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第5章
9 諦めたらそこで終わり
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雪は、空中に投げ出されながら光る爪が描いた線を目に焼き付けた。金色の道筋を見てレアシスを思い出した。そうだ。レアシスさんにも挨拶していない。旅に出る前に、励ましてくれたのに、疑うような態度を取ってしまった。単純なことを軽く見ていた。時間があるからあとでいいやと。
今、出来ることをやらないでいる。じゃあいつやるの?
些細なことを見逃して明日に持ち越して、また忘れて。繰り返し。
時間は無限じゃない。今日出来ることは今日やっておかないと、明日はどうなるかわからない。今日と同じ日が明日やって来るとは限らないのだ。それを今痛感している。
あの時は、影付きの在り方など知らなかった。ヴァリウスの思惑も分からなかった。ただ、ただ、自分の拒否反応を貫き通した。レアシスさんの気持ちを汲むことはできなかった。
「レアシスさん!」
雪は消え入りそうな光の筋に向かって叫んだ。束縛されていた体は、真っ逆さまに森の中に落ちていった。
落ちて行く衝撃で木々が折れ、首に巻かれたチョーカーが切れた。ブチッと鈍い音を立てて留め金が外れ、布地が裂け、留め金の隣に付いていたイミテーションの宝石が弾け飛んだ。首が絞まるとかの影響はなく、布地が皮膚に食い込んで紙で切ったみたいな極細の傷ができただけで済んだ。傷の上をなぞるように血が浮き出てきた。
「わああっ!」
重力が落下速度を上げていた。何かにしがみつこうにも掴み取るものがない。空中を泳ぐみたいに腕をかいてみても何も変わらずじまいだ。
地上までが遠い。いつまで落ちるんだ。こちらの世界に来て、地面の中に落とされたことがあった。その時の感覚に似ていた。底が見えない奈落のようだった。
やっぱり、私には居場所なんてないんだな。真っ暗な地面の中がお似合いなんだろう。影付きを受け入れない私は、この世界でも必要がないんだ。
感謝の意を唱えたのもつかの間、ネガティブなことばかり考えてしまう。こういうところはいつになっても治らないものだ。
「雪!」
自分の名を呼ぶ獣の咆哮がした。
「ディるさっ」
閉じかけの思考をこじ開けるような力強い声に、雪は声を上げた。獣の姿のディルが木を伝いながら登ってきた。
「腕伸ばせ!そこの蔦に捕まれ!!」
幹に絡まって生えている蔦に雪は夢中で両手を伸ばした。衝撃で樹皮に爪が食い込み、生爪が剥がれそうだ。摩擦で指がもげそうになった。
「ああああ!!」
何とか蔦にしがみついたが、体が振り子のように前後左右に激しく揺れた。
「…ぐううぅ」
「よし!よくやった!今行く!!」
「ディルさ…ん」
揺れる度に両手に負荷がかかる。ビリビリとした痺れが止まらない。木々の間を縫って吹き上がる風に、全身を斬り刻まれそうな痛みを覚えた。見えない力に押しつぶされそうだった。自慢じゃないがうんていも懸垂も一度も出来た試しがない。
「雪!」
ディルは勢いをつけて飛び上がった。
それと同時に雪の手が離れた。
「バカ女!」
風を切って落下して行く雪の肩口にかぶりついた。外套は穴が空き、皮膚にもかすめるほどだが痛みが走った。
勢いをつけて飛び込んだディルは、雪を咥えたまま藪の中に落ちた。
草をガサガサと分け入る音と、痛え!とディルの怒号が響いた。
くそったれくそったれとブツブツと文句を言いながら、ディルは藪の中から顔を出した。人間の姿に戻っていたが、髪はボサボサであちこちに擦り傷ができていた。
「おい!」
雪の胸ぐらを掴んで引き上げた。雪もまたボサボサで傷だらけでいた。
「なんで木の下にいたのに上から降って来るんだよ!」
「…そこ?」
問い詰められた論点のズレに脱力感が否めない。笑ってしまった。
ナイトメアに拉致られて閉じ込められていたと話すと、あからさまに嫌な顔を見せた。
「あの野郎、まだ雪のこと狙ってるのか」
神殿に着いた頃の陰湿な空気は奴のせいかと舌打ちをした。
「…何が目的だ」
ディルは状況を把握出来てなさそうだった。ナイトメアに狙われていることを言うべきかどうか迷った。本当のことを知ったら、ディルさんはきっと真っ先に私を守ろうとして動いてくれる。嬉しいけれど、そのありがたみは受け取れない気がする。
「…お前さぁ。本気でぼくの能力のこと忘れてるよな」
心の声を聞く能力。出会って間もない頃から、何度となく聞き耳を立てられていた。
