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04.手帳
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瞼に感じる陽の明るさに、眠りからゆるりと意識が浮上した。
天井の高い部屋に合わせた大きな窓からは、柔らかな日差しが部屋の中へと差し込んで来ている。
肌触りのよい柔らかなベッドの中で何度か身じろぎをしてひゆは身体をゆっくりと起こした。
目覚めた瞬間は、一体自分が何処に居るのかと少し慌てたが、昨日の記憶が少しずつ蘇ってくると状況判断も出来てきた。
昨日の雨は夜のうちに何処かへ流れていったようで、カーテンの隙間、窓から見える空は薄雲を少し浮かべた青空が広がっていた。
小さく欠伸を零して、着替えを…とベッドから降りると、ベッドのすぐ側に綺麗に折り畳まれた洋服が置かれてあった。
ツイード生地で作られたショコラカラーのワンピースと襟元にフリルと細やかな刺繍が施された白のブラウス。
ワンピースと同じ生地で作られたボレロは胸元でリボン結びして留めるタイプのようだった。
昨日の晩にはそんな洋服は出ていなかったのを思い出す。
朝方誰かがこの部屋を訪れて洋服を用意していったとしか考えられない。
寝ている間に誰かがこの部屋に訪れたのも気付かず自分は熟睡していたらしい。
九鬼が用意してくれたのだろうか、と洋服に手を伸ばしながら考えていると、洋服の傍らに小さな布の包みが置かれているのに気付いた。
何だろう…と、その包みを開いて見れば、またもや綺麗な刺繍とフリルの施された下着とキャミソール一式。
ワンピースに合わせたらしい、キャラメル色のそれを見てひゆは心の中で脱力した。
「……何でこんなにフツーに出てくるの…」
着替えがあるのは嬉しいが、こう何でも簡単に出て来るこの屋敷の異常さは半端じゃない。
最初からひゆがこの屋敷で生活するのを前提として取り揃えられたとしか思えなかった。
昨日の事が有るので、九鬼が来る前に…と素早く着替える。
用意された物は昨日と同じくどれもひゆの身体にピッタリと合っていた。
着替えを済ませ、これからどうしようかと思った時、コンコンと部屋をノックする音が隣の部屋から聞こえた。
『はい』と返事をして、足早に扉の前へと移動する。
「おはようございます、蓮水様。昨晩はよくお眠りになられましたか?」
「……はい、一応…」
部屋の扉を開けると柔らかな笑顔を浮かべた九鬼が、銀色のワゴンを押して部屋に入って来た。
「少し前にお伺いした時にはよくお眠りだったので、時間を置いてから来たのですが…ちょうど良かったですね」
九鬼と目が合った瞬間、昨晩の事を思い出してひゆは無意識に身体を強張らせてしまう。
けれど、九鬼は気にした様子もなく、ひゆをソファーへ座るよう促してくる。
自分だけ意識して警戒しているのが恥ずかしくなって、赤らむ顔を隠すように俯き加減でソファーに座った。
「そろそろ朝食をご用意させて頂こうとお持ち致しました。ダージリンのセカンドフラッシュの良い茶葉が入りましたので、今朝はそちらをご用意させて頂きました」
銀のワゴンに乗っていた料理をテーブルへ並べながら九鬼が説明をしてくれる。
並べられる料理はどれも綺麗に盛り付けられていてどれもとても美味しそうだった。
香ばしい小麦の香りのするローストビーフのサンドウィッチにサラダ、ほんのり甘い香りのするカボチャのポタージュに食欲をそそられる。
ひゆにとっては朝からかなりの豪華な食事だ。
(…残しちゃ、悪いよね…)
こんなに沢山食べられるだろうかと不安になる。
「どうぞ、お召し上がりください。朝食の量はこちらで勝手に判断させて頂いて少し多めに作っておりますので、食べられる分だけで結構ですよ」
ひゆの様子を見て察したのか、九鬼がにこやかに言葉を添えてくれる。
『いただきます』と、手を合わせて小さく言ってから食事に手を伸ばした。
「本日のご予定を申し上げますので、そのままお聞き下さい」
ティーポットに茶葉を入れ、湯を注ぎながら九鬼は「予定」を読み上げるように述べていく。
「本日の午前中は昨日お逢いして頂きました義永様がお見えになられます。今後の事についてご説明が有りますのでそちらをお聞き下さい。午後からは蓮水様のご自由にして頂いて結構です。何処かへ行く予定が有りましたらお申し付け下さい」
「……あの…」
「何でしょうか?」
「…私は、もうここで生活する事が決まってるんでしょうか?それに…私に逢わせるって言ってたのは、昨日の義永さんで良かったんですか?」
手を付けていたサンドウィッチを置いて、九鬼を見上げる。
ミルクで入れたダージリンティーをひゆの前に置いてから、九鬼は静かな目でこちらを見つめ返してくる。
「昨日もお聞きになられた事ですが、今、蓮水様の身の安全を考えればこちらの御屋敷に居て頂くのが最善です。ご自宅でお住まいの時と勝手が違って不自由な部分も有ると思いますが、蓮水様にご不快な思いをさせないよう私が努めさせて頂きます。お逢い頂きたい御方は、昨日の義永様もそうですが…本当は康造様にもお逢いして頂きたかったのですが……」
