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第2部
希望の力、悪魔の文字
しおりを挟む「――ぅわっ……!」
咄嗟に手を伸ばすも無残に響き渡る硬質な破損音。華奢なガラスは見事に砕け散った。
「――おぉい、大丈夫かー?」
「あ、はい……すみません……あー、よりによってティーサーバー……うぅ……すみません……」
ランチ終了直後のバックヤード。洗い場から上がったコーヒーカップやティーサーバーを片づけようとしていた葵は、つい手を滑らせた。
転がり落ちて割れたのは、紅茶に使うティーサーバー。少々高値の什器だ。
溜息と共に屈みこみ、注意深く破片を集めながら、破損した周囲を広範囲にわたって念入りに確認する。
割れた場所が洗い場付近だったのが幸いか。ちょうど床面には足滑り防止と破損抑制のためのラバーマットが引いてあり、割れてはしまったが飛び散りは少なかったようだ。
もしディシャップ台近辺、もしくは厨房内で割れていたら大変なことだった。出してあった食材はすべて廃棄し、床面も作業台も棚も全部、水で洗い流し拭き上げなくてはならない。
「――おや、破損ですか?」
箒と塵取りを取りに行こうと身を起こしたところで、キラリンと光るツーポイントフレームの登場。現れたのは柏木マネージャーだ。
案の定、割れた残骸を目にするなり「……ティーサーバーですか。破損したのはいくつですか? 予備はあるのですか?」と矢継ぎ早に問うてくる。
ガラス製のティーサーバーは一つ三千円以上するのだ。柏木が眉を吊り上げるのも無理はない。
気を散らしていた自覚のある葵は、「すみませんでした」と頭を下げ、さらなるお小言を覚悟する。
――と、そこへ。
「おーら、飯にすっぞ。そこ、さっさと片付けろー」
「テンチョー、賄いセッティングOKー。チーフ、これ運んでいいっすかー?」
「――おぅ、持ってけぃ。柏木ぃ、お前も手伝えー」
佐々木チーフと池谷の声が、ほんの少しわざとらしく割り込んできた。
何か言いたげだった柏木は、一瞬葵をじっと見据えたが、すぐに「かしこまりました」と言ってディシャップ台に向かう。
「……店長、怪我はないですか? ガラスの破片はこれに入れてくださいね」
笹本がそっと差し出したビニール袋を受け取り、葵は「ごめんね」と何とか笑んで見せた。
――何やってんの……、私。
上の空。注意力散漫。心ここにあらず。
昨夜、ほとんど眠れなかったせいだろうか。――いや、そんなのは言い訳だ。
すべては己の脆弱な心のせいだ。私情を引きずり仕事に支障をきたすなど情けないことこの上ない。こみ上げる自分への腹立たしさを、噛みしめた奥歯ですり潰すのは何度目か。
砕けた破片、カチリと鳴った冷たい音。
いっそのこと、この尖った鋭い切っ先でこの身を傷つけてしまえば、澱んで渦を巻くこの苦しい想いを、血と共に流してしまえるのだろうか。
* * * * *
『――私の好きな人は、――片倉さんじゃありませんっ!』
定例会議から一夜明けた今日、葵はまれに見る後悔と忸怩たる思いに苛まれていた。
羞恥も顧みず、激情のままに叫んでしまったあのセリフを、取り消せるものなら取り消してしまいたい。
激昂したまま逃げ出したせいで、あの場にいた面々の反応など見る余裕もなかったが、残された彼らは、突如叫んだ葵の奇行に呆れ果てていただろう。
逃げ出した葵に追いついた牧野昭美は、はぁはぁと息を切らせつつも、俯いた葵の頭を一度ギュッと抱き寄せて撫でてくれた。
そして二人で駅に向かう道中、慰めの言葉も励ましの言葉もない代わりに、ただ葵にくっついて並んで歩いてくれた。
昂ぶりすぎた感情を持て余し、何度も歯を食いしばって泣くのだけは堪えたが、「気をつけてね」と駅で別れた牧野女史の方が、何だか泣きそうに見えた。
『――いいんじゃないですか』
どうでもいいような、関心のない冷たい声音。
いつかの海岸で、バッサリと拒絶された、あの時を思い出す。
『――これ以上、俺を、煩わせるな』
海風と波の音に弄られながら見上げた彼の顔……あの時の彼は、怒っているようにも、苦しんでいるようにも見えた。――果たして、昨日の彼は、そこにどんな色の感情があったのだろう。
不思議なことに、彼がどんな顔をしていたのか思い返してみても、まったく思い出せないのだ。
『……いいと思いますよ。そこまで思ってくれる相手なら、つき合ってやるくらい――、』
つき合えばよかったのだろうか。
片倉の言っていた “重要な情報” が、彼は欲しかったのだろうか。
あんな挑発めいた話を、真に受けて?
