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桃花の下で②
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愛麗が強く握りしめられていた愁陽の両の掌を、解くようにそっと優しく開いていく。
愁陽の目に映るのは赤く血にドロリと染まってた掌ではなく、赤い血も震えることもない自分の両の掌だった。
「愛麗……」
あんなに自分の掌を見るのが怖かったのに、どれほどこの手を見たかったことだろう。
喉の奥に熱いものがこみ上げる。ようやく救われたような気がした。
愁陽は自分に言い聞かせるように話し始める。
「長い歴史の中、人々は平和を願い、国を滅ぼし国を新たに築いてきた。けれど、そうして得た平安もやがて崩壊し、泰平を願った国もまた滅ぼされる。歴史はそうやって繰り返される。きっと、それはこれからも変わらない……。そして、俺たちの、いま生きている時間は、長い歴史の中でほんの一瞬にしかすぎない」
彼の言葉の続きを愛麗が紡ぐ。
「でも、自分自身の歴史は生きている間すべてだわ。だから私達のしていることは、決して無駄ではない。そう思うと、長く精一杯生きることも、なかなか意味あることに思えない?面白い感じしない?」
そうでしょう?と言うように、彼女の真っ直ぐな眼差しと視線がぶつかる。
そっか……
ストン、と彼女の言葉が降りてくる。
彼女の言う通りかも知れない。
ふっと目を伏せた愁陽の口元が綻ぶ。
やはり、彼女には敵わないな。いつも救われてばかりだ。
「なるほどね」
「そ!」
愛麗の声は明るく自信に満ちている。
じわりじわりと、先程から桃の木の幹にできた黒い染みは、小さな一点からスピードを増して禍々しく黒く広がり続けていく。
二人はまだ気づかないようだが。
愁陽の顔にもようやく笑みが見えた。
「愛麗らしい答えだ」
愛麗も口元を綻ばせる。
子供の頃から聡明でいつも優しく爽やかな笑顔がよく似合っていた幼馴染が、こんなに苦しんでばかりなのは嫌だ。
幼い頃には想像もしなかった想い、苦しさ、葛藤、悩み、悲しみ……
これが大人になるってことなのだろうか。
それならば、大人になりたくない。と、愛麗は思った。
そして、なぜかそう思えたとき、自分の胸の奥にあった本当の自分を覆い隠していた靄のようなものが消えてゆき、久しぶりに愛麗自身に会えたような、そんな不思議な気持ちがした。そう思えるようになったのは、それは、おそらく愁陽のお蔭なんだと思う。
「愁陽、私ね、あなたに久しぶりに会えて……」
そこまで愛麗が口にしたとき、彼女はようやくすぐ側の桃の木の幹に、禍々しく黒い闇のような染みが出来ているのを目にした。
「っ!」
愛麗が口元を両手で覆い小さく悲鳴をあげる。サッと反射的に愁陽も腰に下げた剣の柄に手を掛けた。
彼女が気づいた後も黒い影は止まることなく、滲みながら広がり続けてゆき、やがて人影のような形を形成し始めた。
顔を強張らせ蒼白となった愛麗の異変に、愁陽は彼女の視線の先を追った。
けれど彼女の視線の先にはどうやら桃の木があるだけのようだが、どう見てもいつもと変わらない木があるだけだ。
「愛麗、その木がどうかしたのか?」
愛麗はおそるおそる桃の木の黒い影から目を愁陽へと移すが、彼は桃の木を見ても表情を変えることなく、ただ心配そうに愛麗を見ている。
「まさか……あなたには、見えないの?」
「見えないって、何が?桃の木がどうかしたのか?」
愁陽には影が見えていないようだった。影は今も滲み広がり続けていて、それはもう髪の長い女の形だと認識もできるのに。
愛麗の鼓動が早くなるのを感じる。見えているのは、自分だけということなのか。
恐怖で言葉をのみこんだ。なぜ、自分にしか見えていないのだろう。
これは幻覚なのだろうか。
やがて女の影はゆらゆらと動き出し始めた。まるで桃の木から出てこようとするかのように。
「……あなた……誰、なの?」
恐怖で絞り出すような声で訊う。
「あなたは、誰!?」
今度は緊張で鋭い声になった。
「愛麗、いったい誰と話しているんだ!?」
愁陽が桃の木と愛麗の間に身体を滑り込ませて彼女の視線を遮ると、彼女の震える肩を掴んだ。
愛麗はそんな彼を手で制すると、恐怖で声が震えそうになる自分の心を律し、語気も強く彼の背の後ろを覗き込んでハッキリと問いかけた。
「いつも話し掛けてくる、あなたはいったい誰なの!?」
けれど愛麗が再び桃の木を見た時、そこには先程の黒い女の影はなく、穏やかに満開に咲く桃の木があるだけだった。
どういうこと?