「…何か、都合が悪くなったんですか?」
「はい。昨日、急に体調が思わしくなくなってしまい、現在は病院で療養中です。お逢い出来るのはもう少し先の話になりそうです」
「…そう、ですか」
話を聞いて、やっぱり…とひゆは小さく落胆してしまう。それと同時に心のどこかで安堵している自分が居る。
昨日の話はどれも嘘は無く、自分はやはりこの屋敷で過ごさなければならないらしい。
康造氏に逢えば、それは遺産相続者として決定づけられてしまうだろうが、今はまだ逢えないと知って決定が少し遠のいたような気がした。
これから先、どうして良いのか分からない不安で心に黒い靄のようなものが掛かっていく。
いや、状況が変わってもそんなに大差は無いかも知れない。
今まで生活していた「鳥籠」から新しい「鳥籠」に変わるだけだ。
これまで通りただ周りに従って生活すれば、多少の問題はあってもまた変わり映えしない生活に戻るだけだろう。
「…蓮水様?」
名を呼ばれて、はっと顔を上げる。
気遣うようにこちらを見つめる九鬼と目が合った。
「如何致しましたか?」
「……あ、いえ…ここで生活するなら、私の荷物…どうしようかなって…」
考え事を誤魔化すように、咄嗟に思い付いた言い訳を並べて止まっていた食事を再開させる。
美味しいはずの食事は味を無くしてしまい、残さないように…とそれだけを考えて機械的に喉の奥へと流し込んだ。
「そうですね。蓮水様が必要な荷物は後で取りに行かせましょう。何が必要か教え…」
「自分で行っちゃダメですか?」
九鬼の言葉を遮って強く意見する。
「自分の必要なもの、見て決めたいんです……ダメですか?」
咄嗟に思い付いた言い訳にしては上手い事を言ったと自分で思う。
正直、ひゆには必要な荷物なんてほとんど無いに等しいが、荷物よりも気になるのは育ててくれたあの人だ。
九鬼や義永が言うように、本当に遺産目的で育ててくれたのかどうか…それを見極めてみたかった。
遺産目的が真実だとしても、自分はきっと傷付いたりはしない…と、ひゆは思う。
彼女とひゆとの間には『愛情』といった類の感情は一切無いに等しい生活環境だったからだ。
九鬼の言葉をじっと待つ。
彼に承諾を得なければ、ひゆが自力でこの屋敷を出て行く事は困難だろう。
「蓮水様のご希望に添えるように致しましょう。ただし、お一人では無く私か他の者を必ず同行させて頂きます。宜しいですね?」
少し間を開けてから九鬼がそう答えるのを聞いて、ひゆはこくりと頷いた。
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朝食を終えて小一時間後に、予定通り義永がひゆの元へと訪れた。
軽く挨拶を交わして、昨日と全く同じようにテーブルを挟んで互いに向き合うような形で座る。
今日は、九鬼は二人分のお茶を用意すると、留まる事無く部屋を出て行ってしまった。
二人だけになった空間は張り詰めたような静寂に満ちて、物音一つ立ててはいけないような、妙な緊張感が漂っていた。
実際、そう感じているのはひゆだけかもしれないが。
何を話して良いか分からず、淹れて貰ったお茶も手を付けられないままじっとしているひゆを、暫くの間、義永はじっと観察するように見つめていたが、淹れられた珈琲を一口飲んでから漸く口を開いた。
「君のこれからの事だが、何か希望があるなら言って欲しい。全てを叶えられる訳では無いが、出来得る限り君の希望に添えるようにしよう」
「…希望…ですか?」
「住居に関しては当面はこの屋敷に留まって貰わなければならないが、正当な後継者として志堂院を継げば後は君の自由になる。それ以外の事で何か希望が有れば言って欲しい」
突然、希望を言えと言われても、まだこの屋敷に住む事自体に抵抗を持っているひゆには、直ぐに思い浮かぶような物が出て来ない。
暫く考えを巡らせてみたが具体的な物は一つとして浮かんで来なかった。
「…特に、有りません」
「そうか。事務的な手続きは全てこちらで手配する。この屋敷で生活して貰うが、学校は今までどおり君の通っていた所のままで良いか?この屋敷からだと、車で30分程度になるが……」
「……電車は使えないですか?」
義永の言葉に思わず口を挟んでしまう。
今まで通り学校に通わせて貰えるのは有り難いが、毎日車で送り迎えされるのは避けたかった。
毎朝車で送迎されるのは抵抗が有るし、ただでさえ学校の前であれだけの騒動を起こした後だ。
ごく普通の学校へ連日車での送迎なんて何を言われるか分からない。
「ここから歩いて私鉄で通うつもりか?」
呆れた口調で義永が溜め息をつく。
「この屋敷から歩いて私鉄に行くのも30分以上は掛かる。それに私鉄で君の通っていた学校に行くならプラス1時間は必要だろう。車での移動は学校までがここからでは遠いのもあるが、君自身の護衛も兼ねている。どうしても私鉄を利用したいのであれば、必ず護衛の者を同行させなければならないが…?」
どうする?と厳しく見据える視線を向けられ、ひゆは言葉を無くした。