「はっ!」
驚いた表情を見せるも、バレバレだと額を小突かれた。
「ぼくに気をつかわれたくなかったら、ひとりで隠れて泣くな」
「え、」
「ひとりで解決しようとするな。ひとりで諦めて消えて無くなろうとするな。
さっき、手を離した時に底がない奈落に落ちてるみたいだと思っただろ。諦めたらそれで終わりなんだよ。希望があれば底は出来る。地に足をつけて、またやり直せばいい」
「…やり直すなんて」
「消えろって言ってるんじゃないよ。仮に消えても、ぼくらが探すよ。雪のことは全部覚えたから忘れたりなんかしない」
「ディルさん…」
「バカでクソで寝相の悪い顔面不細工な女ってだけで特徴ありすぎだし。忘れたりなんかしないよ」
「…言い過ぎですよ」
「ついでにもっと痩せろ」
「ほうっておいてください!」
「そのシャドウの外套と、ぼくの噛み跡があれば雪だって思い出すでしょ」
「噛み跡って…、あぁ。そういえばちょっと痛いかな」
雪は肩の辺りをさすった。注射針の先端がちょっと当たったぐらいの痛みだ。一晩経てば消えてしまいそう。
「じゃ、もっと痛くしたろ」
ディルは雪の左肩にかぶりついた。さっきより強めに。
「痛いって!何するんですか!」
雪はディルを突き飛ばし後ずさった。噛み跡さえ見えないがヒリヒリとした痛みが左肩全体に満ちた。
「甘噛みだよ。これで忘れないだろ」
あっけらかんと笑うディルは、雪のボサボサになった髪をぐしゃぐしゃとさらに絡めて来た。
「ちょ、何するんですか!」
「レスも力を貸してくれたんだ。城から距離があるっていうのに、遠隔で力を使って助けてくれたんだから。感謝しろ」
「やっぱりレアシスさんでした?」
「危ない目に遭ってなきゃいいけどな」
ディルは心配そうに目を細めて、城の方向を見た。転身の身だと、他の獣人達と分かり合うのは難しいと以前ぼやいていたのを思い出した。砂漠の向こうの土地は砂煙に覆われていた。
「…雷が鳴ってる」
「見えるんですか?」
「音だけな」
ディルは耳を峙ていた。砂嵐を巻き起こしている砂漠の風とは違う流れを聞き入れていた。
座り込んだままの雪を立たせ、体に付いた葉っぱやらゴミやらを払い落とした。
「変な空気だ。…城から嫌な気配が臭う」
「風に乗って運ばれて来てるんですかね?」
「…うん。そんな気もするし、違う気もする」
ディルは顔をしかめたままだ。眉間の皺がより深く刻まれていた。
「とりあえず、ここにいても仕方がない。マリーとサリエのところに行こう。着替えようぜ。雪もボロボロだろ」
「…ディルさんが穴開けたんですよ」
雪は肩口に触れた。指先に深い四つの穴を感じた。
「助かったんだからいいだろう!」
文句言うなとクワッと口を開けた。
「借り物なのに。怒られちゃう」
雪はボタンを外して穴の部分を内側から覗いた。ディルの歯型も赤く浮かんでいた。
「シャドウなら許してくれるよ。かわいい飾りでも付けて穴塞げば?」
「…それをシャドウさんが着るの?」
「ないな」
即答!
「かわいいかもしれないじゃないですか!花とか羽根とか付けましょうよ!」
「本気で言ってんのかよ」
「ディルさんとお揃いで」
「断る」
「えー」
「馬鹿言ってないで行くぞ。その真っ平らな胸元を隠す服を探そうぜ」
「…ディルさん。セクハラですよ!」
「仕方ないだろ。さっきからチラチラ見えるんだよ」
「ならもっと早く言ってくださいよー!」
雪は胸元を押さえながら、顔を真っ赤になって叫んだ。
「公序良俗的にはギリかなぁ」
ディルは減らず口を叩くも、頬は少し赤らめていた。
「もう!さっきからブスだのデブだのクソだのひどすぎますよ!言い方ってものがあるでしょう!?」
世界中の女性を敵に回しましたよ!と雪は激高した。
「デブとは言ってない」
「痩せろって言ったじゃないですか!」
「ニュアンスが違うだろが」
「同じですよ!」
やいのやいのじゃれ合うディルと雪。
涙はすっかり乾いていた。
ディルはニヤつきながらも、雪の背を支えるように一歩下がって歩いた。
*
「あーらら。運命の路線図が変わった。仲の良いことで。ご主人はどんな顔をするかな。残念がるだろうな」
猫さんと犬さんグッジョブ!とククルはほくそ笑んだ。
雪は、空中に投げ出されながら光る爪が描いた線を目に焼き付けた。金色の道筋を見てレアシスを思い出した。そうだ。レアシスさんにも挨拶していない。旅に出る前に、励ましてくれたのに、疑うような態度を取ってしまった。単純なことを軽く見ていた。時間があるからあとでいいやと。
今、出来ることをやらないでいる。じゃあいつやるの?
