大人のためのファンタジア

深水 酉

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第5章

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 こんなにも青い空を見たのは何年ぶりだろうか。脱力のまま、だらしなく手足を投げ出して大の字で。澄み渡る青空に、猫の爪で引っ掻いたように細く伸びる雲の尻尾の先が消えて行くまでただのんびりと眺めた。
 そよぐ風が心地良く、ディルの髪や頬を撫でながら通り過ぎた。花の蜜を探しに来た蜂や蝶の羽ばたきが視界の端に入り込んだ。
 「…何してるんだろうな、おれ」
 ディルは圧倒的な事実を前にして、逸る気持ちはあるにしても、なかなか動けずにいた。何者かに城が襲撃され、ヴァリウスが行方不明になっているとサリエに聞かされたのだ。何十人と仕えていた獣人の姿もないという。仲間のレアシスとも連絡が取れずにいた。
 それに加えて、マリーが受け継いだ天冠の意味を知ろうともせずに、ただ苛立っていた自分を情けなく思った。あの時は、マリーの意思を尊重すべきだとシャドウを説得していた。その意思の裏に、神との婚姻が隠されていたとは知る由もなかった。神との婚姻は一生だ。忠誠を誓い、代償を捧げ、自由などない。身近にいた人間に禁呪をかけられ、自分の人生を操作され続けて来た。それがようやく解かれて、自由を手にした。これから好きなことなんでも出来るって時に、どうしてまたマリーに重荷を強いるのだろうか。
 「マリーが決めたことだからいいの。国中の砂漠を無くして、緑を取り戻すの!」
 事の重大さを全く理解してないようなあっけらかんとした発言に、意識が遠のきそうになった。
 「そのために毎日歌うんだよ。マリー歌うのだいすきだから楽しいんだ!お花を咲かす歌と森が成長する歌」
 おねえちゃんが教えてくれた歌もねとマリーはにっこりと笑った。五穀豊穣を願う歌。果樹や野菜畑に聞かせていた。
 ディルの心配をよそに満遍な笑顔を浮かべるマリーは意気揚々だ。
 「これから水路も作って、土地の開墾もして、獣人のための新しい世界を作る!やる事いっぱいだよ!!」
 「マリー…」
 それでいいのか?と問いたくなる。
 「塔にいたころはね、どんなに歌ってもお花は咲かなかったの。毎日毎日たくさん歌ってもダメだったんだ」
 閉じ込められていたせいで植物の成長を促す力が封じ込められていた。
 「だけど今は、」
 ラララと短い旋律でも、植物は耳を傾けるかのように葉や花を回転させてマリーの歌声に身を任せた。
 髪の毛の先から、指先まで。暖かな光がマリーを包んでいた。光は風に運ばれて、木々や花々を揺らした。
 「みんな咲いてくれてうれしい!」
 うふふと満足げに笑う。マリーには自分に架せられた運命がわかってないようにも思えた。
  「マリー」
 自分が望んでないことに全力を注ぐことなどない。
 ディルはそう言いたかった。良いのだと当人が口に出していてもだ。これ以上の犠牲にはさせたくない!
 ガサッと背後の背の高い草の葉が大きく揺らいだ。サリエだ。
 サリエはディルの腕を掴み、その場から遠ざかった。

 「きみは何がしたいの?獣人に市民権を与えろと息巻いている張本人がどうしてそんなに否定的なのよ」
 「マリーにやらせる事じゃないだろ」
 ディルはサリエに引きずられて中庭の端っこに追いやられた。
 「じゃあ、ディルくんならできるの?今まで反論しても歯が立たなかったんでしょう?今なら王もいない。新しく何かを始めるのには都合が良いのよ!ましてや、天冠の巫女なら箔もつく。世界を統一するのは消して生半可な気持ちでは出来ないけれど、他者を頼るのは悪い事じゃない。そう言ったのはディルくんでしょう」
 「それは…そうだけど、、水路を作るのと世界を統一するのじゃ規模が違う。マリーの自由を奪ってまで獣人を助けようとするのは違う気がする。マリーが可哀想だ」
 「きみはどの立場で言ってるの?これはもう神が命令した決定事項なの。可哀想だとか同情とかで終わらせられるほど簡単じゃないのよ。そもそも神殿に仕えたことで、巫女には自由なんてないのよ。我が身は一生神殿の元にある。ここにいる神殿人はみんなそうよ」
 ディルは黙り込んでしまった。巫女とはそういうものだとわかってはいたからだ。
 「それともきみがマリーと結婚してくれるの?」
 「ぼ、ぼくは、獣人だから人間と結婚なんてできるわけないだろう!」
 (マリーは否定しないのね)
 「獣人だから人間と結婚はできない?」
 「普通そうだろ…」
 「じゃあ、獣人が市民権を得て他の人間と対等に暮らせるようになっても同じことを言うの?」
 「…」
 「対等になると言うことは、獣人と人間の垣根を超えるということよ。獣人だから結婚できないとか、家督を継げないとかそういう考えも無くしていこうとしているのよ。神さまの使い魔だったとはいえ、人間は自分の目で見たものしか信じない性質があるから、きみたちを受け入れるまでは時間がかかるわ。きみたちのほうも戸惑いがあるでしょう?だからディルくんには、私達神殿人と人間達の間に入ってもらいたいのよ。獣人代表として話し合いのテーブルについてほしい」
 「…うん」
 「それにマリーは可哀想なんかじゃないわよ。花を愛し、愛されて、互いに成長していくのよ。この大地に緑を蘇らせて自然を取り戻す。もちろん一人でなんかやらせないわ。私達が一生共にいる」
 「一生て…簡単に言うけど、気が遠くなるほどの時間だよ」
 「簡単じゃないわよ。ま、でも神殿人は神の加護があるから普通の人間よりは長生きね。ふふ」
 「ぼくも、獣人だから、長生きするだろうな」
 「なら、気が遠くなるほどの日数を共に生きられるわね」
 「は、はは」
 (本当に簡単に言うな。時間が有り余るほどあるということは、その架せられた運命から逃げ出せない時間も長いということだ)
 ディルは眉間に皺を寄せた。
 「マリーの一生を支えていけるわね。きみも。立場は違えど、きみもマリーと共にいてほしい」
 (…それを踏まえての答えか。そうだよな。ねーさんは、ぼくなんかよりずっと長くマリーと一緒にいるんだった。先のことまでずっとよく見てる)
 サリエに対する不信感がスッと消えた。
 「よ、嫁さんとかは無理だよ。第一、あのガキ神が黙ってないだろ」
 「まあまあ。その頃には法律も改訂されてるわよ」
 (本気で嫁に出す気かな?そこは読めない…)
 ディルはまた、じいーっとサリエを見つめた。
 「ていうか、マリーだよ?ぼくからしたらまだまだお子さまだ。結婚なんて考えられないよ」
 「そんなこと言ってるとあっという間に変わるわよ。女の成長は早いわよ」
 「んー…ってもなぁ…」
 わかる気はする。初めて会った時は鼻水と涙顔を濡らしたボロボロの幼稚園児だったのに、しばらくしたら、羽化した蝶のように華やかで綺麗で、光のようだった。
 暖かくて、優しくて。包み込まれるようで、まばゆい。
 「ふふふ」
 「…」
 サリエには、心の中をぼくより先に読まれているみたいだ。耳朶が熱くなる。

