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第2章
10 カウントダウン3
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頭上からした声に反応して顔を上げると見たこともない人物がいた。真っ白な装束に身を纏い、駱駝を連れていた。一見、商人にも見える風体だが、これはまさか!?と雪は一瞬で確信した。
「…神官…さま?」
目の部分しか空いてない真っ白い装束は話に聞いていたのと同じだった。
「はい。私はルオーゴ神殿のチドリという者。君は?今、助けてと聞こえたのだが何かお困り事かな?」
話し方といい、目元といい、物腰柔らかさそうな青年だった。歳もシャドウと同じくらいに見える。
「君?どうかしたか?」
「い、いいえ」
現れた人物に雪は戸惑いを隠せない。ディルを助けに行くには手を求めたいが、相手はシャドウと問題になっている神官。その神官のお嫁さんを奪ったのはシャドウ。いくら何でも手を貸せとは言えない状態だ。
「いえ、あ、でも…」
「ふむ。何か事情を説明できない理由があるんだね。まあ、なんにせよ助けを求められた以上放っておくわけにはいかないから、君が来た道を戻ってみるよ。何かあるかもしれないしね。君はそこにいなさい。足首を痛めているね。手当てをしてあげるから待っていて」
神官は駱駝に乗り、小走りで去って行ってしまった。
「え…あ、いや」
雪は座り込んだまま呆然としてしまった。
「あれがチドリって人?」
想像と違った。あんな他人に対して優しく接して、人助けを苦とも思わない。神殿の教育か、それとも性格か。後者ならシャドウさんの裏切りは相当この人に響いただろうな。シャドウさんも然り。巫女の未来を案じて苦渋の選択をしたのだろう。愛情深く育てられた巫女はなんて羨ましい。よっぽど大事に思っていたのだろうな。
雪は深い溜息をついて膝の上に顔を置いた。浅ましい自分の思いに恥ずかしくなって来ていた。ちっとも成長していない己に辟易した。
「他人の幸せを妬んでどうする」
雪は自分の両頬を思い切り掴んで伸ばした。いつもディルにやられていることだ。本気度が違うと痛みも増す。ディルに抓られて痛かった時もあったがそのほとんどはじゃれて来た程度だった。優しさが歯がゆい。
「足痛みますか?」
チドリが戻って来ていた。体の陰影が雪を塗りつぶす。
「泣きそうな顔をしている」
大丈夫かい?とチドリは雪の頭を撫でた。ポンポンと軽く二回。
「1キロくらい戻ったところで、数人が争っていた現場がありました」
「えっ、けが人は?若い男の子がいませんでしたか?」
「現場には誰もいませんでした。けが人の有無はわからないけれど、少しばかり血痕がありました」
「血痕って…」
雪は青ざめた顔でチドリの腕を掴んだ。
「滴下血痕は市場の方に向いてました。多分、市場の人間でしょう。あそこは柄の悪いのがたくさんいます。違法の裏取引など何とも思ってない。水の価格を値上げているのは彼等のせいですよ」
大丈夫ですよ。心配しないで。とチドリは雪の頭や肩に触れた。
「君の連れの方、無事だといいですね」
チドリの声は不思議と体の中にすぅっと浸透していった。ディルの安否確認がまだなのに安心感で満たされた。雪の瞳に溜まっていた涙は流れることはなかった。
「左足を捻ってますね。ティムシーの葉を貼っておきます。しばらくしたら痛みが引いてきますよ」
「ありがとうございます」
柊みたいな刺々しい葉が薬剤に浸って、角が丸くしんなりとしていた。晴れ上がった患部を冷まし、広く染み込んでいく。
「市場の商人達には手を焼いてばかりです。正当な価格での商売をしている店など数える程度で。運搬料や砂漠越えなどの労力を差し引いたとしても良心的な価格とは言えません。神殿でもこちらの商人達とは取引があるので強引な取り締まりなどはしたくないのですが…。今日もこれから市場に取り締まりに行くところです」
チドリは駱駝の背に積んでいた荷物から麻袋と紐を取り出した。購入した食料や薬を入れる袋だ。普段使いより大きな袋は衣類や布団などを入れていた。
「市場を独占されては本当に必要としている人が困ってしまう。そう思いませんか?」
チドリは雪を振り返り、肩に触れた。だらりと力を失った体が、重力のまま地面に崩れ落ちた。ぶわっと茶色い粉塵が舞う。
「…ティムシーの葉は狩猟用の獲物に使う薬ですが、人体にも効くんですよ。古くは捕虜にした兵士なんかに使われてましてね。ケガの手当てのフリをして患部から体内に入り、じわじわと体を痺れさせて自由を奪っていくんです」
「…まったくずるいなぁ、シャドウは。マリーだけでなく、影付きまで独占しようとするなんて」
