アーコレードへようこそ

松穂

文字の大きさ
上 下
38 / 114
第1部

麻実ちゃんと、乾杯

しおりを挟む


 
「葵と飲むの、久しぶりだー」
「ふふ、ホントだね」
「かんぱーい!」
 葵はジョッキの生ビール、麻実は梅サワー。カウンター席に横並び、葵と麻実はそれぞれのグラスを軽く合わせて口をつけた。

 ――居酒屋『絆生里はんなり』にて。
 『アーコレード』慧徳学園前店とは駅を挟んでほんの数分程度の距離にある、こぢんまりとした慧徳店スタッフの行きつけの店である。
 時刻は二十時少し前。郊外の小さな学園都市とはいえ、この時間帯は飲み屋も賑やかに混み合っている。
 数日前、突然夜に麻実から電話をもらった葵は、久しぶりに二人で会おうと誘われた。
 もちろん喜んで、と言いたいところだが、お互い仕事のある身で、ゆっくり飲めそうもないな、と半ば諦めていたのだが。

「ごめんね、麻実ちゃん。わざわざこっちまで来てもらっちゃって」
「ううん、アタシが誘ったんだし、今日がいいって我がまま言ったのもアタシだし! ホントは『アーコレード』で食事しても良かったんだけどさー、この店も一度来てみたかったんだよねー。葵たちの行きつけなんでしょ?」
 麻実が興味深そうに店内を見渡せば、ちょうどいいタイミングで「へい、お待ち!」と皿が来た。 “ゴーヤと鶏ささ身の胡麻だれ和え” と “枝豆豆腐” 、『絆生里』夏のおすすめ一品だ。

「うわー、綺麗な色だねー。あ、ありがと。ではさっそく……いただきまーす。……んー、何これ、ウマーい!」
 たった一口の梅サワーで早くも頬を上気させた麻実は、葵が取り分けたエメラルドグリーンの柔らかな食感に感動している。
「でもよかった、葵が早く仕事終わって。今日遅くなるかも、って言ってたからさー」
「うん、今日は時間がかかると思ったんだよねー。……でも、黒河さんが上がっていい、って」
「クロカワさん?」
 麻実は丸っこい瞳をパチクリさせた。
「ああ、麻実ちゃんはまだ会ってなかったっけ? 前の杉浦さん、新しい店に異動になってね、その後担当になったマネージャーが、黒河さん」
「ああ、今日電話に出た人か! へぇー、黒河、ね……。その人もしかして “クロカワフーズ” の身内?」
「そう、うちの社長の息子さん」
 答えた葵は、変な違和感を覚える。
 ――そっか……今まで、あの人が社長の息子だってこと、すっかり忘れてたな……
 葵はもう一度、ジョッキに口をつけた。

 今日、麻実から電話があったのは、ちょうどランチタイムが終わった頃だ。
 相変わらず葵の携帯は、更衣室に置いてあるバッグの中で無用の長物と化していたので、麻実は直接店にかけてきた。それを受けて葵に取り次いだのが、店に顔を出したばかりの侑司だった。
 葵はすぐさま自身の携帯で折り返し、事務室の隅っこであーだこーだと時間や場所のことで揉めていたのだが、その一部始終を見ていたらしい侑司は僅かに笑いながら、上がっていいぞ、と言ったのだ。
 もちろん即座に遠慮した。
 麻実と会う約束はしたものの、今日は予期した通り、片付けなければならない仕事が山のようにあった。
 何しろ、葵は明日から夏休みに入る。しかもお盆休み前だ。
 昨日また新たな特注が追加となったし、食材や資材の発注も確認しておかなければならない。自分のいない期間のシフト調整や入金関係の引き継ぎ、渋谷や恵比寿への連絡事項など、やることリストは片付けていくそばから増えていく。
 麻実には申し訳なかったが、約束を反故ほごにしようかとも思ったくらいだ。
 だが、侑司はどの道今日、葵を早めに上げるつもりであったらしい。
 葵がとりあえず麻実との電話を終えてみれば、侑司はてんこ盛りの事務仕事を瞬く間に振り分け片付け始め、葵が二、三の雑事を片付けている間に、今日中にできる事務仕事はほぼすべて終わっていた。
 しかも、ディナーは池谷と亜美、そして自分で十分回せるから、と言われてしまえば、頑なに居残るのも逆に申し訳なくなってくる。
 それでも、やり残しや見落としはないかと諸々のチェックを済ませてから、着替えて店を出たのが十九時過ぎ。慧徳学園前まで足を運んでくれた麻実と駅前で合流できたのが十九時半前。
「あそこに行きたい! 葵たちの行きつけ!」という麻実のたっての希望を叶えるべく、こうして『絆生里』にやって来たというわけだ。

