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松穂

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第2部

その聖者、駆け込み来店

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 今年のクリスマス・イベントは祝日や土日を考慮して、二十一日の金曜日から二十五日火曜日までの五日間である。
 一年に一度のこの期間、『アーコレード』慧徳学園前店に施されるのは、クリスマス仕様の特別な装いだ。
 玄関付近と出窓の張り出しには赤と緑が鮮やかなポインセチアが飾られ、テーブルクロスは深みのあるガーネット色のアンダークロスと、優しいモスグリーン色のトップクロスに取り換えられる。
 もちろん、玄関ドアには大きなリース、レジ台脇にはクリスマスツリー。大人の背丈ほどある立派なツリーだ。
 そして、クリスマス用のBGMが時に楽しく、時におごそかな調べをもって流れる中、各テーブルとカウンターに置かれた小さな赤いキャンドルに温かな火が灯る。ディナータイムには少しだけ照明が絞られ、そのキャンドルの灯が、訪れた客を優しく和ませるのだ。
 そんなクリスマス・カラーに様変わりした店内で振る舞われる、肝心の料理は……というと。
 この期間は通常通り、グランドメニューに載っているすべての料理を受け付けているが、やはりお薦めするのは、クリスマス限定のチキン料理である。
 去年まではクリスマス仕様にアレンジしたチキンソテーをメインに掲げていたが、今年はもう一品、オーブンで仕上げるローストチキンが加わった。
 使われるのは国産の骨付き鶏肉。仕込みの段階で肉身から骨を丁寧に外し、ハーブをふんだんに使った下味を丹念に染み込ませ、オーブンでじっくりと下焼きをする。オーダーが入ってから最後のひと焼きで仕上げるので、皮目はパリッと、中はふっくらジューシーなチキンが丸ごと楽しめるのだ。
 この『アーコレード』オリジナルの骨なしローストチキンは、ナイフとフォークで容易に食べられる点がポイントで、老若男女問わず注文が殺到すること間違いなしの一皿であった。
 それから、笹本に任されたクリスマス用デセールも、見事完成に至った。
 例の “苺の小人” は、彼の試行錯誤によって立派な “苺のサンタクロース” へと変貌を遂げることができたようだ。彼によると「生クリームを絞る口金を、顔とヒゲで変えてみたんです」とのこと。
 出来上がった小さなサンタクロースは、黄色い歓声を上げた葵と亜美の携帯によって、しっかり撮影されていた。

 こうして迎えたクリスマス・イベント。
 例年以上に予約が詰まり、忙しさで目玉が渦を巻きそうな毎日であったが、その期間、葵は驚くほどたくさんの電話やメールを受け取った。
 まず二十一日、イベント初日の朝に、牧野女史と諸岡から続けて店に電話が入った。内容はどちらも簡単な事前確認だったが、二人がさりげなくそれとなく、葵の様子を心配し気にかけてくれているのが身に染みた。
『――オンナ見せるわよ、葵ちゃん!』
『――水奈瀬、ここが正念場だからね』
 優しく頼もしい両先輩の言葉は、葵の心を力強く奮い立たせた。

 次の日の土曜日には、大久保恵梨からメールをもらった。
《 そっちはどう? こっちは昼も夜も万超えだらけ。くたばれブラックカード 》
 短くも彼女らしいメッセージに、葵は思わず噴き出してしまう。さすが『櫻華亭』はこちらと違って客単価が半端ないようだ。
《 残念ながらブラックカードは一枚もないです。でも、慧徳大学教授陣の名刺を三枚ゲットしました! 》と返信すれば、《 でかした! 》と返ってきた。

 小野寺双子兄弟からのメール着信は、イブの日の夜であった。
《 メリークリスマス! 聖なる君の瞳に乾杯! 》――添付画像は、深紅とエメラルドグリーンがグラスの中で見事な層を成したカクテル。
《 メリークリスマス! 聖女の微笑みに祝福を! 》――添付画像は、青白く淡く発光する中に小さな気泡がキラキラと光り輝くカクテル。
 葵も《 ごちそうさまです 》の返信メッセージと、 “苺のサンタクロース” の画像を二人それぞれに返しておいた。