いや、そうじゃないだろう。きっと、どうでもよかったのだ。もういい加減、関わり合いたくなかったのだと思う。
本意でも故意でもなかったとはいえ、葵は問題を起こし過ぎたのだ。
侑司が『アーコレード』担当になった春先からずっと、葵の周りは騒がしかった。否応なくそこに巻き込まれる彼は、ほとほとうんざりしていたのだろう。
そこへ来てまた、クレームやらネットの悪評など、店だけでなく本社まで危機にさらす大事を引き起こしてしまった。
もはや自分は彼にとって、視界に入れるのも煩わしい存在であるに違いない。どうしようもないほど疎まれ、嫌われてしまったのだ――
「――水奈瀬さん? 聞いていますか、水奈瀬さん?」
咎めるような声にハッと我に返れば、葵に注がれているいくつもの視線。
今日の賄いは、葵と池谷、佐々木、笹本の四人に加え、柏木も同伴している。葵を除く四人の目が、こちらを見ていた。
「あ、す、すみま――、ぉあ……っ!」
慌てて向き直れば、その動きで腕が当たったお冷のグラスが倒れそうになり――、咄嗟に手で押さえセーフ。今度はセーフ。
ホッと肩の力を抜く葵に、柏木は心底呆れたように溜息を吐いた。
「……まったく、どうしたというのですか? ずいぶん注意力が散漫なようですね。体調が優れないならそう言って下さい。不調のままお客様の前に出て、もしそれで粗相でもしてしまったらどうなりますか? 今、この店は大事な時なのだと、前にも言いましたね? 一瞬の気の緩みが大きな崩落を呼ぶ決定打になりかねません。貴女にはその自覚があ――」
「――ネチネチネチネチ……うっせーんだって……」
小さくボヤかれた言葉を、柏木が聞き逃すはずもない。
「――何か仰いましたか、池谷くん」
レンズ奥の目までピカンと光らせた柏木に、賄いの場は一瞬、緊張が走る。
「い、池谷くん……」
「――柏木ぃ、メシぐらい楽しく食えやー。ピリピリしてっと消化不良起こすぞー」
窘めようとした葵の横からのんびり割って入ったのは佐々木だ。しれっとした顔でお椀をすすっている佐々木に視線を移した柏木は、しかつめらしく片眉を上げた。
「……佐々木チーフ。どうかわかって下さい。私はこのお店のために言っているのです。今、慧徳は重要な局面にあるのですよ。ここで問題を起こされるわけにはいきま
せん。水奈瀬店長にはよくやっていただいていますが、今日の彼女は少しお疲れのようです。休養が必要ならどうぞ休んでいただいて結構。ミスを起こしかねない人間に、お客様の給仕は任せられません」
「……そんな言い方ねーだろ。アンタ、何様のつもりで――」
「――池谷くん!」
――ガタンと椅子から立ち上がった池谷を制し、葵は改めて柏木に向き直った。
「……申し訳ありませんでした。でも、大丈夫です。体調も問題ありません。……お客様の前では、絶対に気を抜きません」
葵は、一言一句に静かな意志を込めた。
――これだけ、なのだ。今の自分にできることは、お店に立って来店してくれる客を心からもてなすこと、それだけしかないのだから。
柏木は片眉を上げたまま、黙って葵をじっと見据えたが、やがてそれがスイッチであるかのように、眼鏡のブリッジをくいと上げた。