「へぇ……、黒河さん、ね。声聞いた限りじゃ、ちょっと厳しそうな感じじゃない? 前の杉浦さんとは雰囲気違うね」
「うん……確かに違う、かな」
 葵は曖昧に笑って、生ビールのジョッキを手に取った。


* * * * *


「……葵?」
 飲み始めて小一時間ほどたった頃、麻実が隣の葵を覗き込んで、心配気な声をかけた。
「ん? ……ああ、ごめん、何だっけ?」
「……葵、何か上の空」
「ごめん……あー、ビールのピッチ早かったかな。焼酎もらおう」
「ねぇ、葵」
 いつになく真剣な声で、身体ごとこちらに向き直った麻実に、葵は思わずちょっと仰け反った。
 その時、初めて気づく。ついさっきまで麻実の頬は酔いに染まっていたのに、今、彼女の顔は完全に素面だ。ちらりと視線を走らせたテーブルの上、麻実の梅サワーは氷が解け切っただけで、その量はほとんど変化していない。

「……麻実ちゃん?」
「葵に、どうしても聞きたいことがあるの」
「聞きたい、こと?」
 すると麻実は、一呼吸おいて、抑えた声で言った。
「……アタシね、こないだ見かけた。『御蔵屋』で……葵の元彼。――伊沢尚樹」
 思わずハッと強張り身構えた葵を、麻実は気遣わしげな表情で見つめた。
「その顔は……やっぱり、知ってた? ……ねぇ葵……気に障る話かもしれないけど……まさか、あの男と……ヨリを戻す気なんて、ないよね?」
「……どう、して……」
 やっとのことで声を絞りだした葵に、麻実はブンブンと首を振った。
「ううん、いいの、その気がないなら、いい。でもね、葵は優しいから……もし、あの男が葵に取り入ろうと何か言ってきて、復縁なんか望んだら、葵が上手く丸めこまれちゃうんじゃないかって、アタシ心配で……、葵……?」
「……よく……わからないんだ、けど……」
「え……? わからない……って、復縁の可能性があるってこと? 葵はまだあの男のこと――」
「ううん、違う、そういう意味じゃないよ。……もう、尚樹さ……伊沢さんに対してそんな感情はない。そうじゃなくて……麻実ちゃんは、どうして伊沢さんが、復縁を望む、だなんて考えたの? どうして私と、ヨリを戻す、なんて思ったの?」
「えっ……あ、いや……それは……」
 あからさまに狼狽えて口ごもった麻実の様子に、葵はゆっくりと息を吐き出した。

「ねぇ、麻実ちゃん。……もしかして、蓮兄か萩に、なお……伊沢さんのこと、話した?」
「ううんっ! アタシは話してないっ! 一言だって漏らしてない!」
「そっか。でも、訊かれたんだね。……蓮兄、かな?」
「う……そう。……四年前の九月頃……だったかな、蓮さんがうちの大学まで来たんだ。……それで、葵がつき合っていた彼氏のこと、知っていたら教えてほしい、って。でも、その前に葵から口止めされてたから言ってない。アタシ、嘘は上手くないけど、言わないって約束したことは絶対言わない」
「ふふ……そうだね。わかってるよ。……ごめんね、私が変なこと頼んだから。そっか……やっぱり蓮兄、調べてたんだね……四年も前に」
「……蓮さんに、何か言われたの?」
「ううん、蓮兄、じゃなくて……」
 葵は空になったビールのジョッキに視線を落とした。


