあっても、昼過ぎまで寝てやる!……その決意だけで、杉浦はわざわざ本社ビルに寄ったのだ。

 あうぅ~、と爺むさく呻きながら、杉浦は営業事業部室のドアを開けて入り口の照明スイッチを入れた。
 眩しさにもう一度、ぅう~と低く唸りつつ室内に顔を向ければ――、
「――っ! ……び、っくりした……何だよ、侑司……電気くらい点けろよ……」
 誰もいないと思いきや、右端のデスクに愛すべき後輩が座っているではないか。
 杉浦は、はぁ~と脱力する。一瞬、極度の疲労が見せる幻覚かと思った。
「何、お前帰ったんじゃなかったのー? だったら呼べばよかったー。あのオッサンたちから逃げるの苦労したぜー。お前がいたら生け贄になってもらえたのにー」
 杉浦は侑司の隣にある自分のデスクに行き、バサバサと書類を取り出す。
 マネージャーは特定の店舗に常勤する訳ではないので、担当店舗に自分のデスクはない。その代わり、この本社ビルにある営業事業部室に各マネージャー専用のデスクがあるのだ。
 外回りが多いマネージャー陣にとって、ここは拠点となる陣地でありピットイン場でもあるのだが、杉浦にとっては単なる資料置き場、という認識が大きく、年々増えていく書類やファイルを保存しておくには不可欠な場所である。
 接客業という、デスクワークとは無縁の仕事を選んだはずなのに、何故こうして事あるごとに書かせたり打たせたりするのかね……と、毎度毎度うんざりだ。

「あー、そーいえば、アオイちゃん大丈夫だった? 火傷なんて言うからビックリしたよー。病院行きたくないってダダこねたんだって? 相変わらずの病院嫌いだねーあの子は。労災下りるのにさー。あ、お前、また仏頂面で送ったんじゃないのー? アオイちゃんてば結構気にしやさんなんだから、優し~く接してあげないと……って、……どしたのさ?」

 全く杉浦の軽口が耳に入っていない様子の侑司に気づき、思わず伸び上がって覗いてみれば、スクリーンセーバー状態のパソコン画面をじっと無表情に見つめている。
「ん? 何、それ」
 腕を伸ばし、侑司の手にあるものをヒョイと取り上げる。すると、はっと我に返った彼が素早くそれを奪い取っていった。
 ――ふぅん……名刺、ね。
 憮然とした表情で座り直した侑司を見やり、杉浦はニヤリする。

「水奈瀬蓮……って、アオイちゃんのお兄さまだよねー? もーしかして、送っていった先でご対面しちゃった? 俺も二回ほど会ったことがあるけど、なかなかいい男だよねー。いかにも仕事できます、みたいな雰囲気でさー。ああ、目元がアオイちゃんに似てるかなー。あんな兄貴がいたら、アオイちゃんの男見る目も厳しくなるよねー?」
 ペラペラ口を動かしながら、杉浦は隣から放出される不穏な空気を感じ取る。侑司の背後からユラユラと真っ黒い炎が立ち上っていくのが見えた……気がした。
 ……オッソロシイ……何だよ、超ご機嫌ナナメじゃん。
 疲れた身体に応える、禍々しいほどの黒いオーラ。
 まったく勘弁してほしい……何があったか知らないけど、俺はものすごーく疲れてんだよ……
 内心溜息をついた杉浦だが、すぐに「あ」と、その動きを止めた。侑司に話しておかなきゃなーと脳内メモに書き記した、とある一件を思い出したのだ。
 うう……早く帰りたいのに……という思いと、話すのは今このタイミングがベスト、と告げる持ち前の勘。
 どちらにしろ、あとあと侑司に電話してやろうと思っていた。今ここでさらっと話してしまった方が、より高い枕で眠れるというものか。

「そーいえば、撤収後に鶴さんと最終確認してる時さー、へーんな男、見かけたんだよねー」
「……?」
 ピンと張りつめた気配が消えて、侑司は怪訝そうな瞳をこちらに向けた。
「挙動不審っつーの? スーツ着た若ーい男。会場の入り口辺りをウロウロしてたからさ、こんな奴ゲストにいなかったよねーと思いつつ、声かけたんだよねー。したら、『失礼ですが、こちらの会社にみな、、……』って言い掛けてさ」
 途端に、眼前の男の片眉がピクリと上がる。
 その小さな反応に、杉浦のツボはキュウゥッと快感を覚えたが、ここはポーカーフェイスでいるべきだと、丹田に力を込める。