 弟の萩と親友の麻実からも、イブの夜遅くにメールを着信していた。
 どちらも《 メリークリスマス! 》で始まって、萩はバイトが一年で最も忙しい時期なので今夜は家に帰れないかも、と愚痴交じりのメッセージを、麻実はクリスマスなのに撮影が入って午前様かも、とこれまた愚痴交じりのメッセージであった。
 二人とも揃って、変換間違いありに句読点なし。急いで打った感が可笑しくて、葵はまた噴き出してしまった。

 クリスマス当日、ランチタイムの真っ只中、店に電話をかけてきたのは杉浦だ。
『――ヤッホー! アオーイちゃーん! メリー・クリスマース! どぉーお調子はー。こっちはいまいちクリスマス色に乏しくてさー、慧徳のクリスマスが恋しいよー』
 相変わらずテンションの高いチャラ声に、葵もつい笑ってしまった。
 『紫櫻庵』は洋風と銘打ってあるものの、その形態は割烹なのでクリスマスのお祭りムードも控え目のようだ。
 だーれもオレっちの相手をしてくんなくてさー、という杉浦のグチグチが続く中、ランチのフォローをしに来ていた柏木が目敏くそれに気づき、子機を奪って「杉浦さん、今こちらは忙しいので」と問答無用で切ってしまう。
「なんつーか、哀れだよな……」と呟いた池谷に葵も「そうだね……」と同調しておいた。

 驚くことに、橘ちひろ――立花千尋からも電話をもらった。杉浦からの電話を切った後、バタバタとせわしないランチタイムが終わって、ちょうど賄い準備をしていた時だ。
 彼女とは、先月中頃の月会議の日、彼女のマネージャーが運転する車で本社から慧徳学園前まで送ってくれた、あの日以来だった。
『一昨日の夜に帰国したんだけど、そこからあちこちに呼ばれて忙しくって。もうクリスマスどころじゃないのー』
 そう言って、電話の向こうの千尋は耳触りの良い声で笑った。
 以前、映画の撮影を控えていると聞いていたが、どうやら先月末から海外での撮影が始まったらしい。年末年始は日本で過ごすために帰国したのだが、年明けにこちらで少し仕事をした後、一月の末にはまた渡航するという。
『クリスマスは葵ちゃんのところで食べたかったのにー。小母さんからはどうしても撮影の許可をもらえないし、こうなったら強行突破で押しかけようかなー』
 冗談なのか本気なのか判別しがたい言葉に、葵は苦笑するほかない。
 そんな近況報告が一通り済んだ後、ふと千尋は『葵ちゃん、ごめんね』と沈んだ声で謝ってきた。
 慧徳の店の悪評がグルメサイトに載ってしまったことを、遅ればせながらようやく知ったのだという。
『……昨日、よしちゃんから聞いて、初めて知ったの。……私も詳しい内容は教えてもらえなかったんだけど、ヒドいこと、たくさん書かれたんでしょう? ……あの日もそれで会社に残ってたんだよね? 私、全然知らなくて、強引な真似しちゃってごめんね。葵ちゃんの気持ちなんかちっとも考えてなかったね……』
 千尋の言う “あの日” とは、慧徳まで送ってもらった日――すなわち、彼女が本社に押しかけてきた、十一月の月会議の日のことだろう。
 確かにあの日は、グルメサイトの悪評記事のことだけでなく、遼平の本店引き抜きの話だったり、日比谷の豊島支配人から心無い言葉を浴びせられたりと、葵はこれ以上ないくらいに落ち込んでいたのだが、車で送ってもらう道中の、千尋との会話はとても楽しかったことを覚えている。
 彼女の発する不思議なバイタリティが、ドン底に沈む葵を照らし引き上げてくれた気がしたのだ。
 葵が慌ててそう伝えれば、千尋は『ありがとう』と聖母を思わせるような優しい声で言った。
 次いで店の様子などを聞かれ答えながら、葵は心中密かにホッとしていた。
 この様子だと、千尋はあのFAXの件は知らないようだ。部外者とはいえ、彼女は黒河家の人々とつながりがある。耳に入る可能性は否定できないが、できることなら知ってほしくないと思った。
 彼女はきっと葵のために、そして侑司のために、憤慨し心を痛めるだろうから。
『今度、絶対一緒にご飯食べようねー、また電話するねー』
 最後にそう言った千尋の明るい声は、やはり葵に、眩しい光のような不思議なパワーを与えてくれた気がした。

