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第5章
22 残響
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ああ、
体から剥がされていく。
体から「私」が抜けて行ってしまう。
田舎で燻っていた私も、都会でがむしゃらに働いていた私も、よその世界で翻弄されていた私も。
遠ざかっていく背中を寝転んだまま、ただただぼんやりと眺めていた。湖の底なのかな。水面が見える。きらきらと光を反射させた水面を下から見上げていた。体が動かないのだ。ふわふわして力が入らない。抜けていった体は空に吸い込まれた。快晴の空に雲のような白いシミになって広がった。
私どうしたんだろう。どうして横になっているの?寝る時間にしては早すぎる。疲れているのかな?体がずいぶんと怠い。しかも硬直しているみたいで重い。重力に逆らってまでどうしようかとか思わないけれど、動けない意味は知りたい。
それに、私を覗き込んでいるこの人は誰なんだろう。とても焦っていて、悲しげだ。何故泣いているのだろう。涙の意味がわからない。
意味もなく泣く人がいるのかしら。うん、中にはいるか。
その意味が私と関係しているのなら泣かないでほしい。私のためにとか、私を思いやってとか、不安とか悲しみとかそういうのはあまり嬉しくない。
手を上げるのも億劫に感じる。震えて力が入らない。長時間正座した後の痺れに似ている。ピリピリと細かい火花が飛ぶような鈍い痛み。寝転んでいるから踏み込んでも感覚がない。まっすぐ上げているつもりなのに斜め。世界が傾く。私も「私」でいられなくなっている。私という形が保てない。昔の私も、大人になった私も、此処にいる私もどこかに行ってしまった。今いる私は、「私」という容れ物だけだ。この手も、震える指先も、涙を流すこの人のことも、「私」であることも何もかもわからない。それでもこの涙は嫌だ。流される謂れのない涙を私は受け入れられない。
「…」
この人が誰なのか
私が誰なのか
此処がどこなのか
目の焦点が合わない。この人を見ているはずなのに違う景色が映る。深い森ときれいな滝。古びた建物と羽が折れた鳥と光る地面。地脈というの?何なのだろう。接点が見つからないよ。
指先に伝う涙の温度さえわからない。
「莫迦め」
んん?
どこからか入り込んで来た声に一方的に貶された。ひどく不機嫌だ。舌打ちのあとの叱咤。苛立ちさの中にも関わらず、悲しさが滲み出ている。これも私に向けられた言葉なの?涙と罵倒。悲しまれるのも莫迦にされるのも嫌だなあ。別れはもっとシンプルに。
でも、声音はいい。低い重低音。体の中にどっしりと入ってくる。深淵の底に沈められているみたい。
深く深く。暗く暗く。拐かされる。
水底より更に深く。闇だ。人類がまだ到達しきれてない空間。多分人によって見える景色は違うんだろうな。私には冷たく感じる。冷たくて暗くて黒くて。目を閉じていても瞼の奥で絡み合ってる幾何学模様みたいなゲジゲジ。カクカクしているのに回る。渦巻きみたいに回る。回る。まあるく滑らかに回る。手品師の催眠術みたいに私を拐かす。
私を「私」でいなくさせようとしている渦。
そんなに高望みだった?
どれだけ願っても叶えられない望みとは思えないのに。
「私」を忘れて、別の私になる方が難易度高くない?
水底にいる感覚なのに、指先はこの人の頬を掠めていた。不思議だ。私は冷たいのにこの人の頬は暖かい。私の体は上空の遥か彼方に消えたというのに、この人はとても近い。
「泣かないで」
ただ一言が出てこない。涙のわけも罵倒のわけもわからないけれど、最後くらい笑ってみてよ。怒られるのも悲しまれるのも嬉しくない。いや、こんな時だからこそ、悲しまれた方がいいのかもしれない。最初で最後だ。引き際はシンプルになんて言ったけど、ナシナシ!
