アーコレードへようこそ

松穂

文字の大きさ
上 下
96 / 114
第2部

女帝の詫び言、風来坊の謀り事

しおりを挟む
 
 
「――待たせたわね」
 応接室に現れた黒河沙紀絵統括部長は、いつものごとく厳然たるオーラを醸し出していた。
 小柄でほっそりした体躯ながら、内面から放出される凛とした力強さ。今日はシナモン色のジャケットとそれに合わせたパンツスタイルで、世のキャリアウーマンを体現したような隙のない格好良さだ。
 いや、その風格はやはり、一国の頂点に君臨する女帝という呼び名がふさわしいのかもしれない。
「おはようございます……」
 ソファから立ち上がり深々と一礼した葵に、黒河沙紀絵は座ってちょうだいと身振りで示し、自分も葵の向かいのソファに腰を下ろした。手に持っていた大ぶりの高価そうな革製のバッグを傍らに置いて、流れるような動きで脚を組む。
 小さく息を吐き出した彼女は、何も言わぬまま葵に視線を注いだ。
 心の内を見透かすような注視につい目を伏せれば、沙紀絵は高慢にも聞こえる口調で言う。
「――酷い顔ね。きちんと眠っているの?」
「……はい、大丈夫です」
「嘘おっしゃい」
 ぴしゃりと言い放たれて、葵は「すみません……」と項垂れた。


 濱野哲矢の告別式から二日が経った。
 一夜明けた昨日、臨時休業中だった慧徳の店は通常営業に戻ったのだが、葵はいつもの日常に戻ることができなかった。
 夜、鬱々と眠れず、食欲もわかない。思考はくぐもり体が怠い。何よりショックだったのは、まともに仕事ができなかったことだ。
 ――あろうことか、葵は客の前で泣いた。
 昨日、ランチタイムの開店ほどなくして、初老の男性が店にやって来た。慧徳学園前の町で商工会の役員をしている古参で、『アーコレード』によく来てくれるお得意様であり、かつては『敦房』の常連客であった。
 彼も濱野氏の告別式に参列していた。そこで悄然とした葵を目にして心配し、食事がてら若い女店長を元気づけようと足を運んでくれたのだろう。オーダーを取りに伺った時、彼は濱野氏をしのび、葵の仕事ぶりをねぎらった。……古坂夫妻のように。
『――君がこうして立派に店長を務めているんだもの、濱野さんも喜んでいるだろうねぇ……うち以上に繁盛するお店になるって、濱野さん、太鼓判を押していたんだよ……』
 その途端、濱野氏の思い出と、侑司から聞いた彼の最期が葵の思考をかき乱し、感情をコントロールすることができなくなった。
 嗚咽が止まらず、接客どころではなくなった葵に篠崎がすぐさま気づき飛び出してきた。泣かせてしまったと狼狽える客は「ごめんよ、余計なことを言ってしまったね」と逆に謝っていた。
 しかし、どんな理由があろうとも、客の前で泣くなど言語道断、給仕人として失格なのだ。
 佐々木チーフは葵に「店へ出るな」と厳命した。それから約一時間、連絡を受けた柏木が店にやってくるまで、葵は裏の事務室の片隅で声を殺して泣き続けた。佐々木に言われるまでもなく、どうあっても客をもてなすことなどできる気がしなかった。
 そして、店に着いてその有様を見た柏木は、「明日の朝十時に、本社へ行って下さい」とだけ言って、葵にこのまま帰るよう指示したのだった。


 黒河沙紀絵は、力なく俯いた葵をしばしじっと見つめていたが、陰鬱な空気を振り払うように軽く頭を振った。
「――まぁいいわ。今日は、貴女を叱るためにここへ呼んだわけじゃないの。取り急ぎ、貴女に確認しなければならないことがあったのよ。……と、その前にまず……謝らなきゃならないわね」
 え……?と、顔を上げた葵に、沙紀絵は驚くほど柔らかい表情を見せた。
「……万が一の危険に備えていた……とはいえ、貴女を危険に晒したのは事実だわ。ろくに詳しい説明もしないまま、餌にするような真似をして……申し訳なかったわね」
「い、いえ、全部承知の上でやらせていただいたんです。謝らないでください……」
 先日の、社長執務室での大糾弾劇ことだ。女帝の口から出たまさかの謝罪に、葵は恐れ多い心地で否定する。
 元より沙紀絵は、葵をオトリにするような今回の計画には反対していたのだ。
 あの時、社長執務室に姿を現した沙紀絵は、ことさら冷淡に、さも自分がそう仕組んだかのように振舞い周囲の顰蹙ひんしゅくを買っていたが、実のところ、この “オトリ作戦” なるものを計画したのは、沙紀絵ではない。