場所的にこの屋敷が学校からだいぶ離れている事もそうだが、車での送迎が「護衛」を兼ねているという事に内心驚いていた。
学校に通うだけなのに、何故護衛が必要なのか。
「志堂院の血筋に関わる人間だからな。護衛くらいは当然だ。『何か』が起こってからでは遅い」
ひゆの疑問にさらりと義永が答えて来る。
思っていたのが顔に出ていたのか、と自分の顔を軽く撫でた。
とりあえずは、これまで通りに学校に通わせて貰える事、志堂院の後継者である事の正式な発表は当面は控えている事、その他の事務的な手続きの一切を義永が任されている事等…具体的な説明を受けて話は終わった。
義永の説明はとても分かり易かったし、疑問に思う事をなかなか口に出来ないひゆの為にきちんと細かい部分にも補足を入れて話をしてくれた。
見た目の硬質的な印象は始終崩れなかったが、説明が終わった頃には最初に感じていた義永に対する緊張感も自然と消えてしまっていた。
温くなっても美味しいと感じる紅茶をゆっくり啜っていると、目の前に座っていた義永がおもむろに立ち上がる。
「今日はこれで失礼する。何かあればいつでも連絡をしてくれて良い」
「あ、はい…有難うございます」
慌てて立ち上がり、帰ろうとする義永へ頭を下げる。
義永はそんなひゆの姿ににちらりと視線を投げるだけで、すぐに背を向けると部屋を出て行ってしまった。
扉が閉まる音を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
最初に出会った時ほど緊張しなくなったとはいえ、それでも義永の前だと無意識に息が詰まってしまう。
よほどの事が無い限り、自分から義永に連絡を取る事は無いだろうな…とぼんやりと考えていたひゆは、ふとテーブルに乗っている物に目が止まった。
二人分のティーソーサーに、見覚えの無い黒皮の厚手の手帳。
「……義永さん、手帳を忘れて…!」
慌てて手帳を引っ掴み、今しがた別れたばかりの義永を追って部屋を飛び出す。
広い屋敷内は迷子になりそうになるが、義永の姿を探して廊下を走る。
すれ違った使用人の女性が驚いた顔をしてこちらを見たが、気にしている余裕は無い。
「義永さんっ!」
探していた背中を見付けて、呼び掛ける。
ひゆの声に振り返った義永は少し驚いた表情を見せたが、それは一瞬の事ですぐに感情を消したような無機質な顔に戻った。
「どうかしたのか?」
「あの、手帳…っ…テーブルに置きっぱなしで…」
弾んだ息を整えながら、手帳を義永へと差し出す。
義永はすぐにそれを受け取ろうとはせず、ひゆと手帳を交互に見つめた。
「随分早いな。中は、見なかったのか」
「え…?あ、はい…」
一瞬、何の事を言われたのか分からず、目を瞬かせる。
何で他人の手帳の中身を見る必要が有るんだろう。
なかなか手帳を受け取ろうとしない義永を、不思議そうに首を傾げて見上げる。
手帳はその人のプライバシーの領域だ。勝手に覗くなんて、そんな悪趣味な事はしない。
「私の内面を探る良い機会だったろう。あえて手帳を置いて来たんだが……必要無かったな」
放たれた言葉に一瞬唖然としたが、すぐに不快な気持ちが込み上げて来てひゆの表情が沈む。
差し出していた手帳を取ろうと伸ばされた義永の手を避けるように、手帳を持つ腕を降ろした。
「? 返してくれるんだろう?」
「……私は、勝手に人の手帳を覗くような事なんてしません!」
噛みつくように答えると、義永はすっと目を細める。
「そのようだな。だが、自分にとって不都合な状況に立たされた時、いくらか相手側の情報を仕入れるのも自分を守る為の手段の一つだ。君は私という存在がどういったものか、私の言葉だけで十分に納得した訳じゃ無さそうだったが……私の思い違いか?」
だから、あえて手帳を置いて来たのだと、鋭い視線がひゆに向けられる。
義永という人物を知る手段と機会を与える為に。
指摘されて、ひゆの胸の中がチクリと痛んだ。
義永の言うとおり、彼らの言葉をまるまる鵜呑みにしている訳じゃ無い。
それどころか、これが現実かどうかも怪しいと思ってしまうくらい、何もかもが半信半疑の状態だ。
言われたままをそのまま信じてしまえば楽かもしれないが、自分の目で見て、考えてから結論を出したとしても遅くはない。
逃げ場が無い今の状態では、ひゆ自身がそれらを受け入れられるような真実を見極めていくしかないのだ。
「知りたい事があれば、私は私のやり方で調べます。これに書いてある事が本当かどうかなんて、私には分からないから見ても意味無いです」
持っていた手帳を押し付けるように義永へ返すと、踵を返して走って来た廊下を戻って行く。
義永に指摘された事は、思い当たる部分があったから否定はしない。
九鬼の言葉も、義永の話も、信じられない事は山程ある。
疑心を持っているのは否定しないけれど、置かれてあった手帳を忘れ物だと走って義永に届けた自分がバカみたいだ。
親切心で届けたのに『ありがとう』の言葉どころか、『中身を見なかったのか』と失礼な言葉をひゆに浴びせるあの態度。
むかむかしてきて、足音が大きくなってしまうのを抑えられない。
(持って行くんじゃ無かった…!)
