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第4章
38 夜道
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「夜なのに」という言葉は彼女には無縁のようだった。
ここでの暮らしが長くとも夜は森には入るなと大人たちに口酸っぱく言い聞かされるはずだ。うんざりするほどだが夜の森には入らない方が賢明だ。大の男でも子どもと同じ扱いを受ける。嫌気がさすが仕方がない。夜目がきかない分、得体の知れない物に惑わされ、迷わされるかもしれない。山賊がいるかもしれない。野犬がいるかもしれない。魔物に出くわすかもしれない。言い出したらキリがないが、ありとあらゆる事例がある以上、迂闊には入らないようにしている。月明かりがあるならまだしも、月がない新月の日などはあり得ない。たとえ月があったとしても、子どもを抱き抱えたまま入るなどもっての外だ。
「待て!」
危険を顧みずに何事もないようなすまし顔でいるキアをシャドウは止めにかかった。アーシャを抱き抱えている腕を捕まえた。
「えっ?」
「無闇に森に入るな!夜は危険だと知らないのか!!」
「えっ、でも、この子の家は森の中なので…」
「なんだと?」
すっとぼけた声で返事をするキアに対し、シャドウは声を荒げた。
「ええと…。この先の湖の対岸にあります。だから真っ直ぐではなくて、こっちの道に行きます」
キアは森に入る手前の小道を指差した。頭ごなしに怒鳴りつけてくるシャドウをキアは驚きつつも、冷静な口調でたしなめた。
「大丈夫ですよ。夜道には慣れてますから」
キアは手を離してもらえますか?とやんわりと視線を送った。
「…しかし」
シャドウはキアの腕の中でキョトンとした顔の子どもを見やる。何を思ったがひゃはははと笑い声を上げながら両腕を広げ、のけ反るポーズを披露した。
「うわっ」
シャドウも思わず声を上げた。
「アーシャ」
耳元で囁く声に子どもの動きはぴたりと止まる。体勢を元に戻してキアの首にしがみつくように腕を回した。
「よしよし」と背中を軽くタップ。
「風が気持ちいいね」
「ほら見て。お星様きれいだねえ」
キアは羽織っていた服を片側だけ袖を抜き、裏返してアーシャを包むように抱えた。夜風は気持ちがいいけれど、体調を崩しやすい幼子には影響がありすぎる。
「すぐそこなんですが、一緒に行きますか」
キアはシャドウに声をかけて歩き出した。返事は聞かない。
「…ああ」
シャドウは明かりも持たずに颯爽と歩き出すキアの後を追った。足元は草が生い茂っているが一歩たりともぶれたりよれたりしなかった。
「…慣れているとはいえ」
油断は禁物だとシャドウはつぶやいた。その言葉をキアは背中で受け止める。
「わかってます」
キアは振り返らず答える。
「心穏やかに。冷静さを保つようにと日頃から言い聞かされてます」
「それはいい心がけだな」
夜は何かと繁殖しやすい。
「ふふ。キハラが毎日口酸っぱく言うので嫌でも体に染みつきました」
あ、決して嫌じゃないですよと笑って付け足す。
「キハラ?」
「この村の主神です。私の大事なひとです」
「いきなり惚気られても困るんだが」
主神を「ひと」と呼ぶのか。
シャドウは顔を顰める。
「そういうわけではないです!…でも、大事なことには変わりありません。私を大事にしてくれて、私を…にしてくれて、この村にいさせてくれたひとです」
一部分聞き取れなくてシャドウは首を傾げる。聞き直そうと思ったが呼び止めるまではしなかった。あの子は何かだとナユタが言っていたような気がする。気になるならナユタに聞けばいいだろうとぼんやりと考えた。
キアの肩にしがみついている小さな手をシャドウは眺めた。小さな指先がぎゅうっと服を握りしめていた。運ばれている振動と抱かれている温もりと少し冷たい風が眠気を誘う。背中越しにすうすうと寝息が聞こえた。
「おやすみ」
「よく眠っている」
二人の声が合わさる。キアは振り返り、肩越しにシャドウに微笑む。同じ内容を同時に口にしたことを喜ばしく思った。
