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第2部
七転んで、八起きて
しおりを挟む「美味しかったよ、ごちそうさまー」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
ランチタイム最後の客を会計し、葵は頭を下げる。軽やかなドアベルが満足そうな常連客を送り出した。
「よし、片付けますかー。今日の賄いはなーにっかなー」
フロアで客を見送った亜美は、さっそく鼻歌交じりにスキップだ。葵はくすりと笑ってホルダーに刺さったランチタイム分の伝票をまとめた。
――戦慄のFAXが届いた夜から、一週間が過ぎた。
その翌日と翌々日の計二日だけは強制的に休まされたものの、その後は通常勤務に戻ることが許可されて、葵はこうして今まで通り店に立っている。
十二月も中盤に差し掛かり、例年のごとく客足は好調だ。予約もコンスタントに入り、慧徳の店は大手を広げて訪れる客たちを迎えている。
それに伴い店内も日ごと活気づいていくようだ。亜美が再びシフトに入るようになり、また学生たちが次々と冬休みに入ったこともあって、毎日賑やかで楽しげな雰囲気に彩られている。
――まるで、何事もなかったかのように。
「――葵、今日の賄いにクリスマスメニューのデセール、試作を出すから」
厨房から顔を出した遼平が、相変わらず抑揚に乏しい口調で告げた。
「ホント? 亜美ちゃーん、聞いたー? デザートフォークと小皿、よろしくねー」
「はーい! やった、試食! クリスマスのデセール、どんなのかなー」
ウキウキと弾むように亜美がカウンター裏へ入っていく。
遼平はほんの少し葵に目を止めて、すぐに厨房へ戻っていった。
あの夜、ぐらりと傾きそうになった身体を支えてくれたのは、遼平だったと思う。
『――葵っ!』
切羽詰まったような彼の声が、耳の奥に残っている。
FAXを見た時、葵はおそらく卒倒寸前だったのだろう。目の前は真っ暗になり、音が消えて天地の境が無くなった。
ショックのあまり茫然自失となった葵の傍ら、その場を取り仕切ったのは佐々木チーフだ。柏木に車を取りに行かせ、アルバイトたちに指示して帰らせ、店の電話を使って誰かと怒ったようにやり取りをしていた。そういえば、戻って来た柏木も自身の携帯でしきりに電話していた覚えがある。
そして、葵は着替えることもせず制服のまま、柏木のコンパクトカーに乗せられた。
車へ乗りこむ間際に、見送る佐々木が「侑坊は大丈夫だ」と、力強い声で囁いたのもおぼろげながら記憶にある。どうやら葵は自覚もないまま「どうしよう、黒河さんが」と何度も何度も、繰り返し口にしていたたらしい。
気づいた時にはアパート前だった。
明日はこちらから連絡するまで自宅で待機を、と告げた柏木の声音がロボット音声のように聞こえた。
混濁する思考の中、たった一つだけ鮮明に意識していたのは、最後の部分。
――どうして、《黒河侑司》……?
自分のことも相当無惨に書かれていたけれど、葵を鋭く刺し貫いたのは最後の一節。
彼の名がそこにある意味、理由がどうしてもわからなかった。
「――てんちょー! 今日の賄いは “かれー” の煮つけですってー」
レジ締め作業を終えて、賄い準備を手伝おうとバックエリアに入れば、ディシャップ台から厨房を覗いていた亜美が元気よく報告してくる。
「めっちゃ和風テイストでーす。クリスマスデセールに合わなーい」
何がツボったのかキャッキャと笑い転げる亜美に「文句があるなら食わんでいい」と佐々木が父親のお小言みたいな台詞を吐いた。
「食べます食べます! “かれー” 大好きー!」
「カレーじゃねぇぞ、カ・レ・イ、だ」
「なんか、お父ちゃんと娘っ子みたいっすねー」
さりげなく突っ込む吉田も同じようなことを思ったらしい。
葵と目を合わせた笹本が「店長、今日の汁物は豚汁ですから」と笑った。
皆が変わらず葵を「店長」と呼び、葵がここにいて当然だという顔で接してくれている。
例の忌まわしい中傷に関して、問われることもなければ責められることもなく、まして慰められることもない。店のスタッフ全員が、まるで示し合わせたかのように、一言もそれについて発することはなかった。