「でも、ちょうどそのタイミングで、そいつの同僚らしき連れが呼びに来てさー、『あ、やっぱりいいです、すみません』って、そのまま行っちゃったんだけどねー。なんかへーんな感じがするんだよねー。そいつの言いかけた『みな』って言うのが気になってさー。それって、もしかしたら『水奈瀬』って言いかけたのかなー……なんて」
「……それ、どんな奴ですか?」
 ――お、食いついた。

「どんな奴って言われてもなー……若い、二十代後半のサラリーマンってとこ? 連れの方はもうちょっといってたかな。……ああ、若い方はたぶんいいとこの坊っちゃんだねー。育ちの良さと品がうかがえる爽やか青年って感じ? あ、そーだ。あれ、『御蔵屋百貨店』の関係者かも」
「『御蔵屋百貨店』……?」
「後からそいつを呼びに来た連れの方がさ、両手に紙袋をごっそり持ってたんだけどねー。あの紅白格子柄は有名でしょ。だからちょっと調べてみたんだけど、今日あそこのDフロアで『御蔵屋百貨店』友の会の得招会、やってたみたいなんだよねー。会員のご婦人方対象、特別ご招待セールってやつ。あの兄ちゃんたちはどう考えてもご婦人じゃないし、主催側と見るのが妥当じゃーん?」
 そう言ってちら、と目線を上げれば、杉浦の声が聞こえているのかいないのか、侑司はあらぬ方向を見つめ……もとい、鋭く睨みつけている。
 ……あら? もしかしてノーサンキューだった?

「ま、関係ないならいーんだけどねー? なーんか、ちょっと気になってさー。無言電話のこともあるし、お前もアオイちゃんの近辺、気をつけてあげた方がい――」
「杉浦さん、その話、もっと詳しく」
 ――デデンデンデデン。
 ずい、と身を乗り出してきた侑司の鬼気灯る両眼に、杉浦は思わず仰け反る。

「お? おぅ……」
 ……ナイストス、だったわけね。


* * * * *


「やっと終わったぜぃ……」
 杉浦はデスクチェアの上でぐぅっと身体を伸ばす。
 誰もいないシンとした営業事業部室……杉浦がここに入ってからすでに一時間以上もたっている。
 ちっきしょぅ……十五分で終わらせるはずだったのに、とんだお節介しちまったぜ……とぼやきながらも、杉浦の心中はちょっとばかしムフフフ気分だ。
 ついついお節介を焼きたくなる当の可愛い後輩は、だいぶ前に荷物をまとめて帰っていった。
 何だよ、情報料としてこの報告書手伝えよー……とは言い出せない、深刻なオーラを放ちながら。

 もっと詳しく、というご要望にお応えして、杉浦はもう一度、くだんの若い男について見たまま感じたままを侑司に話した。たいしてつけ加えることもなかったのだが、杉浦が語る間中、彼は微かに眉根を寄せ、黙ったまま耳を傾けていた。
 侑司の携帯端末に着信が入ったのは、だいたい全部話し終わった頃だ。
 受信画面を確認した侑司の様子と、耳ダンボにして盗み聞いた会話の内容から、杉浦はすぐにピンとくる。その相手は先ほどちらりと垣間見た、名刺の人物だと。

「……こっちも、話しておきたいことがある」
 侑司はそう、電話の相手に告げた。どうやらその人物と早急に会う必要性が生じたらしい。
 何があったのかは知らないが、水奈瀬葵に関する何かが動き出したことは明らかだ。そして杉浦が思っていた以上に、自分がもたらした情報は有益かつ、ジャストタイミングだったらしい。
 ――何となく、にんまりと頬が緩む。

