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第2部
杉浦崇宏のめくるめく駆け引き術
しおりを挟む「――ぅひー、さっむー、さむさむさっむー」
運転席の後輩よりも早く助手席から外に出た杉浦は、途端に吹き付ける凍りつくような北風に身震いした。
午後の店舗会議をちょっとだけ抜け出しての “おつかい” の帰りである。
行先は日比谷――『櫻華亭』日比谷店。ホテル店舗は本日も通常営業のため、勤務中のスタッフに向けて何気なさを装うのには苦労した。
なのに結局、思った以上の時間が取られた割に、思ったほどの成果は上がらないという空しい結果。無益感が半端ない。
侑司と杉浦が密命を受けた “おつかい” という名の “極秘内部調査” は、とある不正疑惑の物証を極秘に洗い出すことが目的である。侑司がホテル店舗へ異動後、すぐに始動するはずだったのだが、慧徳で発生した虚言クレームのおかげで着手が延び延びになり、ようやく本格的に動き出せたのはつい一週間ほど前だ。
しかしこの内部調査、決して周囲に気取られぬよう慎重に、と厳命されているので遂行する時間が限られる。よって非常に効率が悪い。
しかも、探すものが曖昧不鮮明ときている。大体 “不正の証拠” と一口に言うが、マズいことをする人間は、マズい足跡など完全に消すのがセオリーだ。消した痕跡さえ定かではないのに、 “あるかもしれないけれどないかもしれない証拠” など、本当に見つかるかわかったもんじゃない。
とりあえず勅命を受けたからにはやれるだけのことをやるまでだが、時間も人手もないのに、無茶言わないで!と悶えたくもなる。
「ねぇねぇ、俺たちだけじゃ埒が明かなくなーい? 別方面からの調査も手をつけた方がいいと思うけどねー、ツインズあたりを動かしてさー」
ちらりと後輩に目をやるが、Tボーグ侑司は無反応……というより、他のことを考えている様子。
……まったく、ここんところ機嫌が悪いか、そうでなきゃめっきり上の空だな。
ハフと諦めの溜息を吐き出せば、お返しとばかりに窒息しそうな冷たい風が顔面アタックだ。
……ぅぷ、杉さん、ツラい。
駐車場から本社ビルの正面玄関へ回り、自動ドアが開くと同時に触れる暖かい空気にホッとする――が、次の瞬間、目に入った男女四人の塊に、杉浦のアンテナが激しく反応した。
「あれー、どーしたのー、みんなこんなところで固まっちゃってさー」
ニコニコと愛想よく、かつ抜け目なくその場を観察しながら近づけば、四者四様の表情にますます杉浦アンテナがビンビンする。
まるで片頭痛を堪えるような顔の牧野女史……必死に開けた糸目で何かを訴えてくる諸岡氏……杉浦の横の男に目を奪われちゃっている水奈瀬葵……何故か不敵な笑みを浮かべてこちらに視線を注ぐ男――、ん? ……誰だコイツ。
さほど背は高くなくガッチリした身体つきで、顔は浅黒く整った部類に入るだろうか(杉浦の好みじゃない)。自分と同じくらいの年齢に見えるが、長めの髪と私服の着こなし方で普通のサラリーマンっぽくは見えない。
特徴的なのは、その眼。人を観察するのに慣れている杉浦が、観察されている、と強く感じる隙のない双眸。
……うーん、あまり深く親しみ合いたくないタイプだ。ほら、同属嫌悪って言うじゃん?
「……えっと、こちらは?」
愛想を貼りつかせたまま誰にともなく問えば、水奈瀬葵が我に返ったように反応する。
「……例の、異物混入があった時に、その……口添えしていただいた、片倉さんです」
彼女らしくない、どこかソワソワとした小さな声。気になりつつも、紹介された男へ目を向ける。
――あーあれかー、隣のテーブルから首を突っ込んできたっていう、例の “お助けマン” かー。
話には聞いていた人物と目の前の男を脳内照合させる間に、その男は「どーも、その節は」と言いながら、如才なく杉浦へ名刺を差し出してきた。
――と、横から、杉浦だけが感じ取れる黒い瘴気が漂ってくる。……あれ? どーしたユージくん?