 心身共にハードなこの五日間、それでも葵が心から仕事を楽しむことができたのは、仲間や友人たちの温かい心遣いに力をもらい、慧徳店スタッフの明るさと頑張りに励まされたからだ。
 しかも、案じられた売上は上々であった。初日の金曜日だけ前年を割ったが、後に続く四日間で大きく盛り返し、全体としてはあの柏木も大満足の成果を上げることができたのである。
 かくして、年内最後のイベントは大成功に終わった。

 ――そして、その夜。
 最終日のディナーは早めに客が引けた上に、アルバイトたちの驚異的な働きのおかげで片付けも早々に終わった。
 何と彼らたちは疲れをものともせず、片付け最中に、飲みに行こう!と盛り上がり、結局、皆で連れだって『絆生里はんなり』へ行くことにしたようだ。
 店を閉めたら後から来てくださいよ、と口々に声をかけられつつ、葵はアルバイトたちを見送った。けれど、その後クローズ業務を終えたにもかかわらず、何となく店に残っている。
 時刻は二十三時少し前――事務室の掛け時計を見上げた葵は、ハフと一息吐いてデスクチェアに身を沈めた。
 実は今、佐々木チーフを待っている。
 ラストオーダー終了後、片付けを遼平たちに任せて着替えた佐々木は、妙に慌ただしく店を出て行ってしまったのだ。
「――ちょいとヤボ用があって出てくる。戻ってくるからセキュリティはかけなくていいぞ。鍵だけかけて、お前は先に帰っていいからな」
 出る前に、葵にそう告げていった佐々木は、どうやらもう一度店に戻ってくるらしいのだが、何となく先に帰るのが躊躇ためらわれた。……というより、このままアルバイトたちの飲み会に合流というのも気が乗らず、何となくグズグズと残っている……とも言えるのだけれど。
 とりあえず着替えて帰り支度を済ませた葵は、デスクチェアに腰掛けたまま、もう一度壁掛け時計を見上げた。
 ――あと、三十分くらいだけ、待とうかな。
 幸い明日は定休日で、少しくらい遅くなっても構わない。が、ただ待つのも手持無沙汰である。何かやっておくことはなかったか……と、ぼんやり考え込んだ葵は、しばしの後、よしと腰を上げる。
 ――コーヒーカップやソーサーの漂白分、ちょっと溜まってたかも。


 カップのラックごと洗い場に持ってきた葵は、ニットの袖をしっかり捲り上げて厚手のゴム手袋を装着した。綺麗に片付けられた洗い場のシンクにぬるま湯を張り、業務用の塩素系漂白剤をキャップ数杯分注ぐ。そしてゴム手袋をした手で大きく掻き回せば、つんと塩素の匂いが鼻を突いた。
 洗浄機だけでは落ちにくいコーヒーや紅茶の茶渋ちゃしぶは、酷いものは見つけたらその都度、メラミン樹脂スポンジなどで手洗いするが、時間がなくて手が回らない時は別のラックにはじいておくので、それが溜まっていく。十二月に入って忙しくなったせいもあり、なかなかこまめに漂白する機会もなかった。
 いつもはバケツでするのだが、業務終了後ならば洗い場のシンクで一気に済ませる方が断然早い。最後、漂白剤を洗い落とした後、洗浄機にかければ完璧だ。
 漂白液で満たされたシンクにカップとソーサーを一つずつ慎重に沈めて、葵は水底に揺らめく白い陶器をぼんやり眺めた。
 誰もいない静かな厨房は、ブーンという微かな業務用冷蔵庫の音がやけに際立つ。仄かに漂う塩素の匂いと、厨房の明かりを反射する水面……思い浮かぶあの人、、、の影。
 ここで葵は今更ながら、漂白しようと思い立った自分を責めた。……この匂い、、、、は、痛く切なく彼の過去、、、、を引き寄せてしまう。