うんと泣いて、うんと悲しんで、私に縋って、私を水底から呼び戻してほしい。
「…」
泣いたか笑ったかなんてもうわからない。
目の前が白い。視界がぼやける。ガサガサと音を立てて何かが猛スピードで這ってきている。爪先から頭の先まで白い花が私を覆い尽くす。何これ?気持ち悪い。蔦が絡んでますます身動きが取れない。
こんなに多いと前が見えない。まるで棺を囲む別れの花みたいじゃないか。
「雪!!」
シャドウは花に飲まれていく雪の体を揺さぶり続けた。
突風に巻かれ、花は雪の前身を包み込んだ。シャドウは踠き、両手で払いのけるも視界を遮られ躱すことができずにいた。
「雪!逝くな!俺はまだお前に何も…!」
伝えられてないと叫び散らしながら、シャドウは顔や口に入り込んで来る花を払いのけた。花に飲まれていく雪の体にしがみついたが、払っても払っても湧いて出て来る花にかき消されてしまった。
「雪!どこだ!?雪!!」
何千何万枚の花びらが窓の外に勢いよく飛び出していった。吹雪のような猛烈な動きに、一瞬、時が止まった。そしてすぐに、地上にいた人々から大きな歓声が湧いた。
風に舞う国花。青空に舞う圧巻な風景に、地上にいる人々は驚嘆の声を上げ続けた。
「おおおお!神よ!祝福の花だ!」
「巫女様!」「巫女様!」
「万歳!万歳!」
「国花は結婚式に咲くんじゃなかったかしら?花嫁さんいないけどいいのかしら?」
「花嫁より巫女様だよ!即位されたんだ!あの神々しい輪は即位の証だよ!!祝福のシャワーだ!」
「わぁーー素敵!なんて神秘的なの!」
人々は思い思いに声を上げ続けた。風にたなびく雲のごとく、花びらは散り散りに飛んでいった。美しい情景の裏に行われた衝撃的な斬撃には誰も気づいてはいない。
「…ははは、圧巻だね~」
シャドウが外の情景に気をとられていた一瞬の間に、チドリが呟いた。
その声に反応して振り返るも、チドリは床に伏したままで荒い呼吸をしていた。肩からの出血で起き上がれずにいた。すぐ側にはディルが唸り声を上げていた。まだ獣の姿のままだ。
「チドリ…」
「綺麗だろう。これがリュリュトゥルテだ。ぼくら、まだ、見たことなかったもんね。マリーのおかげだよ。ぼくら3人での思い出がまたできたね」
「…貴様ぁ!よくも、よくも!」
シャドウは怒りを露わにし、チドリに詰め寄った。わあわあと喚き散らす姿は、子どもの駄々と似ていた。負傷して床に伏していた体を強引に持ち上げ柱に叩きつけた。力任せの行動に衝撃で柱に亀裂が入った。ディルは獣の姿のせいか、物の動きに敏感なっていた。ちらりと一瞥してすぐに戻した。
「チドリ!!」
「ふ、ふふ、ふ。こわいなぁ。シャドウらしくないよ。そんな荒れ乱れるものじゃない。あんな娘より、ぼくらといた方が楽しいだろう。また森の中を探検しようよ。食料庫から色々くすねてさ。双眼鏡と毛布と枕と。おっと、マリーには蜂蜜は必須だよな」
新旧取り混ぜてチドリは雄弁に語った。自分のしたことを弁明するわけでもなく、悠々と昔話に花を咲かせた。
「…貴様」
「影付きは所詮異分子だ。遅かれ早かれ排除される対象だ。影を抜かずにいたのが罪なら、幽閉くらいで済むんじゃないの?でももったいぶらずに一息にカタをつけてほしい気もする。もうこの世界に未練はないしね。例えるなら君の牙で掻っ切ってくれても構わないよ」
チドリはディルを見つめた。意識ははっきりとしているものの、怪我の具合は芳しくない。しかも中身は異常な精神だ。自分でココと頸動脈の辺りを指の腹で押して合図を送った。
「…望み通り掻っ切ってやってもいいけど、あんたのせいで人殺しになるのはごめんだ」