 黒河侑司が『アーコレード』の担当になって三か月余り。
 その間、少しずつ少しずつ、彼女との距離が近づいている気配は感じられたが、あくまでも上司と部下としての範疇は超えず、元々サイボーグ的な性質の彼とワケあり事情を持つ彼女、なかなかこれといった大きな変化はないように見えた。
 だがここへ来て、実に興味深い色々な変化が所々に表れ始めている。面白くなりそうな予感が、杉浦をガンガンと叩きまくっていた。
 人間観察や情報収集は怠らなくとも、基本、ホレたハレたは勝手にやってくれ、というスタンスである自分。なのに、ここまで二人の恋路をホクホクしながら窺ってしまうのは、長年黒河侑司を見続けてきた、 “情” というものなのだろうか。

 杉浦は “黒河兄弟専用レーダー” ともいえる独自のアンテナを、それこそ小学生の頃から鋭敏に張っている。そのため二人の恋愛事情については、他の人間よりも詳しく知っているつもりだ。
 雰囲気は違えど、見た目は親譲りの整った顔立ちで背も高く、それなりにモテていた黒河兄弟。
 がしかし、その過去において兄弟ともに “まともに付き合った彼女” という存在を、杉浦は知らない。
 兄の和史はその青春時代、興味の対象がほとんど料理関係に向っていたので、異性交流はとんと希薄であったことを知っている。
 数年前、経理の宇佐美奈々とつき合っている、と聞いた時は「ウサちゃんが人間の女、、、、って、認識してるっ? 食材と思ってんじゃないのっ?」と、和史本人に向かってつい詰め寄ってしまい、その後しばらく口を利いてもらえなかったという、ちょっぴり切ない思い出もあったりする。
 一方、弟の侑司については、少々複雑だ。
 彼とは五つ離れているため、リアルタイムで見聞きしたわけではないのだが、実は彼も幾分、ワケあり事情を抱えていたりするのだ。
 あんなサイボーグじみた侑司が、もう少し人間味を醸し出していた若き高校生時代。彼なりに夢や希望を追っていたあの頃、とある事件、、、、、がそれを台無しにした。
 女が絡んでしまったその一件は、侑司の異性に対する概念を、悪しきもの、、、、、としてインプットさせてしまったに違いない。
 残念ながら彼の大学生時代のことはほとんど感知できていないが、入社後から今現在に至るまでなら断言できる。侑司に特定の彼女ができたことは、ない。
 ただ、それなりに発散はしていたようだ。(たぶん)
 ごく稀に薄らと、女性の匂い、、を感じたこともあった。(瞬く間に消えたが)
 そんな感じが、一回か二回か。(三回だったか?)
 思うにきっとそれも、侑司の中では恋人という位置付けではなかったのだろう。
 そして、そういった微かな痕跡も、ここしばらくは全く感じない。

 ノーマル健全な男盛りが禁欲でもあるまいし、女にモテないわけじゃなく、むしろ客に逆ナンされたこともある(なんであんなサイボーグ男がっ?)侑司が、近づいてくる女をことごとく拒否しているその原因は、多忙すぎる仕事のせいだけではない。
 その原因と思える特別な存在、、、、、に、杉浦が気付いたのは……たしか三年前……


* * * * *


 ワケありレストラン、『敦房』閉店。
 ワケあり少女、水奈瀬葵、雇用内定のち新人研修へ――

 『アーコレード』慧徳学園前店、新規オープンを間近に控えた初春、水奈瀬葵はクロカワフーズ恒例の新人研修に出された。まだ、彼女が通う短大の卒業も迎えていない二月のことだ。
 研修先は何と『櫻華亭』本店。
 それを聞いた時、杉浦は「マジでッ?」と目を剥いたものだ。
 元来、新人研修が本店で行われることはない。ずぶの素人がいきなり動ける場所ではないし、研修先としては最も不適当な環境だ。
 顧客はVIP揃いで客単価が数万円にのぼることも珍しくなく、メニューに載ったものをマニュアル通りに出せばいいというものではない。顧客それぞれに合わせたイレギュラー対応を、給仕人と料理人は積み重ねた経験を活かしながら、柔軟に適切にこなしていかねばならない。大体、研修中の従業員が接客の場に出るだけで、クレームに繋がりかねない特殊な現場なのである。
 そんな場所に決まった水奈瀬葵の一か月研修……これはもう、黒河沙紀絵統括の嫌がらせとしか思えない。『アーコレード』への配属が既に決まっているんだから、『アーコレード』の渋谷か恵比寿で研修させてやればいいのに……と、密かに溜息をついたのは杉浦だけではなかったはずだ。
 しかし、この水奈瀬葵という新入社員、予想外のあっぱれな娘であった――