些細なことを見逃して明日に持ち越して、また忘れて。繰り返し。
時間は無限じゃない。今日出来ることは今日やっておかないと、明日はどうなるかわからない。今日と同じ日が明日やって来るとは限らないのだ。それを今痛感している。
あの時は、影付きの在り方など知らなかった。ヴァリウスの思惑も分からなかった。ただ、ただ、自分の拒否反応を貫き通した。レアシスさんの気持ちを汲むことはできなかった。
「レアシスさん!」
雪は消え入りそうな光の筋に向かって叫んだ。束縛されていた体は、真っ逆さまに森の中に落ちていった。
落ちて行く衝撃で木々が折れ、首に巻かれたチョーカーが切れた。ブチッと鈍い音を立てて留め金が外れ、布地が裂け、留め金の隣に付いていたイミテーションの宝石が弾け飛んだ。首が絞まるとかの影響はなく、布地が皮膚に食い込んで紙で切ったみたいな極細の傷ができただけで済んだ。傷の上をなぞるように血が浮き出てきた。
「わああっ!」
重力が落下速度を上げていた。何かにしがみつこうにも掴み取るものがない。空中を泳ぐみたいに腕をかいてみても何も変わらずじまいだ。
地上までが遠い。いつまで落ちるんだ。こちらの世界に来て、地面の中に落とされたことがあった。その時の感覚に似ていた。底が見えない奈落のようだった。
やっぱり、私には居場所なんてないんだな。真っ暗な地面の中がお似合いなんだろう。影付きを受け入れない私は、この世界でも必要がないんだ。
感謝の意を唱えたのもつかの間、ネガティブなことばかり考えてしまう。こういうところはいつになっても治らないものだ。
「雪!」
自分の名を呼ぶ獣の咆哮がした。
「ディるさっ」
閉じかけの思考をこじ開けるような力強い声に、雪は声を上げた。獣の姿のディルが木を伝いながら登ってきた。
「腕伸ばせ!そこの蔦に捕まれ!!」
幹に絡まって生えている蔦に雪は夢中で両手を伸ばした。衝撃で樹皮に爪が食い込み、生爪が剥がれそうだ。摩擦で指がもげそうになった。
「ああああ!!」
何とか蔦にしがみついたが、体が振り子のように前後左右に激しく揺れた。
「…ぐううぅ」
「よし!よくやった!今行く!!」
「ディルさ…ん」
揺れる度に両手に負荷がかかる。ビリビリとした痺れが止まらない。木々の間を縫って吹き上がる風に、全身を斬り刻まれそうな痛みを覚えた。見えない力に押しつぶされそうだった。自慢じゃないがうんていも懸垂も一度も出来た試しがない。
「雪!」
ディルは勢いをつけて飛び上がった。
それと同時に雪の手が離れた。
「バカ女!」
風を切って落下して行く雪の肩口にかぶりついた。外套は穴が空き、皮膚にもかすめるほどだが痛みが走った。
勢いをつけて飛び込んだディルは、雪を咥えたまま藪の中に落ちた。
草をガサガサと分け入る音と、痛え!とディルの怒号が響いた。
くそったれくそったれとブツブツと文句を言いながら、ディルは藪の中から顔を出した。人間の姿に戻っていたが、髪はボサボサであちこちに擦り傷ができていた。
「おい!」
雪の胸ぐらを掴んで引き上げた。雪もまたボサボサで傷だらけでいた。
「なんで木の下にいたのに上から降って来るんだよ!」
「…そこ?」
問い詰められた論点のズレに脱力感が否めない。笑ってしまった。
ナイトメアに拉致られて閉じ込められていたと話すと、あからさまに嫌な顔を見せた。
「あの野郎、まだ雪のこと狙ってるのか」
神殿に着いた頃の陰湿な空気は奴のせいかと舌打ちをした。
「…何が目的だ」
ディルは状況を把握出来てなさそうだった。ナイトメアに狙われていることを言うべきかどうか迷った。本当のことを知ったら、ディルさんはきっと真っ先に私を守ろうとして動いてくれる。嬉しいけれど、そのありがたみは受け取れない気がする。
「…お前さぁ。本気でぼくの能力のこと忘れてるよな」
心の声を聞く能力。出会って間もない頃から、何度となく聞き耳を立てられていた。
「はっ!」
驚いた表情を見せるも、バレバレだと額を小突かれた。
「ぼくに気をつかわれたくなかったら、ひとりで隠れて泣くな」
「え、」
「ひとりで解決しようとするな。ひとりで諦めて消えて無くなろうとするな。