実はあのまま、退職処分も覚悟していた。
あのFAXは、クロカワフーズ傘下の全店舗と、さらには本社にまで一括送信されたという。FAXに書かれた内容の真偽がどうであれ、社内を騒がせ規範を乱しかねない悪影響を与えた責任は重大だ。
なので、徳永GMから直々に「直接会って話がしたいんだが」と電話があった時、葵は絶望的な思いで覚悟を決めた。
だが予想に反して、社長執務室の隣にある応接室にて面と向かった徳永GMは、開口一番「大丈夫か、体調など崩していないか」と葵を気遣った。次いで驚くことに彼は、頭を下げて謝罪したのだ。
――今回のこの悪質極まる所業は、社内の人間の仕業である可能性が高い……もしそうならば、社員へのモラルや倫理教育の徹底が為されていなかったということ……被害者となった君に大変申し訳なく思う……と。
マネージャー陣の長、徳永は、会議などで見る時はいつも渋面の刑事を思わせる厳めしい印象の人物なのだが、この時は珍しく、穏和な表情に慰撫するような優しさを滲ませていた。
彼は社長及び統括部長の不在を詫びた上で、届いたFAXすべてを早急に回収し終えたと告げ、徹底的な調査と犯人に対する厳たる処罰を葵に約束した。
FAXの内容に関しては、不思議なほど何も追及されなかった。怖れていた叱責も詰問もなされなかった。訊かれたのは、今回の中傷FAXの他に、嫌がらせの類や気になる出来事はなかったかどうか、それから、自宅から店までの通勤手段や店舗システムのセキュリティ状況などを再度確認するだけであった。
最後に、こんな状況下だが引き続き慧徳の店を率いてもらえるだろうか、と尋ねられ、葵は不覚にも涙が零れそうになった。引き結んだ口のまま「はい」と答えた葵に、徳永は「ありがとう」と優しく頷いた。
かくして、事情聴取は呆気なく短時間で終わった。
葵が「あの」と呼び止めたのは、徳永が葵を促し立ち上がろうとした時だ。
これだけは、どうしても言っておかなければならない、と思った。
『――FAXにあった、黒河マネージャーの部分は嘘です、彼は全く関係ありません』
葵の言葉を聞いて、徳永は一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに表情を和らげた。
――わかっているよ、と大きな掌で肩を優しく叩かれて、葵はそこで初めて、身体の力を抜くことができたのだ。
あれから今日まで、多くの人が葵に立ち上がる力をくれた。
牧野女史も諸岡も、大久保や杉浦までが代わる代わる電話をかけてきた。萩と麻実も、翌日にアパートを訪ねて来て、一晩一緒にいてくれた。皆が特に言葉を尽くして慰めたり励ましたりすることはなかったが、葵を心配し気遣ってくれることは身に染みて伝わった。
兄だけが葵の仕事を否定し、クロカワフーズを批判し、黒河侑司を非難したのは胸に痛かったが、こうしてショックから抜け出し正気を取り戻し、店に立つことができるのは、周りの温かさがあったからこそだった。
* * * * *
賄いの後、その一皿は恭しく出された。クリスマスイベントの期間限定、コースオーダーのデセール試作皿だ。
「――うわぁ、豪華ー! きゃぁ、これ、このコビト、かっわいいー! どうやって作ったの?」
亜美の歓声に、ちょっと不満げなのは笹本だ。
「一応、サンタクロースのつもりなんですけど……、苺と生クリームで作りました。目はチョコレートをほんの小さく絞るだけです。……やっぱりサンタクロースに見えないかな……」
矯めつ眇めつ皿をまじまじと見やる笹本に、傍らの吉田もふむと腕を組んだ。
「 “おヒゲ” をもっと大きくしたらどうすかね? サンタといえば、真っ白なおヒゲっすよ」
吉田のアドバイスに笹本も、ヒゲか……と考え込んでいる。葵は佐々木と目を見合わせ、小さく噴き出した。
「……えーと、ガトーショコラに生クリーム、レアチーズケーキにベリーソース、フランボワーズのムースと苺のサンタクロース、ミントの葉……ですね。コースのデセールなので、量的にも十分だと思います。仕込みは大丈夫そうですか?」
