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東屋にて

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愁陽が城へ戻ると、マルと思わぬ人物が庭園にある東屋でお茶をしていた。鮮やかな紅色の衣を纏った翠蘭だ。その側には羅李が控えて立つ。今日は宮廷内だからだろう。金の髪を目立たせないようにフードつきの衣装を着ている。
白や桃色の睡蓮の花を水面に浮かべる池を見下ろすように建てらた東屋は、さほど大きくはなく王家が個人的に使うもので、今も三人のほかは誰もいなかった。

愁陽は腰から下げる剣に軽く手を添えながら階段を駆け昇り、そこにいるのは珍しい人物に言った。
「姉さん、珍しいですね!」
「あんたがたまには顔を出せって言ったんでしょ」
翠蘭が湯呑みを手に答えた。

「母さんには会われましたか」
愁陽が尋ねると、翠蘭はあからさまに大きく溜息をついた。
「ええ、もう大変だったわ。宴を開くとかいうから、それならばもう来ない。開かずにいればまた顔を出すと提案して、今ようやく逃れてココにいるのよ」
「それ、提案でなく脅しですよね」
「むしろ譲歩したと言ってほしいわね」
「仰ってる意味がわかりません」

翠蘭の隣に座っていたマルは、戻ってきた主人のためにお茶を入れようと、立ち上がって茶器のところへ移動した。
器用に茶器や茶葉を用意しながら、先ほど繰り広げられた騒動をにこやかに報告する。

「翠蘭さまが急にふらりと来られたので、それはそれは母君さまが大層感激されて、もう大泣きされるのを見たお付きの女官たちも、みなさんご一緒に大泣きされていらっしゃいました」
翠蘭はうんざりといった様子で頬杖をつき、面倒くさそうに聞いている。羅李は口に拳の甲を当ててクスクスと笑っている。
愁陽も宴などあまり好きではない方なので、彼女に同情した。
「それは、大変でしたね。まあ、こうなるまで放っておいた姉さんも悪いんですよ」
「あ”?」
あからさまに翠蘭は眉間に皺を寄せる。
「宴は無理にしても、家族で夕餉だけでもいかがです?一食分の食費がうきますよ」
「ああ、それもそうね」

マルが愁陽の分のお茶をテーブルに用意しながら、主に訊ねた。
「ところで、愁陽さま。愛麗さまのお屋敷に行かれたのでは?お会いになれなかったのですか?」
「ああ、いや、……会えたよ」
愁陽が椅子に腰かけながら、マルが淹れたお茶を一口飲んだ。

「大事なお話しをしに行かれたのでしょ?早いお帰りじゃないですか」
「あー、……うん、まあ」

湯呑みに手を延ばし、また一口お茶を飲む。
喉を通るお茶が苦い……
四人の間に気まずい沈黙が流れる。愁陽が答えるまで離してはくれなさそうだ。
きっと姉とマルが期待するようなことはなかったし、気持ちもはっきりと伝えられたわけではない。

愁陽は肩を落とし俯くと、小さな声で答える。
「それが……、肝心なことは……まだ」
「はあっ!?なあに、やってんのよ。ほんっと、あんたたち見てるとイライラしちゃう」
姉が身を乗り出し、凄い剣幕で言う。

「何ちんたらしてんのよ。男なら行くときは、グイっと行きなさいよっ」
「そんな、姉さんの小説のように行けませんよ」
「男同士だけど?」
「いや、そこじゃなくて!……男女でも恋愛は同じでしょ」
「あんた、たまにはいいこと言うわね」
「…………」

溜息をつきつつ、愁陽はぼんやり考える。
もう結婚は決まっていると言ったが、愛麗は自分の言葉を聞いてくれるだろうか。

その結婚はしないでくれ、自分を選んでほしい……と。そう言えばいいのか?
しかし、もう婚礼衣装まで決めるという段階だ。両家の間で婚礼の話はずいぶん進んでしまっていると思われる。
それも姉が子供の頃からすでに決められていた結婚だというではないか。それを王家の皇子が娘を欲しいなどと言えば、家の方が縁談を破棄しなければならなくなるのではないか?そんなことになれば、互いの家の関係にひびが入ることにならないだろうか?
そんなことをしても良いのだろうか。いや、それを願っているのだが。
しかし皇子の立場を使ったのでは、今の愛麗の思いを無視した縁談と何も変わらない。愛麗が想う者と結婚しなくては意味がないのだ。
自分を愛してると言ってくれなければ。
そして、自分も彼女にこの想いはまだ言っていない……

ぼんやり考え事をする愁陽の向い側に座っていたマルが、鼻をスンスンさせていたかと思うと、怪訝そうに眉間に皺を寄せながら愁陽に訊ねた
「ねえ、愁陽さま。つかぬことをお聞きしますが」
「ん?」
「その、愛麗さまのほかに女人に会われました?」
「は?」
「は?」
「は?」
愁陽、翠蘭、羅李の声が重なる。
次の瞬間、翠蘭が愁陽を睨むと愁陽は慌てて手を振って否定する。
「ちょっと、あんた何やって…」
「何もやってませんよ!」
「………………」
「羅李も剣から手を離せよ。しかも無言って怖いから」
カチャン、音を立てて抜きかけた剣を鞘に収める。
「剣を抜くな」
翠蘭がじとっと愁陽を睨んでいる。
「やましいことはやってません。ったく、そんな目でみないでくださいよ」

そんな姉弟のやりとりにマルは乗ることもなく、ただ主人の周りに漂う何かを窺うように見ている。
「愁陽さま、ボクも山神の使いである一族の端くれです。人外ですからなんとなく解かるのですが、愛麗さまとは明らかに違う、…何かを感じるんです。…何かなるものの気配を……」
なるもの?」

先ほどの愛麗の様子は明らかにおかしかった。
もしマルの感じたことが正しければ、おそらく彼女には本当に何かが見えていたということだろうか。自分には何も見えないし聞こえなかったのだが。彼女は何かにひどく怯えていた。
マルが眉間に皺を寄せて心配げに言う。
「とても、嫌な気が……何も、なければよいのですけど」

愁陽は音を立てて椅子から立ち上がると、急いで東屋の階段を駆け下りた。
愛麗への疑問が確信に変わる。
彼女の中には、おそらく別の何者かがいる。
翠蘭が慌てて、愁陽の背中に向かって叫んでいる。

「え!ちょっと!!……なに、っもう。落ち着きのない子ね!落ち込んでたと思えば、いきなり走り出して!絶っ対、情緒不安定かっ、カルシウム不足ねっ!」
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