苦手だと思っていた義永の位置付けが、『嫌な人』にランクが自分の中で変わる。
用事が出来たとしても、連絡なんて取りたくもない。
不機嫌なまま廊下を早足に歩いていたが、不意に手首を掴まれて歩みを阻まれてしまった。
驚いてどきりと心臓が跳ねたが声には出さず、肩越しに相手を確認する。
振り返ると、真摯な顔で義永がこちらを見下ろしていた。
「……何か用ですか」
「すまなかった」
意外…なんて言ったら失礼かもしれないが、紡がれた謝罪の言葉に少し驚いてしまう。
「不快な思いをさせてしまったのは私の非だ。だが、君を陥れるようなつもりで言った訳じゃ無い。言い訳に聞こえるかも知れないが…それは信じて欲しい」
それだけを言うと、義永は掴んでいた手を離して軽く頭を下げた。
答えるべき言葉が見つからず、義永を見つめるばかりになってしまう。
「……少し、安心した」
「…え?」
「昨日、君に逢った時は本当に感情の無い人形のように見えたが、ちゃんと気持ちを表せるんだな」
「そんな、つもりは……」
先程の事を言われているんだと思い、さっと頬に朱が走る。
自分でも、感情的になり過ぎたと思う。いつものように、感情を無くして受け流す事が出来ない。
凍っていた喜怒哀楽の感情が、この屋敷に来てからこうも簡単に表に出てしまうのがひゆ自身不思議でならなかった。
「もう少し、自然に感情を出す方が良い。何も思わないよりは、怒りでも感情を出して貰った方がこちらも相手のし甲斐がある」
口元に軽く笑みを浮かべ、伸ばされた大きな掌が優しくひゆの頭を撫でる。
(―――…今、笑った…?)
ほんの少しだったが義永の笑顔を見て、ひゆは瞳を瞬かせる。
優しく触れてくる掌も嫌じゃない。
義永の言葉にどう返して良いかわからず互いに視線を交わしながら会話の無いまま立ち尽くしてしまう。
「蓮水様」
名を呼ばれてはっとなり、声がした方へと視線を向ける。
その先にはこちらへ向かってくる九鬼の姿があった。
九鬼の姿を見て、ひゆの頭を撫でていた義永の手がすっと静かに離れていく。
九鬼は二人の元へと近付くと、ひゆを見て柔らかく告げる。
「こちらにおいでだったのですね。お部屋に伺ったのですがいらっしゃらなかったのでお探し致しました」
「…あ、すみませ…」
「私が手帳を忘れてしまったのを届けて貰っていた。彼女がすぐに気付いてくれてね…届けてもらえて助かった」
ひゆの謝罪の言葉に被せるように義永が説明するのを聞いて、九鬼は視線を向ける。
ほんの少しだけ見えた義永の笑顔は消えて、冷たくすら見える整った顔が静かに九鬼を見返す。
「そうでしたか。義永様がお忘れ物など珍しい」
「たまたまだ。それじゃ、失礼する」
そっけないとも思えるような態度で答えると、義永はくるりと背を向けて行ってしまった。
立ち去る義永の背中をしばらく見つめていたひゆだったが、ふと視線を感じて九鬼を見上げる。
美しい立ち姿で控える九鬼が、じっとこちらを見つめているのに気付く。
鋭さは感じなくても、じっと見られているのは居心地が悪い。
ふい、と九鬼から視線を逸らしてひゆは自分の足元を見た。
「何か、付いてますか…?」
見られる事に慣れていないひゆは、落ち着かないといった風に自分の髪に触れて弄る。
「いいえ、何も付いておりません」
くしゃりと髪を指に絡めて弄るひゆの手を九鬼はそっと掴むと髪から離させる。
その手を、九鬼は自分の胸元へと引き寄せた。
「蓮水様。一つ、私のお願いを聞いて頂けますか?」
(この人が、私にお願い…?)
何だろう、と俯いていた視線を上げて不思議な面持ちで九鬼を見る。
「蓮水様、ではなくお名前でひゆ様とお呼びしても宜しいでしょうか?」
苗字では無く、名前で呼ぶ。
至極簡単な要求に、何を言われるかと身構えていたひゆの肩から力が抜けた。
「それって…断る必要有りますか?」
「ええ。お名前を呼ばれるのが嫌という場合も有りますから」
言われてみて、たしかにファーストネームを呼ばれるのが嫌な人が居てもおかしくないなと納得する。
でも、改めて「名前で呼んで良いか」と問われるのも、それはそれで気恥かしいものがある。
「呼び方なんて、何でも良いです」
素直に名前で呼んで良いと言えず、遠回しな許可を出すひゆに九鬼は甘い溶けそうな笑みを浮かべる。
「有難うございます、ひゆ様」
答えるのと同時に、胸元へと引き寄せていたひゆの手を持ち上げると、九鬼は恭しく指先に口付けた。
九鬼の行為に、驚きと恥ずかしさが一緒になってひゆを襲う。
柔らかな唇が指先に触れた瞬間、そこから静電気のような痛みが走り、ひゆは逃げるように掴まれていた手を引っ込めた。
頬が、身体が火照るように熱くなってくる。
「何、するんですか…!」
「敬意を込めて喜びをお伝えしたかったのですが…お嫌でしたか?」
「そういうのはフツーのにして下さい……!」
「かしこまりました、ひゆ様」
九鬼が丁寧に言って腰を折るのを見て、ひゆはまた心の中でしまったと後悔する。
ついさっき、感情的になり過ぎだと自分に注意したばかりなのに、彼の一挙一同でこうも簡単に崩れてしまう。
九鬼にとってはこんな事、貴婦人に対する作法の一つのようなものかも知れない。