 昨日、店が定休だった葵は、バイトに出かける萩を見送った後、何となく雑然とした部屋の中を掃除すべく、まずは散乱した萩の私物を片付けることにした。
 脱いでそのままポイポイ積んでいくため、萩の洋服は部屋の隅に山となりつつある。葵はやれやれと頭を振り振り、勝手に洗濯していいものか、広げては匂いを嗅いでみたり、きちんと畳み直したりしていた。
 その時、カサリと衣擦れとは違う音がした。音の出所を探れば、デニムの後ろポケットに何かが入ったままだ。ゴミ?と、葵はそれを取り出し広げて、驚愕に息を飲む。

《 御蔵屋百貨店銀座支店 顧客外商サービス 伊沢尚樹 》

「……どうして……萩が」
 愕然と、その紙屑のように丸められた一枚の名刺を眺める葵の脳裏に、突如として数々の場面が、一気に早戻しされた。

 一昨日、店前で見かけた “彼” の姿。
 萩と遼平の不可解な送り迎え。
 誰かと間違えて、、、、、、、少年を追いかけていった萩。
 あの雨の日、突然アパートを訪ねてきた蓮。
 今更マンションに帰ってこいという兄弟の理不尽な言葉――

 おかしい、何かがおかしい、とずっと思っていたのだ。思いながらも、まさかそんなはずはない、とずっと誤魔化し続けてきた。
 だが、この一枚でようやく納得した。というより、ようやくその事実を、認めた。

 ―― “彼” は東京に戻ってきている。そして、兄と弟は “彼” のことを知っている――

 名古屋に行ったはずの “彼” が、東京に戻ってきた経緯や理由はよくわからない。が、全国に支店を持つ百貨店だ、転勤は付き物なのかもしれない。
 問題は、蓮と萩だ。
 彼らは “彼” のことを一体いつ知ったのか、どうやって知ったのか。
 葵は絶対に話さなかった。麻実にも固く口止めをしている。元々、彼とつき合っていた事自体、知っている人間は少ない。他に漏れるとしたら……見当もつかない。
 そもそも、蓮も萩も知っているそぶりなんて一度も見せなかった。けれど、萩がこの名刺を持っているということは、 “彼” と面識があるのか。萩が知っていて蓮が知らないはずはない。ということは、蓮も絶対に知っている。もしかしたら、萩と一緒になって送り迎えに勤しんだ遼平も、知っているかもしれない―― 

 いくつもの疑念が葵を襲い、その日一日をまんじりともせず過ごした。
 まさか母には知られていないだろうとは思うが、――つい一週間ほど前、葵は母と電話で会話して、いつもと変わりない明るい声音を耳にしたばかりなのだ――万が一、兄や弟が母に話してしまったら……そう考えるだけで、母の笑顔と、母の動かなくなった顔面がぐるぐると入り混じり、葵をさいなんだ。
 ――その夜、いつもより早めに、葵はベッドにもぐりこんだ。
 萩の帰りが夜遅くなり、お休みの挨拶だけ交わしたのは幸いだった。
 聞きたいことは山ほどあっても、それを聞く勇気が、葵にはなかった。


「まいどー! お待ちー!」という店員のかけ声が威勢よく響き渡る。
 店内のざわめきは、程よく葵と麻実の会話を周りから隔離させ、場に似つかわしくない深刻な顔をした二人は、まるで気にも留められていない。
 それでも、葵は無意識に声を抑えた。

「……麻実ちゃん、あのね。伊沢さんが、今更私とどうこう……とか、考えることはあり得ないと思う。だって、あの人……結婚しているはずだから」
「――け、結婚っ?! うそ……っ!」
 思わず叫んだ麻実は、慌てて口を押えて声を抑えた。
「ごめん、言ってなかったもんね……」
「うん……聞いてない。……もしかしてそれが、、、、別れた原因?」
「……たぶん。……本人からは、何も聞けなかったんだ、けど……」