「……全部、社長が考えた計画だと、柏木さんに教えてもらいました。前に千尋さんも、社長から直々に打診があったと仰っていましたし」
「まぁ、その通りね。あの人、奇計を巡らすことにおいては天才なのよ」
 沙紀絵は女帝らしからぬ様相で、小さく鼻を鳴らした。

 ――証拠がないなら、作ればいい。
 黒河紀生は悠然と微笑んで、そう言ったそうだ。
 ……異物混入の虚偽クレーム、そしてネットに悪質な記事が投稿されたことを鑑みても、慧徳の店が何やら攻撃の対象となっていることは明らかだ……そんな中で、クロカワフーズにおいて決してグランドメニュー化されることのない “お子様ランチ” を、大々的にイベントメニューとして組み込むことは、慧徳に含むところがある人物を、大いに刺激することになるだろう……さらに、そこへメディア関係者が絡むとなれば、その人物はよもや黙っていられまい……必ず何らかの動きを見せるはずだ……

 今だからわかることだが、確かに黒河紀生の目算はドンピシャであった。彼は、統括部長やマネージャー陣をも出し抜くほど先手先手で策を弄し、巧妙な罠を仕掛けていったのだ。
 最初、手段を選ばずといったこの計略には、沙紀絵だけでなく徳永も鶴岡も難色を示したという。いくら物証がなく膠着状態が続いていたとはいえ、クロカワフーズの女性社員をオトリにして罠を仕掛けるような策は、人道的によろしくないと。
 しかし、黒河紀生はさっさと橘ちひろの所属事務所に掛け合い、勝手にイベントメニューのモニターを打診してしまう。向こうも乗り気になってしまったため、今更計画を止めることはできなくなってしまった。
 そこへ、葵が四周年記念のイベント企画を本社へ持ち込んだのだ。沙紀絵にしてみれば、ダメ押しの一手が飛び込んできたようなものだろう。

「――あの人、クリスマスの夜に慧徳へ行ったそうね。……『水奈瀬店長のアイデアを褒めてあげたよ。きっと今に彼女は、イベント企画の改案を持って君に会いに来るだろう』……って言われたのよ。そのすぐ後、貴女から連絡があるじゃない。腹立たしいったらなかったわ」
 片眉を吊り上げた沙紀絵を見つつ、葵はほろ苦く笑う。

 つまり、葵が提出した “大人のお子様ランチ” の企画は、諸々の手詰まり状態から抜け出すための便利なツールでしかなかったわけだ。他でもない社長から、「面白いアイデアだ」と持ち上げられればその気にもなる。葵は上手くのせられ操られたのだろう。
 そうとは知らず、葵を含む多くの人々が事前準備にいそしんだ。その結果、イベント企画のシミュレーションは無事に成功。すなわち、獲物を捕らえる罠はできあがった。
 だが、それだけで満足する社長ではなかった。彼は獲物をおびき出すにおあつらえ向きの餌を撒いたのだ。

 ――慧徳で異例づくしの宴会が催された日から一週間ほど経ったある日、とある客が『櫻華亭』赤坂店を訪れた。……黒河紀生社長本人の息がかかった “仕掛け人” である。
 その客はさりげなく蜂谷支配人に声をかけ、慧徳で行われたという一風変わったパーティーの話を漏らす。
『――僕は仕事で行けなかったんだけど、ドラマのスタッフやキャストがかなり大勢集まったらしくてね、ずいぶん盛り上がったと聞いたよ。何でも、あの橘ちひろが大のお気に入りっていう店だそうで……ああ、ほら、これが招待状だ』
 たまたま、、、、鞄に入れっぱなし、、、、、、であった “特別招待状” を蜂谷に手渡して見せたその客は、ひとしきりパーティーの話を続けた後、蜂谷に見せた招待状のことを何故か忘れて、、、、、、、機嫌よく食事を済ませ店を後にする――蜂谷がその招待状をこっそりジャケットの内ポケットに入れ込んだことにも、まったく気づかず、、、、、、、、
 その後、首尾よく餌が撒けたと報告を受けた統括は社長の指示通り、クロカワフーズ傘下の全店舗へ、業務連絡メールを一括送信する。
《 今月の定例会議は、諸事情により開始時間を午後からに繰り下げます 》
 ……誰にも知られることなく、慧徳の店長と接触するには営業時間外が望ましいはずで、突然ぽっかりとできた空白の時間を、彼は絶好のチャンスと捉えるだろう……
 極度に用心深い蜂谷の性質を見込んでの作為である。
 さらに極めつけとばかり、社長は獲物の目の前にも、極上の餌をぶら下げた。