「ふふ。獣人のくせに人間のような口ぶりだね」
「何」
「獣人なんて都合良く出来上がるわけないだろ。神の気まぐれで召使いにされただけなのが、たまたま生き残ってるだけなのに、自分を人間だとか思っている。神の加護は強力だからね。そう簡単には消えやしないのさ。それなのに、ただの獣が何を勘違いしているのやら」
「何だと!」
ディルは牙を剥いてチドリを威嚇するも、シャドウに制された。
「挑発に乗るな!」
「だってあいつが!」
「お前の手は汚させはしない。あいつは俺が」
「おいおい、俺がって何?シャドウがオレをどうするって?自慢じゃないけど、手合わせした時シャドウは一度もオレに勝ったことないじゃん。それなのにオレをどうするって?彼の代わりに首を切る?幼馴染のオレにそんなことができるのか?せっかくの祝福のシャワーも血みどろになったらこの世界は破滅だな。地上の人間達が、みんな狂い出すんじゃないか。せっかくマリーが巫女になって神殿を建て直そうって言ってる矢先に物騒な話をするね。まあ、それもいいかもしれないけど。オレを認めなかった世界など滅びてしまえばいいんだ。父や母のように。散々人を褒めちぎったかと思いきや、自覚がないとか精神が弱いとか素質がないとか言うだけ言って放置!こっちのやる気を出させといて持ち上げ、その気にさせといて、結果として落とす!なんて奴らだ。最低だ!あんな奴らいなくなってしまって当然だ!!」
「…2人を手にかけたと言っていたが、まさか」
「父と母さ」
「何てことを!」
「オレをコケにした罰だ!今までの努力をたった一言で台無しにしやがって!当然の報いだ!!」
シャドウは頭を抱え、数歩後ずさった。
「チドリ、お前がここまで愚かだったとは思わなかった」
スファイトル様とミオ様。幼少の頃からずっと世話になっていた。
「愚かなのはシャドウだよ。影付きなんかに心奪われてみっともないったらありゃしない。しかも獣人とも懇意にしている。知ってるかい?何故、神殿に獣人がいないか。信仰観念がないとかじゃないよ。
もともと神の召使いの犬っころに過ぎない奴等が、人間たちより高い地位にいることを神自身が許さなかったからだよ。奴等を創り出した張本人がそれを許さなかったんだ!滑稽だな!!」
体を仰け反って高笑いをするチドリをディルは怒ることなく静かに見つめた。
「…なら、その召使いに殺してくれと頼んだあんたはなんなんだよ。あんたこそ、ぼくらよりうんと位の高い人間だろ」
怒りを通り越して哀れにさえ思えるのは何故だろう。可哀想なのは自分の境遇より、この男の方だと思った。
「…哀れむんじゃないよ。獣人風情が!そんな目でオレを見るな!!」
シャドウの腕を払いのけ、チドリはディルに向かって襲いかかってきた。ディルは避けることも受け入れることもせずに立ち尽くした。
ドンと鈍く大きな音を立ててひっくり返ったのはチドリの方だった。後ろにいたのは救護箱を抱えたソイン。わなわなと怒りを露わに震えるソインの横を武器を持った兵士が何人も現れ、チドリを拘束した。気を失ったチドリには止血や傷を塞ぎに、わらわらと神殿の人間たちが集まり治療が施された。
部屋の中にはリュリュトゥルテの残骸が散らばっていた。空にはまだ微かに花が舞っていた。例え難い匂いが室内に充満していた。
「…何て悪臭だ。こんなにも酷いリュリュトゥルテを見たのは初めてです。…ぼくらが心を込めて育てた花がこんなにも醜くて…悪質で…残念でなりません」
ソインはがくんと膝を落として床に崩れ落ちた。
いつだったかチドリが口にした「処刑」の言葉の意味がようやくわかったような気がした。
