大人のためのファンタジア

深水 酉

文字の大きさ
上 下
112 / 199
第2章

3 亀裂

しおりを挟む

-----------------------------------------------

 「巫女様は泣き疲れて眠ってしまいました」
 リリスは、水差しと赤い実の果物を乗せたお盆を持ったまま困り顔をしていた。銀色の水差しには長い蔦の絵図が彫られていた。赤い実はマリーの好物だ。一つの枝にいくつも鈴なりになり、一口サイズの丸い実だ。瑞々しく果汁があふれ、甘みも十分すぎるほどあった。皮ごと食べられる手軽さについつい食べ過ぎてしまう。食べ過ぎると指先や舌が赤くなる。女官に気付かれまいと両手を後ろ手に隠しても、口を開ければすぐにバレてしまう。子どもの頃からよく叱られていた。
 「…そのまま部屋に置いておいて。目が覚めたら食べるかもしれないわ」
 サリエは喉元から絞り出すように弱々しく答えた。頭の中に昔の出来事がぼんやりと浮かんでいた。
 ただ、頭の中はモヤがかかったみたいだった。目の奥がチカチカしていて、うまく視界が晴れない。
 サリエは、レンガに頭を掴まれ髪の毛を引きちぎられた衝撃が今も残っていた。神の怒りを直に触れたのだ。そう簡単に痛みが引くわけがない。周りの皮膚にまで炎症が広がり、額の隅が赤く爛れていた。
 「…ねえさま」
 巫女の一人、リリスが心配そうに薬草を染み込ませた布をを傷口に当てた。
 「!!」
 声をどう上げていいかわからない。痛いのと滲みるのと痺れるのがごっちゃになる。
 サリエは声を上げるのをどうにか我慢をした。眉間に皺を寄せ、しかめっ面をして奥歯をぎゅっと噛みしめて耐えた。
 その後に、はあーーっと、深い溜息。その溜息は何を意味しているのか。
 痛み、嘆き、怒り。
 どれだ?全部か?
 薬液が傷口に入り込む違和感と、薬液の効能が効いてきた熱さが、感情と痛みを麻痺させているのだろうか。サリエはしばらく、じっと目を閉じて黙っていた。
 リリスはサリエを見つめた。
 リリスは巫女になってまだ日が浅い。サリエを上官に持ち、以前は毎日のように叱咤されていた。リリスはサリエを見つめた。サリエの次のオーダーを聞くためだ。こんな緊迫した状況でミスは許されない。
 チドリの一件以来、サリエは上官の任を一度は解かれた。だが、マリーの即位のために再び女官長として戻ってきたのだ。見習い女官にとって、上官でもあるサリエは鬼より悪霊より怖い存在なのだ。鬼がいなくなったと歓喜していた見習い女官達の心は一喜一憂。再び鬼を迎え入れる体制になり、落胆し、業務を全うできない者が増えていた。
 復帰後は、サリエはだいぶ丸くなった。闇雲に怒り散らすことはなくなったにせよ、業務に携わる指導は厳しく、見習い達には未だに恐ろしい存在であった。
 その恐ろしい鬼が、更に恐ろしい神の怒りに触れ、負傷してしまった。ハラハラと心配する者もいれば、心の中でザマアミロと笑っている者もいる。
 当の本人は報いは受けるものだと肝が座っていた。
 なら私は?
 負傷した上官を前に私がすることはなんだろう?
 リリスは考え込んでしまった。
 巫女の仕事は初めてで、慣れない頃はよくサリエに怒られていた。挨拶の仕方や、掃除の手際さ。書類の書き方など。リリスはあまり要領良く動けた試しがない。いつも何かに失敗し、サリエに注意を受けていた。いつか見返してやろうと考えてはいたが、こんな時に負傷した人に対し、ザマアミロとは思わない。ただ、ただ、心配で仕方がない。
 強気な人の弱気な部分を見させられて言葉に詰まってしまうのはよくあることだろう。たとえ気を遣っても、「どうせ心の中では笑っているんでしょう?」と嫌味で返されたら尚更言葉に詰まる。
 だが、サリエは、悪態をつくまでもなく、事実をありのまま受け入れていた。
