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第1部
インディアン・ボーイ、5人
しおりを挟む『――初めまして、私、尚樹さんの婚約者の、小島香央梨と申します……――私も今月末にはあちらへ住まいを移して一緒に住む予定なんです……――尚樹さんをしっかり陰で支えますから、どうかご心配なさらずに……――この子も、一緒に、ね……』
四年前の夏、煌びやかな百貨店の総合インフォメーションで聞いた彼女の言葉は、周りから一切の音と色を奪い取り、葵の胸を突き刺した。
――なのに、それが嘘だったとは。
「――最低の、女だったんだ」
その顔に似つかわしくない、嘲るような声音で吐き捨てて、伊沢は “彼女” について語った。
小島香央梨という女性は、元は名古屋の『御蔵屋百貨店』に入社し勤めていたらしい。入社時から、ずいぶんと常識も節操もない破天荒な人間だったという。
父親のコネで入社したはいいが、我儘で自分勝手でまるで協調性がなく、同僚との衝突も多ければ、異性絡みの諍いも少なくない。
名古屋から東京の銀座支店に異動になったのも、名古屋本店内のある男性社員に横恋慕し、その恋人の女性に対して執拗な嫌がらせを繰り返した揚句、大きな怪我を負わせてしまったことが原因だ。
その現場をしっかり目撃されてしまったため小島香央梨も言い逃れができず、結局その後処理は人任せ(父親任せ)にして、本人は逃げるように銀座支店へ異動。解雇も依願退職もなく罪を揉み消すようなやり方に、周りは呆れ果てていたらしい。
「……銀座に来て、どういうわけか僕にターゲットを絞ったんだろうね。彼女にとっては横恋慕なんてゲームの一つみたいなものだったんだろうけど」
狙った獲物を首尾よく捕らえ、 “婚約者” という枷をつけて手中に収めた小島香央梨。そして、『御蔵屋百貨店』を悠々と “寿退社” し、彼女は本拠地である名古屋に戻ったのだが、当然その後、伊沢と上手くいくはずなどなかった。
伊沢は表向き栄転扱いだったが、その実、まるで戦力外のお荷物である。
地の利もなく、知り合いも伝手もない完全なアウェーの地。重役の娘と婚約していることは既に百貨店の社員全員に知れ渡っているため、伊沢に対する風当たりも相当に強い。
過労とストレスに加え、しつこく纏わりつく小島香央梨。
別れた最愛の恋人が忘れられず、気力も活力も精気さえも失われつつあった伊沢に、香央梨は次第に苛々と不満をぶつけるようになった。
「……ある日、散々僕を罵った後、彼女が言ったんだ。……『まだあんな子のことを忘れられないの? 女々しいわね。妊娠したふりまでして別れさせてあげたのに、とんだ骨折り損だわ』ってね。それを聞いて耳を疑った。あの女と葵ちゃんが会っていたことなんてちっとも知らなかったから。しかも妊娠しているふりだなんて……」
伊沢は声を震わせる。
彼女を問い詰めた結果、なんと伊沢の異動後に葵が銀座支店まで会いに来てくれたこと、そして何の因果か、葵と香央梨が接してしまったことを知った。さらに、狡知に長けた香央梨の怖ろしい機転で、葵を誤解させ傷つけてしまったことも。
香央梨は、伊沢に大学生の恋人がいて、自分と婚約した今でも未練がましく彼女を想っていることを知っていた。一方で、一人っ子である伊沢に妹などいないことも当然知っている。だから、『御蔵屋百貨店』まで伊沢を訪ねてきて「妹です」と言った若い女が、伊沢の恋人であると瞬時に悟り、ここぞとばかりに自分と伊沢の “関係” を念押ししたのだ。
まさか葵が妊娠しているとは、さすがの香央梨も察知できなかっただろうが、あそこで咄嗟に身ごもっている風を装ったのは、やはり彼女の狡猾さが何かを感じ取ったのかもしれない。
「どれだけ人を欺き傷つければ気がすむんだ、って思わず詰ったよ。……でも、僕に彼女を責める資格なんて、これっぽっちもなかったんだ」
その三日後だ――葵の兄、水奈瀬蓮から、衝撃の事実を聞かされたのは。
もう、恋人と名乗ることもできないあの子はどう思ったのだろう――
人生これからという時に、自分ごときの子を宿し、くだらない女の嘘に翻弄され、どれだけ心を痛めただろう――
挙句にお腹の子は流れてしまい、その責任は自分にあると、彼女は自らを責め続けているという――
