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番外編
錯覚
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「君はどうなりたいの?」
いつか岩井さんに聞かれたっけ。苦手な人ほど近くにいて、自分のことをわかっている気がするのはなんでだろう。
岩井さんの言葉に、正確な時を刻む音がリンクして心が苛まれた。時計の針ではなく、天井に付いているファンなのだが、回転音が時計の秒針のように同じリズムで刻まれる。チクチクと体を抉られていくようだ。年齢のせいなのか。物事の考え方に余白がない。底意地の悪さをネチネチとしつこくつついて来るのは、本当に勘弁して欲しいとは思うけれど、中村部長と比べるとまだ聞いてられる話をする。
中村部長は利益重視で結果が全ての人だ。そこに行き着くまでの過程には興味がない。
営業マンがどれだけ頑張ってるか、どれだけ寝食を減らしても気に止めることはしない。
その反面、岩井さんは細かなところまで目が行く。新人教育の一貫として、若者が好きそうな話題や新商品をチェックしている。美紅ちゃんには馬鹿にされたパンケーキの店だって、SNSで探し当てたものだった。記録として保管されたパンケーキの画像を見させられた。山のようなホイップクリームを従えて、赤い実がゴロゴロと飾られていた。
「金井さんが笑ってたろ」
「…そんなことは」
「隠さなくていいよ。直に言われたから」
「はぁ…」
なら聞くなよとぼやきたくなった。この人の私の反応を見て笑う姿は嫌気がさす。
「さすが人気の店だけあって味は良かったよ。甘すぎて完食は無理だったけど。コーヒーはうまかったから、今度一緒に行く?」
「いえ、すみません。私、甘いものは苦手で」
「ふ。そこはね、嘘でも行きますって言うんだよ」
「…はぁ」
これも忖度なのか。貴重な休日をこの人と過ごすくらいなら印象悪く思われてもいいんだけど。
雪は、内心あっぷあっぷしている気持ちを読み取られないようにわざと視線を外しはぐらかせた。唇を濡らしたビールが結界になる。相手の出方を待つのだ。自分で答えるより、相手の話に乗っかりたい。
「泉原さんは、周りのことばかり考えている割には先が見えてないよね」
グサグサと遠慮がない。
「抉ってきますね…」
相手に言わせて頷くだけで済ませようと思っていたのに、こうもはっきりと言われては黙っていられるほどの許容はなかった。結界はすぐに解けた。
「うん。言うこと聞くだけの良い子ちゃんだけじゃないのが判明したからさ。遠慮はいらないでしょう」
「…」
先日の飲み会の席で、私の性格の悪さがバレた。
岩井さんは興味を持ったようだ。
「君の腹黒さは、金井さんもわかっているみたいだから隠しておくのも無意味だろうね」
「腹黒さって…そんなつもりは」
無いとは言い切れない。従順な良い子でいるにはカードが少な過ぎる。
「良い子でいるつもりならマイナス面は隠し通さないと。前にも言ったでしょ」
言ったっけ?
この人の性格というか人間性は、癖がありすぎて苦手だ。でも逆に誰も言ってくれなかったことを言い当ててくれるところは、有り難くも思えてしまう。憎くもあるけど感謝もある。口には決して出さないけれど。
雪はグラスを口に運んだ。軽い口当たりのクラフトビール。つまみには濃いめのチーズとナッツ。好きなものを口に入れると落ち着く。そうだ落ち着け。
なのに何でこの人が隣にいるんだろう。せっかくの金曜日の夜なのに。一週間頑張った自分に労いの意味が消えてしまうよ。
悪気のない言い回しが鼻につく。アルコールのせいか頭の中に浸透していくスピードが早い気がする。
「君は良い子だよ。とってもね」
これは褒められてない。声のトーンが異様に高い。馬鹿にしてる。でも、頭を撫でられるなんていつぶりだろうか。大人になってからはなかったと思う。同僚がいればセクハラだのアルハラだの言えるけれど、今はなんだか違う気がする。酔ったかな?まだそんなには飲んでないはずだけど。
「振り払わないの?ほだされたかな?」
手なづけたい動物相手のつもりか。撫でる手つきがやたら優しい。熱を帯びた手が髪を梳いては指先で遊んでいた。
「藤和が嫌ならうちに来たらいいじゃない」
「…は?」
岩井もグラスを口に運んだ。中身はなんだったか。
「私が嶋谷に?」
「今なら僕のアシスタントとして引っ張ってあげられるけれどどうする?」
「どうするも何も…」
一瞬で目が覚めた。何を言っているのかこの人は。ありえない。私の実力で嶋谷に行けるわけがない。
「行ったところで、私に何ができるかなんてわからないですよ」
「行ってみないとわからないこともあるよ」
おいおい、考える時間も与えない気?