 折悪く、『櫻華亭』本店は、それまで支配人を務めていた黒河侑司に代わり、まだ入社後数年目の柏木が支配人の座に就いたばかりの時だった。不安定な空気の中、柏木新支配人も従業員一同も突然の研修生派遣に、はた迷惑な厄介事、と言わんばかりの顔になったのは、無理もない話だろう。
 渋々引き受けられた研修生は、最初フロアに出ることさえ許されず、裏方の仕事を任されるのみで必要最低限の声かけしかされなかったという。
 しかし日を追うごとに、彼女の懸命で真摯な働きぶりとその人柄に、本店スタッフの中でも何かと目をかける者が増えてきた。
 彼女はどんな仕事でも、嫌な顔一つ見せず真剣であった。それが日に何度となく命じられるゴミ捨てであっても、膨大な量のグラス拭き上げでも、だ。
 加えて、彼女はとにかく呑み込みが早く、こちらが言わんとすることを瞬時に理解して、すぐに行動に移せる能力に長けていた。一を聞いて十を知る、とはまさにこのことで、実は誰もが簡単にできることではない。
 細い身体でよく動き、笑顔を絶やさず礼を弁え、ミスは潔く速やかに謝罪し、同じ間違いは二度と起こさない……そんな彼女を、いくら矜持高い老舗レストランの一流コック、一流ギャルソンでも邪険に扱う気は起らない。少なくとも新人いびりをするような低俗な人間は、本店にはいない。
 決定的だったのは、彼女自身が持つ天性の引力だ。彼女は無意識のうちに周囲を優しく柔らかく惹きつけ、和やかな雰囲気に変えてしまう力を持っていた。
 ――稀代の名ギャルソンと呼ばれた茂木氏が持つ、その不思議な力。
 それによってか否か、強面で有名な本店料理長国武もすっかりこの研修生を気に入ってしまったようで、特に賄い時は甚くご機嫌に「これも食え」「もっと食え」と自ら世話を焼くほど、だったらしい。
 結果、水奈瀬葵は研修のラスト三日、ランチタイムに限り、自らオーダーを取らせてもらえるまでになった。これは『櫻華亭』本店において、研修生に対する破格の対応だと言える。
 その時点で彼女は、本店内の複雑なテーブル卓番のみならず、グランドメニューに載っている料理名とその値段、コース全種類を全て頭にたたき込んでいたというから、あっぱれな話である。