『……高校二年のインハイ予選大会で、侑ね、スタート直前に具合が悪くなって吐いたの。……大会初日の予選、バタフライの男子二百、だったかな。……でもね、体調が悪かったわけじゃないの』

 いつかの日、立花千尋がワンボックスカーの中で語ってくれた、彼の痛ましい過去。純粋にひたむきに、泳ぐことだけを生き甲斐にしていた少年にとって、それは想像以上に辛く残酷な結果を招くことになったのだ。

『……原因は急性アルコール中毒。……何それって思うでしょ? 侑の水筒にウイスキーが仕込まれていたんだって。……飲んだのは少量だったみたいだけど、身体は過敏に反応したのね。黒河の血筋ってアルコールに弱い体質だから。……吐いて倒れて意識の混濁まであったらしくて、救急車で近くの病院まで搬送されて。私も沙紀絵小母さんと一緒にその病院に駆けつけたの。あの時はさすがに小母さんも青ざめていたわ。……幸い、大事には至らずに済んだけどね』

 シンクに張られた漂白液が、耳に残る千尋の声と共鳴するように細かく揺れる。
 水底に沈む白い陶器がぐにゃりと形を変えて、水面は巨大なプールと化す……当時の会場内のパニックぶりがどこからか聞こえるような気がした。

『……犯人はすぐに判明したの。同じ慧徳学園競泳部の同学年の男子。……侑の大会出場権を妬んで、親の目を盗んで掠めてきたウイスキーを、こっそり水筒の中に混ぜ込んだんだって』
 許せないでしょ、と苦く笑った千尋の瞳は、美しくも忌々しさを滲ませていた。でもね、と、その瞳はさらに怪しい光を宿らせたのだ。
『――最悪なのはそこから。その実行犯の男子もね、実は頼まれた、、、、んだってことが判明したの。……本当の黒幕は、その当時侑がつき合っていた同級生の女。理由は、水泳ばかりで自分のことを見てくれないから、だって』

 葵は咄嗟にゴム手袋の手をシンクの中へ勢いよく突っ込んだ。水面が大きく跳ねて幻像が壊れる。陶器が小さくくぐもった音を立てる。

『……侑は、あの事件以来、泳ぐことを辞めちゃった。プールの塩素の匂いを嗅ぐと吐き気を催すようになってしまって、水に入ることができなくなったの。……たぶん、あの時のことがトラウマになってしまったんじゃないか、って小母さんは言ってた』

 ――心的外傷トラウマ
 彼は前に、昔トラウマに似た症状を引き起こしたことがある、と打ち明けてくれた。その時、今では完治している、とも言っていた。
 だけれど、心的外傷は完治しない、、、、、と、葵は思っている。
 自分の経験からして、どうしても傷は残るもの、だと思うのだ。目に見えずとも、他人にわからずとも、自分が大丈夫だと思っていても。
 だからゆっくり、場合によっては一生をかけて、傷痕を上手くケアしながら生きていくしかない。

『――結局、あの女に処罰は科されなかった。侑がそう望んだって聞いたわ。実行犯の男子生徒は強制退部に謹慎処分を受けたけど、彼女はお咎めなし。学校側もこれ以上問題を広げたくなかったんでしょうね。私、どうしても納得いかなくて、みんながいる教室の中で横っ面を張ってやったの。 “好き” を言い訳にして、侑の夢や希望を打ち砕いたあの女が許せなかった。……でも侑は、彼女を一度も責めなかった。……許したんじゃないと思うの。……もう、どうでもよかったんだと思う。……泳げなくなった侑は、他のことなんてどうでもよくなっちゃったのよ。……それが、悲しかったな……』

 揺れる水面に、無機質で冷たい彼の眼が映り込んだ気がした。
 もう、ずいぶん会っていないような気がする。最後に会ったのは十二月の月会議の日。最後に顔を合わせたのは、本社ビルのロビー。うんざりだと言わんばかりに、自分を突き放した彼の、あの双眸。
 あの後すぐ、彼は身に覚えのない濡れ衣を着せられたのだ。
 《 彼女を孕ませて 捨てた陰獣は 黒河侑司 》
 違うのに。関係ないのに。彼は何も悪くないのに。