 過去を思い出せば、今でも苦い痛みが胸をかすめる。
 結局は、結婚の話どころか、別れ話さえ、曖昧で覚束ないものであったのだが。

「……だからね、麻実ちゃんがどうしてそういう風に思ったのか不思議なの。……どうして私とあの人が復縁するだなんて、そんなこと考えたの?」
 葵が覗き込むと麻実は気まずそうに目を逸らしたが、それでもすぐ、ムンと決意したように顔を上げた。
「うん、そだね。ちゃんと言うよ、葵。アタシは葵にコソコソしたくないし。伸兄が何と言おうと、アタシは全部、話す!」
「え? 伸兄……って、伸悟さん?」
「うん、伸兄のことはどーでもいい。あのね、葵とあの男がヨリを戻しちゃうんじゃないか、って考えてしまったのはね、一つは片倉さんのせい」
「かた、くら……さん?」
 一瞬、顔が浮かばなかった名前だが、「うちの先輩の」と麻実につけ足されて、ようやく脳内一致する。……先日店に来てくれた、あの人か。
 戸惑う葵に、麻実は少々興奮を交えつつ説明した。

 伊沢尚樹らしき人物を『御蔵屋百貨店』で見かける数日前のことだ。麻実は同僚と飲みに行った。
 会社近くにある洋風居酒屋で、偶然そこで飲んでいた同じ出版社に勤める先輩、片倉ら数人に出会い、結局席を同じくして飲むこととなった。
 片倉は二か月ほど前に、麻実と一緒であった総合スポーツ誌の編集から外れ、そこから派生創刊したプロスポーツ専門誌に異動していた。麻実とは顔こそ週に何度も合わせるが、こうしてゆっくり飲みながら会話するのは久しぶりのことだ。それこそゴールデンウィーク中、一緒に『アーコレード』を訪れた時以来だった。
 何となく麻実と片倉は席が隣になって、当たり障りのない話をするうちに、『アーコレード』の話になり、彼が先日単独一人で慧徳学園前店へ出かけたことを聞いた。 

『――もう一度タンシチューが食べたくなってさ』
『勧められた赤ワインが美味しくてね、ハーフサイズを一本飲んじゃったよ』
『 “葵ちゃん” って呼ぶのを許してもらったんだ』
 などと、それは嬉しそうに話をしてくるので麻実は思わず、とがめるように詰問してしまったという。
『――ホントに、本音で、本気なんですか?』 


「前にも……ほら、みんなで『アーコレード』へ行ったそのすぐ後に、片倉さんが葵に気がある風なことを言ってたからさ、その時もかなりしつこく釘を刺したんだ。遊びなら止めてくれって。別に片倉さんを信用してないわけじゃないけど……葵のこととなると話は別だもん。絶対に浮ついた遊び心で近づいて欲しくはなかったし、葵にも……この先二度と、恋愛で傷ついて欲しくなかったから……」
「麻実ちゃん……」
 眉尻を下げて小さく笑う麻実に、葵は何も言えない。
「でもね、片倉さん……変なこと言ったんだよ……」


『――うーん、本気なんだけどねぇ……もう手遅れかも。葵ちゃん、他に思いを寄せる御仁がいるみたいだったなぁ……あくまでも、俺の勘、だけどね?』
『――は? 何それ! 片倉さんの思い違いじゃない?』


「アタシ、その時は全然本気にしなくて、鼻で笑ってやったんだけど。でも、その後で葵の元彼を見ちゃったじゃん? 何かそれから、妙に片倉さんの言い方が気になってさ。まさかそれって、伊沢尚樹のことなんじゃないかって思っちゃったわけ。……もしかして、葵はあの男のこと、まだ忘れてなくて、こっちに戻ってきたのをきっかけに、ヨリ戻す気になっちゃったんじゃないか……って」
「……なるほど……」
 ……としか、言いようがない。
 葵にとっては困惑だらけの話だ。タイミング的に麻実がそう思い込んでしまった原因については納得したが、片倉がいう “俺の勘” というのはよくわからない。……その “思いを寄せる御仁” って……誰のこと?