意識を失った雪を麻袋に入れ、口を緩く麻紐でくくる。駱駝の瘤に固定し、何事もなかったようにその場を離れていった。
*
「お前まだいたのか?今日は見回りがあるからさっさと出てった方がいいぞ」
酒場の主人のジングはシャドウを見るなり怪訝な声を出した。
「…予定外だ」
一晩寝ても覚めない二日酔いに、体が言うことを聞かなかったのだ。普段から酒は一滴も飲まずにいるせいか、ガリウの匂いだけで昏倒してしまった。倒れる前の記憶もあやふやだ。
神殿が近づくに連れてざわめき出す心の内に戸惑っているのかもしれない。大事な妹の花嫁姿を拝みに来たというのに、心がちっとも浮き足立たない。
咲かないリュリュトゥルテのように。蕾はまだ硬く閉ざされたままだ。
シャドウはジングに気付かれないように溜息を漏らした。大事な妹の晴れ姿を祝えない兄がどこにいるんだ。しっかりしろ。例え再会が、神殿を出ていくと約束をした日以来だとしても。
シャドウは酒場の隅っこに腰を下ろした。一人旅ならすぐに出発していたが、連れがいれば残して行くわけにも行かない。出発の遅れの原因は自分にあるので、いなくなった連れをやいやい言う権利はない。二日酔いの体に効くものを買いに行くと夢現に聞いたような気がして、市場に自然と足が向いたのだった。
「シャンシュールを食わなかったのか?あれを5,6個まとめて食ってみれば、二日酔いなんざあっという間に吹き飛ぶだろが」
ジングはガハハと大笑いをした。
小粒ながら脳髄を刺激するあの破壊力。舌を麻痺させるハイスピードな酸味。
「…余計悪化させる気か」
考えただけで寒気がする。想像だけで人を病気にさせる悪魔の実。巷ではジャムにしたり、ゼリーにしたりと甘くした加工品はいくらでもあるというが、到底この場にあるとは考えられない。考えても手に入らなければ幻想と同じだ。
「坊主と若いねえちゃんに一袋売ったんだが、お前の連れじゃないのか?」
「あ、ああ…」
やっぱり来てたのか。シャドウは二人の居場所を特定できて安堵した。市場に来ているなら探せばいいだけの話だ。
ジングはシャドウとの間合いを急に詰めてきた。声音を低くしヒソヒソと話した。
「あのねえちゃんは、ヴァリウス王の愛人か何かか?」
「そんなわけあるか」
「なら、愛人の娘か?あのチョーカーの色は国賓扱いだろ」
「…隠せと」
言っておかなかったか?余計な種を蒔くのはやめるようにと。自分がそうだから雪にも隠しておけと言ったつもりでいた。影付きのことも嫌がっていたから吹聴するタイプには見えないから大丈夫だろうと安心していた。
シャドウは仕方ないと諦めた。言葉が足りなかったのも自分の不備だ。
「王の使いだ。神殿に行くだけだ」
「本当か?」
「書状もあるぞ」
いまいち納得しないジングに外套の懐から書状の筒を見せた。筒にもびっしりと宝飾が付き、煌めいていた。ヴァリウス王の趣味の悪さが露呈されている。
「ふん。まぁ、いいけどよ。オレが納得しても他の奴等がな。何人かゴロツキがねえちゃん達を追っていったぜ」
「なんだと!?それを早く言え!」
シャドウは踵を返して走り出そうとしたところに、傷だらけになって仲間の肩を借りながら歩いてくる男の集団を見た。全員、満身創痍だ。
「お前達!」
男達は呼び止めて来た声のする方を見上げた。道の真ん中で仁王立ちしているシャドウに、おおうっと上半身を仰け反る。
「な、なんだよ」
「俺の仲間に何をした?答えによっては手加減しないぞ」
シャドウは威嚇を発し、腰の木刀を掴んだ。男達はたじろぎ、身震いした。
「ちょ、ちょっと待てよ!仲間ってこの獣人の坊主のことか?」
男の一人が集団をかき分ける。中には刀剣屋の主人のジークと肩を組みながら談笑するディルの姿があった。
「ディル!お前無事なのか!?」
「よう、シャドウ」
「ようって…何だお前。こいつらとやりあったんじゃないのか?」
ディルもまた満身創痍で傷だらけの男達と同じ姿でいた。ヘアセットは乱れ、頬にや腕には擦過傷。胸元は破れはだけていた。
「あ~、喧嘩はちょっとね。みんなヴァリウスに文句があるやつばっかで、愚痴を聞いてた」
あっけらかんとするディルに男達は笑った。
「坊主は強いな」
「獣人だからか、すばしっこくてオレら数人でも捕まらないんだからたいしたもんだ」
「オッサン達にはまだまだ負けないよ」
数時間前まで敵対していた者同士なのに今は平等に笑い合っている。不思議な図だ。これはひとえにディルの性格のおかげだな。昔は獣人と言われるだけで喧嘩っ早かったのに、今はこうだ。成長したな。
シャドウはへへんと笑うディルの頭を撫でた。耳の先がピクピクとくすぐったそうに動いた。
「で。雪は?」
切り返し。もう一人の連れはどこに行った?