 ――会議の前日、社長本人がふらりと赤坂店に現れた。赤坂の料理長と来月の新規メニューについて少し話がしたいと言う。しばらく店の奥で料理長と話をして出てきた社長は、その帰り際、一本の鍵を蜂谷に手渡したのだ。
『ああ、そうだ……社長執務室の鍵を返し忘れてしまったんだよ。私は今夜、このまま横浜の方へ行かなければならなくてね。明日も、本社へ顔を出せそうにないんだ。悪いが、君から統括部長へ返しておいてもらえないか』
 社長専用部屋の鍵を統括部長が管理しているという現状もおかしな話だが、黒河紀生に限っては特別不思議なことではない。彼のこういった風来坊的な言動も今に始まったことではない。
 よって、蜂谷は丁重に鍵を受け取ったという。
 ――果たして、彼は見事、罠にかかったのだ。

「――忌々しいけれど、あの人の作戦通り、ってことね。そんなに巧く事が運ぶかどうか、私も半信半疑だったのよ。本当に貴女が呼び出されたと聞いた時には、……やっぱり腹立たしかったわね」
 沙紀絵は、顎のあたりで切りそろえられた明るいブラウンの髪を、鬱陶しそうにかき上げた。
 蜂谷から呼び出しを受けた後、葵はすぐに統括部長へ連絡を入れた。「他言無用ですよ」と念を押してきた蜂谷には申し訳ないが、それも計画の一部だ。
 葵から報告を受けた沙紀絵は、指定された時間や場所を確認しただけで、特に細かい指示はしなかった。
 ただ、心得ておいてほしいこと、として言い聞かされたことはある。
 ――落ち着いて慎重に、嘘はつかず正直に、感情的にならず冷静に。それさえ心に留めておいてくれれば、こちらでいいようにします。決して危ない目に遭わせないと約束するわ――

「本当はその時点で、貴女にもっと詳しい説明をすべきだったのかもしれないけれど、却って危険になる可能性があると判断して、予備知識を与えないことにしたの。……不安だったわよね」
 ここでも葵は「いえ」と大きく首を振った。
「……不安は本当に、あまりなかったんです。何となく、近くにいらっしゃるような気がして、それなら隣の応接室しかないかな……と思いました。……それに、杉浦さんがいきなり叫んだりしたので、その時も、やっぱり隣かな……と」
「そう。なかなか賢いわね。蜂谷たちに気取られなかったのだから大したものよ」
 ベージュローズの唇が柔らかく笑みを結んだ。
 沙紀絵によると、五名の待機部隊が応接室に入ったのは、蜂谷と今田顧問が社長執務室に入る前だったという。
 社長執務室にある応接室へ通じる方のドアは、葵の予想通り、最初から施錠していたそうだ。蜂谷は抜け目なくドアを確認したそうだが、応接室側から施錠するドアなので、社長執務室側からは鍵がなければ開けることはできない。ただ蜂谷としては、鍵がかかっていることさえ確認できれば、まさかあの時間あの場所で、五人もの人間が息を潜めて待機しているなど夢にも思わなかっただろう。

「……あの、それよりも私、つい感情的になってしまって……冷静な受け答えができませんでした」
「全く問題ないわ。むしろ上出来よ。……貴女は上手くやったわ」
 臣下を労うような言葉に、葵はやはり居た堪れない心地がした。
 あの日の社長執務室でのやり取りを思い返してもみても、葵は自分が役に立ったとは到底思えない。真相解明に奮闘し、蜂谷を追い詰めることができたのは、葵の仲間たちであった。
 ちなみに、仲間たちが駆けつけた時に杉浦が持っていた鍵は、本社ビル内のほとんどの部屋を開錠できるグランドマスターキーなのだそうだ。
 経理室の金庫に保管されているその鍵の存在を、杉浦は知らないはずなのだけれど、と溜息を吐く沙紀絵の物言いは、まるで悪戯っ子に手を焼く母親のようだった。