 ――どうでもいい……今も彼は、そう、思っているだろうか。

「――水奈瀬……?」
「……っ!」
 突然かけられた声に、飛び上がった肩が洗浄機にぶつかるほど驚いた。
「……何をしている、そんなところで」
 シンクの左側にある食器下げ台の向こうから、洗い場にいる葵を覗くスーツ姿。
 目に映るその姿が現実のものだと理解するまで、しばしの時間を要した。
「……漂白、か?」
 そう言いながら洗い場に上がってきた彼を呆然と見上げる。胸が詰まり身体が震え、視界が潤んだ。

 ――嬉しかった。
 会えて、声が聞けて、顔を見ることができて、ただ、途轍もなく大きな嬉しさが葵を満たす。
 完全に疎まれているだろう……彼に会わす顔などない……それでももし、次に会えた時は、真っ先に謝罪しようと心に固く決めていた。何度も何度も繰り返し頭の中で、詫びの言葉を練習してきた。
 なのに、実際顔を見た瞬間、それらすべてが頭から飛んだ。
 ――ずっと、会いたかった人……、会えばこんなにも、嬉しいなんて。

 侑司がふっと顔を曇らせた。絶句したまま見上げる葵にそっと近寄る。
 手を伸ばし、葵の頬に触れて、一筋流れた涙を大きな手の平でぎこちなく拭う。
「……大丈夫か?」
 低く掠れた心配そうな声、覗き込むその眼の下に薄らと落ちる影。その頬も少し削げた気がする。――いつか、葵のアパートで熟睡してしまった夏の夜を思い出す。いや、それよりさらに疲労を溜め込んでいるような顔。
 葵はそこでようやく、すべきことと言うべきことを思い出した。
「……黒河さん」
 声までも震えてしまう。一歩下がってもどかしくゴム手袋を外し、葵は深々と頭を下げた。
「……この度は、本当に、申し訳ありませんでした。……私のせいで、また、黒河さんを巻き込んでしまいました。……本当に本当に、申し訳ありませんでした」
 頭を下げたままの葵の肩に侑司の手が触れた。ゆっくりと身体を起こすと、そこに顔を歪ませた彼がいる。
「……違う」
 苦悶に満ちた声が漏れて、再び武骨な手が葵の頬に伸びた。乾いた温かい手は葵の頬を包んだまま、感触を確かめるように優しく撫ぜる。
「……痩せたな」
 ――そんな、辛そうな顔しないで下さい。
 葵はゆるゆると頭を振る。
「……黒河さんだって……、すごく、疲れているみたいです……」
 伏せた目からまた滴が零れてしまって、すみません、と唇を噛んだ。
 ――最低だ、泣くなんて。
 さらに強く唇に歯を食い込ませた瞬間、葵の身体が、まるで水の中を掻くように引き寄せられた。

「……水奈瀬のせいじゃない……、お前を守ってやれなかった……すまない……」
 彼の胸元に押し付けられながら、葵はパニック寸前の頭で必死に考える。
 ――守って、やれなかった……? ……守る必要なんて、ないのに。
「……黒河さん……」

 コートは脱いできたのだろうか、冷たい外気の気配を残すスーツ越しに、侑司の体温が優しく伝わる。葵を包む身体が小さく震えているような気がした。葵はそろそろと腕を上げて、彼の背に触れてみる。
 ゆっくり撫ぜれば、侑司の腕に少し力が込められた。
 温かい体温……微かに感じる鼓動……ほんのり香るミント……ミントの、香り……?