「へ?シャドウを呼びに行けっつったけど…来てない?」
「ああ。会ってないぞ」
どこかですれ違ったか?これはちょっと厄介な話だ。
二人はううむと腕を組んだ。市場の中にいれば探しようがあるが、外に出たのであれば範囲が広がる分探すのも一苦労だ。外は砂漠で目印となる物はほとんどない。
「まさかシャドウとすれ違ってわからなかったとかないよね」
「そこまで俺は影が薄いのか…」
大の男が縮こまってもちっとも小さくならない。やべえなぁと、ディルは鼻の先を掻きながらシャドウの肩に足をかけた。
「このまま立ち上がってよ。上から見てみるからさ」
シャドウは言われるがままにディルを肩に乗せたまま立ち上がった。青年男子とはいえディルは軽量なのでたいした重さは感じられない。ディルはシャドウの肩を踏み台にしてポーンと宙に跳んだ。身軽なのは獣人の血か。見えるのは屋台の屋根と人の頭。積荷。駱駝や馬。
「ぱっと見いそうにないなぁ」
くるんと体を捻らせ地面に足を付いた。
波のように砂塵が舞う。
「まずいな」
どうしたものかと二人は頭を抱えた。仮にシャドウとディルがはぐれたとしても、すんなりと出会えたりする。付き合いが長いせいかお互いの性格や趣味思考は熟知している。だが、雪に至っては言うまでもなく付き合いは浅い。性格はだいたい理解しているが趣味嗜好までは考えが及ばない。
「あいつああ見えて、結構酒飲みだよ。さすがにガリウは飲めなさそうだったけど、酒場のオヤジと和気藹々と話してた」
「意外だな。…ジングに聞いてみるか」
シャドウとディルは酒場に戻ろうとした時にどこからか切羽詰まった声が響いた。
「おい!まずいぞ!神官が来た!!」
「何!!」
「やばいやばい!」
わらわらと市場の売人や商人達が散会していく。何事かと、シャドウとディルは立往生してしまった。
「何だ何だ?」
混乱する最中にシャドウの腕を強引に引っ張って店の中に入れたのは、ディルともめていた男達だった。
「兄ちゃんら、ボーっとしてたら神官に取っ捕まえられるぞ」
「何だと?」
神官と聞いてシャドウは身を乗り出して男に詰め寄った。
「最近おかしいんだよ。神殿の奴等。急に店の取り締まりだの初めて。今までそんなことなかったのに、逆らった売人やら商人を捕まえて連れてちまうんだ。しかもよ、戻って来た奴はいないって話じゃねえか。兄ちゃんら他所から来たんだろ?目をつけられねえうちに出発した方がいいぜ」
男達は方々に同じことを言う。先を急げと言われても雪がいない。連れて行かなければならない人を置いてはいけない。シャドウは葛藤しながら外の様子を伺った。砂塵を舞い散らしながら駱駝の足音が近づいて来るのがわかった。三頭いるうちの一頭だけがこちらを向いていた。遠目でも馬上の白装束の姿はすぐにわかった。
「チドリ…」
精悍な目元は今も変わってなかった。シャドウの喉元が大きく鳴る。
神官の仲間同士で何やら会話をしているが内容までは聞き取れなかった。駱駝がゆっくりと転回する。体を揺らしながら歩く際に瘤に括り付けられていた麻袋が揺れた。袋口から人間の髪のようなものがはみ出していた。
「人攫い」の文字がシャドウの脳裏に浮かび上がっていた。
頭上からした声に反応して顔を上げると見たこともない人物がいた。真っ白な装束に身を纏い、駱駝を連れていた。一見、商人にも見える風体だが、これはまさか!?と雪は一瞬で確信した。
「…神官…さま?」
目の部分しか空いてない真っ白い装束は話に聞いていたのと同じだった。
「はい。私はルオーゴ神殿のチドリという者。君は?今、助けてと聞こえたのだが何かお困り事かな?」
話し方といい、目元といい、物腰柔らかさそうな青年だった。歳もシャドウと同じくらいに見える。
「君?どうかしたか?」
「い、いいえ」
現れた人物に雪は戸惑いを隠せない。ディルを助けに行くには手を求めたいが、相手はシャドウと問題になっている神官。その神官のお嫁さんを奪ったのはシャドウ。いくら何でも手を貸せとは言えない状態だ。
「いえ、あ、でも…」