皿に盛られた一つ一つはミニサイズで少量だが、盛るアイテム数が多いので手はかかりそうだ。椅子にふんぞり返りお茶をすする佐々木に聞けば、彼は鷹揚に頷いた。
「ガトーとレアチーズはレシピ的にはシンプルだ。ムースもいつもと変わらんから問題ねぇだろ。……まぁ、やるのは五日間だけだ。何とかなるさ。予約がほとんどだから数も決まってるしな」
「チーフ、食べてもいいですかー?」
テーブルの真ん中にお披露目されたその皿を、早くも亜美のフォークが狙っている。苦笑する佐々木に「よし」をもらった亜美は、早速レアチーズの一片を口に入れ、「んんー!」と悶えた。
「おいしーっ! こんなデザートが来たら、女の子は幸せですよぉ。カップル客は盛り上がるんだろうなー。『見てぇこれカワイィ~』『じゃあオレのも食べていいよ』とか言っちゃって……うぅ、それもなんか悔しーい」
くるくると表情を変えて一人寸劇する亜美が可笑しくて、葵は声を上げて笑った。
「てんちょー、ヒドーい、笑うなんてー。てんちょーにはケーキあげませんよ。この “サンタになれなかったコビトちゃん” で我慢してくださーい」
亜美の指で摘ままれた苺の小人が、ちょこんと葵の目の前の小皿に置かれた。
「あ、いいよ私は。みんなで食べて」
「ダーメですー。味見しとかないとお客さんに聞かれますよー? 『これコビトですか? それともサンタクロースですか?』って」
「いや、それは味見しても判断がつかないっていうか」
「……くそぅ……絶対、サンタクロースにしてみせる……」
傷ついた笹本の小さな決意に、その場のみんなが笑った。
笑いながら、自分を見上げる小さな苺の小人に目を落とした時、ふと、微かな既視感が葵の脳裏をよぎった。
その正体に気づいた瞬間、葵の中を何かが駆けあがる。鼓動が加速する。
――苺の小人……コビト……そうだ、これなら、みんな喜ぶ……子供だけじゃなくて……大人も、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、みんな。
ほんのりと頬を紅潮させ、小皿の中を凝視する葵に、遼平がちらりと目を向ける。それに気づかない葵の頭の中は久しぶりに高揚し、目まぐるしく回転し始めていた。
* * * * *
さらに一週間ほど過ぎた。
クリスマスイベントを三日後に控えた夜、すでに他のスタッフは全員帰った事務室の中で、葵は一件の企画申請書を柏木に提出した。以前、発案を命じられた “四周年記念” のイベント企画である。
「…… “大人のお子様ランチ” ……?」
デスクチェアに姿勢よく座った柏木は、差し出された書類の中にある一句に目を止め、ツーポイントフレームを訝し気に光らせた。
―― “大人のお子様ランチ” ……いつかの日、お世話になった彼の人が手ずから作ってくれた特別メニュー。
苺の小人から “ミニトマトの小人” を思い出した葵は、あのワクワクするような、懐かしくてホロっとくるような “大人のお子様ランチ” を、四周年記念の期間限定メニューにしてはどうか、と思い立ったのだ。
厳しい顔つきで詳細を読んでいく彼の傍らで、葵は固唾を呑んで見守る。さながら王に供物を献上する使者といった気分だ。
「……なるほど。お客様自身が、プレートの中身をチョイスできるわけですね」
柏木が反応を見せたので、葵はここぞとばかりに身を乗り出した。
「はい! ハンバーグやエビフライ、コロッケなどの王道だけじゃなくてですね、ココットでグラタンやドリアを出したり、サーモンやローストビーフなんかのオードブル系が入ったりしても面白いと思うんです。もちろん選べる品数はちゃんと決めて、なんですけど」
「……リピート率が上がりやすいアイデアではありますね」
「そうなんです! ただのありきたりなお子様ランチとなると、一回食べたらもういいや、ってなるかなーと思ったんです。だからお客様が自由に、好きな物を選んで組み合わせるスタイルにすれば、飽きずにまた来てくれるんじゃないかなー、と」
「イベント期間は二週間程度を予定しています。期間限定の企画はリピート率よりも、いかに多くの興味や関心を惹きつけるか、というファースト・インパクトが重要なのですが」