人知れず戦闘モードへシフトした後輩はともかく、もらった名刺に目を落とせば、誰もが知っている大手出版社の名が。
……おやおや? この出版社って……確か――、
名刺から視線を上げた時、その片倉という男は杉浦の隣に控える黒河侑司をちらりと見てから、言った。
「以前、そちらの黒河さんにはお話したんですがね。……例のクレーム騒動を解明する、重要な証拠を図らずも僕は手に掴んでいまして。それがやっと、ちゃんとした確証を持って提供できる可能性が出てきたので、こうして貴社にお伺いしたわけです。あのグルメサイトの対応に関するお詫びもありますし、先ほど黒河統括部長様にお会いしてきたところですよ。なかなか手厳しいお言葉をいただきましたけどね。――まぁそれはさて置き、その帰りにここで葵ちゃんと偶然会ったので、今、口説いていたところです」
その瞬間、水奈瀬葵がギョッとしたように片倉を凝視した。その傍ら牧野女史が片倉に掴みかかろうとするのを、諸岡が必死に止めている。
――なるほど。……大体、読めたぜ。
杉浦には、これだけで十分だ。
「……ほぉ、それはそれは。彼女はうちの大事な秘蔵っ子ですからねぇ? いくら大手出版社のやり手編集者様であっても、そう簡単にお渡しはできませんねぇ」
杉浦ののらくらした言葉に、当の本人水奈瀬葵は見開いた目をそのままカッと杉浦に向ける。……お目目が落っこちちゃうよ、アオイちゃん。
隣からは相変わらずゆらゆら漂ってくる真っ黒な陽炎。女史は今度、杉浦に向かって火を噴きそうだ。
……しょうがないじゃん。売られたケンカ、品定めするくらいいいでしょ。
「……失礼ですが、貴方は」
ようやく、まずの障壁はこっちか、と悟ったのだろう。食えない男片倉はそこで初めて、杉浦に本腰入れて向き合った。
――よっしゃ、オレ様が相手だ! かかってこい!
「ああ、これは申し遅れました。クロカワフーズ、営業事業部マネージャーの杉浦と申します」
――名刺はやらんがな!
「――ああ、あの……。お噂はうちの青柳から聞いてますよ、杉浦さん」
「……あおやぎ……ああ、マミちゃんですか? アオイちゃんと幼馴染の?」
杉浦が『アーコレード』担当の頃、何度か慧徳へ食事をしに来てくれて顔見知りになった、あのパワフル元気っ子。
水奈瀬葵に視線を向ければ、「……片倉さんは、麻実ちゃんのいる編集部の先輩でもあるんです」と、やはりソワソワ申し訳なさそうに言う。
にこりと余裕ある笑みを浮かべた片倉は、もう一度、ちらりと杉浦の横の男に意味ありげな視線を投げかけ、行きますよ?とばかりに先手を打ってきた。
「――では杉浦さん。貴方からも彼女に薦めてくれませんか? ――僕を、彼女の恋人として」
水奈瀬葵の口が開きかけたのを、片倉はすかさず遮ってさらなる一手を打つ。……再び、侑司をちらと見て。
「僕は彼女を大切にします。彼女を害する者は一切許しません。もし僕の味方について下さるなら、こちらの手にある貴重な情報を、直接杉浦さんに委ねても構いませんよ。彼女を今悩ませている問題も、僕が提供する重要な証言によって、一気に解消するかもしれない。僕はそれだけの価値がある男です。葵ちゃんの恋人として、一押しし甲斐のある人間だと思いますが……いかがですか?」
「いちおし、ねぇ……。さっきも言ったように、水奈瀬はうちの大事なお姫さまなんですよー。その、貴重な情報、ってのもねー、何だか知らないけど、お姫さまと引き換えになるくらいの魅力があるのかどうか……」
もぎゃーっ!と暴れる女史の咆哮が諸岡の手によって塞がれた。水奈瀬葵の目は大きなアットマークみたいになっており、隣からはついに “デデンデンデデン……” が聞こえる始末。