「でもって、伸兄たちがナーンかコソコソしてるからさ、アタシの知らないトコで何かあるんじゃないかって……葵に危険が迫ってるんじゃないかって、思ったんだ」
「危険って……それはちょっと大げさ。でも、なんで伸悟さん? コソコソって……」
「伸兄が今『SIGMA SPORTS』にいるの、知ってるでしょ?」
「うん、こないだ聞いた。蓮兄から何も聞いてなかったから、私ビックリして」
「勤務先、『御蔵屋百貨店』なの。中にテナントで入ってるショップ。もうずっと、四年前から」
「え……?」
「伸兄は、蓮さんと萩と繋がってる。たぶん、かなり前から。アタシさ、ゴールデンウィークの終わる頃、三人が一緒にいるところ見たんだ。伸兄は、伊沢尚樹のことで情報を集めていて、それを蓮さんや萩に報告していたんだと思う。……あの人、昔っからそういうの得意だから。蓮さんたちが頼んだのか、伸兄が自主的にやってるのかはわからない。でも、葵に内緒で動いているのは確か。……葵と、伊沢尚樹を……二度と会わせたくない、って言ってたから」

 ――やっぱり。
 葵は我知らず、唇に歯を立てた。
 どういう経緯で青柳伸悟が介入するようになったのかはよくわからないが、蓮も萩も、葵の恋人だった伊沢尚樹のことを、既に知っているのだ。……おそらく、何があったのかも、すべて。
 葵には一言も言わず、密かに調べたのだろう。でも、それを責めることはできない。
 心配させるだけさせて、その内実をまったく打ち明けなかった自分に、彼らを責める資格はないのだ。

「……ねぇ、葵。……四年前、何があったの? ……伊沢尚樹って、何かやらかしたの? ……伸兄が超利己主義なの知ってるでしょ? よっぽどのことがなきゃ他人ひとさまのために動いたりしないんだよ? あの時葵は、フラれちゃった、って言ってたけど……そりゃ、つき合ってた人が他の人と結婚しちゃうのはショックだけど……本当に、それだけ?」
 麻実が気遣わしげに覗き込む。
「……アタシには、言いたくない……?」
「……麻実ちゃん」

 言いたくない、わけではない。まだ思い出すのさえ辛い部分もあるが、小さい時から一緒にいる麻実を、葵は心から信頼しているし、受け止めて欲しい気持ちもある。本当は何度だって、打ち明けて相談にのってもらいと思っていた。
 それでも、これまで麻実に話すことができなかったのは、母朋美に伝わってしまう危険を冒したくはなかったからだ。
 麻実の母、青柳実可子と、葵の母、水奈瀬朋美は仲がいい。葵と麻実が親友なら、二人の母、朋美と実可子も親友だ。朋美が宮崎に行ってしまってからも、二人はこまめに連絡し合っている。 
 麻実がむやみに他言するとはつゆほども思っていないが、世の中に “絶対” はない。
 麻実にしろ実可子にしろ、葵に対して掛け値なしの情愛を示してくれるので、それが裏目に出ないとも限らないのだ。
 葵のことを心配するが故に、麻実が実可子へ漏らしてしまったら。そして実可子が何かの拍子に母へ漏らしてしまったら。
 母に知られるのは、絶対に阻止しなければならない。
 それだけは、何があっても。
 でも――、と一方で思う。
 葵は正直、ここ最近目まぐるしく起こった様々な騒動や事件のせいで、頭の中が散らかりっぱなしだった。これは自分で思う以上に、大きなストレスとなっているようだ。
 誰かに、頭の中にあるすべての記憶と疑念、不安と怖れを話してしまいたい。そして自分自身を整理したい……気づけば、そんな思いが強く湧き上がるようになっている。
 整理して――、そう……きちんと向き合いたかった。
 忘れたフリ、大丈夫なフリではなく、杭が刺さったままの傷を包帯でぐるぐる巻きにして隠すのではなく。痛くても、また血が吹き出そうとも、もう一度しっかり傷の具合を確認しなければいけない。自分の眼で。
 そう思えるようになったのは、たぶん、あの人の存在が――、