「……あ、ま、まぁ、そうなんですけれど……でも! でもですね、話題性はあると思います! お子様ランチ、という響きに反応するのはお子様だけじゃなくて、大人の方も多いと思うんです! そう言えば昔よく食べたなー、とか、懐かしいなー、とか、そんな思い出を持っている方なら、絶対興味を持ってもらえると思うんです!」
勢い込んで前につんのめりそうな葵を一瞥して、柏木は再び書面に視線を落とす。息詰まる沈黙に葵が小さく喉を鳴らすと、彼は眼鏡のブリッジをくいと上げた。
「提供価格を一律にするとなると……原価の問題が出てきますね。例えば、ハンバーグやスパゲッティを選ぶ場合と、エビフライ、カニコロッケなどを選ぶ場合では、原価に大きな差が出てきます」
「あ……それは、その……」
「ここには “ドリンクも自由に選べる” とありますが、アイスコーヒーとオレンジジュースではかなり原価に差が出ます。その辺の兼ね合いはどう考えますか?」
「……ぅ、えっと……」
「オーダーが入れば入るほど利益が下がるような企画は、失敗だと言わざるを得ません。やるからにはお客様に満足してもらい、尚且つ、利益が得られる企画にしなければ」
「……はぃ……」
「さらに言わせていただくとすれば、 “お子様ランチ” はクロカワフーズ傘下全店舗のグランドメニューに載っていません。お客様からニーズがあった場合のみ、暗黙的に各店舗の料理長の判断に任せてはおりますが、原則として、クロカワフーズでは取り扱いがないメニューです。それをイベントメニューとして出すことに許可が出るかどうか……その見込みはかなり薄いと言えます」
「……」
……やっぱりダメか。
いいアイデアだと思った。というより、思いつくや否や、この案以外にないという強い思い込みではち切れそうになった。先走るあまり詰めが甘かった、ということか。
シュンと項垂れ肩を落とす葵を、柏木はしばし黙って見ていたが、ふとその口端をわずかに上げて小さく笑った。
「――貴女は……、 “起き上がり小法師” のようですね」
「……は……?」
「知りませんか? 下部に重しが仕込んであって、倒しても倒しても起き上がってくる人形です。今では乳幼児用の玩具などで様々あるようですが、元はどこか地方の郷土人形だったとか」
「いえ、それは知っています、けど……」
葵の家にも、昔あった気がする。郷土人形のそれではなく、どこかの玩具メーカーが出した、風船のように空気で膨らませたビニール製の人形。中に鈴が一個入っていて、倒され起き上がる度に鈴が鳴っていた。確か、萩が保育園に入りたての頃、齧って破ってしまった記憶が……いやそれはどうでもいい。……私が、アレ?
パチパチと瞬く葵に構わず、柏木は丁寧な手つきで企画書を揃えた。デスクの引き出しを開けて小さいダブルクリップを取り出す。
「――貴女が辞めてしまうのではないかと、皆が心配していましたから。あんなことがあっても、気丈に仕事と向き合う精神は、あの人形に近いものがあります」
「……えっと、それは……ご迷惑をおかけして、本当に申し訳なく……」
「責めてはいません。むしろ褒めています。ゴムのような柔軟さと強靭さは、水奈瀬さんの最大の長所でしょうね」
「……はぁ……ど、どうも……」
……まったく褒められている気がしないのだが。
柏木は几帳面に書類をまとめてクリップで挟んだ。
「私には持ち合わせのない特性なので、そこだけは感心しますよ。私はどちらかというと、打たれ弱い性質のようですから」
「――え、柏木さんが、ですか?」
思わず問い返せば、こちらに向けたレンズ奥の目が不服そうに細まった。葵は、すみません、と小さな声で呟いておく。
「物心ついた時から、ミスをしたり失敗したりする自分が許せない性質でしてね、間違えないよう、失敗しないように、万事に用意周到な手を回し、気を回す性格でした。……完璧主義だの、神経質だの人はあれこれ言いますが、要は、失敗することに慣れていないのですよ。……一般論ですが、こういう挫折を知らない優等生タイプの人間は、失敗した自分に向けられる非難や憐憫の眼差しに耐えられないものです。そしてさらに言うならば、一度躓いて倒れてしまうと、その後の起き上がり方がわからない」