罪の呵責に耐えかねて、伊沢は次第にまともな思考ができなくなっていく。
自分を責め暗欝に沈み込み、たいして芳しい成果も上がらなかった仕事ぶりはさらに落ち込んで、苦手なアルコールに手が伸びるのは毎夜の常となった。
そして結果から言えば、ほどなくして小島香央梨との婚約は破棄され、伊沢は福岡支店へ異動となる。もちろん降格処分は歴然だ。クビにならなかったのが不思議なくらいであった。
その際、肩代わり借金の返済に加え、小島家から多額の慰謝料まで請求されかかったのだが、とある一人の上司によって、その窮地は救われたそうだ。
その上司は銀座にいた頃から伊沢を見てきた人物で、唯一、伊沢を偏見なしで評価してくれた人間だった。
彼はボロボロになった伊沢の相談にのり、信頼できる弁護士を紹介してくれた。おかげで何とか肩代わり借金と入院費のみの返済に止めることができたという。
福岡に異動になった時点で『御蔵屋百貨店』を辞めることも考えたが、もう一度初心に帰ってやってみないか、というその上司の言葉に感銘を受けて、伊沢は遠い福岡の地に飛ぶことを決めた。
それから三年近く、それこそ我武者羅に、死に物狂いで仕事をこなす中、生活費を削って実家に仕送りし続けた。
今現在も借金を返済している真っ最中ではあるが、実家の父親も何とか持ち直し、母と伯母夫婦ともに力を合わせて資金繰りや商いに精を出しているらしい。
「色々あって、また東京に呼び戻されることになって……まだもう少し『御蔵屋』で頑張ってみようか、とも思ったんだけどね。上司とも相談してけじめをつけることにしたんだ。実家に帰って、店を継ごうと思う。……って言いながら、どうしてもお中元の繁忙期や引き継ぎなんかで、退職月が延びちゃったんだけどね。でも、そのおかげで葵ちゃんと再会できた」
失うものはもう何もないとばかりに、ただひたすら仕事へ挑んだ成果なのか、福岡では顧客も多くつき、そこそこいい成績を出すこともできた。だがやはり、ふとした瞬間に湧き上がるどうしようもない罪悪感は消えることがない。
諦観とほんの少しの期待を胸に東京へ戻ってきて数か月、またもや一体どんな偶然が働いたのか、伊沢はかつての恋人を見かけてしまった。その瞬間、浄化されぬままの想いが抑えられないほど膨れ上がっていったのだ。
『紫櫻庵』のレセプション会場だった『フィーデール・インターナショナル・ホール』に、あの日彼が居合わせたのはまったくの偶然だった。別会場で、『御蔵屋百貨店』のお得意様限定ご招待会が開催されており、彼はその進行役の一人だったそうだ。
あのカフェテリアで、彼は同僚と昼食休憩を取っていた。あの時、葵が伊沢に気づいたように、伊沢も葵に気づいたらしい。
葵に似た後ろ姿を見かけた伊沢は、まさかと思いすぐに追いかけたそうだが、その後ろ姿を見失ってしまう。得招会が終わった後も館内ホールを探してみたが、葵らしき人物は見つからず、見間違いだったのかと一度は諦めたという。
その数週間後、かつての顧客へのお礼回りのため、伊沢は慧徳学園周辺に赴いた。
そのうちのとある居宅を訪れた時、そこの奥方との世間話の中で、何日か前に起きたという “強盗事件” の話を聞いた。
駅から五分ほどの場所にある一軒の洋食レストランに強盗が押し入り、そこの女店長が怪我をした――警察がたくさん来てこの近隣は大騒ぎになった――とか何とか。
この清閑な住宅街近辺で、そういったイレギュラーな騒ぎは珍しかったのだろう。その家だけではなく他の顧客宅でもいくつか似たような話を聞かされた。
ただし内容は少しずつ様相を変えて――曰く、浮浪者が乱闘騒ぎを起こしただの、やくざにイチャモンつけられただの、ストーカーが女店長を襲っただの。
「……やっぱり。古坂さんの言う通りだ……」
そこまで聞いた時、葵は思わず呻いて頭を抱えた。どこからどんな話が広がり伝わるか、わかったもんじゃない。
伊沢はくすりと小さく笑った。
「さすがにどの話も大げさすぎて、噂が独り歩きしているんだろうなって思ったよ。この辺の人達も意外に噂話が好きなんだなって、ある意味感心もしたしね。でも僕が気になったのは、警察とか事件とかよりも……その店がある場所だったんだ」
駅前から五分ほど……? しかも洋食レストラン……?