 「マリーの力が安定しないのは私のせい。あの子の心の拠り所を私が奪ってしまったから」
 私が愚かだった。負の感情のまま突き進んでしまった。取り返しのつかないことをしてしまい、あの子の大事な人を傷つけた。生きて再会は果たせたけれど、その後は行方がわからない。
 サリエは寝台に横になり、顔を押さえた。
 「あの子の情緒が不安定なのは私のせいよ」
 力不足だと嘆くサリエの姿に、リリスは胸がきゅうっと締め付けられた。普段なら絶対に見せない弱気な姿に、サリエの想いを深く感じた。
 「…ねえさま」
 リリスがぽつりと口を開いたと同時に、突然、神官達がズカズカと入り込んできた。
 司祭長のカルダンだ。恰幅の良い身体と目つきの悪さにリリスや他の見習い女官達は震え上がった。
 「マリー様に伝えておいてくれ。いつまでもおままごとの気分で天冠の巫女をやられては困るのだと」
 カルダンは、浅黒く焼けた肌に白い髭が伸びていた。胸の前で腕組みをしていた。見るからに態度も言動も悪い。
 「巫女様の気分次第で、天候までも左右されては作物にどう影響が出るかわかりませんしな」
 「そもそも巫女にしたのは早計過ぎたのでは?」
 カルダンの取り巻き達も矢継ぎ早に捲し上げた。
 取り巻きのモンシとクレバ。二人共細身で、土色の髪を一つに結んでいた。屈強な体つきのカルダンに比べると、風で飛ばされてしまいそうだ。
 「カルダン司祭。サリエ様は怪我をされているんですよ!」
 リリスは、横たわるサリエの前に立ち塞がった。
 女性の寝所に許可もなく入り込んできた横柄な態度には気が気でなかった。
 「その怪我とて、巫女様の意識の低さからきたものであろう」
 カルダンは自慢の髭を撫で下ろし、リリスに悪態をついた。
 「巫女様を選んだのは神ですよ!あなた方は神をも侮辱される気ですか!?」
 「フッ。その神とて子どもではないか。子どもの話をいちいち鵜呑みにしていては、神殿は一向に再興しない。ここは一つ、チドリ様に大神官として戻っていただこうではないか」
 カルダンは、マリーだけでなく、レンガにまで悪態をついた。
 「何を仰っているのですか?チドリ様は!」
 数々の違法行為が発覚し、神殿から追放された。
 今は地下牢に繋がれている。見習い達には、違法行為の内訳は開示されていない。ただ、リリスや他の見習い巫女達もなんとなくわかっていた。有り体な情報でも、わかる時もある。
 「くく…。チドリ様の違法行為など、たかが知れている。身内にしかわからないことだ。外部には絶対漏れることはない」
 「人間誰しも一度や二度は間違うことがある。だが、今の巫女様に比べたらチドリ様の方が何倍も頼もしい存在ではないか」
 「色仕掛けでチドリ様に迫ったあなたには、チドリ様の偉大さがわかることなのではないか」
 三者三様。色々な言葉が送られてきた。ニヤニヤと薄気味悪い笑顔は三人とも同じだった。
 「あなた方は、巫女様だけでなく、レンガ様やサリエ様も侮辱する気ですか!」
 リリスは嫌悪感剥き出しに口を開いた。
 「見習い如きが神の名を呼ぶな!立場を弁えろ!」
 カルダンの怒鳴り声に体が震え上がった。リリスは体が硬直してしまい声が出せなくなった。上官に口答えをするなどもってのほかだ。
 「ハッ!これだから女は!生意気だな。感情的になっては話が進まないではないか」
 「やれやれ。本当にめんどくさい生き物ですよね」
 「徒党を組まないと何もできないくせに、口ばかり達者で呑気なものだ。お前ら見習い巫女に何がわかるというのか!」
 カルダンを筆頭に、モンシとクレバは口々に女は駄目だと使えないなどと暴言を繰り返した。
 その都度、リリスは顔を背けた。自分を含め、傷ついているサリエを侮辱されていることが何よりも悔しくて堪らなかった。目の中に溜まった大粒の涙を流すまいと固く誓った。
しおりを挟む

処理中です...