……もう、メンドクサイなー。
「――クレームを起こしたあの男女の正体を明かす、と言ったら、どうですか?」
「ほぉ? ……それはそれは。出版関係者の人脈網はスゴイって言いますからねー。でも、クレームをつけてきた客の正体がわかったところで、今更何が変わるわけでもありませんしねー。当社としては正直なところ、ネット上に事実無根の悪評が流れたその事態に、極めて遺憾の意を抱いているものでして」
「やはり杉浦さんも、クレーム客とネットに載せた人物は、同一ではないと……?」
「……そんなことは一言も言ってませんが?」
……ちっ、おまけに洞察力も抜群じゃねーか。
クク、と小さく笑う片倉……実に胸糞が悪い。
「まぁ、いいでしょう。実はその辺りの調査を、黒河統括部長様からご用命いただいています。まだこの場で確約はできませんが……僕は早急に、あの投稿記事を上げた人物のアカウントを調べてみるつもりですよ。クレームをつけてきた客とネットに記事を上げた人物が同一であるかどうか……調べればじきにわかることですからね。……その結果をご報告できる時、同じくして僕が持つ重要な証言が、陽の目を見る時となるでしょう」
芝居がかった口調、不敵な笑み。杉浦に向けて、侑司にも向けて。
よっぽどその重要な証言とやらに自信があるのだろう。その心意気は買ってやるが、売りつけてくるケンカはあくまでも杉浦用ではないらしい。さっきからチラチラと侑司を窺い、杉浦を間に挟みつつ、明らかに侑司を挑発している。
……くっそぅ、俺は “糸電話の糸” じゃねーんだぞ!
「ほっほぉー? さすが、大手出版社にお勤めの敏腕編集者さんは言うことが違うなー。……どーするーユージくーん、この人にお任せすれば一気に事は解決かもよー? アオイちゃん、あげちゃうー?」
……フン。んじゃ、バトンタッチしてあげるよーだ。
「……杉浦くん……後で覚えときなさいよ……」牧野女史のギリギリという歯噛みが聞こえてくるが、まぁ、聞こえないフリをする。
その時――、杉浦の予想外のことが起こった。
隣で舐めつくすように揺らめいていた戦闘オーラが、突如、――消えた。
「――いいんじゃないですか」
――は?
低く静謐な声に、思わず間抜け面を晒したのは杉浦だけではない。牧野女史も諸岡も、目の前の片倉でさえ、「は?」という顔をした。
――ただ一人、殴られたようなショックを受けているのは――、
「……いいと思いますよ。そこまで思ってくれる相手なら、つき合ってやるくらい――、」
「――つき合いませんっ!」
今度は杉浦がギョッとする番だ。
キッと侑司を睨むように見据え、なのに今にも泣きそうな顔で、水奈瀬葵はその想いのたけを解き放った。
「――私は片倉さんと、つき合いません! ……私の好きな人は、――片倉さんじゃありませんっ!」
言い切った水奈瀬葵は、そのまま正面玄関に向かって走り去る。
「――あ、葵ちゃん……っ!」
牧野女史が慌てて後を追った。――去り際、その場にいた男ども全員に、強烈な一瞥を食らわせて。
グーンという空しいドア音と冷たい外気が、取り残された男どもの間をすり抜けていく。
「……二戦目も、見事にフラれちゃいましたね」
彼女の去った方を見ながら、片倉がポリポリと鼻をかいた。
杉浦はつい、咎めるような目で侑司を振り返る。
消えたと思った禍々しい黒炎が、再びゆらゆらと侑司の周囲を取り巻いており、彼は硬質な顔のまま、閉まってしまった自動ドアを黙って見つめている。その仮面の下に押し込めているのは――……