もしやと思い、顧客から聞いた店名を頼りに行ってみれば、その外観こそ違うが、記憶の中にある店とまったく同じ場所にその店はあった。
かつて何度か通った場所。
忘れられない彼女が、アルバイトをしていた店。
『アーコレード』……聞いたことがない店名だが、シェード越しに漏れる光はどこか温かく、昔通った洋食屋を彷彿とさせる懐かしい趣がある。
急速に膨れ上がる胸騒ぎを感じつつ、伊沢は帰社してすぐに調べたのだ。
「驚いたよ……『アーコレード』というレストランを経営するクロカワフーズという会社……こないだの『フィーデール・インターナショナル・ホール』で行われていたレセプションパーティー主催の会社だった。あの会場で葵ちゃんを見かけたのは、やっぱり見間違いじゃなかったんだ、って思ったんだ。それで、もしかしたら君はあの店で働いているのかもしれないって思って……もちろん、そうじゃない可能性もあるけど……何故かどうしても、慧徳学園前のあのお店に、君はいるような気がしたんだ……」
そうして、伊沢は忙しい合間を縫って何度か慧徳の地に足を運んだ。
店の前まで来て、外観を眺めて中を窺って……しかし、店内に入るタイミングもきっかけも掴めず、ようやく何度目かに訪れた夜、店脇の小路から出てくる若い青年を見かけ、意を決して声をかけた。
その青年に語気荒く追い返されるという目にはあったが、その代わり、葵がこの店で働いているらしいことは確信できた。
何としても会って謝りたい……金沢へ帰る日は近く、東京を離れればもう二度と彼女に会うことはないだろう……そんな思いが焦りを生んだ。その翌々日、再び勢い込んで店前に行けば、待ち構えていたような青年二人に阻止されて、次いで加わった葵の兄たちも巻き込み、結果、あのような大騒ぎになってしまった――
「あ、あの時は本当にごめんなさい。弟や麻実ちゃんが……痛かったでしょう?」
あれから三週間近く経った今、見たところ伊沢の顔面にその痕跡は見当たらないが、あの萩に殴りつけられれば相当なものだろうし、葵も目の当たりにした麻実の一撃もかなり重かった。……絶対次の日、腫れたはず。
そんな葵の痛ましい視線を受けて、伊沢は楽しげに笑って自分の頬をさすった。
「うん、かなり効いたかな。口の中が切れてたし、あの後何日か、だいぶ腫れたよ。……でも、殴られるのも罵られるのも覚悟の上だったしね。こんな痛み、葵ちゃんが受けた苦しさに比べたら何でもない。……自業自得……ううん、こんなのじゃ足りないくらいだ」
「そんな……」
何でもないように微笑む彼の前で、葵は唇を噛み俯いた。
四年前から現在に至るまで、伊沢が歩んできた道のりは彼が語る以上に、過酷なものだったに違いない。
已むに已まれぬどうしようもない現実が、突然彼を襲った。なのに、自分は何も知らなかった。知ろうともしなかった。彼に何があったのか、どうしてあんなことになったのか、考えることさえ放棄して忘れることに努めた自分――
「……私、本当に酷い人間です……」
「葵ちゃん……?」
困惑気な顔をする伊沢に、どう説明すればいいのだろう。
流産後、不安定に揺れる心身を抱えて鬱々と過ごしていた葵に、就職先が決まるまで『敦房』で働けばいい、働かなくともいつでも遊びに来ればいい……そう言って手を差し伸べてくれたのは『敦房』の濱野夫妻だ。
一時は、一人でまともに出歩くことさえできなかった葵が、ほんの少し前向きな精神状態になれたのは彼らのおかげだ。
けれど事態は一転、葵が『敦房』に再び顔を出すようになってから一月も経たぬうち、濱野氏に病気が見つかり、店を閉める決断を聞かされた。