ああ、
体から剥がされていく。
体から「私」が抜けて行ってしまう。
田舎で燻っていた私も、都会でがむしゃらに働いていた私も、よその世界で翻弄されていた私も。
遠ざかっていく背中を寝転んだまま、ただただぼんやりと眺めていた。湖の底なのかな。水面が見える。きらきらと光を反射させた水面を下から見上げていた。体が動かないのだ。ふわふわして力が入らない。抜けていった体は空に吸い込まれた。快晴の空に雲のような白いシミになって広がった。
私どうしたんだろう。どうして横になっているの?寝る時間にしては早すぎる。疲れているのかな?体がずいぶんと怠い。しかも硬直しているみたいで重い。重力に逆らってまでどうしようかとか思わないけれど、動けない意味は知りたい。
それに、私を覗き込んでいるこの人は誰なんだろう。とても焦っていて、悲しげだ。何故泣いているのだろう。涙の意味がわからない。
意味もなく泣く人がいるのかしら。うん、中にはいるか。
その意味が私と関係しているのなら泣かないでほしい。私のためにとか、私を思いやってとか、不安とか悲しみとかそういうのはあまり嬉しくない。
手を上げるのも億劫に感じる。震えて力が入らない。長時間正座した後の痺れに似ている。ピリピリと細かい火花が飛ぶような鈍い痛み。寝転んでいるから踏み込んでも感覚がない。まっすぐ上げているつもりなのに斜め。世界が傾く。私も「私」でいられなくなっている。私という形が保てない。昔の私も、大人になった私も、此処にいる私もどこかに行ってしまった。今いる私は、「私」という容れ物だけだ。この手も、震える指先も、涙を流すこの人のことも、「私」であることも何もかもわからない。それでもこの涙は嫌だ。流される謂れのない涙を私は受け入れられない。
「…」
この人が誰なのか
私が誰なのか
此処がどこなのか
目の焦点が合わない。この人を見ているはずなのに違う景色が映る。深い森ときれいな滝。古びた建物と羽が折れた鳥と光る地面。地脈というの?何なのだろう。接点が見つからないよ。
指先に伝う涙の温度さえわからない。
「莫迦め」
んん?
どこからか入り込んで来た声に一方的に貶された。ひどく不機嫌だ。舌打ちのあとの叱咤。苛立ちさの中にも関わらず、悲しさが滲み出ている。これも私に向けられた言葉なの?涙と罵倒。悲しまれるのも莫迦にされるのも嫌だなあ。別れはもっとシンプルに。
でも、声音はいい。低い重低音。体の中にどっしりと入ってくる。深淵の底に沈められているみたい。
深く深く。暗く暗く。拐かされる。
水底より更に深く。闇だ。人類がまだ到達しきれてない空間。多分人によって見える景色は違うんだろうな。私には冷たく感じる。冷たくて暗くて黒くて。目を閉じていても瞼の奥で絡み合ってる幾何学模様みたいなゲジゲジ。カクカクしているのに回る。渦巻きみたいに回る。回る。まあるく滑らかに回る。手品師の催眠術みたいに私を拐かす。
私を「私」でいなくさせようとしている渦。
そんなに高望みだった?
どれだけ願っても叶えられない望みとは思えないのに。
「私」を忘れて、別の私になる方が難易度高くない?
水底にいる感覚なのに、指先はこの人の頬を掠めていた。不思議だ。私は冷たいのにこの人の頬は暖かい。私の体は上空の遥か彼方に消えたというのに、この人はとても近い。
「泣かないで」
ただ一言が出てこない。涙のわけも罵倒のわけもわからないけれど、最後くらい笑ってみてよ。怒られるのも悲しまれるのも嬉しくない。いや、こんな時だからこそ、悲しまれた方がいいのかもしれない。最初で最後だ。引き際はシンプルになんて言ったけど、ナシナシ!