一社会人としてのスキルを上げる絶好のチャンスではあるけれど、素直に頷くのも違う気がする。お互い酒が入ってる。ここはひとつ持ち帰って考える時間をもらうべきだ。
「一晩たったら夢かもしれないよ」
「夢なんですか?」
「夢じゃないよ。というか、コレ。この後のお誘いでもあるんだけど。意味わかっている?」
「…この後?」
頭の中ははっきりしてきたけど、この人が何を言っているのか理解ができない。嶋谷への引き抜きとは別に何を要求されているのだろう。
岩井はグラスを置いた。グラスの表面に付いた水滴で濡れた指先で頬をなぞられた。冷たさにゾッとして、危機管理能力が働いた。
体をのけ反るのと同時に椅子から転げ落ちた。
ガタン!と椅子が倒れた大きな音が店内に響いた。肘を強打してビリビリと痺れが走った。
「くくく…こんなことに引っかかるなんてまだまだだね。…未成年じゃあるまいし、酒量は自分で調整するもんだよ」
岩井は倒れた椅子を持ち上げた。雪は二の次らしい。
「からかいが過ぎるんじゃないですか?岩井さん」
カウンターの中で笑いを堪えている男がいた。同類か。
雪は自分の甘さに苛立った。無条件な優しさに引っかかる。何度目だ。人の親切を信じ切る性格を改善したい。引き抜き話だなんて私に来るはずがない。人を馬鹿にして笑いを取って何を得ようというのか。
「…悪人」
思わず口に出していた。忘れてたわけじゃない。
この人は癖のある厄介者だってこと。私を理解してくれたなんて勘違いも甚だしい。錯覚だ。
「取引先相手の人間には手を出さないよ。そのくらいの見解はあるよ。後々面倒くさいでしょ」
自分を貶されてもまんざらでもなさそうだ。悪口こそが至上の喜びでもあるかのように岩井は幸せそうだ。岩井はカウンターの中の男と目を合わせて笑い合った。
「立てる?」
「…」
だけど、差し伸べられた手を無下に振り払うほど、私は小さな人間にはなりたくないんだ。その先に思いがけない事実が待っていたとしても。大人だから!分別ついた人間だから!馬鹿でもアホでも学習しない無法者でも!
怒りで我を忘れて罵詈雑言を喚き散らすことなどしたくないのだ。
「お気遣いどうも」くらい狼狽えずに言える自分でありたい。
からかわれて馬鹿にされて転ばされても、まっすぐ相手を見てやる。
雪は、差し伸ばされた手を掴み立ち上がった。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。お代はおいくらですか?」
「ここはいいよ。僕が払うから」
「そういうわけにはいきません。取引先相手から接待を受けたと思われるわけにはいきません」
「接待にこんな店選ばないよ」
「こんな店とはなんですか」
店主はムスッとした顔つきを見せた。
「まあまあ」
二人のやりとりを横目に雪は一万円札をカウンターに置いて出て行った。
「あっ、お客様おつり、」
店主は雪を追う素ぶりを見せたが、雪はすでに店を出ていた。
「…大丈夫ですかあ?あの子、膝擦りむいてましたよ」
あんたがしつこく揶揄うから、悪趣味だと岩井を見てぼやいた。
「お気に入りの子ほど苛めたくなるんだよね」
これは性分だから仕方がない。
岩井は店主から万札を掠め取り、雪の後を追った。
「泉原さん。忘れ物だよー」
岩井は酒の入った軽やかな足取りで、雪の腕を捕まえた。足を痛めたか、先に出た雪にすぐ追いつくことができた。
「離してください!」
「はいはい。大っきな声出さないのー。もー、おっかないなあ」
岩井は雪の腕を離し、バッグの中に折りたたんだ一万円札を放り込んだ。
「お代はいいからタクシーで帰りなさいよ」
岩井はスッと手を上げてタクシーを止めた。
「はぁ?そんなもの乗りません!」
「乗らないとぼくんちに連れて帰るよ」
「…本当に最低な人ですね」
罵詈雑言。止められない。さっきまで意地を張っていた「社会人らしさ」なんてどこいく風か。
「よく言われる。きみはもう少し世の中を勉強した方がいいよ。良い子の皮を被ったってその役になりきれてない。やるなら徹底しないと。会社の駒に淘汰されるくらいの心持ちでいないと、きみがやってることはただの自己満足だ。誰かのために自分がいると思いたいのか?駒の代わりはまた駒だ。そんなのは当たり前だろう」
「乗らないんですか?」
運転手は岩井に声をかけた。少々苛立った口調だ。週末のタクシー。客は一人でも多く取りたい。早く出発したい。ハザードランプのカチカチ音が耳障りなのだろう。
「乗ります乗ります。じゃあまたね。泉原さん」
岩井は雪をタクシーに押し込み、自分の財布から出したタクシーカードを運転手に渡した。
窓の外で澄ました顔の男が自分に手を振っていた。今すぐ車を降りてぶちのめしてやりたいと思う反面、何も言い返せない自分が悔しくてたまらなかった。
あの男は、私を理解してなどはなかったのだ。気を抜いていた私が悪い。この人に託してみたいと思ってしまっていた私自身が憎くてたまらない。
雪は歯を食いしばったまま、拳を硬く握り締めた。
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