ここに居ればいいと言った口で、ここを閉めると告げる羽目になったことを、心の底から詫びてくれた濱野氏。しかも、葵や遼平が安心して働ける場所を、何としてでも見つけてあげるから、という。
その時、葵の中で何かがパチンと弾けた気がした。
『敦房』は濱野夫妻の生き甲斐だ。二人がどれだけこの小さな洋食レストランに愛情を注いできたか、葵はずっと見てきたから知っている。その『敦房』を閉める決断を下したのは、文字通り断腸の思いだったに違いない。それでも二人は、自分たちのことより葵や遼平のことを気遣うのだ。
病んでいる場合じゃない――そう思った。
それからほどなくして、濱野夫妻は約束通り、新しい働き口の話を持ってきて葵に勧めた。
――クロカワフーズという会社が経営する『アーコレード』という店が、『敦房』の跡地に立つことになったんだ。そこで働いてみないか。楽な仕事ではないだろうけれど、きっと遣り甲斐のある素晴らしい仕事に違いないから――と。
葵は決意した。
二人の代わりに自分が、どこにも負けない良い店を作ろう。そのためには、過去の痛みや苦しみなど邪魔なのだ。自分の中にある怖れや不安や弱さを一切合財切り捨てよう――そう、心に決めた。
全ては、濱野夫妻の恩に報いるためだった。
それからというもの、葵は元恋人に関するすべてのことを、考えるな思い出すな、と自己暗示をかけ続けた。
幸い、会社でも店でもいい仲間や上司に恵まれ、仕事は遣り甲斐があってこの上なく楽しかった。毎日が忙しくも充実していたおかげで、余計なことを考える暇がなかったのも都合が良かった。
さすがに、赤ん坊に対する過剰反応だけはなかなか薄れてくれず、ずいぶん歯痒い思いもしたが、トラウマの原因は流産の重責にあると葵自身認識していたので、震える指先を昔の恋人と結び付けることもなかった。
その結果、伊沢を思い出すことはほとんどなくなった。
何かの折、ごく稀にちらりと元恋人の影が過ったとしても、遠く離れた場所で新しい家族と幸せに暮らしているのだろう――そんな冷めた感情がかすめる程度……我ながらよく割り切れたな、と思う。
こうして久しぶりに伊沢尚樹と対面して話をして、今更ながらに葵は気づくのだ。
昔持っていたはずの、この人に対する特別な感情は、完全に消え失せてしまったことに。
「……本当に、最低なくらい薄情な人間、なんです……」
「そんなこと言わないで、葵ちゃん。葵ちゃんは薄情なんかじゃない。悪いのは僕なんだ。……僕があの時、逃げずにちゃんとすべてを話していたら、葵ちゃんを傷つけることも苦しめることもなかった。……お兄さんから聞いたよ。……葵ちゃん、ずいぶん自分を責めて苦しい思いをしたって。……ごめんね……葵ちゃんだけが苦しむことになって……僕の子、でもあったのに……」
「でも、私は……」
『――葵ちゃん一人で背負ってはダメよ……』
濱野美津子が葵にかけてくれた言葉は、今でも心に残っている。
躊躇いがちにも、僕の子、と言ってくれるこの人には、きちんと話さなければならない。
「……尚樹さん。……でも、私は……授かった命を、喜べませんでした」
――次は葵が、懺悔する番だ。
葵はなるべく事実だけを淡々と話そうと思っていたが、思いのほかそれは難しかった。
妊娠が判明し途方に暮れたことや、堕胎を考えてしまったことを伝え、伊沢に会いに行き、小島香央梨と対面してしまった経緯も説明した。またお腹の中の子がダメになったとわかった時、心のどこかでホッとしてしまったことも、真っ直ぐに正直に伝えた。