自尊なのか自嘲なのか、淡々とした口調に葵は「はぁ」と曖昧な反応しかできない。
「ですから、打たれても倒されても、しぶとく起き上がる貴女のその精神力に感心しています。……あのような悪意ある悪戯に人的尊厳を傷つけられ、矜持を踏みにじられ、果てには憐みや蔑みの視線を向けられることなど、私なら……おそらく無理です。どうあっても耐え難い。……いえ、不遜な言い方をして申し訳ない。ですが、わかっていただきたい。これでも私は、本当に敬服しているのです」
そう言って葵に微笑を向けると、柏木はどこか遠くに視線を彷徨わせた。
そのまま黙ってしまった柏木を、葵が気遣わしげに覗き込めば、彼は我に返ったような顔で二、三度瞬く。そして「少し、昔話をしてもよろしいですか」とブリッジを上げる。
よくわからないまま頷いた葵は、「どうぞお座り下さい」と勧められた簡易椅子におずおずと腰を下ろした。
「……覚えていますか? 四年前、貴女は本店へ研修に来ましたね。その頃、私はまさに躓いて倒れて起き上がれない状態だったのですよ。……今だから申し上げますが」
いきなりの独白に、葵は面喰って「まさか」と言ってしまった。
確かに葵の入社前研修は『櫻華亭』本店で、当時の支配人はこの柏木であった。ちょうどその頃、彼は就いたばかりの新任だと聞いていたが、キビキビと従業員を采配していくその仕事ぶりは、決して躓き倒れた者のようには見えなかった。
困惑する葵に、柏木は「いいえ」ときっぱりと頭を振る。
「元々私は、支配人という責務を全うする器ではなかったのですよ。加えて、周囲の目も厳しかった……前任が黒河さんでしたので」
――ドキンと鼓動が跳ねた。
その名は、耳にするだけで様々な感情が大波のように葵を揺らす。
「……しかし比ぶべくもなく、私と彼は根本的に視点が違ったのですよ。……致命的な違いです」
葵の密やかな動揺を知ってか知らずか、柏木は静かに眼鏡を外し、とあるエピソードを語り始めた。
――柏木が『櫻華亭』本店の支配人に就いてしばらく経ったある日のこと、本店料理長である国武チーフが、柏木に向かってこんなことを言った。
『――オメェのやり方はつまんねぇなぁ』
本店の顧客は “異例” が当たり前で、それに振り回される厨房の負担は大きい。そのことに気を使い、柏木が予約の受け入れ方や予約メニューの一部に規制をかけようと発案した時であった。
国武の発した心底退屈そうな言葉は、柏木に大きなショックを与えた。
良かれと思い、申し出たのだ。言葉は悪いが、客の “我儘” をすべて受け入れることは、いかに老舗洋食屋の看板を掲げていても限界があり、どこかで線を引かなければならない。
店の利益を守り、厨房もフロアも混乱することなく上手く回すために、ほんの少し “ルール” を設けようと思った。それを『つまらない』という。しかも、前任の黒河侑司と比較され出された評価であることは明白だった。
その短い言葉の真意を、懇切丁寧に説明するほど国武は優しい人間ではない。放たれた言葉をショックと共に受け止めて、柏木は悶々とした思いを募らせていた。
だがその後、国武のようにわずかでも口に出してくれる人間はまだマシだと、柏木は気づく。
いつしか従業員の間に漂い始めた薄らとした靄のようなものを、柏木は濃厚に感じ始めた。それは苛立ちのようであり、諦めのようでもあり、鬱屈した不穏な空気であった。
何か一つの決定を成すたびに、どこからともなく溜息が漏れ、理由を説明すれば納得のいかない顔で渋々了承される。間違ったことは言っていないはずだ。あらゆる側面から十分に考えて、最善だと思われる選択の上で出した結論なのだ。
けれど、スタッフから不服そうな顔が返される。鬱屈感はさらにその濃さを増していく。
本店には、誰よりも長く本店支配人を務めた経験のある茂木氏が顧問として常勤しているのだが、基本的に彼は、その時々の支配人のやり方には絶対に口を出さない人だ。逆を言えば、間違っていても、それを直接指摘してくれることはない。相談すれば快く親身になって話を聞いてくれるが、その答えは自分で探さねばならない。そう、諭される。