それをいちいち真に受けて動揺している自分が恥ずかしい。
ああ、でも…毎回謝罪やお礼のたびにあんな風に手に口付けられたりするのは困る。
(執事と一般人の脳内の次元が違うんだ、きっと――…)
喉元まで上がってきた溜め息は口に出さず、九鬼の横を通り抜けてひゆは与えられた自室へと戻る事にした。
天井の高い部屋に合わせた大きな窓からは、柔らかな日差しが部屋の中へと差し込んで来ている。
肌触りのよい柔らかなベッドの中で何度か身じろぎをしてひゆは身体をゆっくりと起こした。
目覚めた瞬間は、一体自分が何処に居るのかと少し慌てたが、昨日の記憶が少しずつ蘇ってくると状況判断も出来てきた。
昨日の雨は夜のうちに何処かへ流れていったようで、カーテンの隙間、窓から見える空は薄雲を少し浮かべた青空が広がっていた。
小さく欠伸を零して、着替えを…とベッドから降りると、ベッドのすぐ側に綺麗に折り畳まれた洋服が置かれてあった。
ツイード生地で作られたショコラカラーのワンピースと襟元にフリルと細やかな刺繍が施された白のブラウス。
ワンピースと同じ生地で作られたボレロは胸元でリボン結びして留めるタイプのようだった。
昨日の晩にはそんな洋服は出ていなかったのを思い出す。
朝方誰かがこの部屋を訪れて洋服を用意していったとしか考えられない。
寝ている間に誰かがこの部屋に訪れたのも気付かず自分は熟睡していたらしい。
九鬼が用意してくれたのだろうか、と洋服に手を伸ばしながら考えていると、洋服の傍らに小さな布の包みが置かれているのに気付いた。
何だろう…と、その包みを開いて見れば、またもや綺麗な刺繍とフリルの施された下着とキャミソール一式。
ワンピースに合わせたらしい、キャラメル色のそれを見てひゆは心の中で脱力した。
「……何でこんなにフツーに出てくるの…」
着替えがあるのは嬉しいが、こう何でも簡単に出て来るこの屋敷の異常さは半端じゃない。
最初からひゆがこの屋敷で生活するのを前提として取り揃えられたとしか思えなかった。
昨日の事が有るので、九鬼が来る前に…と素早く着替える。
用意された物は昨日と同じくどれもひゆの身体にピッタリと合っていた。
着替えを済ませ、これからどうしようかと思った時、コンコンと部屋をノックする音が隣の部屋から聞こえた。
『はい』と返事をして、足早に扉の前へと移動する。
「おはようございます、蓮水様。昨晩はよくお眠りになられましたか?」
「……はい、一応…」
部屋の扉を開けると柔らかな笑顔を浮かべた九鬼が、銀色のワゴンを押して部屋に入って来た。
「少し前にお伺いした時にはよくお眠りだったので、時間を置いてから来たのですが…ちょうど良かったですね」
九鬼と目が合った瞬間、昨晩の事を思い出してひゆは無意識に身体を強張らせてしまう。
けれど、九鬼は気にした様子もなく、ひゆをソファーへ座るよう促してくる。
自分だけ意識して警戒しているのが恥ずかしくなって、赤らむ顔を隠すように俯き加減でソファーに座った。
「そろそろ朝食をご用意させて頂こうとお持ち致しました。ダージリンのセカンドフラッシュの良い茶葉が入りましたので、今朝はそちらをご用意させて頂きました」
銀のワゴンに乗っていた料理をテーブルへ並べながら九鬼が説明をしてくれる。
並べられる料理はどれも綺麗に盛り付けられていてどれもとても美味しそうだった。
香ばしい小麦の香りのするローストビーフのサンドウィッチにサラダ、ほんのり甘い香りのするカボチャのポタージュに食欲をそそられる。
ひゆにとっては朝からかなりの豪華な食事だ。
(…残しちゃ、悪いよね…)
こんなに沢山食べられるだろうかと不安になる。
「どうぞ、お召し上がりください。朝食の量はこちらで勝手に判断させて頂いて少し多めに作っておりますので、食べられる分だけで結構ですよ」
ひゆの様子を見て察したのか、九鬼がにこやかに言葉を添えてくれる。
『いただきます』と、手を合わせて小さく言ってから食事に手を伸ばした。
「本日のご予定を申し上げますので、そのままお聞き下さい」
ティーポットに茶葉を入れ、湯を注ぎながら九鬼は「予定」を読み上げるように述べていく。
「本日の午前中は昨日お逢いして頂きました義永様がお見えになられます。今後の事についてご説明が有りますのでそちらをお聞き下さい。午後からは蓮水様のご自由にして頂いて結構です。何処かへ行く予定が有りましたらお申し付け下さい」
「……あの…」
「何でしょうか?」
「…私は、もうここで生活する事が決まってるんでしょうか?それに…私に逢わせるって言ってたのは、昨日の義永さんで良かったんですか?」
手を付けていたサンドウィッチを置いて、九鬼を見上げる。
ミルクで入れたダージリンティーをひゆの前に置いてから、九鬼は静かな目でこちらを見つめ返してくる。
「昨日もお聞きになられた事ですが、今、蓮水様の身の安全を考えればこちらの御屋敷に居て頂くのが最善です。ご自宅でお住まいの時と勝手が違って不自由な部分も有ると思いますが、蓮水様にご不快な思いをさせないよう私が努めさせて頂きます。お逢い頂きたい御方は、昨日の義永様もそうですが…本当は康造様にもお逢いして頂きたかったのですが……」