「ふむ。何か事情を説明できない理由があるんだね。まあ、なんにせよ助けを求められた以上放っておくわけにはいかないから、君が来た道を戻ってみるよ。何かあるかもしれないしね。君はそこにいなさい。足首を痛めているね。手当てをしてあげるから待っていて」
神官は駱駝に乗り、小走りで去って行ってしまった。
「え…あ、いや」
雪は座り込んだまま呆然としてしまった。
「あれがチドリって人?」
想像と違った。あんな他人に対して優しく接して、人助けを苦とも思わない。神殿の教育か、それとも性格か。後者ならシャドウさんの裏切りは相当この人に響いただろうな。シャドウさんも然り。巫女の未来を案じて苦渋の選択をしたのだろう。愛情深く育てられた巫女はなんて羨ましい。よっぽど大事に思っていたのだろうな。
雪は深い溜息をついて膝の上に顔を置いた。浅ましい自分の思いに恥ずかしくなって来ていた。ちっとも成長していない己に辟易した。
「他人の幸せを妬んでどうする」
雪は自分の両頬を思い切り掴んで伸ばした。いつもディルにやられていることだ。本気度が違うと痛みも増す。ディルに抓られて痛かった時もあったがそのほとんどはじゃれて来た程度だった。優しさが歯がゆい。
「足痛みますか?」
チドリが戻って来ていた。体の陰影が雪を塗りつぶす。
「泣きそうな顔をしている」
大丈夫かい?とチドリは雪の頭を撫でた。ポンポンと軽く二回。
「1キロくらい戻ったところで、数人が争っていた現場がありました」
「えっ、けが人は?若い男の子がいませんでしたか?」
「現場には誰もいませんでした。けが人の有無はわからないけれど、少しばかり血痕がありました」
「血痕って…」
雪は青ざめた顔でチドリの腕を掴んだ。
「滴下血痕は市場の方に向いてました。多分、市場の人間でしょう。あそこは柄の悪いのがたくさんいます。違法の裏取引など何とも思ってない。水の価格を値上げているのは彼等のせいですよ」
大丈夫ですよ。心配しないで。とチドリは雪の頭や肩に触れた。
「君の連れの方、無事だといいですね」
チドリの声は不思議と体の中にすぅっと浸透していった。ディルの安否確認がまだなのに安心感で満たされた。雪の瞳に溜まっていた涙は流れることはなかった。
「左足を捻ってますね。ティムシーの葉を貼っておきます。しばらくしたら痛みが引いてきますよ」
「ありがとうございます」
柊みたいな刺々しい葉が薬剤に浸って、角が丸くしんなりとしていた。晴れ上がった患部を冷まし、広く染み込んでいく。
「市場の商人達には手を焼いてばかりです。正当な価格での商売をしている店など数える程度で。運搬料や砂漠越えなどの労力を差し引いたとしても良心的な価格とは言えません。神殿でもこちらの商人達とは取引があるので強引な取り締まりなどはしたくないのですが…。今日もこれから市場に取り締まりに行くところです」
チドリは駱駝の背に積んでいた荷物から麻袋と紐を取り出した。購入した食料や薬を入れる袋だ。普段使いより大きな袋は衣類や布団などを入れていた。
「市場を独占されては本当に必要としている人が困ってしまう。そう思いませんか?」
チドリは雪を振り返り、肩に触れた。だらりと力を失った体が、重力のまま地面に崩れ落ちた。ぶわっと茶色い粉塵が舞う。
「…ティムシーの葉は狩猟用の獲物に使う薬ですが、人体にも効くんですよ。古くは捕虜にした兵士なんかに使われてましてね。ケガの手当てのフリをして患部から体内に入り、じわじわと体を痺れさせて自由を奪っていくんです」
「…まったくずるいなぁ、シャドウは。マリーだけでなく、影付きまで独占しようとするなんて」
意識を失った雪を麻袋に入れ、口を緩く麻紐でくくる。駱駝の瘤に固定し、何事もなかったようにその場を離れていった。
*
「お前まだいたのか?今日は見回りがあるからさっさと出てった方がいいぞ」
酒場の主人のジングはシャドウを見るなり怪訝な声を出した。
「…予定外だ」
一晩寝ても覚めない二日酔いに、体が言うことを聞かなかったのだ。普段から酒は一滴も飲まずにいるせいか、ガリウの匂いだけで昏倒してしまった。倒れる前の記憶もあやふやだ。