 ―― “水奈瀬マジック” ……彼女が持つ柔らかな引力が、あの鉄面皮でさえ変化させてしまう魔法なのだと、その時誰が予想し得ただろう。


* * * * *


 しーんと静まりかえった室内に小さく繰り返されるのは、指にはさんだボールペンを回す音。杉浦はくるりんと器用に回したボールペンの芯先をぼんやり目に映した。

 ――そうそう、その話を侑司に聞かせたんだよなー……そしたらあいつ、珍しく反応、、したんだ……

 新入社員水奈瀬葵の研修にまつわる本店の様子を、たまたま徳永GMから聞いていた杉浦は、いつだったかの会議で、世間話程度に何となく侑司に漏らしたことがあった。
『今度慧徳に入る水奈瀬さんて新入社員、今、本店で研修してんだけどさー、結構使える子らしいんだよねー』
 その時、侑司の片眉が、ピクリと僅かに上がった。
 いつもなら、杉浦の無駄話にはほとんど反応しないツレナイ後輩なのだが、そんな彼が珍しくも見せた小さな小さな反応。
 その僅かな引っかかりを見逃す杉浦ではない。咄嗟に、ほとんど反射的に、杉浦はカマ、、をかけた。
『いやね、結構カワイー子でさー、笑顔がいーんだよねー。働き者らしいしスレてなさそうだしー。なんか新規オープン楽しめそーじゃん? あ、水奈瀬さん、じゃアレだなー、アオイちゃんって呼ぼーっか、な……』
 言いきる途中で気づいた、黒河侑司の見る者すべて射殺いころすような双眸は、絶対に絶対に、忘れられない。
 ――デデンデンデデン! タラリー、ター、ラー、ラー。
 Tのつくサイボーグ映画のテーマ曲が、初めて杉浦の脳内に響き渡った記念すべき瞬間だった。
 ななな、なんだよ……と上ずった声が出る前に、侑司はさっさと会議室を出ていってしまったのだが、その背中から真っ黒い炎がゆらゆらと立ち昇っているよう見えたのは、絶対に絶対にぜぇーったいに、気のせいではない。
 あれは、怖かった……チビるかと思った。
 そこでピン、ときた。
 何だよユージ、お前まであのワケあり娘に関わっちゃってるのー?と、杉浦が二ヤリ笑んだのは言うまでもない。
 それから、杉浦の本格的調査が始まったのだ。
 クロカワフーズと『敦房』の関係、『敦房』と黒河侑司の関係、黒河侑司と水奈瀬葵の不思議な縁――


 くるんくるん、とボールペンが指の間を回転する。
 ――あれから三年。
 杉浦は事あるごとに、Tボーグ侑司が時折見せる、小さな小さな反応を一人楽しんできた。
 例えば、何気ない視線の動きの中で、ほんの数秒だけ止まる目線、だとか。
 例えば、すれ違う瞬間に、ほんの一瞬だけ解ける表情、だとか。
 それは、非常にわかりにくい僅かなサインだったが、その度に杉浦のツボを絶妙な加減で刺激し、それに気づいている人間は自分以外にいないだろうという優越感も手伝って、何度だって楽しめた。
 さすがに、杉浦の独り遊びはここいらで潮時かもしれない。先日の諸岡の一件、加えて今日の衝突事故の件。諸岡だけでなく、目敏い牧野女史や柏木なども “それ” に気づいただろう。
 とっておきの玩具を渋々貸してやるような惜しい気持ちはあるが、楽しみを共有するのもまた一興か。
 今日の午後、二人の様子を見た牧野昭美が、まるでお姫様を守る騎士のようだったわ~ンと、大久保恵梨に報告していたなんて、あいつが知ったらどんな反応をするだろうか。
 ……わーお。マジで萌える。

 一方、水奈瀬葵の周囲に不穏な影がチラチラしている気配は若干気になるところだが、とりあえず今のところは騎士ナイト侑司にお任せして、自分は高みの見物といこうではないか。
 ……優秀な “メル友ーズ” も抜かりなく仕込んでいることだし?

「さぁて、帰るかなー」
 杉浦はボールペンを引き出しの中に転がし、よっこらせ、と立ち上がった。
 ずいぶんな時間のロスはあったものの、当初の計画は完璧だ。
 簡潔ではあるが、要点を漏らさずまとめ上げた報告書と諸々の書類を束ねた一冊のファイルは、確かに我らがボス、徳永GMのデスクへ。
 《今から速攻帰る!》と素早く打ちこんで愛する妻にメール送信。ついでに《明日俺オフ。連絡無用、むしろ禁止》というメールを、黒河和史と『紫櫻庵』の支配人にも送っておく。
 用済みの携帯は、指先に力を込めて電源オフ。
 あとは誰にも会わず帰るだけだ。アディオス!

 来た時とは打って変わった軽い足取りで、杉浦は営業事業部室をあとにする。
 本社ビル玄関から外に出れば、雨は幾分落ち着いたようだ。それでも電車で帰る気はなく、タクシーを捕まえるべく大通りへと向かう。

 ――……そう言えば、ユージは車だったなー……やっぱし手伝わせてそのまま送ってもらえばよかった……自分だけさっさと帰りやがって……しかも何であいつは疲れていない、、、、、、んだ? 若さか? これも若さゆえなのかっ? いや、あいつだって三十路じゃんっ! いや待てよ、人間の皮を被ったサイボーグに “老い” はないのか……

 ……可愛い後輩に思いをはせながら。




 
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