「…何か、都合が悪くなったんですか?」
「はい。昨日、急に体調が思わしくなくなってしまい、現在は病院で療養中です。お逢い出来るのはもう少し先の話になりそうです」
「…そう、ですか」
話を聞いて、やっぱり…とひゆは小さく落胆してしまう。それと同時に心のどこかで安堵している自分が居る。
昨日の話はどれも嘘は無く、自分はやはりこの屋敷で過ごさなければならないらしい。
康造氏に逢えば、それは遺産相続者として決定づけられてしまうだろうが、今はまだ逢えないと知って決定が少し遠のいたような気がした。
これから先、どうして良いのか分からない不安で心に黒い靄のようなものが掛かっていく。
いや、状況が変わってもそんなに大差は無いかも知れない。
今まで生活していた「鳥籠」から新しい「鳥籠」に変わるだけだ。
これまで通りただ周りに従って生活すれば、多少の問題はあってもまた変わり映えしない生活に戻るだけだろう。
「…蓮水様?」
名を呼ばれて、はっと顔を上げる。
気遣うようにこちらを見つめる九鬼と目が合った。
「如何致しましたか?」
「……あ、いえ…ここで生活するなら、私の荷物…どうしようかなって…」
考え事を誤魔化すように、咄嗟に思い付いた言い訳を並べて止まっていた食事を再開させる。
美味しいはずの食事は味を無くしてしまい、残さないように…とそれだけを考えて機械的に喉の奥へと流し込んだ。
「そうですね。蓮水様が必要な荷物は後で取りに行かせましょう。何が必要か教え…」
「自分で行っちゃダメですか?」
九鬼の言葉を遮って強く意見する。
「自分の必要なもの、見て決めたいんです……ダメですか?」
咄嗟に思い付いた言い訳にしては上手い事を言ったと自分で思う。
正直、ひゆには必要な荷物なんてほとんど無いに等しいが、荷物よりも気になるのは育ててくれたあの人だ。
九鬼や義永が言うように、本当に遺産目的で育ててくれたのかどうか…それを見極めてみたかった。
遺産目的が真実だとしても、自分はきっと傷付いたりはしない…と、ひゆは思う。
彼女とひゆとの間には『愛情』といった類の感情は一切無いに等しい生活環境だったからだ。
九鬼の言葉をじっと待つ。
彼に承諾を得なければ、ひゆが自力でこの屋敷を出て行く事は困難だろう。
「蓮水様のご希望に添えるように致しましょう。ただし、お一人では無く私か他の者を必ず同行させて頂きます。宜しいですね?」
少し間を開けてから九鬼がそう答えるのを聞いて、ひゆはこくりと頷いた。
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朝食を終えて小一時間後に、予定通り義永がひゆの元へと訪れた。
軽く挨拶を交わして、昨日と全く同じようにテーブルを挟んで互いに向き合うような形で座る。
今日は、九鬼は二人分のお茶を用意すると、留まる事無く部屋を出て行ってしまった。
二人だけになった空間は張り詰めたような静寂に満ちて、物音一つ立ててはいけないような、妙な緊張感が漂っていた。
実際、そう感じているのはひゆだけかもしれないが。
何を話して良いか分からず、淹れて貰ったお茶も手を付けられないままじっとしているひゆを、暫くの間、義永はじっと観察するように見つめていたが、淹れられた珈琲を一口飲んでから漸く口を開いた。
「君のこれからの事だが、何か希望があるなら言って欲しい。全てを叶えられる訳では無いが、出来得る限り君の希望に添えるようにしよう」
「…希望…ですか?」
「住居に関しては当面はこの屋敷に留まって貰わなければならないが、正当な後継者として志堂院を継げば後は君の自由になる。それ以外の事で何か希望が有れば言って欲しい」
突然、希望を言えと言われても、まだこの屋敷に住む事自体に抵抗を持っているひゆには、直ぐに思い浮かぶような物が出て来ない。
暫く考えを巡らせてみたが具体的な物は一つとして浮かんで来なかった。
「…特に、有りません」
「そうか。事務的な手続きは全てこちらで手配する。この屋敷で生活して貰うが、学校は今までどおり君の通っていた所のままで良いか?この屋敷からだと、車で30分程度になるが……」
「……電車は使えないですか?」
義永の言葉に思わず口を挟んでしまう。
今まで通り学校に通わせて貰えるのは有り難いが、毎日車で送り迎えされるのは避けたかった。
毎朝車で送迎されるのは抵抗が有るし、ただでさえ学校の前であれだけの騒動を起こした後だ。
ごく普通の学校へ連日車での送迎なんて何を言われるか分からない。
「ここから歩いて私鉄で通うつもりか?」
呆れた口調で義永が溜め息をつく。
「この屋敷から歩いて私鉄に行くのも30分以上は掛かる。それに私鉄で君の通っていた学校に行くならプラス1時間は必要だろう。車での移動は学校までがここからでは遠いのもあるが、君自身の護衛も兼ねている。どうしても私鉄を利用したいのであれば、必ず護衛の者を同行させなければならないが…?」
どうする?と厳しく見据える視線を向けられ、ひゆは言葉を無くした。