「――あぁっ……!」
 突然侑司を押しのけて、葵はわたわたとゴム手袋をはめ直した。
「す、すみません! これっ、すぐ抜きますから……っ」
 シンクの中に手を突っ込んで、排水溝を閉じていた栓を手探りで抜き取る。ゴフッと一度鳴った排水溝は、漂白液を見る見るうちに吸い込んでいった。
「に、臭いますよね……そんなに液剤は入れていないんですけど……どうしよう、か、換気扇……」
 おたおたパタパタ、奇妙な動きで慌てふためく葵に、唖然としていた侑司が少し笑った。
「いや、大丈夫だ。……今はもう、たいして気にならないから」
 とりあえず流せ!と、勢いよく水道の蛇口をひねった葵は、侑司を振り返りその顔をまじまじと覗き込む。
 具合が悪くなったり、していないだろうか……と様子を窺った途端、ハッと我に返った。
 ――わ、私……まずい……っ……
 侑司は、葵の背後からシンクを覗き込み、腕を伸ばして白いカップを一つ持ち上げた。
「……いいよ。聞いたんだろう? 千尋から」
「……すみません……」
 コーヒーカップをゆっくりと回し見て、そっとシンクの中に戻す。
「こないだ千尋から電話をもらった。……水奈瀬に全部話したって、言ってたからな」
 葵は恐る恐る侑司を見上げる。その顔に怒っているような色は見えない。
「……詮索するような真似をして、すみません」
「いや、……水奈瀬には、機会があればいずれ話そうと思っていた」
 洗浄機を使うか、と言って、侑司は手早くスーツのジャケットを脱ぐ。
 いえ、あの、私が……と、再びおたおたしてる間に、侑司はさっさと洗浄機の電源を入れてラックをセットした。
「このまま洗浄機にかけるだけじゃ、臭いが残るか……」
「あ、先に中性洗剤で軽く洗います。私、やりますので」
 素早くスポンジを手にした葵だったが、何故かそこから、葵と侑司の共同作業が始まった。
 葵がスポンジを使ってざっと手洗いしたカップとソーサーを、侑司が受け取りラックに並べる。効率が良いのか悪いのか……よくわからないまま必死になって手を動かす葵の隣で、侑司がおもむろに口を開いた。

「……昔、濱野さんと一緒に夜遅くまで、まな板やダスターの漂白消毒をした。懐かしいな」
 葵は侑司を見上げる。
「濱野さんと、……『敦房とんぽう』で、ですか?」
 確か、彼は水泳を辞めた後、『敦房』でアルバイトを始めたと聞いた。
 侑司は葵と目を合わせて「ああ」と優しく笑う。
「……最初の頃はこの臭いが本当に駄目で、毎日毎晩吐き気を堪えるのに必死だった。濱野さんは、俺がそんな状態でやっていることをわかっていたんだろうけどな、そこは絶対に見逃してくれなかった」
「……そうですか……厨房は必ず塩素を使いますから……」
 食材を扱う厨房の衛生管理は、ともすればその店の存続を左右するほど、重要不可欠なものである。その衛生管理を徹底する上で、アルコール除菌剤と塩素系漂白剤は、どの飲食店にも必ず置いてあるはずの必須アイテムだ。特に精肉や鮮魚を扱う厨房は、まな板やその他調理器具など、塩素系液剤での殺菌消毒が固く義務付けられている。

「……でも不思議なもので、毎日毎晩この臭いと向き合ううちに、吐き気を催すことも少なくなっていったな。……この臭いから、あの大会のことを思い出すこともほとんどなくなった。……人間というのは、それなりに適応能力があるんだろうな」
 泡がついたままのソーサーを、侑司が受け取ってラックに並べる。葵は、最後のソーサー一枚を手渡した。
「……もう一度、泳ぐようになったのは、いつごろからなんですか……?」
 侑司はカップとソーサーが並べられたラックを、洗浄機の中に滑らせた。洗浄機のドア部分を降ろせば自動的に稼働し、ゴオンゴオンという稼働音と高圧な水音が勢いよく鳴り出す。
 軽く手を洗った侑司は、ペーパータオルを引き抜いた。
「……さすがに高校にいる間は泳ぐ気になれなかった。卒業する頃には全くこの臭いも気にならなくなっていたんだが、大学に入ってしばらくは忙しくて……、大学三年の冬だったかな……同じバイト先の」
 侑司が「西條さんの」と付け加えたので、葵はこくこくと頷く。
「その、バイトで一緒だった仲間に誘われて行ったのが、最初だった。……ずいぶん気構えて行ったんだけどな、拍子抜けするほどたやすく水に入ることができた。体力が落ちていたのには参ったが……いいストレス発散にはなった」
 今も、時間があれば時々泳ぎに行っているしな、と微笑む侑司の横顔に、葵も自然と笑顔になる。
 トラウマは完治しない――でも、上手くそれとつき合っていくことはできる。
 克服したと一言で簡単に言えるものではないけれど、侑司の傷の痛みが少しでも癒えていればいいなと、葵は心の奥で静かに願った。