ここまで自虐的アンドロイドな後輩に、もはや溜息しか出ない。
……まったく一体、ナニを考えてんのさ……
杉浦の心の内を代弁するかのように、片倉が侑司に非難の視線を向けた。
「見込がないことは十分わかったよ。……でも、黒河くん。俺の個人的意見を言わせてもらうなら……アンタにあの子はやりたくないね。アンタが何をどう考えてるのかは知らないが……アレじゃあ、葵ちゃんが可哀想だ」
そこに先ほどまでの芝居がかった挑発はなく、ただ、真摯に責めるような色があった。
「じゃ、俺はこれで。……杉浦さん、またそのうちに。統括部長様に仰せつかったご用命のこともありますし、そいつをクリアしてからまた来ますよ」
軽く片手を上げて、片倉も正面玄関から外へ出て行った。
それを見送る杉浦と諸岡をその場に残し、さっと身を翻してエレベーターホールへ向かう鋼鉄男。
諸岡が、ハッとしたように彼の背へ叫んだ。
「……黒河さん! 水奈瀬の目の下のクマ……気づいていますよねっ?」
侑司の足は止まらない。
「――さっきの、水奈瀬の “告白” ――、何とも思わないんですか……っ?」
ちょうどその時、ようやく店舗会議が終わったのか、開いたエレベーターの中から『櫻華亭』の面々がぞろぞろ降りてきた。侑司の姿は紛れ、エレベーターの中に消えてしまう。
こちらにやってくる大久保恵梨が、侑司を乗せて閉まるエレベーター扉を訝しげに振り返り、そしてロビーに杉浦と諸岡の姿を認め、さらにその顔を不審げに曇らせた。
ガックリと落とした諸岡のその肩を、杉浦は万感の思いを込めて叩いてやった。
* * * * *
「……馬っ鹿ユージ……あそこはさー、『あいにく、水奈瀬は物じゃない』とかさー、『お前にやるくらいなら俺がもらう』とかだろー? ……なぁんでああいうこと言っちゃうかなー……せっかく俺が見せ場を作ってやったっつーのにさー……」
ブツブツと聞えよがしに呟くこと、かれこれ数十分……その間、杉浦の仕事は全く進んでいないが、そこは気にしちゃいけない。
今日という今日は、この頑固一徹不器用Tボーグに、ガツンと言ってやらねばならないのである。……のわりに、ガツンではなくブツブツ……なのだが。
「……モロちゃんも言ってたけどさー、アオイちゃん、メチャクチャやつれちゃってるじゃん……俺もさ、慧徳に顔出すたびに気をつけて見てたけどさー、もう、今必死なんだよあの子……自分のせいで、って責任感じちゃってんだよー? ……そもそもユージがあのクレームの次の日、ヒドくあの子を責めたりしたからじゃーん? ……他でもないお前にあんな言い方されたらさー、素直なアオイちゃんは額面通りに受け止めちゃうだろー?」
ブツブツミジミジ……口では杉浦なりに侑司を責めているつもりなのだが、その目がつい手元に落ちがちなのは許してほしい。Tボーグをビシッと見据える勇気は、ない。
「……しかも、あーんな “告白” させちゃって……あの子がどんなにショックだったか、考えてもみろよー……、好きな男に他の男を “おすすめ” されたんだぜー? そりゃ叫びたくもなるっつーの……あーあー、アオイちゃん可哀そうに……ウルウルお目目になっちゃって……、あんな冷たぁーい言い方するお前よりかはさ、あの片倉って男の方がよっぽど――」
――瞬間、ものすごい音をたてて引き出しが締まり、ビクゥッと杉浦の肩が跳ねる。
恐る恐る目を上げれば、そこには今にも放電しそうなショート音を出しているサイボーグ。
杉浦の喉が思わずゴクリと鳴る。
自分と侑司、二人っきりの営業事業部室……何かあったら、誰が止める――?