「……では、クリスマスディナー用のワインとシャンパン、その他リカーの在庫を、もう一度確認願います。少し多めに発注をかけても構いません。それと、来週の貸し切り予約の幹事様に、最終確認のご連絡を。……それから、時期的にはまだ少し早いのですが、慧徳店の四周年のイベント企画について、いくつか案を出しておいて下さい。昨年までは杉浦マネージャーに任せた部分が大きかったと聞きましたが、そろそろ貴女もステップアップしてもいい時です。日頃の感謝をお客様に伝えられるような、且つ、『アーコレード』の魅力を十分にアピールできるような企画を練ってみて下さい。年明けの定例会議に間に合えば統括に提出しますので。……あとは、アルバイト募集の件ですが、今の季節はまだ求人雑誌に載せても反響が薄いと思われます。差しあたり年明け一月末頃までは、店頭告知だけに止めておいて下さい」
「……はい、わかりました」
神妙に頷き、葵はすぐさま、脳内やることリストの整理と並べ替えに意識を集中させる。
その横で、池谷が賄いの皿を突きながら、聞えよがしに呟いた。
「……休んでいただいて結構、とか言っておきながら、やらせることはハンパねーよな」
もちろん柏木は瞬時に応戦する。
「では、池谷くん。貴方が卒業後、クロカワフーズに入社するというのはどうですか? 採用の際、ここ慧徳店に配属させるよう私からも口添えさせていただきましょう。そうすれば “ハンパねー” 水奈瀬店長のお仕事を、思う存分お手伝いできると思いますよ」
「……柏木さん、もうやめてください。……池谷くんも、私は大丈夫だから、ね?」
グッと詰まった池谷は、美麗な顔を悔しげに歪めている。いつもクールな彼がこんな顔をするのも珍しいことだ。
柏木と池谷。一体、いつからここまで険悪な仲になってしまったのだろう。
特にここ最近の池谷は、事あるごとに柏木に対し突っかかるような物言いをするので、非常にハラハラさせられる。柏木の方がまだ “所詮相手は子供” といった態度を取っているため、池谷の暴言失言はさらりと流されるに止まっているが、元々口の悪い池谷と長広舌の柏木、一触即発の雰囲気になれば宥めるのも難しい。
すると再び、佐々木が間延びした声で、ピリピリした空気を一掃する。
「――おーら、さっさと食えー。今日のレバソテ中華風はなかなかの出来だぞ。やっぱし、片栗粉でよかったな、笹本」
「そうですね、意外とレバーがべたつかなくって美味しいです。――店長、このレバーは店用と同じレバーなので食べやすいですよ。チーフが “精力つけなきゃな” って賄い用に下ろしてくれたんです」
「ぉい、余計なことは言わんでいい」
「あ、卵スープは自分が作りました。スープの出汁は粉末なんですけど、卵はふわふわにできたと思うんですよね。これにはコツがあってですね……」
いつになく饒舌な笹本の話を聞きながら、葵はそっと皆を窺う。
憮然とした顔のまま皿を突く池谷、すました顔で箸を使う柏木に、飄々と食事を続ける佐々木チーフ……一見、普段と何も変わらない彼らの様子に、葵は、ああそうか……と今更ながら、身に染みて痛感した。
――不安を抱えているのは、自分だけじゃない。
異物混入の苦情が発生してから一か月余り。
その間、本部クレームに発展しネットに悪評が晒されるなど、店には次々と難事が降りかかったが、そんな中でも、佐々木チーフを始めアルバイトの皆は、以前と変わりなく一心に仕事をこなしている。いや、変わらないように努めているのだ。店のために。
心配顔を隠しながら明るく振る舞う笹本も、呑気そうな口調でさりげなく葵を庇う佐々木も、珍しく苛々と柏木に食ってかかる池谷も、皮肉な語り口で葵をせっつく柏木も……そして誰より、今ここにはいない遼平も。
不安なのは皆も同じなのだ。思うところに個々の差はあるだろうが、彼らそれぞれが憂慮を抱きながら、店を守ろうと懸命に頑張っている。
なのに自分は今、何をしている? 何を考えている?