神殿が近づくに連れてざわめき出す心の内に戸惑っているのかもしれない。大事な妹の花嫁姿を拝みに来たというのに、心がちっとも浮き足立たない。
咲かないリュリュトゥルテのように。蕾はまだ硬く閉ざされたままだ。
シャドウはジングに気付かれないように溜息を漏らした。大事な妹の晴れ姿を祝えない兄がどこにいるんだ。しっかりしろ。例え再会が、神殿を出ていくと約束をした日以来だとしても。
シャドウは酒場の隅っこに腰を下ろした。一人旅ならすぐに出発していたが、連れがいれば残して行くわけにも行かない。出発の遅れの原因は自分にあるので、いなくなった連れをやいやい言う権利はない。二日酔いの体に効くものを買いに行くと夢現に聞いたような気がして、市場に自然と足が向いたのだった。
「シャンシュールを食わなかったのか?あれを5,6個まとめて食ってみれば、二日酔いなんざあっという間に吹き飛ぶだろが」
ジングはガハハと大笑いをした。
小粒ながら脳髄を刺激するあの破壊力。舌を麻痺させるハイスピードな酸味。
「…余計悪化させる気か」
考えただけで寒気がする。想像だけで人を病気にさせる悪魔の実。巷ではジャムにしたり、ゼリーにしたりと甘くした加工品はいくらでもあるというが、到底この場にあるとは考えられない。考えても手に入らなければ幻想と同じだ。
「坊主と若いねえちゃんに一袋売ったんだが、お前の連れじゃないのか?」
「あ、ああ…」
やっぱり来てたのか。シャドウは二人の居場所を特定できて安堵した。市場に来ているなら探せばいいだけの話だ。
ジングはシャドウとの間合いを急に詰めてきた。声音を低くしヒソヒソと話した。
「あのねえちゃんは、ヴァリウス王の愛人か何かか?」
「そんなわけあるか」
「なら、愛人の娘か?あのチョーカーの色は国賓扱いだろ」
「…隠せと」
言っておかなかったか?余計な種を蒔くのはやめるようにと。自分がそうだから雪にも隠しておけと言ったつもりでいた。影付きのことも嫌がっていたから吹聴するタイプには見えないから大丈夫だろうと安心していた。
シャドウは仕方ないと諦めた。言葉が足りなかったのも自分の不備だ。
「王の使いだ。神殿に行くだけだ」
「本当か?」
「書状もあるぞ」
いまいち納得しないジングに外套の懐から書状の筒を見せた。筒にもびっしりと宝飾が付き、煌めいていた。ヴァリウス王の趣味の悪さが露呈されている。
「ふん。まぁ、いいけどよ。オレが納得しても他の奴等がな。何人かゴロツキがねえちゃん達を追っていったぜ」
「なんだと!?それを早く言え!」
シャドウは踵を返して走り出そうとしたところに、傷だらけになって仲間の肩を借りながら歩いてくる男の集団を見た。全員、満身創痍だ。
「お前達!」
男達は呼び止めて来た声のする方を見上げた。道の真ん中で仁王立ちしているシャドウに、おおうっと上半身を仰け反る。
「な、なんだよ」
「俺の仲間に何をした?答えによっては手加減しないぞ」
シャドウは威嚇を発し、腰の木刀を掴んだ。男達はたじろぎ、身震いした。
「ちょ、ちょっと待てよ!仲間ってこの獣人の坊主のことか?」
男の一人が集団をかき分ける。中には刀剣屋の主人のジークと肩を組みながら談笑するディルの姿があった。
「ディル!お前無事なのか!?」
「よう、シャドウ」
「ようって…何だお前。こいつらとやりあったんじゃないのか?」
ディルもまた満身創痍で傷だらけの男達と同じ姿でいた。ヘアセットは乱れ、頬にや腕には擦過傷。胸元は破れはだけていた。
「あ~、喧嘩はちょっとね。みんなヴァリウスに文句があるやつばっかで、愚痴を聞いてた」
あっけらかんとするディルに男達は笑った。
「坊主は強いな」
「獣人だからか、すばしっこくてオレら数人でも捕まらないんだからたいしたもんだ」
「オッサン達にはまだまだ負けないよ」
数時間前まで敵対していた者同士なのに今は平等に笑い合っている。不思議な図だ。これはひとえにディルの性格のおかげだな。昔は獣人と言われるだけで喧嘩っ早かったのに、今はこうだ。成長したな。
シャドウはへへんと笑うディルの頭を撫でた。耳の先がピクピクとくすぐったそうに動いた。
「で。雪は?」
切り返し。もう一人の連れはどこに行った?