「……でも、その後は想定外だらけでヒヤヒヤしたのよ。皆が援軍よろしく駆けつけたのも想定外、あそこまで一気に証拠や証言が揃ったのも想定外……、ああ、その前に、蜂谷が貴女に偽証させようとしたのにも驚いたわ。てっきり、辞職を迫るのだと思っていたのだけれど。……いずれにしても、若い女だからと貴女を見くびっていたのは確かね。今田顧問と一緒に少々脅しを利かせば、怖気づいてこちらの要求に素直に応じると思ったのでしょう」
 さも不快そうに、沙紀絵は顔をしかめる。
「あの、では……今回のことすべて……今田顧問は、ご存じなかったのでしょうか」
「そのようね。彼とはまだきちんと話をしていないので断定はできないけれど、蜂谷がしでかした悪行に今田顧問は関与していなった……そう見て、間違いなさそうね」
 柳眉を寄せる沙紀絵は「それでも」と強い口調で言った。
「知らぬ存ぜぬでは済まされないことよ。もっと早くに、行き過ぎた特権意識や歪んだ劣情を感知し、それを正すべきだった……今田さんも、私もね」
 そこで彼女は、端然と座っているその身をさらにすっと伸ばした。

「……改めて、貴女にお詫びするわ。すべては、統括部長である私の責任よ。手が回らないことを言い訳に、現場で奮闘する個々の社員へ、充分な心配りができなかった。……そして、クロカワフーズの体面を保つことに重きを置いた判断ミス……事が公になるのを怖れ、諸々の対処に躊躇したせいで、貴女に途轍もない精神的苦痛を与えることになってしまった。……どう詫びても詫びきれないわね」
「やめてください、お願いです……本当に、もう……」
 葵はやるせない気持ちのまま、大きく何度も首を振る。
 全部、済んでしまったことだ。誰も責める気はない。誰を庇うつもりもない。
 自分には、そんな気力さえ残っていないような気がした。
 ――だって、終わってしまった……、……何が……? それは……
 粘りつく泥土のような思考の深みへずぶずぶと沈みそうになり、葵は無理矢理そこから這い出る。抜け出さなければまた、痛いほどの悔やみと悲しみが湧き上がり、濁流となって葵を呑みこむのだ。
 身体を硬くして俯いた葵の向かいで、静かな吐息と交じり合った声がした。
「わかったわ。……詫び言は、これきりにしましょう。……さっきも言ったように、貴女に確認しなければならないことがいくつかあるの。……いいかしら?」
「……はい」
 俯いた葵の喉が小さく鳴った。

 手首の腕時計に目を落とし、「時間があまりないから、ざっと進めるわね」と言った沙紀絵は、傍らに置いたバッグを引き寄せた。鞄の中からA4サイズの茶封筒と小さな藤色のケースを取り出し、ケースを開けて金縁の眼鏡をかける。
「まず一つ目。……貴女、木戸穂菜美さんから悪戯電話を受けていたそうね? そんな報告は聞かされていないのだけれど」
 茶封筒に入っている書類の束を出し、沙紀絵は何枚かめくってこちらを見据えた。
 葵は驚きよりも腑に落ちる心地を自覚しながら、すみません、と頭を下げた。
「……やっぱり、木戸さん……だったんですか」
 葵の携帯電話に突然、公衆電話からの着信が入るようになったのは、昨年の十月半ばのことだったか。
 一時期、尋常ではない回数の着信に困惑し、諸岡にそれとなく相談したこともあったが、正直なところを言ってしまえば、その後色々あったせいですっかり忘れていた。
「彼女の仕業だと、はっきり認識していたわけではないのね。……履歴は残してあるの?」
「いえ……全部、その都度、消してしまいました」
「そう……じゃあ、覚えている範囲でいいから、いつ頃からいつ頃までかかってきたのか、どのくらいの頻度でかかってきたのか教えてくれるかしら? 日に何回、とか」
「はい……」
 葵は記憶を辿り、ぽつぽつと打ち明ける。つい何か月か前のことなのに、あれから何年も経ったような気がした。
 細いボールペンで葵の述べるところを書類にメモしていた沙紀絵は、呆れたようにペンで自分の頭を小突く。
「……精神的に追い詰められていたとはいえ、悪戯電話に《告発状》とはね。労力の使いどころを完全に間違っているじゃない。……今更言っても詮無せんないことだけれど」
 沙紀絵は頭を振って、もう一度茶封筒を手に取り、中から一枚の白い紙を引き出した。
 差し出されたその紙を受け取り、葵は書かれている文章に目を通す。
 なるほど……と思った。そして、これはこれで間違っていないかもしれない、と自嘲する。
 己の過去を批判し追及するような文章を目の当たりにしても、まるでショックも怒りも悲しみも湧いてこないことが、不思議だった。