場所的にこの屋敷が学校からだいぶ離れている事もそうだが、車での送迎が「護衛」を兼ねているという事に内心驚いていた。
学校に通うだけなのに、何故護衛が必要なのか。
「志堂院の血筋に関わる人間だからな。護衛くらいは当然だ。『何か』が起こってからでは遅い」
ひゆの疑問にさらりと義永が答えて来る。
思っていたのが顔に出ていたのか、と自分の顔を軽く撫でた。
とりあえずは、これまで通りに学校に通わせて貰える事、志堂院の後継者である事の正式な発表は当面は控えている事、その他の事務的な手続きの一切を義永が任されている事等…具体的な説明を受けて話は終わった。
義永の説明はとても分かり易かったし、疑問に思う事をなかなか口に出来ないひゆの為にきちんと細かい部分にも補足を入れて話をしてくれた。
見た目の硬質的な印象は始終崩れなかったが、説明が終わった頃には最初に感じていた義永に対する緊張感も自然と消えてしまっていた。
温くなっても美味しいと感じる紅茶をゆっくり啜っていると、目の前に座っていた義永がおもむろに立ち上がる。
「今日はこれで失礼する。何かあればいつでも連絡をしてくれて良い」
「あ、はい…有難うございます」
慌てて立ち上がり、帰ろうとする義永へ頭を下げる。
義永はそんなひゆの姿ににちらりと視線を投げるだけで、すぐに背を向けると部屋を出て行ってしまった。
扉が閉まる音を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
最初に出会った時ほど緊張しなくなったとはいえ、それでも義永の前だと無意識に息が詰まってしまう。
よほどの事が無い限り、自分から義永に連絡を取る事は無いだろうな…とぼんやりと考えていたひゆは、ふとテーブルに乗っている物に目が止まった。
二人分のティーソーサーに、見覚えの無い黒皮の厚手の手帳。
「……義永さん、手帳を忘れて…!」
慌てて手帳を引っ掴み、今しがた別れたばかりの義永を追って部屋を飛び出す。
広い屋敷内は迷子になりそうになるが、義永の姿を探して廊下を走る。
すれ違った使用人の女性が驚いた顔をしてこちらを見たが、気にしている余裕は無い。
「義永さんっ!」
探していた背中を見付けて、呼び掛ける。
ひゆの声に振り返った義永は少し驚いた表情を見せたが、それは一瞬の事ですぐに感情を消したような無機質な顔に戻った。
「どうかしたのか?」
「あの、手帳…っ…テーブルに置きっぱなしで…」
弾んだ息を整えながら、手帳を義永へと差し出す。
義永はすぐにそれを受け取ろうとはせず、ひゆと手帳を交互に見つめた。
「随分早いな。中は、見なかったのか」
「え…?あ、はい…」
一瞬、何の事を言われたのか分からず、目を瞬かせる。
何で他人の手帳の中身を見る必要が有るんだろう。
なかなか手帳を受け取ろうとしない義永を、不思議そうに首を傾げて見上げる。
手帳はその人のプライバシーの領域だ。勝手に覗くなんて、そんな悪趣味な事はしない。
「私の内面を探る良い機会だったろう。あえて手帳を置いて来たんだが……必要無かったな」
放たれた言葉に一瞬唖然としたが、すぐに不快な気持ちが込み上げて来てひゆの表情が沈む。
差し出していた手帳を取ろうと伸ばされた義永の手を避けるように、手帳を持つ腕を降ろした。
「? 返してくれるんだろう?」
「……私は、勝手に人の手帳を覗くような事なんてしません!」
噛みつくように答えると、義永はすっと目を細める。
「そのようだな。だが、自分にとって不都合な状況に立たされた時、いくらか相手側の情報を仕入れるのも自分を守る為の手段の一つだ。君は私という存在がどういったものか、私の言葉だけで十分に納得した訳じゃ無さそうだったが……私の思い違いか?」
だから、あえて手帳を置いて来たのだと、鋭い視線がひゆに向けられる。
義永という人物を知る手段と機会を与える為に。
指摘されて、ひゆの胸の中がチクリと痛んだ。
義永の言うとおり、彼らの言葉をまるまる鵜呑みにしている訳じゃ無い。
それどころか、これが現実かどうかも怪しいと思ってしまうくらい、何もかもが半信半疑の状態だ。
言われたままをそのまま信じてしまえば楽かもしれないが、自分の目で見て、考えてから結論を出したとしても遅くはない。
逃げ場が無い今の状態では、ひゆ自身がそれらを受け入れられるような真実を見極めていくしかないのだ。
「知りたい事があれば、私は私のやり方で調べます。これに書いてある事が本当かどうかなんて、私には分からないから見ても意味無いです」
持っていた手帳を押し付けるように義永へ返すと、踵を返して走って来た廊下を戻って行く。
義永に指摘された事は、思い当たる部分があったから否定はしない。
九鬼の言葉も、義永の話も、信じられない事は山程ある。
疑心を持っているのは否定しないけれど、置かれてあった手帳を忘れ物だと走って義永に届けた自分がバカみたいだ。
親切心で届けたのに『ありがとう』の言葉どころか、『中身を見なかったのか』と失礼な言葉をひゆに浴びせるあの態度。
むかむかしてきて、足音が大きくなってしまうのを抑えられない。
(持って行くんじゃ無かった…!)