あの後、撃沈した諸岡を大久保に任せ、杉浦は侑司の後を追った。
行先はわかっている――統括がいるだろう社長執務室だ。案の定、さっさと先に入りこんで “おつかい” の成果を報告している侑司の隣に、杉浦もシレっと並んだ。
片倉氏は統括部長に謁見済みだと言っていた。彼のことが喉元まで出かかったが、しかし口には出さなかった。侑司に負けず劣らず、統括のご機嫌も相当芳しくないように見受けられたからである。
モヤモヤ糞詰まる気分を胸に営業事業部室へ戻れば、デスクの上には店舗会議を抜け出た分の会議資料と、ボス徳永から仰せつかった雑用いくつか。
仕方なく侑司に倣ってデスクにつくが、杉浦が粛々と資料に目を通したのは最初の三十秒――あとは前述の通り、ブツブツブツブツ……
杉浦の恨みがましいブツブツが繰り出されるにつれ、Tボーグ侑司から発散される黒いオーラはより一層色濃く禍々しくなっていく。おそらく相当イライラしているのだろう。しかし、杉浦もいい加減怒りたい。
――そんなに強く閉めたら、引き出しが壊れるだろうっ?
「……なぁ、侑――、」
――ガタン、と杉浦の呼びかけは遮られた。
「――帰ります」
立ち上がった侑司は、向かいのデスクで書類を手早くまとめ、鞄に詰め込んでいる。
「ぅえぇ……っ? もう終わっちゃったのっ? ……ってちょっと待て! 話は終わってないぞっ? いいか、お前があーゆー態度をアオイちゃんに取り続けるっつーなら俺にも考えがあるっ! 後で吠え面かいたって知らねーんだか――」
――ダンッッ!と鳴った何だかわからない音にヒィィッッ!と杉浦の尻がジャンプする。
もぉ、ナンだってんだよぉ……またオイラ、チビっちゃうじゃねーかよぉ……
若干涙目になった杉浦を、侑司は底冷えするほどの双眸で射抜いた。
「……本社に送られた苦情とあのサイトに投稿された記事……あの中の、明らかにおかしい点を覚えていますか」
「あ、ああ……もちろん。 “栗のアイスクリーム” だろ?」
「あの記述から、内部犯の疑いが否定できなくなりました」
「ああ、そうだよ。裏でクロカワフーズの人間が関わっている可能性はギットギトに濃厚だ。……でもさ――、」
「彼女の周りで不可解なことが多過ぎます。クレームやネットの悪評だけじゃない。水奈瀬にかかってきていた無言電話の件も」
「わかってるって。……だけどね、まだはっきりとした証拠は何も――、」
「――もしこれが、警告、だとしたら?」
「侑司……」
「……内部調査の手が入ることをどこかで感づかれ、それを阻止するために脅嚇しているのだとしたら」
「 “これ以上深く突っ込んでくるな” って? その矛先が葵ちゃんに向いているのは、内部調査を手掛けるのがお前だから、ってこと?」
敢えて噛み砕いて突き返せば、侑司はサイボーグには似つかわしくない沈痛な面持ちで表情を歪めた。
「……どのみち、自分と関わらない方がいいんですよ」
「……あの子は、お前が思っているほど弱くはないよ。ついでに言うなら、お前が思っているほど、強くもない」
杉浦の、まるで憐れむかのような言葉に侑司の動きが一瞬止まる。……がすぐに、詰め終わった鞄とコートを手にし、足早にドアへ向かった。
「……内部調査は、閉店後のみに切り替えます。……今後は、自分一人にやらせてください」
背を向けたまま言い残して、侑司は部屋を出て行った。
ひゅるりーと空しい風が杉浦を愚弄しながら通り過ぎていく。
……なんだ最後の捨て台詞は。……あれか。遠回しな “あんた、もう要らない” ってことか!