その当時の記憶をなぞっていけば、どうしても苦しさや辛さが同時に浮かび上がる。途中、何度か喉の奥に引きつるような感覚が走ったが、葵は懸命に話を続けた。
流産から手術に至った顛末や、クロカワフーズに入社した経緯も簡単に話したが、その裏面での、幻聴に悩まされたことや精神的にやられたことなどは敢えて話さなかった。これは葵の問題であって伊沢は知らなくてもいいことだ。これ以上、彼に無駄な罪悪感を抱いて欲しくないと思った。
葵が語る間中、伊沢は口を開くことなく、息詰めるようにして話を聞いていた。その面持ちは悲痛に歪み瞳は潤んでいたように思う。
それでも最後に、今現在はとても充実していて、仕事も遣り甲斐があって楽しんでいる、と話すと、伊沢はようやくホッとしたような笑みを浮かべた。
「そうか……葵ちゃん、仕事が大好きなんだね。あの頃と全然変わってないな」
「そう、ですか?」
「君は、いつも真っ直ぐ前を向いて一生懸命だった。大学もアルバイトも、家のことだってあるのに、いつだって笑顔で苦労なんてこれっぽっちも見せずに頑張っていた。僕はね、そんな葵ちゃんに救われたんだよ」
ほんの少し寂しさを交えたような笑みを浮かべて、伊沢は遠くを見つめた。
「……僕は……君と……」
「え?」
小さく呟かれた言葉は聞き取れなかったが、伊沢は「ううん、何でもない」と首を振った。
「……今日は本当にありがとう。金沢へ帰る前に、どうしても一度だけでもいいから、葵ちゃんに会って謝りたかった。……こないだここで手厳しく追い返されてしまって、もう会えないと諦めていたから、電話をもらった時は本当に嬉しかったんだ。引っ越す前で本当によかった」
「来月にはもう……?」
「うん。実家に戻る。……って言っても、最初は丁稚奉公みたいことをさせられるんだろうな。着付けもだいぶしてないから忘れちゃってるし」
ハハ、と小さく笑った伊沢につられて、葵も微笑んだ。
笑った時、ちらりと見える八重歯が、懐かしさを呼び起こす。
そう、こんな顔で笑っていたっけ。
『――そうだ、来年の夏は、一緒に夏祭りへ行こう? 葵ちゃんの浴衣を着付けてあげるよ』
『え! 尚樹さん、着付けできるの?』
『これでも呉服屋の息子だからね。振袖だっていけるよ? さすがに白無垢や色打掛は、自信ないんだけど』
『あはは、振袖や白無垢で夏祭りはゴージャスすぎますねー。私、すぐ汚しちゃいそう』
『……気にするところはそこ?』
そんな会話をして笑いあった日は、確かにあった。
一年にも満たない期間の恋人関係だったけれど、会える時間は少なかったけれど、それでも二人は穏やかで優しい時間を共有していたのだ。
誤解やすれ違い、計謀に翻弄され、またお互いがお互いに、毅然と現実に立ち向かう勇気が持てず、はっきりさせないまま、双方に痛みと罪悪感を残したまま、その関係は消滅してしまった。
――今日こうしてすべてを語り合ったことで、そのしこりは多少でも和らいだのだろうか。
何となく会話が途切れて、ふと、片頬に当たる光を感じ、目を向けた。
サンシェード越しに差し込む陽光の角度から、いつの間にかかなりの時間が経っていたことに気づく。
葵は目の前にあるグラスに手を伸ばし、氷が解けて薄くなった液体をストローで吸い上げた。
目を上げれば、伊沢はどこから取り出したのか、その手の中で細いシルバーのボールペンを弄びながら何かを考え込んでいる。彼のアイスコーヒーのグラスはすでに空だ。
――そう言えば、やっぱり変わらずミルクだけ入れてたな。……もう一杯、入れてあげようかな……
「……葵ちゃん。……今、好きな人は、いるの?」
「――ふぐっ……」
不意を突くような質問に、葵はむせた。
好きな、人――?