「へ?シャドウを呼びに行けっつったけど…来てない?」
「ああ。会ってないぞ」
どこかですれ違ったか?これはちょっと厄介な話だ。
二人はううむと腕を組んだ。市場の中にいれば探しようがあるが、外に出たのであれば範囲が広がる分探すのも一苦労だ。外は砂漠で目印となる物はほとんどない。
「まさかシャドウとすれ違ってわからなかったとかないよね」
「そこまで俺は影が薄いのか…」
大の男が縮こまってもちっとも小さくならない。やべえなぁと、ディルは鼻の先を掻きながらシャドウの肩に足をかけた。
「このまま立ち上がってよ。上から見てみるからさ」
シャドウは言われるがままにディルを肩に乗せたまま立ち上がった。青年男子とはいえディルは軽量なのでたいした重さは感じられない。ディルはシャドウの肩を踏み台にしてポーンと宙に跳んだ。身軽なのは獣人の血か。見えるのは屋台の屋根と人の頭。積荷。駱駝や馬。
「ぱっと見いそうにないなぁ」
くるんと体を捻らせ地面に足を付いた。
波のように砂塵が舞う。
「まずいな」
どうしたものかと二人は頭を抱えた。仮にシャドウとディルがはぐれたとしても、すんなりと出会えたりする。付き合いが長いせいかお互いの性格や趣味思考は熟知している。だが、雪に至っては言うまでもなく付き合いは浅い。性格はだいたい理解しているが趣味嗜好までは考えが及ばない。
「あいつああ見えて、結構酒飲みだよ。さすがにガリウは飲めなさそうだったけど、酒場のオヤジと和気藹々と話してた」
「意外だな。…ジングに聞いてみるか」
シャドウとディルは酒場に戻ろうとした時にどこからか切羽詰まった声が響いた。
「おい!まずいぞ!神官が来た!!」
「何!!」
「やばいやばい!」
わらわらと市場の売人や商人達が散会していく。何事かと、シャドウとディルは立往生してしまった。
「何だ何だ?」
混乱する最中にシャドウの腕を強引に引っ張って店の中に入れたのは、ディルともめていた男達だった。
「兄ちゃんら、ボーっとしてたら神官に取っ捕まえられるぞ」
「何だと?」
神官と聞いてシャドウは身を乗り出して男に詰め寄った。
「最近おかしいんだよ。神殿の奴等。急に店の取り締まりだの初めて。今までそんなことなかったのに、逆らった売人やら商人を捕まえて連れてちまうんだ。しかもよ、戻って来た奴はいないって話じゃねえか。兄ちゃんら他所から来たんだろ?目をつけられねえうちに出発した方がいいぜ」
男達は方々に同じことを言う。先を急げと言われても雪がいない。連れて行かなければならない人を置いてはいけない。シャドウは葛藤しながら外の様子を伺った。砂塵を舞い散らしながら駱駝の足音が近づいて来るのがわかった。三頭いるうちの一頭だけがこちらを向いていた。遠目でも馬上の白装束の姿はすぐにわかった。
「チドリ…」
精悍な目元は今も変わってなかった。シャドウの喉元が大きく鳴る。
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