仲間の苦心に気づかぬまま、己を責めて落ち込み、後悔と焦りにもがいているだけだ。独り善がりの恋情にしがみつき、グラグラと揺さぶられているだけだ。
本来こんな時こそ、自分が先頭に立って店の雰囲気を上げていかなければならないのに。
いい加減、吹っ切らなければいけない。
店と、この仲間たちを、守らなければならない。
葵は箸を掴み、レバソテ中華風、を口に頬張った。
ごま油の香りと、程よく効いているピリ辛風味はコチュジャンだろうか。レバーはしっかり下処理したのだろう、ちっとも臭みがなくプリッとしている。
慧徳店の賄いは、毎日洋食と向き合っている佐々木の意向で、中華テイストや和食テイストが並ぶことも少なくない。賄い用調味料もしっかり常備してある。
「うわ、ホント美味しい。レバーがジューシーですね。チーフ、中華風、アリです!」
ぐ!と親指を突き出して、葵は猛然とかっ込む。
「そんなに慌てて食べなくても……ほ、ほら、店長……、もう……」
白飯が胸に詰まりそうになった葵に、笹本がお冷のグラスや、スープのお椀を甲斐甲斐しく差し出してくれる。
何か言いたげな顔の池谷と、何も言うまいと顔を背ける柏木、佐々木はちょっと笑ってお茶をすすった。
――この店と、仲間がいれば、それでいい。
口に含んだ卵とネギの中華スープは、優しい味がした。
* * * * *
その日のディナータイムは葵と柏木、池谷に加え、ディナーからシフト入りの篠崎が入っても尚、忙しないと感じるほど、客の入りは上々であった。
十二月に入りまだ数日だが、早くも今月は忙しくなりそうな気配だ。予約もコンスタントに入り、来週と再来週には貸し切りパーティーも入っている。慧徳店では珍しい大人数での予約である。
悪質な投稿記事が削除されてまだほんの十日余り。依然として予断は許されない状況は続くが、こうして客をもてなすことだけに集中できる時間は、葵にとって無心になれる幸せな時間でもあった。
あと三十分ほどでラストオーダーとなる時刻。
カウンターの脇で満席のフロアに注意深く目を配っていると、篠崎が静かに傍へやってきた。葵と同じようにフロアへ目を向けたまま、小さな声で囁く。
「……店長、このあと終わったら……少しだけ時間をいただけますか?」
「ん? いいよ。どうしたの? 何かあった?」
「いえ……僕のことじゃないんです。……そんなに時間は取らせないように言ってあるんで……」
言いかけた時、レジ台にいる柏木がちらりこちらを見る。
そこへタイミングよく、厨房から料理が上がった合図がきた。彼は「詳しいことは、あとでまた」と早口に言い残してバックヤードに入ってしまう。
大きな?マークを頭上に浮かべた葵に、カウンター裏でコーヒーマシンを操作していた池谷が、「テンチョー、コーヒー豆、明日の分足りないかも」と顔を顰めた。
葵は慌てて備品置き場に駆け込んだ。
在庫チェックと発注書の確認で、コーヒーの豆はギリギリ間に合いそうだ。
やれやれと胸をなでおろした葵は、発注書をファイルに綴じようとした時、前回の発注書に目が留まった。
――あれ、そういえば……どうして……
それは、生乳やバターなどを頼んでいる業者の納品リストである。
《 洋梨シャーベット:2L 6本入り 発送ロット:1梱包 》
《 バニラアイスクリーム:2L 6本入り 発送ロット:1梱包 》
先日注文して届いた品だ。慧徳店ではここ数か月、アイスクリームやシャーベットなどの氷菓もここから取っている。
――アイスクリームメーカーの故障により、自店で仕込むことができないからだ。
夏の終わりに故障したアイスクリームメーカーは、結局修理の目処が立たず新機器を購入することになっていた。
ところが、海外のメーカーなので色々なやり取りに時間がかかり、ようやく新機器を選び本社の許可を得たのが十一月。しかしその十一月は、運悪く多くの店舗で予算割れとなったため、一台十数万円するアイスクリームメーカーの購入は先延ばしとなってしまった。
アイスクリームやシャーベットは、寒い季節になって単品オーダーこそ少なくなったものの、コース料理のデセールで必ず使うため欠かせない。既製品でも十分良品質なので、問題はないのだが……
《 ……お詫びだと言って出されたデザートは半分溶けかかった栗のアイスクリーム、もはや呆れるしかない…… 》
詳細を暗記しているわけではないが、確かこんな文面ではなかったか。
――どうしてあの苦情メールに “栗のアイスクリーム” が出てきたんだろう。慧徳では、一度も出していない……出せなかったもの、なのに――
「――ラストオーダー、以上でーす。シノ、3番と1番のデセール、もう出していいって」