苦手だと思っていた義永の位置付けが、『嫌な人』にランクが自分の中で変わる。
用事が出来たとしても、連絡なんて取りたくもない。
不機嫌なまま廊下を早足に歩いていたが、不意に手首を掴まれて歩みを阻まれてしまった。
驚いてどきりと心臓が跳ねたが声には出さず、肩越しに相手を確認する。
振り返ると、真摯な顔で義永がこちらを見下ろしていた。
「……何か用ですか」
「すまなかった」
意外…なんて言ったら失礼かもしれないが、紡がれた謝罪の言葉に少し驚いてしまう。
「不快な思いをさせてしまったのは私の非だ。だが、君を陥れるようなつもりで言った訳じゃ無い。言い訳に聞こえるかも知れないが…それは信じて欲しい」
それだけを言うと、義永は掴んでいた手を離して軽く頭を下げた。
答えるべき言葉が見つからず、義永を見つめるばかりになってしまう。
「……少し、安心した」
「…え?」
「昨日、君に逢った時は本当に感情の無い人形のように見えたが、ちゃんと気持ちを表せるんだな」
「そんな、つもりは……」
先程の事を言われているんだと思い、さっと頬に朱が走る。
自分でも、感情的になり過ぎたと思う。いつものように、感情を無くして受け流す事が出来ない。
凍っていた喜怒哀楽の感情が、この屋敷に来てからこうも簡単に表に出てしまうのがひゆ自身不思議でならなかった。
「もう少し、自然に感情を出す方が良い。何も思わないよりは、怒りでも感情を出して貰った方がこちらも相手のし甲斐がある」
口元に軽く笑みを浮かべ、伸ばされた大きな掌が優しくひゆの頭を撫でる。
(―――…今、笑った…?)
ほんの少しだったが義永の笑顔を見て、ひゆは瞳を瞬かせる。
優しく触れてくる掌も嫌じゃない。
義永の言葉にどう返して良いかわからず互いに視線を交わしながら会話の無いまま立ち尽くしてしまう。
「蓮水様」
名を呼ばれてはっとなり、声がした方へと視線を向ける。
その先にはこちらへ向かってくる九鬼の姿があった。
九鬼の姿を見て、ひゆの頭を撫でていた義永の手がすっと静かに離れていく。
九鬼は二人の元へと近付くと、ひゆを見て柔らかく告げる。
「こちらにおいでだったのですね。お部屋に伺ったのですがいらっしゃらなかったのでお探し致しました」
「…あ、すみませ…」
「私が手帳を忘れてしまったのを届けて貰っていた。彼女がすぐに気付いてくれてね…届けてもらえて助かった」
ひゆの謝罪の言葉に被せるように義永が説明するのを聞いて、九鬼は視線を向ける。
ほんの少しだけ見えた義永の笑顔は消えて、冷たくすら見える整った顔が静かに九鬼を見返す。
「そうでしたか。義永様がお忘れ物など珍しい」
「たまたまだ。それじゃ、失礼する」
そっけないとも思えるような態度で答えると、義永はくるりと背を向けて行ってしまった。
立ち去る義永の背中をしばらく見つめていたひゆだったが、ふと視線を感じて九鬼を見上げる。
美しい立ち姿で控える九鬼が、じっとこちらを見つめているのに気付く。
鋭さは感じなくても、じっと見られているのは居心地が悪い。
ふい、と九鬼から視線を逸らしてひゆは自分の足元を見た。
「何か、付いてますか…?」
見られる事に慣れていないひゆは、落ち着かないといった風に自分の髪に触れて弄る。
「いいえ、何も付いておりません」
くしゃりと髪を指に絡めて弄るひゆの手を九鬼はそっと掴むと髪から離させる。
その手を、九鬼は自分の胸元へと引き寄せた。
「蓮水様。一つ、私のお願いを聞いて頂けますか?」
(この人が、私にお願い…?)
何だろう、と俯いていた視線を上げて不思議な面持ちで九鬼を見る。
「蓮水様、ではなくお名前でひゆ様とお呼びしても宜しいでしょうか?」
苗字では無く、名前で呼ぶ。
至極簡単な要求に、何を言われるかと身構えていたひゆの肩から力が抜けた。
「それって…断る必要有りますか?」
「ええ。お名前を呼ばれるのが嫌という場合も有りますから」
言われてみて、たしかにファーストネームを呼ばれるのが嫌な人が居てもおかしくないなと納得する。
でも、改めて「名前で呼んで良いか」と問われるのも、それはそれで気恥かしいものがある。
「呼び方なんて、何でも良いです」
素直に名前で呼んで良いと言えず、遠回しな許可を出すひゆに九鬼は甘い溶けそうな笑みを浮かべる。
「有難うございます、ひゆ様」
答えるのと同時に、胸元へと引き寄せていたひゆの手を持ち上げると、九鬼は恭しく指先に口付けた。
九鬼の行為に、驚きと恥ずかしさが一緒になってひゆを襲う。
柔らかな唇が指先に触れた瞬間、そこから静電気のような痛みが走り、ひゆは逃げるように掴まれていた手を引っ込めた。
頬が、身体が火照るように熱くなってくる。
「何、するんですか…!」
「敬意を込めて喜びをお伝えしたかったのですが…お嫌でしたか?」
「そういうのはフツーのにして下さい……!」
「かしこまりました、ひゆ様」
九鬼が丁寧に言って腰を折るのを見て、ひゆはまた心の中でしまったと後悔する。
ついさっき、感情的になり過ぎだと自分に注意したばかりなのに、彼の一挙一同でこうも簡単に崩れてしまう。
九鬼にとってはこんな事、貴婦人に対する作法の一つのようなものかも知れない。
それをいちいち真に受けて動揺している自分が恥ずかしい。
ああ、でも…毎回謝罪やお礼のたびにあんな風に手に口付けられたりするのは困る。
(執事と一般人の脳内の次元が違うんだ、きっと――…)
喉元まで上がってきた溜め息は口に出さず、九鬼の横を通り抜けてひゆは与えられた自室へと戻る事にした。
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