言いようのない恐怖が込み上げる。
あれは決して幻影などではなかった。
あれは恐怖で、闇だった。
なぜかわからないが、そう思える。自分にはわかる。
あれは異なるもの……。
「愛麗?大丈夫か?」
愁陽の声に愛麗はハッとする。彼が心配そうに顔を覗き込んでいた。
こんな自分を、愁陽には知られたくない。
「あ…、うん。誰か、そこにいるような気がしたんだけど……」
愁陽も桃の木を振り返り近づいて確認する。ただの穏やかな満開の桃の木だ。
「さっきから誰もいないけど」
「そ、うね。はは…寝ぼけてたのかな」
困ったように笑う彼女に、愁陽はなにか腑に落ちない気はしたが、そこには穏やかな春の庭しか感じられないし、それ以上どうしようもなく、彼女の表情からも恐怖が消えたため今は深く聞くことはやめた。
それに今日、愛麗を訪ねたのは他に大切な話をしたかったからだ。
愁陽の目に映るのは赤く血にドロリと染まってた掌ではなく、赤い血も震えることもない自分の両の掌だった。
「愛麗……」
あんなに自分の掌を見るのが怖かったのに、どれほどこの手を見たかったことだろう。
喉の奥に熱いものがこみ上げる。ようやく救われたような気がした。
愁陽は自分に言い聞かせるように話し始める。
「長い歴史の中、人々は平和を願い、国を滅ぼし国を新たに築いてきた。けれど、そうして得た平安もやがて崩壊し、泰平を願った国もまた滅ぼされる。歴史はそうやって繰り返される。きっと、それはこれからも変わらない……。そして、俺たちの、いま生きている時間は、長い歴史の中でほんの一瞬にしかすぎない」
彼の言葉の続きを愛麗が紡ぐ。
「でも、自分自身の歴史は生きている間すべてだわ。だから私達のしていることは、決して無駄ではない。そう思うと、長く精一杯生きることも、なかなか意味あることに思えない?面白い感じしない?」
そうでしょう?と言うように、彼女の真っ直ぐな眼差しと視線がぶつかる。
そっか……
ストン、と彼女の言葉が降りてくる。
彼女の言う通りかも知れない。
ふっと目を伏せた愁陽の口元が綻ぶ。
やはり、彼女には敵わないな。いつも救われてばかりだ。
「なるほどね」
「そ!」
愛麗の声は明るく自信に満ちている。
じわりじわりと、先程から桃の木の幹にできた黒い染みは、小さな一点からスピードを増して禍々しく黒く広がり続けていく。
二人はまだ気づかないようだが。
愁陽の顔にもようやく笑みが見えた。
「愛麗らしい答えだ」
愛麗も口元を綻ばせる。
子供の頃から聡明でいつも優しく爽やかな笑顔がよく似合っていた幼馴染が、こんなに苦しんでばかりなのは嫌だ。
幼い頃には想像もしなかった想い、苦しさ、葛藤、悩み、悲しみ……
これが大人になるってことなのだろうか。
それならば、大人になりたくない。と、愛麗は思った。
そして、なぜかそう思えたとき、自分の胸の奥にあった本当の自分を覆い隠していた靄のようなものが消えてゆき、久しぶりに愛麗自身に会えたような、そんな不思議な気持ちがした。そう思えるようになったのは、それは、おそらく愁陽のお蔭なんだと思う。
「愁陽、私ね、あなたに久しぶりに会えて……」
そこまで愛麗が口にしたとき、彼女はようやくすぐ側の桃の木の幹に、禍々しく黒い闇のような染みが出来ているのを目にした。
「っ!」
愛麗が口元を両手で覆い小さく悲鳴をあげる。サッと反射的に愁陽も腰に下げた剣の柄に手を掛けた。
彼女が気づいた後も黒い影は止まることなく、滲みながら広がり続けてゆき、やがて人影のような形を形成し始めた。
顔を強張らせ蒼白となった愛麗の異変に、愁陽は彼女の視線の先を追った。
けれど彼女の視線の先にはどうやら桃の木があるだけのようだが、どう見てもいつもと変わらない木があるだけだ。
「愛麗、その木がどうかしたのか?」
愛麗はおそるおそる桃の木の黒い影から目を愁陽へと移すが、彼は桃の木を見ても表情を変えることなく、ただ心配そうに愛麗を見ている。
「まさか……あなたには、見えないの?」
「見えないって、何が?桃の木がどうかしたのか?」
愁陽には影が見えていないようだった。影は今も滲み広がり続けていて、それはもう髪の長い女の形だと認識もできるのに。
愛麗の鼓動が早くなるのを感じる。見えているのは、自分だけということなのか。
恐怖で言葉をのみこんだ。なぜ、自分にしか見えていないのだろう。
これは幻覚なのだろうか。
やがて女の影はゆらゆらと動き出し始めた。まるで桃の木から出てこようとするかのように。
「……あなた……誰、なの?」
恐怖で絞り出すような声で訊う。
「あなたは、誰!?」
今度は緊張で鋭い声になった。
「愛麗、いったい誰と話しているんだ!?」
愁陽が桃の木と愛麗の間に身体を滑り込ませて彼女の視線を遮ると、彼女の震える肩を掴んだ。
愛麗はそんな彼を手で制すると、恐怖で声が震えそうになる自分の心を律し、語気も強く彼の背の後ろを覗き込んでハッキリと問いかけた。
「いつも話し掛けてくる、あなたはいったい誰なの!?」
けれど愛麗が再び桃の木を見た時、そこには先程の黒い女の影はなく、穏やかに満開に咲く桃の木があるだけだった。
どういうこと?
言いようのない恐怖が込み上げる。
あれは決して幻影などではなかった。
あれは恐怖で、闇だった。
なぜかわからないが、そう思える。自分にはわかる。
あれは異なるもの……。
「愛麗?大丈夫か?」
愁陽の声に愛麗はハッとする。彼が心配そうに顔を覗き込んでいた。
こんな自分を、愁陽には知られたくない。
「あ…、うん。誰か、そこにいるような気がしたんだけど……」
愁陽も桃の木を振り返り近づいて確認する。ただの穏やかな満開の桃の木だ。
「さっきから誰もいないけど」
「そ、うね。はは…寝ぼけてたのかな」
困ったように笑う彼女に、愁陽はなにか腑に落ちない気はしたが、そこには穏やかな春の庭しか感じられないし、それ以上どうしようもなく、彼女の表情からも恐怖が消えたため今は深く聞くことはやめた。
それに今日、愛麗を訪ねたのは他に大切な話をしたかったからだ。
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