「了解」
バックヤードから聞こえた声で、葵はハッと我に返る。
――今さら考えても、仕方ないか。
ふと思い浮かんだ違和感は、突き詰めれば不快な袋小路に突き当たりそうな気がした。
後ろ髪引っ張る感覚を無理矢理引きはがして、葵は急いでフロアに戻った。
それから瞬く間に店はクローズとなった。忙しかった割に客の引きが早かったのだ。一組の客が立つと、次々に他の客も帰り出すというパターンである。
片付けも早々に終わり、レジ締め業務を進める柏木の、先に上がって下さい、という言葉に甘えて、葵は池谷と篠崎の後に続き事務室に戻った。
すると、デスクの脇に何故か笹本が立っている。彼は二部学生なので、基本平日のシフトはランチタイムだけだ。
「お疲れさまです」と軽く頭を下げてきた彼に「どうしたの、忘れ物?」と首を傾げれば、笹本の視線が事務室の奥に流れる。その視線を追うと、隅っこの簡易椅子からバッと立ち上がった人物――葵は思わず叫んだ。
「――亜美ちゃん!」
いつ来たのだろう。コートを着たままの亜美はその表情を見る見るうちに歪ませていく。葵は慌てて駆け寄った。
「……ど、どうしたの? こんな夜遅く……何かあった?」
葵の背後で、誰かの溜息が落とされる。
「……てんちょぉ……あの、あたし……」
ウルウルと瞳に涙を溜める亜美を見て、葵の脳裏に嫌な予感がザザッと走った。
――まさか、もうバイトを辞めたい、とか、そんな……
しかし亜美は突然、思い切り頭突きするかの勢いでガバッと頭を下げた。
「……すみませんでしたっ……! バイト、さぼってしまって……!」
「……へ?」
ポカンと口を半開きにした葵に、亜美は潤んだ瞳を向けた。
「……あたし……、ちょっと色々あって……バイトに出るのが、その……面倒になっちゃって……学校だってウソついて……忙しくないのに、ホントはシフトに入れるのに、ウソついて……それで、連絡もしないで……店長にも、みんなにも、迷惑かけてしまって……ぅう……ごめんなさい……」
「……亜美、ちゃん……」
グズ、と鼻をすすった亜美は、呆気にとられる葵から、その後ろにいる池谷に向かった。
「……池さんも……ごめんなさい。……八つ当たりみたいなことして、嫌な思いさせちゃって……反省、してます。もうあんなこと言いません……ごめんなさい」
もう一度、深く頭を下げた亜美に、さすがの池谷も面喰ったようだ。
「……べ、別に、気にして、ねーし」
……見事なツンデレっぷりである。
苦笑いを浮かべた篠崎が、亜美の肩をポンと叩いて追加説明を施した。
「……どうしてもちゃんと謝りたいって、昨日、亜美から連絡があったんです。僕も、先月はあまり店に貢献できなかった身なので、偉そうなことは言えませんが……許してやってくれませんか?」
篠崎の言葉に続き、笹本も葵に向いた。
「自分、シフトの変更しに来たんですけど、さっき、亜美さんも一緒にシフトを出したんですよ。年末年始はしっかり入ってくれるそうです。……ね?」
笹本の問いかけに、亜美はブンブン頷き「入ります!働きます!」と言う。
葵はようやく、ホッと脱力して肩の力を抜いた。
「よかった……亜美ちゃん、辞めちゃったらどうしようって心配だったんだ……続けてくれるだけでありがたいよ? ……あ、でも、無理はしないでね。うちのアルバイトは強制じゃないんだし。アルバイトだけじゃなくて……学生の時にしかできないこと、いっぱいあると思うから」
葵だって、学生の頃は色々あった。ひっきりなしに入っていたバイトへ、突然行かなくなってしまったこともある……濱野夫妻は、それでも待っていてくれた。
「いーんじゃねーの? どーせ亜美なんか、ここがなきゃ一人ぼっちで寂しークリスマスだろ? 今までサボった分、働けっつーの」
ツンモードONの池谷が、ここぞとばかりに攻撃する。
「い、言われなくたって、働くもん! イブもクリスマスもフリーで入るもん!」
「フン、それで店に来るカップル見て、い~なぁ、とか言ってヨダレ垂らすんだろ」
「……な……っ、ヨダレなんか、垂らしませんっ!」
二人の掛け合いに、思わずその場のみんなが笑った時、さらに新たな声が加わった。
「――何だ騒がしぃな……おぅ笹本、どーした……お? 亜美じゃねーか。久しぶりだな」
厨房から佐々木がひょっこり出てくれば、その後に遼平と吉田も姿を現す。明日、朝一で特注も入っているため、終わるのが遅くなったようだ。
「……ん? ちょっと見ねぇうちに顔が丸くなってねーか?」
「……ひ、ヒドイッ、チーフ! こ、これでもちょっと痩せたのにっ!」
「チーフ……、それは女の子に対してものすごく失礼な気が……」