結局、何が間違っているのかわからないまま、柏木は日ごとに焦りを募らせ自信を失っていった。
「……本店のスタッフは優秀です。支配人が代わったからと言って、そのレベルを落とすような安易な仕事をする人間はいません。ですが、モチベーションの維持という面では、なかなか “変わらずに” いることが難しい。上に立つ人間の器量というものは、存外大きくすべてに影響するものだと、その時初めて身をもって知りました。……私の器量が支配人に立つべき大きさでなかった、ということも含めて」
「そんな……」
否定しかけた言葉は詰まった。それを言うなら自分とて同じだ。店長を担う器量など自分の中に認めたこともない。店を任されるという諸々の意味を、そこまで安易に考えられない。
胸ポケットから淡いブルーの小さなクロスを取り出し、慣れた手つきで眼鏡のレンズを拭きながら、柏木は葵の心中を読んだかのように「それこそが、上に立つ者の負う責務です」と生真面目に言った。
「呑んでかかるくらいの度量があればまた違ったかもしれませんが、あいにくそこまでの豪胆さもありませんしね。……先ほども言ったように、私は打たれ弱いのですよ。行き詰っているのはわかるのに、どこで詰まったかがわからない、改善する方法がわからない。……あの頃の私は、本店支配人という重圧に耐えきれず、本気で辞めようかと思い悩んでいました。……そんな時、厳しい言葉で私の目を覚ましてくれたのが、黒河マネージャーです」
葵の鼓動が再び大きく反応する。
柏木は眼鏡を元通りにかけ直し、視線を宙に彷徨わせた。
「その日、彼はたまたま所用があって本店に来ていたのですがね、私が置かれた状況を見てすぐに察したのか、あるいは鶴岡マネージャーあたりから現状を聞いていたのか……一人孤立する私を裏に呼び出しました。そこでズバリ指摘したのです。……柏木は見るべき箇所を間違えている、従業員主体で考えるな、客の目線で物事を決めろ、と言われました。顧客第一に考えた上で出した結論ならば、必ずここのスタッフは従ってくれる、それでもついて来られない人間は、容赦なく切っていい――、と」
葵はハッと目を見開いた。一度、耳にしたことのある台詞だ。
『――ついて来れない奴は容赦なく、切れ』
かつて、胸の奥に消えずに残った冷たい声音……自分のことなのではないか、と恐れ戦き血の気が引いた記憶。
「どうかしましたか?」と覗き込まれ、葵は慌てて首を振った。
「黒河さんは、何か問題があれば徹底的に追及する人でしたからね、厨房とやり合うことなど日常茶飯事で、店に波風が絶えることはなかった。……私はそんなやり方を心のどこかで批判していたのでしょう。もっと “スマート” なやり方があるのではないか、と。けれど、体裁だけ取り繕っても駄目なのだ、ということがわかりました。時には怒鳴り返されるのも覚悟の上で、スタッフに負荷をかけなければならない時もある……ルールや固定観念に囚われず、ミスや失敗を怖れず、新しい試みに踏み込む勇気が必要な時もある……――すべてはお客様のために」
胸が締め付けられるような感覚がした。
切ない痛みとともに、葵は “彼” を思う。
「そんなギャルソンとしての根本的な信条を、私はすっかり忘れていました。支配人という立場に就いた自分の評価を気にするがあまり、客の目線より従業員側の目線を優先させてしまったのです。……そんな自己保身的な考えの私に、スタッフが快く従ってくれるはずもありません。……黒河マネージャーの言葉で、ようやく目から鱗が落ちました」
しんみりとした口調で語った柏木は、不意にレンズを鈍く光らせ、ブリッジをくいと上げた。
「不本意ながら、当時まだ学生だった水奈瀬さんも、私の鱗落としに一役買ったのですがね」
「え……私、ですか……?」
自分を指差した葵に、彼はどこか呆れたような一息を吐く。
「今だから正直に言いますが、あの当時の私は研修生というはた迷惑なものを押し付けられてうんざりしていました。私だけではありません、スタッフ全員がそうでした」
「……あの、でも、そんな風には……」
「見えませんでしたか? よほど必死だったのか、呆れるほど人が好いのか、ですね」