「…子どもは寝ると一気に重くなるよな。代わろうか?」
咄嗟に出た言葉がこれだ。神殿にいた頃を思い出す。
「動かしたら起きちゃいそう。もうすぐだから大丈夫ですよ」
もう少し気の利いたことを言えよとシャドウは自分を詰る。
「ありがとうございます」
シャドウの内心を知ってか知らずかキアは気持ちのままに伝えた。嬉しかった。
夜風が二人を包む。冷たさが心地良いとシャドウは火照った顔を撫でる。
アーシャの家に着いた。キアは扉を叩く。シャドウは少し離れた木の辺りで待つことにした。
「キア。悪いな。アーシャのお守りは大変だったろう」
家の中からロイが出て来た。
「ううん。よく寝てるよ」
寝ぐずりはいつものことだからいちいち気にしない。
「まだ遊び足りなかったのかもしれないね」
夜遅くまで友達といれたのが嬉しかったのに、思うように遊べずにいた。普段見慣れない大人たちに囲まれての食事会も慣れていなかったのだろう。
「私の配慮も足りなかったの」
「アーシャに配慮はいらないだろう」
どこまで気をつかうんだとロイは呆れ気味だ。
キアはしがみついて眠るアーシャを静かにベッドにおろす。起こさずに子どもをおろすコツはキアごとベッドに入ることが望ましい。
「私も寝ちゃいそう」
「寝ていってもいいぞ」
冗談めかしに言っても体は正直だ。ふわあと大きなあくびが出た。
アーシャの寝息と温もりが眠気を誘う。
「だ、だめだめ!まだやることが残ってる!あの人も待たせてるし」
キアは首を振って眠気を吹き飛ばす。
「あの人って外にいるヤツか?」
ロイはクンクンと鼻を動かし、視線を扉に向けた。
「ディルを探しに来たっていう…」
「うん。シャドウさんっていうの」
「会わせるのか?」
「…今日はもう遅いから明日でいいんじゃないかな」
一瞬だけキアの顔色が曇ったのをロイは不思議に思った。
「そうだな。今日はもうアンジェに怒られてへそ曲げてふて寝してるしな」
「ふふ。何それ」
「元気すぎてもダメなやつだ」
アンジェも同じことを言っていたなと思い出した。一瞬陰りが見えた顔色も笑って吹き飛ばした。
心配はいらないとロイはキアの頭を撫でる。
「おやすみ」「おやすみなさい」とロイと挨拶を交わしてキアは外に出た。
シャドウは木の下で腕を組んで待っていた。先に帰ってもらってもよかったのだが、夜道舐めんなの視線が痛かったので待っててもらった。
「お待たせしました」
風に靡く髪の毛を両手で抑えた。アーシャに上着を貸したままだと気づいたのはすぐだった。温もりが一気に冷めて、ぴゅうっと勢いよく吹いた風に体がよろめいた。
あっと声を上げる前に。地面に手が付く前に。
シャドウが駆け寄ってきた。
倒れずにいたのはシャドウが体で受け止めていた。鼻と口がかたい鎖骨にぶつかり鈍い音がした。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、いい」
慣れているはずの夜道で起きるはずもないことがこのひとの前では起きてしまう。
「なんでだろう…」
「何がだ」
「…いえ」
夜道でよかった。顔は見えても顔色までは窺えないはずだ。今はきっと赤くなっている。見られるのは嫌だ。
キアは顔を逸らす。シャドウの側から離れて行きたいはずなのに、離れがたく思ってしまうのはなぜなんだろう。
アーシャを抱いていた頃の温もりがなくなって体が冷たいのに、このひとのおかげで寒くない。
「…(熱い)」
お互いが触れるか触れないかの距離にいる。触れてないのに熱を感じるのはなぜか。
「…宿に戻ろう」
シャドウは振り返らずにキアの手を引いた。
「はい…」
キアも手を引かれるまま、あとについた。二人は無言のまま歩いた。
キアはシャドウの背中を見ながら心の中で謝罪した。
(ディルさんに会わせてあげられなくてごめんなさい)
咄嗟に気持ちを変えてしまったから、バチが当たったんだ。つくづく狭量な人間だと身に染みる。
明日こそ二人を引き合わせてあげられたらいいな。
(けど、まだ、)
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