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桃花の下で③

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愁陽はあらためて愛麗と向き合うと、彼女の大きく潤んだ黒い瞳をまっすぐに見る。

「愛麗。じつは今日訪ねたのは、聞きたいことがあって」
いつになく真剣な面持ちの愁陽に、愛麗は胸騒ぎを覚えた。
「なに?」

一拍間をおいて、愁陽は少し低い声で言った。
「結婚…するって、本当なのか?」
彼女はわずかに息をのんだ。
春の風がさわっと、二人の間を吹き抜けていく。
愁陽の薄水色の衣と愛麗の薄桃色の衣の裾が風にひらりと揺れる。

愛麗も考えていなかったわけではない。遅かれ早かれ、彼にいつか結婚のことは聞かれるのだろうと覚悟はしていた。
彼にも報告しなければならない。それはわかっていたことだ。
だから用意していた答えを告げる。

「本当よ」
愁陽が身を乗り出し少し感情的に訊く。
「なんで!?」
「もう決まったことだから」
「決まったことって」

「……誰と」
相手は翠蘭からなんとなくは聞いてわかっているが、愛麗の口から相手のことをどう思っているのか直接聞きたい。
「いい人よ……きっと。顔は知らないの、お父様が決めたことだから」
愁陽は言葉を失った。顔を知らないだって?
貴族には相手のことをほとんど知らず結婚するなんて、よくある話かもしれない。
だが、顔も知らずに結婚するのか?
それを愛麗が選んだことなのか!?

「なんだよ、それ。知らないって」
「…………」
「相手は三十過ぎで年の離れてるって、聞いたけど」
なぜか愁陽は怒っているようだ。愛麗はその意味がわからないまま続ける。
「三十歳くらい大したことないわ」

また姫君らしい作った微笑みを浮かべて話す愛麗に、愁陽は苛立ちを覚えた。
「愛麗は、キミだけは違うと思っていた。自分の選んだ相手と、進むべき道は自分で選ぶと思ってた」
「……仕方ないわ、本当は姉さんが幼い頃、家同士が決めた縁談なの。でも、姉さん死んじゃったから」
「だから変わりだっていうのか!?」

つい声が荒立ってしまう。
愁陽は悔しかった。こんなの愛麗ではないじゃないか!
愛麗も決めていたはずの答えなのに、愁陽に問い詰められると迷いが生じて視線が彷徨う。
なぜ彼はこんなにも怒っているのだろう。

「だって」
戸惑う愛麗の肩を愁陽は掴み、彼女の眼を覗き込んできっぱりと言う。

「キミは姉さんじゃない。誰でもない。愛麗だ!」

近い距離で愁陽の蒼い瞳に射抜かれるようにまっすぐに見つめられ、愛麗は言葉を失い心が大きく揺れ動くのを感じた。
「…………私?」
うまく呼吸が出来ない。

私って、何?

『そう、ワタシは愛麗。姉さんじゃない』
ふいに何の前触れもなく、いきなり女の低くよく響く声が聞こえてきた。
愛麗は声のしたほう、少し離れた屋敷のきざはしの下を見た。

そこには白い裾の長い衣を纏い、髪は黒く長く背に垂らし、青白い顔に少しつり上がった眼と真っ赤な唇がはっきりとわかる女の姿があった。どこかで見覚えのあるような知らない女の顔だ。

「……な、にを……言って、るの」
口の中が乾くのと底知れない恐怖を感じて、うまく言葉を紡げない。
愛麗は心臓を鷲掴みにされたような気がした。

『もう、姉さんのかわりなんて、うんざりだわ』
女がそんなことを言った。

「愛麗?どうした?」
愁陽も愛麗の異変を見て彼女を覗き込む。そして、彼女の視線を辿り階の下を見た。
「そこに、誰かいるのか?」
『彼には見えない』
白い衣の女は悠然とそこの立っている。
愁陽には見えていないということ?

「あなたは……」
愛麗の言葉に重ねるように女が答える。
『ワタシは、あなた』

愛麗は息を飲んだ。どこか見覚えがあると感じたのは、自分だからというのか。
女から感じるのは、恐ろしいほどの禍々しい気だというのに。

「……私は、あなたじゃない」
わずかにかぶりをふり否定をするが、恐怖で声が震えてうまく息が出来ない。

『ワタシはあなたの中にいる、もう一人のあなた』
女は真っ赤な口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「どういうこと……」

愁陽が困惑げに愛麗を見ている。
「愛麗?さっきから何を言っている?」
「愁陽、何も聞こえないの?」
「聞こえるって、なにが?」

愛麗は助けを求めるように、愁陽を見上げその両腕を掴んだ
「愁陽には見えないの?あそこに立っている女がっ……」
「女って、どこに……」
愛麗は愕然としてふらつき一歩後退った。

「私だから、見えるっていうの……」
『フフフ……そういうこと。ワタシはあなた自身なのだから!』
愛麗自身だという女は、愉快そうに声を立てて笑っている。

「わからない……私、は……」
苦しくて息ができない。愛麗は喉元を震える手で押さえる。
意識しないとうまく呼吸が出来ない。
『あなたこそ、誰?』
「私は……、誰?」
「愛麗!」

強く二の腕を掴まれ揺さぶられる。愁陽の呼ぶ声に意識が引き戻された。
ガラスが割れるように何かが弾ける感じがした。すると、呼吸もふつうに出来るようになった。
恐る恐る見た階に、女の姿は跡形もなかった。
愁陽の手が触れるところから彼の温もりを感じる。
けれど、いつでも黒い恐怖が足元から這い上がってくるようだ。

思わず膝から力が抜けてよろけて倒れそうになった身体を、愁陽が抱きとめて支えてくれた。恐怖で小さく震える愛麗の身体を、愁陽は優しく包むように抱き締める。

「愁陽、助けて、私……っ、私はっ」
「大丈夫だよ、愛麗。俺が側にいるから」
耳元に彼の優しい声が響く。それは彼女を安心させる。
このまま愁陽の腕の中にいれば、黒い影も消え去り安全のような気がした。
ずっと、こうしていたい。
ほんとは知らない男と結婚なんかしたくない。

ふと、彼の衣から上品な香の匂いがして、自分が彼に抱き締められてることを気付かされる。
愛麗はハッと我に返って、慌てて愁陽の腕の中から身体を起こすと早口に言った。
「ごご、ごめんなさいっ!私、どうかしてるわ!ちょっと疲れてるみたい」
「あ、……いや……」
「今日は、もう失礼するわ!」
一気にそう言って彼女は踵を返すと、その場を走り去ろうとした。
けれど次の瞬間、愁陽は彼女の右手首を掴んで、彼女を引き止めていた。
「待って!」
「っ!」

愁陽は掴んだ手をそのまま引き寄せ、愛麗の身体を腕の中に抱きしめた。
「し、愁陽?」
「俺では、ダメかな」
戸惑う彼女の耳元で愁陽は静かに低い声で言った。
「え?」
「愛麗の側にいるのは、俺ではダメか?」
そう言って抱きしめる腕に力を込めると、彼女の髪に頬をうずめた。
「俺がキミを守るよ、約束する」

愁陽……。

このまま彼とずっと一緒にいたい。
幼い頃のように……愛麗もそのまま彼の背に手を伸ばす。
が、出来なかった。やっぱり自分ではダメなのだ。
ギリギリのところで思い留まる。
彼女は両方の手で彼の胸を突き飛ばすように身体を離すと、ごめんなさい、と言い残して走り去ってしまった。
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