葵は「すみません……」と再び小さくなる。
お人好しはさて置いても、必死だったのは仰る通りだ。
カルチャーショックを受けるほどの品格の違い。プロフェッショナルな接客仕様、自信と誇りに満ちた従業員の凛とした姿勢。どこを見ても自分とはまるで違うハイレベルな世界。
必死で与えられた仕事をこなす一か月にも満たない期間、確かに周りを見る余裕などなかった。
「それが良かったのでしょう。貴女には不思議な力があるようです。飲み込みが早かったのもありますが、控えめに見えて物怖じもせず、あろうことか国武チーフに意見したことも」
「……ありましたね……すみません」
葵はさらに身体を縮めて呟いた。葵の中では忘れてしまいたい、若かりし日の恥ずかしい出来事だ。
「あの時はさすがに私も青ざめました。入社前の研修生が本店の料理長に意見するなど前代未聞のことです。……ですが、とんでもないことをしでかしたと焦る私の目の前で、国武チーフが大声で笑っていましたね。あんなに楽しそうな料理長を見たのは久しぶりでした」
「……はぁ」
「鬱屈していた店の空気が、一人の研修生を迎え入れたことで変わり始めたのですよ。最初は面倒な研修生の世話など、誰もが疎んじておりましたがね。ゲストのために、と一生懸命働く貴女の姿を見るうち、ギャルソンの原点を思い知らされた気がしました。“すべてはお客様のために” ――それこそが、客をもてなす真の心だと」
柏木は、何かを振っ切ったように顔を上げた。
「あれからマネージャー昇格までの約三年半……自分が満足できるほど支配人の職務を全うしたかと問われれば、自信を持って頷くことはできません。……黒河さんが成し遂げたような大きな改革を施すこともできませんでしたしね。……ですが、これだけは言えます。諦めず投げ出さず逃げ出さずに、何とか起き上がった自分は、わずかなりとも前進したのではないか、と。……ですから、起き上がるきっかけを与えてくれた黒河さんと水奈瀬さんに、私は感謝しているのですよ」
苦笑を浮かべた柏木は、照れ臭さを誤魔化すように小さく咳払いをして「これで昔話は終わりです」と立ち上がった。
脇に置いた自分のビジネスバッグを引き寄せ、開けた中にさきほどの企画申請書をしまい込むのを見て、葵は「あ」と驚く。
「――あの、それは」
手を伸ばしかけた葵に構わず、柏木はさっさとバッグの口を閉じてしまう。
「とりあえず、提出するだけしてみましょう。通るかどうかはわかりませんが……通らない可能性の方が高い気もしますが……この企画は実に “貴女らしい” 。加えて言うなら “この店らしい” アイデアです。もしかするとそこを買ってくれるかもしれません」
「……そうでしょうか……」
あれだけダメ出しされたせいか、勢い込んだ気分はすっかり萎えてしまった。
そんな複雑な顔の葵の横で、柏木はテキパキと帰り支度を始める。葵も慌ててデスクの上に散らばった日報のファイルなどを棚に戻した。
「それにしても…… “お子様ランチ” とは驚きですね。黒河さんも支配人時代、本店のグランドメニューに載せることはできないか、一時期、上と交渉していたことがありましたよ」
「……黒河さんが……?」
思わず振り返った葵をちらりと見つつ、彼は掛けてあったコートを手に取り、キビキビと着込んだ。
「結局、それは許可が下りず断念せざるを得なかったのですがね。……おや、もうこんな時間です。早く着替えてきて下さい。忙しい時こそ、無用な残業は控えなければ。……しかしイベント準備に加え、企画書まで手掛けてくるとは……毎度のことながら、貴女の手際の良さには驚かされますよ……」
これまた褒められているのかお小言なのかわからない柏木の言葉とともに、葵は更衣室に追いやられた。
手早く着替え、アコーデオンカーテンをそっと開けると、柏木はこちらに背を向けて電話中だ。
「――……はい、……こちらは問題ありません……はい、大丈夫です。……杉浦さん、冗談はやめて頂けますか?」
相手は杉浦さんか……と、葵は音をたてないように背後で髪を解く。携帯端末を耳に当て小さな声で話す柏木は、次第にその声音を曇らせていき、つい葵は聞き耳を立ててしまう。