うんと泣いて、うんと悲しんで、私に縋って、私を水底から呼び戻してほしい。
「…」
泣いたか笑ったかなんてもうわからない。
目の前が白い。視界がぼやける。ガサガサと音を立てて何かが猛スピードで這ってきている。爪先から頭の先まで白い花が私を覆い尽くす。何これ?気持ち悪い。蔦が絡んでますます身動きが取れない。
こんなに多いと前が見えない。まるで棺を囲む別れの花みたいじゃないか。
「雪!!」
シャドウは花に飲まれていく雪の体を揺さぶり続けた。
突風に巻かれ、花は雪の前身を包み込んだ。シャドウは踠き、両手で払いのけるも視界を遮られ躱すことができずにいた。
「雪!逝くな!俺はまだお前に何も…!」
伝えられてないと叫び散らしながら、シャドウは顔や口に入り込んで来る花を払いのけた。花に飲まれていく雪の体にしがみついたが、払っても払っても湧いて出て来る花にかき消されてしまった。
「雪!どこだ!?雪!!」
何千何万枚の花びらが窓の外に勢いよく飛び出していった。吹雪のような猛烈な動きに、一瞬、時が止まった。そしてすぐに、地上にいた人々から大きな歓声が湧いた。
風に舞う国花。青空に舞う圧巻な風景に、地上にいる人々は驚嘆の声を上げ続けた。
「おおおお!神よ!祝福の花だ!」
「巫女様!」「巫女様!」
「万歳!万歳!」
「国花は結婚式に咲くんじゃなかったかしら?花嫁さんいないけどいいのかしら?」
「花嫁より巫女様だよ!即位されたんだ!あの神々しい輪は即位の証だよ!!祝福のシャワーだ!」
「わぁーー素敵!なんて神秘的なの!」
人々は思い思いに声を上げ続けた。風にたなびく雲のごとく、花びらは散り散りに飛んでいった。美しい情景の裏に行われた衝撃的な斬撃には誰も気づいてはいない。
「…ははは、圧巻だね~」
シャドウが外の情景に気をとられていた一瞬の間に、チドリが呟いた。
その声に反応して振り返るも、チドリは床に伏したままで荒い呼吸をしていた。肩からの出血で起き上がれずにいた。すぐ側にはディルが唸り声を上げていた。まだ獣の姿のままだ。
「チドリ…」
「綺麗だろう。これがリュリュトゥルテだ。ぼくら、まだ、見たことなかったもんね。マリーのおかげだよ。ぼくら3人での思い出がまたできたね」
「…貴様ぁ!よくも、よくも!」
シャドウは怒りを露わにし、チドリに詰め寄った。わあわあと喚き散らす姿は、子どもの駄々と似ていた。負傷して床に伏していた体を強引に持ち上げ柱に叩きつけた。力任せの行動に衝撃で柱に亀裂が入った。ディルは獣の姿のせいか、物の動きに敏感なっていた。ちらりと一瞥してすぐに戻した。
「チドリ!!」
「ふ、ふふ、ふ。こわいなぁ。シャドウらしくないよ。そんな荒れ乱れるものじゃない。あんな娘より、ぼくらといた方が楽しいだろう。また森の中を探検しようよ。食料庫から色々くすねてさ。双眼鏡と毛布と枕と。おっと、マリーには蜂蜜は必須だよな」
新旧取り混ぜてチドリは雄弁に語った。自分のしたことを弁明するわけでもなく、悠々と昔話に花を咲かせた。
「…貴様」
「影付きは所詮異分子だ。遅かれ早かれ排除される対象だ。影を抜かずにいたのが罪なら、幽閉くらいで済むんじゃないの?でももったいぶらずに一息にカタをつけてほしい気もする。もうこの世界に未練はないしね。例えるなら君の牙で掻っ切ってくれても構わないよ」
チドリはディルを見つめた。意識ははっきりとしているものの、怪我の具合は芳しくない。しかも中身は異常な精神だ。自分でココと頸動脈の辺りを指の腹で押して合図を送った。
「…望み通り掻っ切ってやってもいいけど、あんたのせいで人殺しになるのはごめんだ」