 洗浄機が稼働を終えて、ピーという合図音が鳴った。侑司がドアを上げればホカホカの湯気が立つ真っ白な陶器たち。
「これはこのままでいいです。明日は休みだし、明後日の朝早めに来て、私が片付けますから」
 ラックの上に置いておけば綺麗に乾く。グラスなら水滴の跡が気になるが、陶器ならば大丈夫だろう。
 シンクをざっと流して元の通り綺麗にし、葵は侑司を追って洗い場から出た。
 スーツを着込んだ彼がふと振り返ったので、葵もピタ、と動きを止める。先ほどとは打って変わり、何やら不穏なオーラが見えた。葵の足がズリリと後ずさる。
「……これだけのために、こんな遅くまで残っていたのか?」
 鋭い目線と低い声音は相変わらずの威圧感だ。葵は慌てて首を振った。
「い、いえ、違います! 佐々木チーフを待っているんです! ラストオーダーの後、何か用事があるとかでお店を出られたんですけど、また戻ってくるからって。……先に帰っていいとは言われているんですけど、何となく待っていようかな、と……」
「……佐々木さんが……?」
 怪訝な顔の侑司に、今度は葵が、あれ?と首を傾げた。
「そう言えば……黒河さんはどうしていらっしゃったんですか? 柏木さんならランチが終わった後、帰られましたよ?」
 思えば妙な話だ。こんなに遅い時間、侑司が一人で慧徳ここに来るなんて。
 見上げた彼は、珍しく狼狽うろたえたように葵から目を逸らした。
「あ……俺は――、」
 ――言いかけたその時、事務室の方で人の気配がした。足音が近づき――、

「――待ってたのか水奈瀬……、――何だ、侑坊もいるのか? ……タイミングがいいのかわりぃのか……」
 厨房にひょいと顔を出した佐々木が、葵と侑司を交互に見やって一瞬顔をしかめた。が、すぐにいつもの飄々とした顔に戻る。
「ちょっとお客さんが来てんだ。――水奈瀬、電気を点けて、表の玄関を開けてやってくれぃ」
 言いながら、佐々木はジャンバーを脱いで腕をまくり、手洗い場で手を洗い始める。
 葵と侑司は顔を見合わせ、とりあえずフロアに出た。
 侑司が照明をいくつか点灯し、葵は玄関ドアを開錠してそろりと開ける。頭上で鳴った小さなドアベルに、外に立っていた人物が「ああ、開きましたね」と言ったのが聞こえた。

「――こんばんは、水奈瀬さん。夜遅くに申し訳ないですね」
 穏やかな声とともに玄関口の外灯が照らしたその人物が姿を現す。葵は目を見開き、口をパカリと開けた。
「も、茂木さん……?」
 クロカワフーズの顧問にして『櫻華亭』の生き字引とされる、茂木登志夫としお氏。
 ――どうして、茂木さんが……慧徳ここに……?
 キンと冷えた空気をまとい現れた、黒いコートに黒の中折れ帽子という気品ある姿。外国紳士を思わせる小柄な彼は、微笑みながら背後を振り返った。
 葵もその目線を追って、茂木の背後を見やる。そして、さらに驚き息を呑む。
 ――支え合うように連れ添った、二人の男性。
 彼らの後ろで、タクシーが発進し去っていった。
 葵の背後にやって来た侑司も、驚きの声を上げる。
「……何で――、」
 二の句が継げない侑司に、ゆっくりと玄関前までやって来た彼の父親、、は目を細めた。
「……ああ、お前も来ていたのか。――水奈瀬店長、夜分遅くにすまないね。少し、お邪魔させていただくよ」
 背の高い彼に寄り添うもう一人の人物は、葵に向かって柔らかく微笑んだ。
「……久しぶりだね。葵ちゃん」
「……濱野さん……」

 黒河紀生、茂木登志夫、濱野哲矢……突然やって来た三人の紳士。
 『アーコレード』慧徳学園前店は、静かに大きくその腕を広げ、来訪者を迎え入れる。

 ――愕然と、、、ショックを受ける、、、、、、、、、葵と侑司をそのままに。




 
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