「……インフルエンザ……? それは厄介ですね……いえ、こちらはまだ報告がありません。はい……確か、インフルエンザなら出勤まで一週間ほどかかりますが……抜けた穴は……黒河さんが入るのですか? ……大丈夫でしょうか、彼は先月からろくに休みを取っていないのでは……」
髪を梳く葵の手が止まる。
「……はい……ただでさえ風当たりは相当なものでしょうから……気になります。……それで、木戸穂菜美は……そうですか……仕方ありませんね、無断欠勤が続き連絡もつかないのでは退職処分は免れません。むしろ対応が遅すぎたのでは……? ……いえ、別に杉浦さんを責めてはいませんが――、」
通話を続ける柏木がそこでふと振り向き、葵と目が合った一瞬、気まずげな顔をした。
そのまま二、三言交わして通話を終えた彼は、何事もなかったような顔で携帯端末を胸の内ポケットにしまった。
「支度はできましたか? では帰りましょう」
「……木戸さんが、退職処分って……どういう……」
聞き逃すことができなかった葵に、柏木は重い息を吐き出した。
「それは上の人間が判断することです。……貴女が気にすることではありません」
「……でも、黒河さんは、」
「……水奈瀬さん。貴女には正直なところを言っておきます。彼は今、逆境の中にいると言ってもいいでしょう。……いえ、貴女のせいではありません」
凍りつく葵に、柏木は「いいですか」と諭すように言った。
「それでも彼は、貴女やこの店のために、全力を尽くしているのです。それを忘れてはいけません」
「……黒河さんは、何を――、」
震える声で問いかけた言葉は、首を振って拒否された。
「彼は強い人です。この苦境にあってもきっとやり遂げるでしょう。……水奈瀬さんが今、やるべきことは、この繁忙期を最高の形で乗り切ることなのです。……わかりますね?」
葵は愕然と言葉をなくし、小さく頷くしかなかった。
結局のところ、自分は蚊帳の外なのだ。
木戸穂菜美が退職処分だとか、侑司が苦境に立たされているだとか、クロカワフーズの中で異状な何かが起きているのに、葵は肝心なことを何も知らない。
周りの皆が葵をこれ以上傷つけまいと、危うきものから遠ざけようとする。不快な情報は耳に入れまいとする。
それに甘んじるしかない、泣きたくなるほど弱くて小さな自分。
しかしそれでいいのだろうか。こうして守られているだけでいいのだろうか。
「……ああ、降ってきましたね……今年初めての雪ですか……」
柏木と共に店の裏口を出てセキュリティをかければ、夜空を見上げた柏木が白い息を吐き出した。
つられて見上げた葵の顔に落ちる、氷とも水滴ともつかない小さな欠片。
落ちては砕ける冷たいみぞれ交じりの雪は、葵の手に、頬に、濡れた地面に吸い込まれて、呆気なく消えていく。
兄の蓮は、黒河侑司のせいで葵が巻き込まれた、と言った。黒河侑司への愚かな恋心を持ったが故に、彼へ向かうべき怨念が何の因果か葵に向かってしまった、と。
ショックだった。会社や仕事を非難されたことより、彼への想いまで否定されたことが、何より辛く悲しかった。
吹っ切らなければ、と、自分の心に言い聞かせたのは葵自身だ。けれど、駄目だと突き付けられれば、止めようもない想いの強さに気づかされる。
――やはり、許されないことなのだろうか。
もう誰かを好きになることなどないと諦めていた自分が、彼の強さと優しさに惹かれ、ようやく抱けた恋心だった。
何も望んでいないのだ。ただ、彼を想えることが嬉しかっただけなのだ。
――それさえも、断ち切るしかないのだろうか。
刺し込むような冷気を吸い、葵はきつく目を閉じる。
仕事は辞めない、と兄には豪語した。嘘じゃない。仕事は好きだ。店も仲間も大切だ。
けれど、自分のせいで彼が害を被るなら、いっそのこと切られてもいい、と思う。
そして、悪意の標的が自分だけにあればいいと、心の底から願う。
自分だけが貶められるのなら、歯を喰いしばってでも這い上がり起き上がるから。
――所詮、起き上がり小法師にできることは、自分の身を起こすことだけなのだから。
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