さっき、手を離した時に底がない奈落に落ちてるみたいだと思っただろ。諦めたらそれで終わりなんだよ。希望があれば底は出来る。地に足をつけて、またやり直せばいい」
「…やり直すなんて」
「消えろって言ってるんじゃないよ。仮に消えても、ぼくらが探すよ。雪のことは全部覚えたから忘れたりなんかしない」
「ディルさん…」
「バカでクソで寝相の悪い顔面不細工な女ってだけで特徴ありすぎだし。忘れたりなんかしないよ」
「…言い過ぎですよ」
「ついでにもっと痩せろ」
「ほうっておいてください!」
「そのシャドウの外套と、ぼくの噛み跡があれば雪だって思い出すでしょ」
「噛み跡って…、あぁ。そういえばちょっと痛いかな」
雪は肩の辺りをさすった。注射針の先端がちょっと当たったぐらいの痛みだ。一晩経てば消えてしまいそう。
「じゃ、もっと痛くしたろ」
ディルは雪の左肩にかぶりついた。さっきより強めに。
「痛いって!何するんですか!」
雪はディルを突き飛ばし後ずさった。噛み跡さえ見えないがヒリヒリとした痛みが左肩全体に満ちた。
「甘噛みだよ。これで忘れないだろ」
あっけらかんと笑うディルは、雪のボサボサになった髪をぐしゃぐしゃとさらに絡めて来た。
「ちょ、何するんですか!」
「レスも力を貸してくれたんだ。城から距離があるっていうのに、遠隔で力を使って助けてくれたんだから。感謝しろ」
「やっぱりレアシスさんでした?」
「危ない目に遭ってなきゃいいけどな」
ディルは心配そうに目を細めて、城の方向を見た。転身の身だと、他の獣人達と分かり合うのは難しいと以前ぼやいていたのを思い出した。砂漠の向こうの土地は砂煙に覆われていた。
「…雷が鳴ってる」
「見えるんですか?」
「音だけな」
ディルは耳を峙ていた。砂嵐を巻き起こしている砂漠の風とは違う流れを聞き入れていた。
座り込んだままの雪を立たせ、体に付いた葉っぱやらゴミやらを払い落とした。
「変な空気だ。…城から嫌な気配が臭う」
「風に乗って運ばれて来てるんですかね?」
「…うん。そんな気もするし、違う気もする」
ディルは顔をしかめたままだ。眉間の皺がより深く刻まれていた。
「とりあえず、ここにいても仕方がない。マリーとサリエのところに行こう。着替えようぜ。雪もボロボロだろ」
「…ディルさんが穴開けたんですよ」
雪は肩口に触れた。指先に深い四つの穴を感じた。
「助かったんだからいいだろう!」
文句言うなとクワッと口を開けた。
「借り物なのに。怒られちゃう」
雪はボタンを外して穴の部分を内側から覗いた。ディルの歯型も赤く浮かんでいた。
「シャドウなら許してくれるよ。かわいい飾りでも付けて穴塞げば?」
「…それをシャドウさんが着るの?」
「ないな」
即答!
「かわいいかもしれないじゃないですか!花とか羽根とか付けましょうよ!」
「本気で言ってんのかよ」
「ディルさんとお揃いで」
「断る」
「えー」
「馬鹿言ってないで行くぞ。その真っ平らな胸元を隠す服を探そうぜ」
「…ディルさん。セクハラですよ!」
「仕方ないだろ。さっきからチラチラ見えるんだよ」
「ならもっと早く言ってくださいよー!」
雪は胸元を押さえながら、顔を真っ赤になって叫んだ。
「公序良俗的にはギリかなぁ」
ディルは減らず口を叩くも、頬は少し赤らめていた。
「もう!さっきからブスだのデブだのクソだのひどすぎますよ!言い方ってものがあるでしょう!?」
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「デブとは言ってない」
「痩せろって言ったじゃないですか!」
「ニュアンスが違うだろが」
「同じですよ!」
やいのやいのじゃれ合うディルと雪。
涙はすっかり乾いていた。
ディルはニヤつきながらも、雪の背を支えるように一歩下がって歩いた。
*
「あーらら。運命の路線図が変わった。仲の良いことで。ご主人はどんな顔をするかな。残念がるだろうな」
猫さんと犬さんグッジョブ!とククルはほくそ笑んだ。
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