 口をつぐんだままの葵を見かねたのか、麻実が慌てて言う。
「あ、葵……無理しなくていい。話せる時が来たら、でいいんだよ。アタシ、いつだって待ってるから――、……あ? 誰、こんな時に……」

 不意に鳴りだした軽快なJ-POPの着メロに、麻実が小さく唸ってバッグを探る。
「……伸兄? 何、突然……」
 画面を確認し怪訝な顔をしながらも、麻実は薄型端末を耳に当てた。
「……もしもし、伸兄どうしたの……、……え? ……葵ならここに……えーと、『絆生里』っていう居酒屋だけど……どこって、慧徳学園前の……『アーコレード』の反対側……、……うん、そう、一緒に飲んでるよ……、……は? ……引きとめておけって……意味わかんな……はぁ?」
 麻実の声音は次第に剣呑としてくる。隣にいても、さすがに電話の向こうの声は葵まで届かない。けれど、耳に入って来る断片的な会話が、葵の胸にボタボタ、と不吉な染みを作った。

 ――昨夜、遅く帰ってきた萩が、ちょうどベッドに入ろうとしている葵にかけた言葉。
『……葵、明日ちょっと迎えに行けねーかも。たぶん遼平も。……ああ、でも大丈夫だから……もう心配することはねーからさ……じゃあオレ、風呂入るわ。お休み』

「迎えに行けない」と言った。夏休みに入って一度も欠かしたことのない葵の送迎を「明日はできない」と。
「でも大丈夫だから」と萩は言った。「もう心配することはないから」……と。

「――だから何……よく聞こえないんだけど……は? ……何でそんなこと伸兄に決められなきゃ……――あ、葵っ?」
 咄嗟に手を伸ばし、麻実の耳元から端末を奪い取った。素早く耳に当てて葵は声を張り上げる。
「――もしもし、伸悟さん? 葵です」
『――あ、葵ちゃん……っ?』
「伸悟さん、そこに萩がいるの? みんなで何しているの? あの人に、何をしようとしているの?」
『あ……いや、えっと……葵ちゃん……』
 電話の向こうの伸悟は、突然出てきた葵に驚き慌てふためいているが、明らかに声を押し殺して辺りをはばかる様子だ。
 何だろう、この感じ……嫌な予感、鳴り響く警鐘……葵の鼓動がどんどん速さを増していく。

「今どこにいるの? もしかしてそこに蓮兄もいるんじゃないの? ねぇ、伸悟さ――」
『……ご、ごめん、葵ちゃん……今取り込み中なんだ……また後でかけ直すから……』
 さらに小さくなって聞きとりにくい伸悟の声音の向こうで、その時、どこかで聞き覚えのある微かな音が葵の耳に届いた。
 ガゴン、という重たいものが崩れ落ちるような音は――、

 ――業務用の製氷機……!

「伸悟さんっ! まさかそこ――」
 問いただそうにも、すでに通話は切れている。
 葵は勢いよく立ち上がって端末を麻実に押しつけると、バッグをひっつかんで財布を取り出した。

「あ、葵っ?!」
「麻実ちゃん、店に行ってくる。もしかしたらみんな、うちの店にいるかも、、、、、、、、、
「え、みんなって……ちょ、ちょっとっ! 葵っ!」

 周囲の注目を集めつつ、背後で麻実が焦ったように帰り支度をするのにも構わず、葵はビックリ顔のスタッフに万札を押しつけ、『絆生里』を走り出た。

 時刻は十時すぎ――
 店、じゃないかもしれない、あれが製氷機の音だなんて確信はない、仮に製氷機の音だとしても、うちの店のものとは限らない、でも――、

 夜の道を、店に向かって走りながら、嫌な予感はいや増しに大きくなる。
 店は、ダメ――、だってあそこには――、
 サンダルのストラップが足に食い込む。汗が滲み息が切れる。それでも葵は全力で走る。

 ――……黒河さんがいるのに……っ!




 
しおりを挟む

処理中です...