 花と共に咲いて、生きて、朽ちる。
 土に還って、また芽吹く。永遠に。
 ざあっと大きな風が草の葉の上を通り過ぎた。湖面を揺るがすさざ波のように音が反響した。

 「…観念するか、な。一人ではどうにもならないこともあるよな」
 「しなさい。我慢は体に悪いわよ」
 「…と、とにかく。ぼくは一度城に戻る。話だけでは状況がわからない。仲間の怪我が心配だ」
 獣人は、普通の人間よりは寿命も長く体も頑丈だと聞いたことがある。でも、城の大広間に夥しい大量の血溜まりがあったことをサリエは口を閉ざした。不安材料はひとつでもなくしてあげたかった。
 「ねーさん?」
 サリエが何を考えているか顔を見ればわかるようになってしまった。
 自分を不安にさせないよう気を回してくれているのがひしひしと伝わってきた。
 「…ごめんなさい」
 黙っていることを良しとし、負担を取り払おうとしてくれている。はなから責める気などない。
 「…広間に大量の血液があったそうよ。人間と獣人の血が混ざっていたと」
 恐ろしさで声が震え、語尾はあまり聞こえなかった。悪いことをした。
 「そんな場所にきみを行かせたくないわ」
 サリエはディルの手をぎゅっと掴んで離さなかった。
 「…ここにいて」
 サリエの震えが掴まれた場所から伝わってきた。言葉に言い表せないほどの畏怖。普段のサリエからは決して見られない表情だ。少年神に凄まれた時とも違う。成人女性なのに、か弱い少女のように見えた。
 胸の奥がざわざわしてきた。獣の本能か。仲間を奪われた苦しみがじわじわとこみ上げてきた。
 「…だったらなおさら行かなきゃ。獣人代表として事実を確かめてくるよ」
 こみ上げて来た怒りをグッと堪えた。感情のコントロールはいくらでもしてきた。冷静になれ。城にいる獣人達の苦しみは計り知れない。同じ獣人と言えど、立場が変われば扱われ方も変わる。ぼくが貴族の生まれだったから、城へ連れて行かれることはなかった。核も取られていない。決して楽に生きてきたわけではないけれど、城で働く獣人達よりは自由でいられた。
 「このまま神殿にいて、マリーやねーさん達を手伝って生きていくのも悪くないけど、ぼくはぼくで出来ることをしたい。しなきゃいけないんだ」
 ディルはサリエの手に指を重ねた。指先はまだ震えが残っていて冷たく感じた。
 「城に仲間がいる。どこかに逃げ延びた獣人だっているかもしれない。彼らの怪我の手当てと心のケア。今後の生き方をみんなで考えてくるよ」
 「…ディルくん」
 サリエは、ディルの腕から手を離し顔を上げた。目尻に涙の粒が見えた。
 「…ねーさんは泣いてても美人だな」
 「当たり前じゃない」
 「…言うね」
 そこは引くかと思っていたが、押し返された。大丈夫。この人にならマリーを任せられる。ディルは確信が持てた。
 「マリーに話してくるよ」
 ぼくにはぼくの行き先があるんだ。

 ねえ、シャドウ。聞こえてる?
 挨拶もせずに出て行って、どこで何をしているか知らないし、あの時のことはまだ許したわけじゃないけど。
 ぼくは、ぼくの道を行くよ。獣人であることを否定せずに、受け入れてくれる世界を作るんだ。マリーとサリエと神をも巻き込んで、世界をひっくり返してやる。問題はまだまだ山積みだけど、ぼくらは一人じゃないと確信ができたんだ。
 雪のことはもちろん大事で心配ではあるけど、雪のことはシャドウに任せる。
 だから、また。
 次に会うときは、雪も一緒にね。
 きっとマリーもねーさんも、両手を広げて出迎えてくれるからさ。
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