「ふふ。獣人のくせに人間のような口ぶりだね」
「何」
「獣人なんて都合良く出来上がるわけないだろ。神の気まぐれで召使いにされただけなのが、たまたま生き残ってるだけなのに、自分を人間だとか思っている。神の加護は強力だからね。そう簡単には消えやしないのさ。それなのに、ただの獣が何を勘違いしているのやら」
「何だと!」
ディルは牙を剥いてチドリを威嚇するも、シャドウに制された。
「挑発に乗るな!」
「だってあいつが!」
「お前の手は汚させはしない。あいつは俺が」
「おいおい、俺がって何?シャドウがオレをどうするって?自慢じゃないけど、手合わせした時シャドウは一度もオレに勝ったことないじゃん。それなのにオレをどうするって?彼の代わりに首を切る?幼馴染のオレにそんなことができるのか?せっかくの祝福のシャワーも血みどろになったらこの世界は破滅だな。地上の人間達が、みんな狂い出すんじゃないか。せっかくマリーが巫女になって神殿を建て直そうって言ってる矢先に物騒な話をするね。まあ、それもいいかもしれないけど。オレを認めなかった世界など滅びてしまえばいいんだ。父や母のように。散々人を褒めちぎったかと思いきや、自覚がないとか精神が弱いとか素質がないとか言うだけ言って放置!こっちのやる気を出させといて持ち上げ、その気にさせといて、結果として落とす!なんて奴らだ。最低だ!あんな奴らいなくなってしまって当然だ!!」
「…2人を手にかけたと言っていたが、まさか」
「父と母さ」
「何てことを!」
「オレをコケにした罰だ!今までの努力をたった一言で台無しにしやがって!当然の報いだ!!」
シャドウは頭を抱え、数歩後ずさった。
「チドリ、お前がここまで愚かだったとは思わなかった」
スファイトル様とミオ様。幼少の頃からずっと世話になっていた。
「愚かなのはシャドウだよ。影付きなんかに心奪われてみっともないったらありゃしない。しかも獣人とも懇意にしている。知ってるかい?何故、神殿に獣人がいないか。信仰観念がないとかじゃないよ。
もともと神の召使いの犬っころに過ぎない奴等が、人間たちより高い地位にいることを神自身が許さなかったからだよ。奴等を創り出した張本人がそれを許さなかったんだ!滑稽だな!!」
体を仰け反って高笑いをするチドリをディルは怒ることなく静かに見つめた。
「…なら、その召使いに殺してくれと頼んだあんたはなんなんだよ。あんたこそ、ぼくらよりうんと位の高い人間だろ」
怒りを通り越して哀れにさえ思えるのは何故だろう。可哀想なのは自分の境遇より、この男の方だと思った。
「…哀れむんじゃないよ。獣人風情が!そんな目でオレを見るな!!」
シャドウの腕を払いのけ、チドリはディルに向かって襲いかかってきた。ディルは避けることも受け入れることもせずに立ち尽くした。
ドンと鈍く大きな音を立ててひっくり返ったのはチドリの方だった。後ろにいたのは救護箱を抱えたソイン。わなわなと怒りを露わに震えるソインの横を武器を持った兵士が何人も現れ、チドリを拘束した。気を失ったチドリには止血や傷を塞ぎに、わらわらと神殿の人間たちが集まり治療が施された。
部屋の中にはリュリュトゥルテの残骸が散らばっていた。空にはまだ微かに花が舞っていた。例え難い匂いが室内に充満していた。
「…何て悪臭だ。こんなにも酷いリュリュトゥルテを見たのは初めてです。…ぼくらが心を込めて育てた花がこんなにも醜くて…悪質で…残念でなりません」
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