「それが例の《告発状》だそうよ。……水奈瀬さん。ここで尋ねることを許してちょうだい。そこに記載されていることは……全部が全部、嘘じゃない、わね?」
「……はい」
「貴女は、それらしき話を木戸穂菜美にしたことが?」
「いいえ……彼女に話したことはないです……」
 視線を揺らしながら、葵は話すべきかどうか迷う。
 その疑惑は、ずっと心の隅にあったのかもしれない。
 ――夏祭りの日、本社ビルのエントランスロビー、黒河侑司に話した過去のトラウマ。……そこへ突然現れた木戸穂菜美。侑司を呼びに来た彼女――、
 けれど、これも今更だ。もう、――どうでもいい。

「……いいわ、その話は別口から聞くことにしましょう」
 沙紀絵は、目を伏せたまま黙り込んだ葵から《告発状》を取り返し茶封筒に戻す。そして、膝の上の書類の束を再びめくった。
「次、二つ目。……ネットへ投稿された慧徳の中傷記事に関して、なのだけれど」
 葵はぼんやりと、紙をめくる細い指先を眺めた。着ているジャケットと合わせたのか、形良い爪は綺麗なシナモン色だ。
「蜂谷は今、辻山に犯罪をそそのかした……つまり、教唆の疑いで取り調べ中なの。こないだの乱心ぶりは落ち着いたようだけど、まだ少し心神喪失の気があるようで、彼の口からすべてを聞き出すのはもうしばらく時間がかかるのだそうよ。……どのみち、指定した店で虚偽クレームを起こすよう話を持ち掛け、見返りに金銭まで渡しているのだから言い逃れはできないわね」
 レンズ越しに葵を見上げ、沙紀絵は「それで」と再び書類に目を落とす。
「一時は事を公にして、名誉棄損罪で告訴も視野に入れていたのだけれど、検討した結果、それは断念せざるを得ないと判断したわ。つまり、謂れのない記事を投稿し慧徳を中傷した罪では、蜂谷が法的に裁かれることはない、ということ。……貴女と慧徳のスタッフには申し訳ないのだけれど……了承してくれるかしら」
「……はい」
「ただし、あのFAXに関しては、貴女の意思を最大限に尊重するわ。……もし蜂谷を訴えたいのなら、クロカワフーズは力を惜しまず貴女のバックアップをするつもりよ。そのために、物証はすべて私の手元に厳重に保管してあるの。信頼できる弁護士も紹介しましょう。……貴女は、どうしたい?」
「私は……」
 ――訴える……? それはまた “アレ” を蒸し返す、ということ……?
 拳を握り締め、葵は大きく首を振る。
「……訴える気などありません。もう、済んだことです。……でも」
 声が震えそうになって、葵は意識して息を吸った。
「……酷い中傷を受けたのは、私だけじゃないので……彼の……黒河さんの名誉回復のために……訴えた方が、いいのでしょうか……」
 すると沙紀絵の顔に、ほんの僅か、驚いたような表情が見えた気がした。が、すぐに彼女は目を細めて頷いた。
「……わかったわ。ひとまず、貴女には訴える気がない、と彼に伝えましょう。もし彼がそれに同意したなら、保管してあるすべての物証は――さっき見せた《告発状》も含めて――、私がこの手で責任を持ってこの世から抹消する――それで、いいかしら」
「はい。……よろしくお願いします」

 沙紀絵は書類の束を無造作に茶封筒の上へ放り出し、もう一度、腕時計をちらりと見た。
「――さて、残るは最後の “意志確認” ね」
 眼鏡を外された瞳が、ひときわ強いエネルギーを宿した気がした。
「私に出すものがあるのなら、今この場で受け取るわ」
「え……?」
 息を呑み、目を見張った葵に、女帝は裁きを下すような声音で言い渡した。

「――貴女、辞める覚悟を、、、、、、つけてきた、、、、、のでしょう?」




 
しおりを挟む

処理中です...