「んだよ、吉田ぁ。俺ぁ、太った、なんて言ってねーぞ?」
カカカ、と笑う佐々木の後ろで、遼平が静かに日報をつけている。
亜美の目が、一瞬ちらっと遼平の様子を気にしたように見えたが、すぐに佐々木や池谷のからかいに、むきになって反応し始めた。
もしかしたら……葵は賑やかな仲間たちを眺めながら、ふと思う。亜美が言った “色々あって” というのは、 “遼平絡み” かもしれないな、と。
何があったかはわからないが、これまでひたむきに頑張ってくれていた彼女が、バイトに入るのも辛かったのだから、相当悩んだのだろうと思う。
それでも亜美は、こうして気持ちを改め戻ってきてくれた。店に出られなかったことに対し罪悪感を抱いてくれるほど、店のことを案じ、力になろうとしてくれている。
ここでもまた、仲間への感謝の念が、改めてふつふつと湧き上がった。
この店は、ここにいる皆の力なくして、成り立ちはしない――
「――ずいぶん仲がよろしいことで」
突然傍で小さく呟かれた。いつの間にか柏木が葵の横に立っている。
「 “和気藹々” という四字熟語は、こういった場面で使うのでしょうね」
いつものようにツーポイントフレームを光らせ、いやに真面目くさって言うので、葵は思わず吹き出してしまった。
柏木と並んで、奇しくもスタッフ全員勢揃いとなった事務室内を眺める。
「イブの日の賄いは七面鳥出してくださいね!」
亜美の明るい声が上がる。
「――え、チーフ、シチメンチョーさばけるンすかっ?」
吉田の素っ頓狂な声も上がった。
皆がドッと笑って、突っ込み合いが小気味よく交差する。
葵の心の奥に、ここしばらく感じることのなかった温かなものがポッと灯り、目の前の光景がとても眩しい光のように感じられた。
「……柏木さん。……私、ここのみんなが、大好きなんです」
――自慢のスタッフだ。かけがえのない、葵の宝物。
「……だから……負けません。頑張ります」
――この店を、今まで以上の、最高の店にするのだ。
柏木がくいと顔だけこちらに向けた。
しばしじっと光るレンズを葵に向けていたが、ぽそりと呟くように言った。
「……黒河マネージャーがここを守りたい気持ち……わかった気がします」
「え……?」
見上げた柏木の顔に、初めて目にする笑みらしきものが浮かんでいて、葵はパチパチと瞳を瞬く。
今のはいったい、どういう……?
「……あの、てんちょ……」
すると、盛り上がる輪の中からいつの間に抜け出したのか、亜美が脇からそっと葵の袖を引いている。
「ん? どーしたの……」
「あたし、てんちょーに……話しておかな――」
「――おーっし、明日も早ぇんだ、帰るぞー。お前らとっとと着替えろぃ」
腰を上げた佐々木の声に、亜美は言いかけた言葉を引っ込めてしまった。和気あいあいのメンバーがそれぞれ動き出す中、「またあとで」と亜美の口元が動く。
「――店長、更衣室使って下さい。僕らはここで着替えるんで」
「あ……うん、ありがとう」
篠崎の心遣いに頷いて、すでに葵から離れた亜美に気を取られつつ、更衣室に向かおうと足を踏み出す――その時、突然電話が鳴り出した。
時刻はすでに十時半過ぎ……こんな時間にかかってくることは滅多にない。
データ入力しようとデスクに向かいかけていた柏木が、訝しげな顔で受話器に手を伸ばす寸前、ピー、とFAXに切り替わった。
何となく、その場の全員の目が、動き出すFAXに集まる。
「……こんな時間に何ですか、発注ミスでも――、」
柏木の声が、途中で切れた。
ジジジジジジ……と白い紙が吐き出され、不自然に大きな黒い文字が、徐々に姿を現す。
《 慧 徳 の 水 奈 瀬 葵 は 》
「え……?」という、いくつかの声が漏れた。
《 妊 娠 堕 胎 繰 り 返 す 淫 乱 女 》
「……お、おい……」
「……ちょ……なんだよ……それ……っ!」
《 精 神 疾 患 誇 大 妄 想 幻 聴 あ り 》
「――と、止められないんですか……っ!」
「……っ、FAXを途中で、止めることなど……っ」
「――柏木さんっ、で、電源を――、」
《 彼 女 を 孕 ま せ て 捨 て た 陰 獣 は 》
「……どけ……っ!」
柏木が押しのけられ、池谷の手がストップボタンを押し、遼平の手が白い紙を引きちぎり、篠崎の手がFAX機から電源コードを乱暴に引っこ抜いた――しかし、途中から引きちぎられた白い紙の残骸は、無情にもFAX機の上で、すでにその全容を表していた。
《 黒 河 侑 司 》
――葵の五感は、全機能停止した。
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