瞬間、脳裏にはっきりとした輪郭をもって像は結ぶ。
ゲホッゲホッ、と数回咳き込んだ時、葵は目の裏にもう一度、同じ姿を見た。
「だ、大丈夫……?」
「ケホ……すみません……」
慌てたような伊沢の声に、葵は息を整えた。整えて、伊沢を見て、答えた。
「――私……います。……好きな人、いるみたいです」
伊沢は、その瞳を大きく見開いた。
変な言い方だったかな、と頬が熱くなった。少々他人事のような言い方になってしまったが、今の葵の正直な気持ちだ。
気づけば、そう、なっていた。
「もう、こんな気持ちを持つことはないだろうって、ずっと思っていました……でも、いつの間にか、その人の存在が大きくなっていて……私自身も、ちょっと驚いてます」
ふふ、と笑えば、伊沢の顔からゆっくりと驚きが落ちていき、その代わり、何とも言えない寂しさがその色を増した。
「そ、っか……それは……」
「え?」
「あ、いや……いいんだ。何でもない」
優しく笑った伊沢を、何となく正視するのも居た堪(たま)れない。葵はガタ、と椅子を鳴らして立ち上がった。
「尚樹さん、アイスコーヒーのおかわり、入れてきますね」
「あ、葵ちゃん。……僕はもう、帰らなきゃ」
「そう、ですか……」
ボールペンをポロシャツの胸ポケットに差し込んで伊沢も立ち上がる。そして右手を葵に差し出した。
「今日はありがとう。……葵ちゃん、元気で」
「……はい。尚樹さんも……お元気で」
葵もそろそろと手を差し出せば、二つの手はしっかり握手した。
すると、そのまま伊沢は、ふ、と小さく笑う。
「やっぱり、それいいね。嬉しいよ」
「え?」
「 “尚樹さん” って呼び方。昔みたいにそう呼んでくれて、嬉しい」
「あ……」
――そう言えば、いつの間にか。
意識して “伊沢さん” と呼んでいたはずなのに。やっぱり昔の習慣というものは、つい出てきてしまうらしい。
気まずげに目を逸らし、握手したままの手を引き抜こうとすれば、引きとめるように力が加わった。
「……尚樹、さん?」
「葵ちゃん……あの人に……」
「あの人……?」
「えっと、こないだの夜、この店を貸してくれた人。背の高い、給仕服を着ていた……」
「あ……黒河さんのこと、ですか?」
「あの人は、葵ちゃんの上司、になるのかな?」
「そうです。ここの店を担当してくれているマネージャーです。……黒河さんが何か……?」
「ううん、……そうか。……マネージャー……なるほど」
「あの……尚樹さん……?」
繋がったままの手を小さく動かせば、伊沢はハッとしたように、ゴメンと言って離した。
「葵ちゃん……その、黒河さん、によろしく伝えてもらえるかな。ずいぶん迷惑をかけてしまったし、今日もここを貸してくれたみたいだし」
「あ、はい、わかりました。ちゃんと伝えます」
「……お兄さんや弟さんにも、ご迷惑かけましたって、伝えてね」
にこりと微笑まれて、葵は、はいと頷いた。
かち合った視線の向こうに、一瞬何かが過ぎったような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
そうして伊沢は、寂しげな笑みを湛えたまま、店の出口に向かった。
カランコロン……と鳴ったドアベルとともに、細身の背中を見送る。
ドアの向こうへその姿が消えたと同時に、身体から何かがシュゥ、と抜けていく感じがした。
それだけ無意識にも気を張っていた、ということか。背中がすっと冷たく、膝がほんの少し震えている。
――緊張していたのかな、私。
どのくらいその場に、ぼーっと佇んでいただろうか。
――ギッ、と。
小さな軋音にパッと振り向けば、カウンターの対立て――半透明アクリル加工の向こう側に見えるいくつかの黒い物体。
ギョッと肩を躍らせれば、その黒い物体たちはうろたえたように蠢き始める。
「――だ、誰……っ!」
すると観念したように、カウンター裏からぞろぞろと出てくる男たち。
――仏頂面をした萩と、気まずげな顔の遼平、そして、困ったような笑みを浮かべた青柳伸悟。
「い……いつの間に……!」
何でみんなここにいるのっ?と、思わず叫びそうになった時、カランコロンと再び小さなドアベルが鳴った。
伊沢が戻ってきたのかと、葵が弾かれたように店の玄関を振り返れば、何やら不敵な笑みを浮かべながら入って来る、兄の蓮。
「蓮兄……どうして――」
突っ込みそうになった葵は、次いで蓮の後ろから入ってきたもう一人の姿に目を見張った。
「黒河さん……」
ドアから入ってきた侑司は、無表情にこちらを見つめている。
葵は唖然としたまま全員を見回した。
――何で? どうしてなんで、……え、ナンデ?