「――んだよもぅ……うがぁぁぁっ……」
杉浦は猛然と髪を掻き回し、そのままデスクに突っ伏した。
解明されぬままのクレーム騒動に、まったく結果が出そうにない極秘内部調査。敵なんだか味方なんだかわからない新たな男まで現れて、状況はますますカオスじゃないか。
しかもだ。杉浦は今日、出向いた日比谷でとんでもない “噂” を耳にした。
――ねぇ、やっぱり日比谷、ヤバいんじゃない……? だって先月、社内で最低だったんでしょう? 今日の会議でこってり絞られるって、鷺沼さんが頭抱えてたもん。豊島支配人、いよいよ降格かもよ……
――まぁね。でも今更支配人が変わるだけで売り上げがアップすると思う? ……今の時代、ホテルのテナントでブランド力を上げたって、集客が上がるわけじゃないし……
――え、じゃあやっぱり、閉店の噂は、ホントってこと……っ?
――大きな声じゃ、言えないけどね。うちだけじゃなくて、ホテル店舗三つともヤバいって……もうずいぶん前から言われてることだよ……
日比谷の若い女性従業員二人の話だ。パントリー裏でコソコソしているのをたまたま耳にした。業績の芳しくない店で働く若いスタッフの不安は然もありなん、上にいるのが無能な管理者とくれば尚更だ。
実は現在、ホテル店舗の今後に関して、社長があちらこちらへ動いているという裏事情が、あるにはある。常日頃不在がちな我が社の総師だが、今回は遊んでいるわけではないらしい。
そんな上層部の秘密めいた気配が漏れ出て、従業員の不安を取り込みながら形を変えていったのだろうか。しかし、いくら何でも “閉店” はないだろう。
だが、その荒唐無稽さに呆れるよりも、その噂が一過性でも局所的でもないらしいことに、杉浦は途轍もない危うさを感じる。不穏な憂慮を孕んだまま、平面上、何事もないかのように取り繕われているのはある意味、異状だ。
さらに危険極まりないのは、あの虚言クレーム。先ほどの話に出た通り、クロカワフーズ内部の人間が何らかの形で関与している可能性はかなり大きい。むしろ、そうでなくてはあの不可解な記述に説明がつかない。なのに、それを証明できる証拠はなく、記事が削除されたことで見切りがつけられ、このまま有耶無耶に落着してしまいそうな気配さえある。
仮にそれらが侑司の言う、内部調査の手を阻止するための “警告” だとしても、不正疑惑の調査に加え、虚偽クレームに関して捜査する時間や人手は、今のクロカワフーズにはないのだ。
これから年間最大の繁忙期がやってくる。いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えながら、エンターテイメント・ショーは本番を迎える――
――むぅぅぅ……あいつが物に当たるほど感情を抑えられないなんて、初めて見たぜぃ……ていうか、イライラじりじりしてるのは、俺っちだっておんなじなんだぞぅっ! なんで俺っちばっかり、とばっちりを受けなきゃなんないのさっ!
目の前に、意味がありそうなピースがいくつも落ちてくるのに、それらが繋がっているのか、たまたま一緒に落ちてきたものか、現時点でまったくわからない。パズルの絵柄は、その端っこでさえ作ることができない。
つまらない意地など張っている場合ではないのに、あの朴念仁サイボーグは周囲を、水奈瀬葵を、そして杉浦までも隔絶するのだ。
――きぃぃぃっ! ……と髪を毟りたくもなる。
「……くっそぅ……こーなったらきょーこーしゅだんにでてやるぅ……」
ぼっさぼさになった髪のまま、ムクリと頭を上げた杉浦は、デスクに放り出してあった携帯を手に取り、目にもとまらぬ速さでボタンを操作する。
統括や徳永GMの許可は後回しだ。叱責ならいくらでも貰ってやる。けれど、体面を重んじ、極秘にこだわってモタモタしている間に “あるかもしれない証拠” が隠滅されれば、 “極秘内部調査” はゲームオーバー。不正を追及する機会は奪われ、また再び、愚かな不正行為がまかり通る羽目になる。まずは何としてでも、こっちの件を早急に片付けなければ。もう手段を選んではいられないのだ。
通話ボタンを押してわずかツーコールで出たのは、『プルナス』担当の西條マネージャー。彼の許可さえもらえれば、統括なんぞ怖くない。
「――お疲れ様ですー、杉浦でーす。……いえいえ、まだ本社ですよー。……ええ、ちょっと西條さんにお願いがありましてー……、……どうしてわかるんですか……いえまぁ……そうです。……ええ、双子を貸してください。あいつらに業者の方を当たらせます。……『プルナス』の営業に支障は出させませんので……、もちろん、西條さんのお名前は極力出さないように言い聞かせます。……はい、紛失した名刺の件も、これで明らかにしてみせますよ。……いえ、マジです。……ありがとうございます。そう言ってもらえると助かります……はい……」
通話を終えて、杉浦はよっしゃ、とガッツポーズを決める。思った通り、彼は快く了承してくれた。物分かりのいい御仁は話が早くて助かる。
――んじゃ、次!