夏休みとはいえ今日は平日。萩と遼平はいいとしても、伸悟や蓮は仕事じゃないのだろうか。……しかも侑司まで。
ちなみに、五人の中で唯一侑司だけが、ワイシャツにスラックス姿……このまま仕事をしてもおかしくない姿ではある、けれど。
一瞬の奇妙な静寂が、誰かの小さな咳払いで破られた。
「……ゴメン、葵ちゃん。……ちょっと、心配になっちゃって」
――ひとり。気遣うように伸悟が言う。
「そもそもオレは、あいつと会うの反対だったんだからな。様子を見に来たっていいだろが」
――ふたり。不貞腐れたように萩が唸る。
「……葵……大丈夫か?」
――さんにん。痛みを堪えるような顔で遼平が葵を見た。
――よにん、ごにん。蓮と侑司は、何も言わず葵を注視するのみ。
その時何故か、可愛らしいメロディーが頭の中を駆け巡った。
確か子供向けの英語の歌で、インディアンが一人ずつ出てきて全部で十人になって……ああそうだ、あれは “リトル・インディアン・ボーイ” だ。
葵は堪らず噴き出した。
「ぶっ……はははっ!」
「あ、葵ちゃんっ?」
「……んだよっ、心配して来てやったっつーのに」
「ぶくくく……ゴメン、だって……あはははっ」
お腹を抱えて笑い続ける葵に、仏頂面の萩が口を尖らせて文句を言う。
蓮はひょいと肩をすくめた。
「……気が抜けたんだろ」
「そっか。……よかった……のかな?」
伸悟がホッとしたように脱力する。
「ちぇ……気ぃ張って損したぜ。オレはてっきり……、葵……?」
「……葵……」
萩の訝しむような声と、遼平の息を呑むような声が重なった。
あはは、は、は、と笑いながら、葵の身体がその場にへなへなと崩れ落ちる。
はは、は、という笑い声が、掠れた。
視界が揺れてぼやけて、振り払うように瞬けば、頬に滴が伝った。
おかしいなと思う。面白いのに。ぞろぞろと大の大人が五人も出てきて、インディアンボーイみたいにまだ出てきそうで、面白くてもっと笑いたいのに。
――どうして、こんなに胸が詰まるんだろう。
「……水奈瀬」
低い声で呼ばれて見上げれば、目の前にいるのは黒河侑司。
彼はへたり込んだ葵の元にしゃがみ込むと、大きな手で葵の頬を拭う。
「……大丈夫か?」
葵の心を震わせる声。覗きこむ深い色の瞳。涙を拭う長い指先。
不安に揺れる時、パニックになった時、いつも助けてくれた大きくて温かな人。
葵はグスッと鼻をすすって、侑司を見上げた。
「……ちゃんと、話をしました……」
「ああ」
「……全部、知ることができました……」
「そうか」
「……私も、全部、話し、ました……」
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喉の奥が引きつれて苦しい。あふれる涙で前が見えない。
すると、侑司はもう一度葵の頬を無造作に拭って、その手を葵の頭に乗せた。
「よく……頑張ったな」
「……ぅ……っ」
温かな重みが、葵の頭を撫でてくれた。
昔、父親が褒めてくれたように優しく、ほんの少しだけぎこちなく。
黒河さん……、黒河さん。
私、頑張れましたか……? これで、前に進めますか……?
私は、あなたを――、
止まらぬ涙は、自然と寄せられたワイシャツの肩口に吸い込まれる。
頭から滑り降りた大きな手が、葵の震える背中を優しく叩いた。
溢れ出るこの感情は、どこへ収めればいいのだろう。
どうやって処理すればいいのだろう。
――黒河さん……私は、あなたが、好きなんです――
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