表示したアドレス一覧を目にして一瞬考えるも、すぐに、どっちでもいいか、と肩をすくめる。
次の相手は少々難儀だ。こちらの本意を理解してもらうのに、色々な意味で二重の労力を要するはず。コール中に大きく深呼吸する。
「……もっしもーし、……ああオレオレ。杉さん。……んだよ、詐欺じゃないってば。……そんなイヤソーな声出すんじゃないのー。……なに、そこにおにーちゃんいるの? ……ああ、悪い悪い、お前がおにーちゃんだったねー……だからゴメンって。……ああ、スピーカーにして。あー、あー、聞こえるー? よし、……いやさ、ちょっと協力してほしいことがあって。……はぁ? また見返りかよ双子兄弟。杉さんはお前たちをそんな子に育てた覚えは――……、あのね、これは人助け……あ? ……違うって、お前らが大好きなアオイちゃんのためなんだって! ……いや、侑司のことは一旦忘れなさい。……だからね、それはやるせない男心っつーやつで……、…… “ドロドロ” もこの際忘れるのー! ……あぁっ? 二人いっぺんにしゃべると聞こえないんだって! あぁーっ、うるさいっ、ひとの話を、聞けぇ—っ!」
――誰もいない営業事業部室内に、杉浦の絶叫が響き渡る。
結局、こちらの伝えたいことがまっとうな形で伝わるまで約四十五分を要した。通話を切って、何故かゼーハーと肩で息を切らしつつ、杉浦は内ポケットを探り、一枚の名刺を取り出す。
――最後は、先ほど会った片倉という男。
あまりお近づきになりたくはないが、背に腹は代えられない。彼が持つ “重要な証拠” はおそらく、ハッタリじゃなくホンモノだ。
「――先ほどはどーも。杉浦でーす。……いやいや、……おたくの味方につく気はないよー。……うん、彼女のことは自分で何とかして? 諦めた方がいいと思うけど。……はは、あいにくそんな優しい心根は持ち合わせてないよ。……いや、そんなことはどーでもいいから。……実は真面目な “交渉” がしたくて電話したんだよねー。……あははー、よくわかってるじゃない。……そう、その “重要な証拠” とやらを俺に開示してくれないかなーと思って。……もちろん、見返りは用意してあるよ。……クロカワフーズへの窓口、この杉浦さんが受け持つ、ってことでどう? ……おそらく、うちの統括部長より、話が分かる男だと思うんだけどなー……」
――もはや火の用心だけでは間に合わない……できる限りの防火壁をせっせと建て増す、杉浦崇宏三十五歳。
手にあるピースの中で一番大きく目を引く、あの “憎悪の目” ――今はまだ、一つも隣り合うピースが見つからず、もしかしたら取るに足らない不要な一片なのかもしれないが。
しかし、杉浦にはどうしてか確信があった。
――アレはきっと、とんでもない絵柄を作り出す、脅威の一片に違いないのだ、と。
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